なぜ人生は嫌なことばかりなのか?

メンタルヘルスについて哲学について

人生は嫌なことばかり

 こう思ったことはないだろうか?
 「人生、良いことよりも嫌なことの方が多くね?」
 一度でも思ったことのあるあなた! あなたは鋭い観察眼をお持ちのようだ……ぜひとも続きを読んでくれると嬉しい。そんなわけで今回は、「幸と不幸の非対称性」についての実態を紐解きつつ、それについての俺の持論を展開していきたいと思う。

負のバイアス(Negative Bias)

 一般的に先ほどのような「感覚」を生じさせる原因として、よく「負のバイアス」という心理学的特性が挙げられる。負のバイアスとは、人間の脳がネガティブな情報や経験に対して強く反応し、それを記憶しやすいとする心理的傾向である(「心理バイアス=認識の偏り」を意味する)。つまり一般論としては、あくまで脳がそのように錯覚しているだけで、実際に起こっている出来事としては幸も不幸も半々、あるいは完全にランダムである、と主張しているのだ。ふ~む、確かにその可能性はあるだろう。
 しかしそれは、生じた出来事の幸と不幸を「客観的に判断できる」という前提があって初めて成り立つ理屈である。俺たちはどんな事象であっても、それが「自分にとって幸か不幸か」とする判断基準しか持ち合わせていない。つまり「認識は主観的にならざるを得ない」ということである。であるならば、負のバイアスが存在する時点で、俺たちの人生は絶対的に不幸比率が高くなってしまうと言えるだろう。しかしその結論では面白くない。もう少し問題を深堀してみよう。

負のバイアスの成り立ち

 そもそもなぜ、俺たちは負のバイアスを持っているのだろう? 心理学で一般にそれは、人類が原始的な環境で生き残るため、進化の過程で徐々に形成されていったものと説明される。言い直せば負のバイアスとは、「どんなバカでも一度味わった痛みを忘れて同じ失敗をしないために、それは危険だと強く記憶しておくために仕方なく必要だった脳機能」だとのことだ。何とも情けない話ではないか?
 ここで重要なことは、原始の時代であっても人間にとっての「痛み(不幸)」が存在していたということだ。それも、覚えておかなければ二度、三度と繰り返されうる痛みである。痛みとはこの上なく不快な感覚で、それが生じればどんなバカでも、その行動が「失敗」だったと理解できるのだ。逆に言えば、痛みがなければ行動の成否を判断できず、失敗を失敗として記憶し、行動を制御することができないほど、俺たち人類は「バカ」だということである(まだまだだね☆)。

痛みと快楽の非対称性

 ここで一つの疑問が生じる。なぜ「バイアス(偏り)が必要なのか?」だ。ねぇ? 良いことも悪いことも全て足して、2で割って、うまく生きて、季節(とき)を越えればいいのではないか? →つまり、嫌なことだけではなく、良いことも同じだけ記憶すればいいのではないか? ということだ。
 それに対する答えこそ、「痛みと快楽(不幸と幸福)の非対称性」である。どういうことかと言うと、負のバイアスとは決して「脳の錯覚」ではないということだ。例えば本記事のサムネイル画像のような状況を考えてみよう。あの画像は俺が「嫌なことの例」として考えて創ったもので、いちおう状況を説明すると、「学生のあなたは苦手な科目の補習(あるいは追試)を一人で受けているが、それがストレスすぎて強い便意(腹痛)に襲われている」っと言った感じだ(あんな画像で伝わるわけがない!)。
 誰もが一度は経験したことがあるであろう、嫌なことが別の嫌なことを誘発させる典型的な例だ。同様の状況に置かれたあなたは、すぐに手を上げて先生に「す、すみません、お腹が痛いのでトイレに行ってきます」と言って離席し、トイレに行って用を足すかもしれない。それは正解の行動だ。間違っても「先生に怒られるかも」とか「追試の制限時間がもうないよ」とか考えて痛みを我慢してはならない。痛みはすぐにでも消すべき害悪である
 用を足し終えたあなたは、痛みの余韻が引いていくさなか、「あぁ、楽になった」と快楽的な何かを感じるかもしれない。なぜだろう? 腹痛が治まったとて、正常時に戻っただけではないか? その快楽的感覚の正体は、痛みによって分泌されたドーパミン(快楽物質)やオピオイド(鎮痛&多幸感物質)といった神経伝達物質の作用である。言うなればあなたは、痛みという鞭の代わりにドラッグ(脳内麻薬)という飴を与えられたのである。
 つまり痛みとは自ずから生じる紛れもない「現実」であるのに対し、快楽とは痛みに耐えるための慰めとして生じる「幻想」なのだ。俺たちは「快楽を快楽として味わう」ことを許されず、「快楽は不快が減退したした状態」としてでしか認識できないのである。一言で表せば、「痛みは快楽のない状態ではなく、純然たる不快であるが、快楽は不快がない状態でしかない」というわけである。これこそが痛みと快楽の決定的な違い、それらの間に存在する非対称性である。

現実である痛み、幻想である快楽

 あなたは考えるかもしれない。「快楽の正体が神経伝達物質なら、それを脳内に強制的に流せばいいんじゃね?」そう考える人はこれまでに数多いたし、現在にも数多いるし、これからも数多いるだろう。彼らは快楽主義的な思想を持って、積極的に自らの性感帯を刺激したり、酒を飲んでアルコールを摂取したり、タバコを吸ってニコチンを摂取したり、もっと手っ取り早くて危険な「ドラッグ」を摂取したりして「純然たる快楽」を探求・模索している。
 だが現実はどうだろう? そういった快楽は本当に純然たる快楽だろうか? 自慰行為やセックスに溺れれば、後に言いようのない自己嫌悪や性病といった不快に襲われる。アルコールに溺れれば、シラフではいられなくなり、自分や周りの人間を傷つけたりしてしまう。ニコチンに溺れれば、30分毎に「一服」する必要に迫られ、人間関係に亀裂を生じるばかりか、いずれは肺炎などの病気になって呼吸もままならなくなる。ドラッグに溺れれば、もはやそれなしでは生きていくことができなくなり、シラフでは禁断症状に襲われ(天井から赤ちゃんが落ちてくる幻覚を見たり)、大金を叩いて次のドラッグを手に入れるしかなくなり、誤ってドラッグの顆粒を汚いトイレの中に落としてしまったなら、それを拾うために便器の中にダイブし、下の汚水を泳がなければならなくなし、やはりいずれは身体機能が低下して死を招くのだ。
 快楽は必ず不快を招く!
 気持ち良すぎて昇天するなんてことは絶対ないが(まぁ世界最強のドラッグとか使えばありえなくもないが……それも死ぬ寸前は不快なはずだ)、気持ち悪すぎて死ぬなんてことは日常茶飯事だ。今日もあなたの家の近くを救急車が走り抜けていくだろう。そのとき、どこかの誰かが苦痛と戦っているんだ。そんなとき俺は、「明日は我が身」だと思う。実際、俺は腹痛で救急搬送されたこともあるし、23か24歳のときに「若年性尿管結石」を患って、2~3週間死ぬほどの痛みを味わったこともある(詳しくは追々話そう)。
 痛み、苦しみ、不快は全て、この上なく現実なのだ!

負のバイアスの真理

 さて、ここまでくれば負のバイアスの仕組みは想像がつくだろう。何もはなから「ネガティブだけ記憶してやろう」なんて脳が意地悪をしているわけではないのだ。同じように感情が揺さぶられた経験なら同じように記憶するのである。しかし嬉しかったり、楽しかったり、最高に気持ち良くって心地良くって、幸せ―!って感じになる経験はそう多くないのに対し、苦しかったり、痛かったり、最悪に気持ち悪くって心地悪くって、嫌だー!って感じになる経験は日常に溢れているのだ。
 だから否が応でも脳は、ネガティブな情報ばかり記憶してしまうし、それに類似する情報に過剰に反応してしまうのだ。こればっかりは仕方なく、この世界がそういう意地悪な仕様をしていると言う他あるまい。だから俺は生命を、世界そのものを否定する思想が絶対正義だと信じている。この負のバイアス(認識ではなく世界の根本的な幸福と不幸の不均衡)を完全克服するためには、俺たちは「デメリットのない快楽生成装置」を作り上げるしかない。なぜなら俺たちは、いつだって幻想のなかで生きているのだから……。

まとめ

①人生が嫌なことに満ちていると感じるのは「負のバイアス」の働き
②でも負のバイアスは実は認識のバイアスではなく、世界そのものの快・不快の不均衡が原因
③つまり快楽は大して気持ち良くないのに対し、不快は我慢ならないほどチョー不快!
④これを克服するにはデメリットゼロの最強快楽生成装置が必要
 こんなところだね☆ それでは最後まで読んでくれてありがとう。また次の記事で会おう。

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