
クォーターライフ・クライシス
クォーターライフ・クライシス(Quarter-life crisis)とは、人生の20代から30代にかけて、多くの人が経験する精神的な危機や不安のことを指す。この時期は、人生の選択肢が多く、将来への期待や不確実性に直面しやすい。仕事、恋愛、人間関係、自己実現といったテーマについて、どう進んでいけばいいのか迷うことが多い。
クォーターライフ・クライシスの特徴
・自分のアイデンティティに対する不安
「自分は何者なのか」「何を目指して生きていくべきか」といった自己認識に関する不安が生じる。
・将来への不安
キャリアの選択、経済的な安定、パートナーとの関係など、将来の方向性に対する不安が高まる。
・社会的なプレッシャー
周囲からの期待や、同世代との比較によるプレッシャーを感じやすくなる。特にSNSなどで他人の成功を目にすると、自分の進捗に焦りを感じることがある。
・孤独感
自分が置かれている状況を他人と共有しづらいと感じ、孤独感を抱くことがある。
クォーターライフ・クライシスへの対処アプローチ
①自己理解を深める
自分が何を本当に望んでいるのか、何に価値を置いているのかを見つめ直すことが大切だ。これには、自己分析やカウンセリングが役立つことがある。
②目標を細分化する
大きな目標に対しては、具体的な小さなステップに分けて考えると、達成感を感じやすくなり、不安を軽減できる。
③他人と比較しない
他人の成功や進捗と自分を比較することは避けるべきだ。人それぞれのペースがあり、自分のペースで進んでいくことが大切である。
④サポートを求める
同じような経験を持つ人たちや信頼できる人たちと話をすることで、孤独感が和らぎ、視点を広げることができる。
➄柔軟な考え方を持つ
人生の選択肢は一つだけではないということを理解することが重要だ。計画が思い通りに進まなくても、別の道や方法があると考えることで、ストレスを軽減できる。
本題
問題の本質
さて、そろそろ本題に入ろう。俺が思うに、このクォーターライフ・クライシス(ここからは「アラサーの危機」とでも呼ぼうか)という問題の本質は、「やりたいこと」と「できること」のギャップ、「なりたいもの」と「なれるもの」のギャップだろう。
例えば20歳前までの青年期であれば、「やりたいこと(ここからは”Wish”と表記しよう)」と「できること(ここからは”Can”と表記しよう)」のバランスが取れている場合が多い。なぜなら、ここでいう”Can”は実際にできるかどうかではなく、「当人ができると信じていること」だからだ。
しかし20代になると、人はさまざまな挫折を余儀なくされる。すると”Can”(可能性を信じる力)はみるみる萎縮していき、やがては取るに足らないちっぽけな”Can”だけが残ることになる。対して”Wish”はそうそう減ることはなく、むしろ新たな人生経験を通して膨張していく場合が多いのだ。
こうして形成された”Wish”と”Can”のアンバランスこそが、アラサーの危機の正体であり、「将来への漠然とした不安」とはすなわち、「現在への歴然とした不満」の裏返しなのだ。
中年の危機への発展
ただし、この「欲求不満」な状態は長くはもたない。もしあなたが脱水状態なのであれば、水を飲めば問題は解決し、また元気に活動することができるだろうが、アラサーの危機における「水」というものはそうそう手に入らない。どれだけ喉がカラカラだろうと、「自分の可能性を信じる力」という水は、心のうちからからは簡単には取りだせないのである。
もしかすると、心の奥深くに貯水池があったり、地下水が流れているかもしれないが、その場所を正しく探り当てて(ダウジングでもして)、しっかりとした井戸を掘ったり、水道管設備を整備したりすることは、とてつもない労力と勇気が必要なのである。
であるならば、多くの人が執る行動は一つだ。”Wish”という渇きの源を捨ててしまえばいいのだ。さすれば人は、欲求不満という精神的苦痛から解放される。欲求そのものがなくなるのだから当然だ。「よしっ、これで苦しみは消えたぞ、やったー!」こうして「夢も希望も失った量産型大人」は出来上がるのだ。
しかし”Wish”を失った状態が必ずしも楽かと言われれば、全くそんなことはない。人は根源的に”Wish”を抱くものなので(今ミュージシャンの「DAIGO」さんが頭に浮かんだ人は、ぜひ「うぃっしゅ」コメントをくれ)、これを完全にゼロにはできないのだ。
例えば”Wish”を極限まで捨ててきた人がいたとしても、それは苦しみから逃れるためにやった不本意な選択であるからして、「本当は”Wish”を捨てたくない!」「もっと”Wish”が欲しいんだ!」という”Wish”が潜在的に存在することになる(頭のなかでDAIGOさんが踊っているよ~)。そういった「欲求がないことへの欲求不満」状態が、いわゆる「ミッドライフ・クライシス(Midlife crisis)」=「中年の危機」である。
思考停止の末路
アラサーの危機に陥った大人が、何とか中年の危機だけは回避しようと、残った”Wish”と”Can”を総動員して行う活動の典型が、「結婚」や「子作り」、すなわち「家庭の構築」である。彼らは他の動物と同様に、宇宙が生命存続のために用意した活動のルートをなぞることで、「自分には価値がある」、「自分は正しいことをしている」という安心感を得ているのである。
すなわち多くの家庭や子供たちは、「希望」ではなく「思考停止」あるいは「絶望」に端を発し、創造されるのである。”Wish”も”Can”も枯れ果てた親たちを持つわけだから、子供たちのそれらが健全に育まれるわけがない。こうして量産型が量産型を生成する負の連鎖が起こるわけだが、それが千年、一万年と続いているわけだから、どれだけ根が深く、解決が困難な問題かが窺える。
人類の歴史は、そういった「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」作戦で発展を遂げてきたからして、「外れ弾」にも一定の価値はあったとする見方も可能ではあるが、実際に世界にポジティブな影響を与えているのは、一部の天才が若いときに生みだす「革新的なアイディア」や「唯一無二の創造性」、「卓越した能力」、「美しき生き様」、「理想像となる容姿造形」などである。
それらのみが「当たり弾」であり、この世界のネガティブに命中し、悪の命を削ることができる数少ない弾丸である。なかには一発で悪に致命傷を与え、この戦況に大きく貢献することができる「銀の弾丸(シルヴァー・ブリット)」も存在する。多くの人間が憧れ、羨望の眼差しで見つめる対象がこの銀の弾丸である。
外れ弾の役割
実際にあなたが「外れ弾」かどうかは、あなたが死ぬまで原理的には分かり得ない。本当の着弾点が分かるのは死んだときだからだ(死んだ後で命中する画家の「ゴッホ」のようなタイプも稀にいる。彼らは死んだ後で遠隔追尾型へと突然変異した「魔弾」である)。我々アラサーはまだ「若者」と言われる枠内に収まってはいる。まだ銀の弾丸にさえなれる可能性を秘めているのである。
だからこそアラサーの危機は訪れる。みんな自分の弾道がある程度分かっているからして、「どうせ当たらないだろう」という諦めの念や、「弾道修正すれば当たるかもしれない」という希望的観測、「早く修正せねば」という焦燥、「当たるにはどう修正すればいいか?」といった疑問など、さまざまな感情が交錯しているのだ。
かくいう俺もそんな状態であり、弾道修正を決めあぐねている真っただ中である。「修正せずとももしかすると……」という気持ちや、修正することで他の弾丸と接触し、両者とも「外れ街道まっしぐら」となる懸念を理由に、動けずにいるのだ。
しかし俺は、諦めてすぐに次の弾丸(子供や養子、弟子の創造・獲得)を撃ちだすような真似は絶対にしない。だって俺たちは「下手な鉄砲」しか持っていないし、それでは負の連鎖を断ち切れないからだ。だから俺自身、例え外れたとしても、最後まで「悪に当たってやる」という気持ちだけは大切にしたい。同じ「外れ」でも、「大外れ」して悪を勢いづかせるのと、「惜しくも外れて」悪に軽傷を負わせるのとでは、雲泥の差があるからだ。
それこそが「外れ弾の役割」である。人間は銃で撃たれたとき、例え弾丸が命中せずとも、その弾丸の起こす衝撃波によって、皮膚が裂傷を負ったりするのだ。かすめたのが頭であれば脳震とうを起こす場合もある。これと同じことを悪(この世界に蔓延るネガティブの総称)にも与えてやるのだ。さすればいつか、この世界から全てのネガティブは消え去り、幸せと安寧が永劫続く楽園が誕生するだろう。
もしそうなれば、撃ち込まれた全ての弾丸に意味があったことになるのだ。
お終いに
もしあなたが、着弾間近で的を外れそうだとしても、最後の瞬間まで胸を張っていてほしい。そして可能であれば、持てる全ての力を使って(弾丸を壁に跳弾させたり、炸裂させたりしてでも)、身の回りにいる弾丸をアシストしてあげてほしい。
青年の危機だろうがアラサーの危機だろうが中年の危機だろうが晩年の危機だろうが、それらの呼び名も定義もどうでもよい。結局はどれも「望んだように生きたい」という欲求が満たされない苦しみなのだ。誰もが「やりたいことをやれる」「なりたいものになれる」そんな世界を全員が信じて、一丸となって創る努力をするしかないのだ。
それが、すでに撃ちだされてしまった全弾丸たちの責務である。俺たちの本気を見せてやろうではないか! それでは今回の記事はここまでだ。最後まで読んでくれてありがとう。また次の記事で会おう(うぃっしゅ!)。


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