俺は「反出生主義者」である

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反出生主義

反出生主義(Anti-natalism)とは、出生そのものが倫理的に問題であると考える哲学的立場や思想のことである。この思想を持つ人々(反出生主義者)は、人間が生まれることによって不可避的にもたらされる苦しみを理由に、子供を生むことは道徳的に避けるべきだと主張している。

反出生主義の基本的な考え方

①苦しみの回避

反出生主義者は、生きることには必然的に苦しみが伴うと考える。たとえ人生に喜びがあったとしても、苦しみを避けることはできないため、子供を生むことはその苦しみを新たに作り出す行為であると主張する。

②生の非対称性

この考え方は、哲学者デイヴィッド・ベネターの主張に基づいており、彼は「存在することによる苦しみは悪いことであるが、存在しないことによる幸福の欠如は悪いことではない」という「非対称性の論理」を提唱した。すなわち、生まれなければ苦しみも存在しないため、生まないことが道徳的に優れていると主張しているのだ。

③生存の不確実性

人間が生まれると、その人生においてどのような苦しみや困難が待ち受けているか予測できない。反出生主義者は、この不確実性があるにもかかわらず、新しい命を生み出すことはリスクが高く、倫理的に問題があると考えている。

反出生主義の背景と影響

反出生主義の思想は、古代ギリシャの哲学者(例えばエピクロス派)や、宗教的な禁欲主義にまで遡ることができる。しかし、現代においてこの考えが注目されるようになったのは、20世紀後半からだ。

この思想は、個人の生き方や社会的な倫理観に影響を与え、環境問題や人口過剰の観点からも議論されることがある。一部の反出生主義者は、人類全体の出生を止めることで、地球の資源を守り、環境への負荷を減らすべきだと考えている。

反出生主義への批判

・人生の価値

人生には苦しみがある一方で、幸福や充実感も存在するため、出生そのものを否定するのは極端であると考える人もいる。

・倫理的問題

反出生主義の倫理観は、家族や社会の基本的な価値観と衝突することがあり、非現実的だと批判されることがある。

・個人の自由

子供を持つかどうかは個人の自由であるべきだという観点から、反出生主義は不適切だとする意見もある。

本題

反出生主義 – 第一の予兆

 俺は物心ついたとき(小学校高学年や中学生くらいの時期)から、漠然とではあるが、反出生主義的な思想を持っていたと思う。自分が大人になった姿など想像もできなかったし、敷かれたレールに沿って生きたり、一般的なライフステージを順番にこなしたりしていくなんて嫌だったし、何よりも「周りにいる大人たちのようには死んでもなりたくない」と思っていた。
 昔から、人生には幸福よりも不幸が、楽しいことよりも苦しいことの方が圧倒的に多いな、と思っていた。それでも、小学生くらいまではまだ幸と不幸のバランスが取れていたし、ときどき激しい乗り物酔いや腹痛や発熱などの体調不良に襲われて、「あれっ? 何で俺はこんなに苦しんでいるんだ?」と人生観が揺さぶられることがあっても、また身体が元気を取り戻せばすぐに、自分独りや友達との楽しい遊びが待っていたのだ。
 しかし、そんなバランスはすぐに崩れ去った。中学生にもなれば、周りの友達は次第に変わっていき、俺とはそりが合わなくなる者も出てきた。それ自体は仕方のないことだ。学校やクラスが変われば、必然的に人間関係も変わるものだ。俺はそのつど新しい友達を見つけては、特定の数人と親しくなり、それなりにうまく学校生活を生き抜いていたと思う。
 それでも俺の心は、得体の知れない不満を感じ取っていた。原因不明だが確かに、心にはぽっかりと大穴が空いていたのだ。今思えば、その大穴の正体とはきっと、「幸福は長くは続かず、やがて失われるもの」という経験則から来る概念だったに違いない。かつて手にしていた幸福への喪失感が胸を占めていたのだ。

反出生主義 – 第二の予兆

 俺は中学二年生辺りから、学校を休みがちになった。よく保健室にも行くようになったし、早退することも多くなった。「不登校」と言えるほどではないにせよ、間違いなくその入り口には立っていた。「学校=友達と会える場所、楽しいところ」という等式が成り立たなくなり、「学校=嫌なことばかりのところ、行きたくないところ」という等式が成立しつつあった。
 中学三年生の後半くらいには、週1ペースで休むようになっていた。周りは高校受験がどうだとか進路がどうだとか言って、みんなピリピリしていたし、俺の心の等式は完全に後者へと書き換わっていた。俺にとってはそんな下らないことは全て、クソほどどうでもよかった。望んでいない未来に向かって進むために、努力なんかする気にもなれなかった。そうやって進んだ先に待っている未来の姿が、周りにいる下らない大人たちだと思ったら、反吐が出そうだった。人生なんか無意味だと思った。
 俺は比較的近所にある工業高校へと入学した。物作りにはさして興味もなかった俺が、その学校を選んだ理由をしいて挙げるとすれば、当時親しかった友達二人がその学校を選んだことと、受験合格難易度が低かったことだろう。ただその学校は複数の学科ごとにクラス分けされており、俺の入った学科には目的の友達がいないどころか、知り合いが一人しかいなかった。
 また一から友達作りか? 何回繰り返せば永遠の幸福は手に入るんだ? どうせまた失われるんだろ? 無限ループじゃないか? そんな心の声が脳にこびりつき、俺はとうとう、そのクラスで三年間を過ごせる自信を、全く持てなかった。もう限界だった……。だから俺は父親に心根の一部を打ち明け、長い修羅場の末説得し、早々に高校を中退することとなった。登校したのはわずか4日だけだった。
 今でも当時入学に際して購入した備品(制服や教科書や電卓やその他諸々)がもったいなかったと悔しくなる。もっと早く家族に「心が限界」だと伝えられればよかった。そうすればその初期費用は別の有意義なことに充てられたのに……。高校中退後すぐに始めたコンビニのバイトをしながら、当時の俺も同じことを考えていた。その学びから俺は、「絶対に無駄なこと(望まないこと)に金は使わない」と決意した。

反出生主義 – 覚醒

 以前の記事で話したが、それからの俺の人生はまさに「暗闇のなかを独りで、手探りのまま進んでいく」ようなものだった。ほとんど前が見えないから、よく転んだり、崖から落ちたり、敵と遭遇したりして大怪我を負った。それらの苦痛に身悶えしながら、いつしか俺は「もう死にたい」と考えるようになっていた。正確に言えば、「死にたい」のではなく、「生きていない状態になりたい」と願っていた。この世界から「消えてしまいたい」と……。
 ちょうどそのころだ。俺が4日で辞めた高校の同じクラスにいた「唯一の知り合いの男の子」が自殺したという噂が耳に飛び込んできたのは……。俺とその子とは特別親しい間柄ではなかったが、俺はもともと彼には好感を抱いてはいたし、実際登校した4日間の高校生活では、一緒に話したり自転車で下校したりと、親しくなれる前兆は確かにあった。その彼が自殺した……? 俺は耳を疑った。
 残念ながら、その噂は事実だった。具体的にいつ、どのようにして、何が原因で? といった詳細は全く知ることができなかったが、どうも彼も高校に馴染めず、聞くところによると、「いじめ」みたいなことがあったようだ。俺は高校を辞めたことを幾分後悔した。自分が側にいれば彼を守れたかもしれない、そんなおこがましいことを言うつもりはないが、少なくとも何か変えられたかもしれないという可能性を考えずにはいられなかった。
 彼はどんな困難に晒され、どうやって耐えてきて、最後どんな気持ちで死を選んだのか。知りたくもあり、知るのが怖くもあり、そもそも知る術もなく、ただただ俺は想像しては恐怖を感じていた。人を自ら死に追いやる、嬉々として生きたいとさえ思わせてくれない、こんな社会、こんな世界、こんな宇宙は無くなってしまえばいいと思った。そうやって俺の環境への憎悪が増幅していったとき、ある一つの気付きが脳裏をよぎった。
 「もう彼は苦しまなくてもいい」
 唯一の救いがあるとすれば、その一点のみだった。彼はもう生きてはいないが、同時にそれは彼の苦しみが終わりを迎えたことを意味していたのだ。そのとき俺は悟った。ヒトは、そしてヒトのような知的生物への進化を目的とした全ての動物、さらにそれらを生成するために化学反応を繰り返す全ての物質、宇宙、世界は、存在しなくても全く問題はない、と……。いや、むしろ存在すべきではないと!

反出生主義 – 第二覚醒

 仮に全ての個体に対して幸福と不幸が完全に半々、フィフティ・フィフティの割合で存在する世界だったとしても、やはり無くても構わないのだ。もっと進んで幸福の割合が51%くらいだったとしても、俺は49%が不幸なら無くていいと思う。であるにもかかわらず、俺たちの現実世界はどうだ!? 幸福、富、それら全てがあまりにも不均等、不平等に分配され、ある者は毎日美酒を貪り飲み、またある者は毎日泥水を啜って生きているではないか!?
 しかもたちが悪いのが、そんな恵まれた立場の人間であっても、全体を通して幸福度が51%にも満たないのである。社会的に成功した有名人でさえも、そのままでは幸福感が足りないからと、薬物や酒やセックスに溺れたり、匿名で他人を誹謗中傷したり、綺麗事を発信してプライドオナニーしたり、スーパーカーやブランド物で身の回りを武装して偽りの権威に浸ったり、会社や政府の金を横領したり、際どい手段で脱税したり、パーティー券配ったり、機内で提供されたナッツが袋入りだったからと言って対応したCAを航空機から降ろそうとしたりして、やっと正気を保っているのである。クソじゃないか? 醜くないか?
 そして最も救いようのないことが、そんな恵まれた立場の人間でないにもかかわらず、人一倍優れた特技があるわけでもなく、大きな優しさを持つわけでもなく、本当は心の奥では世界の真実に気付いているにもかかわらず、目を逸らしながら盲目的に命を肯定し、学びもなく同じ失敗を繰り返し続ける一般人たちである。自分の人生が幸せだったろうが不幸だったろう関係ない。ただお前たちの都合で新しい犠牲者を創造するな! と言いたい。
 「俺たちの得る幸福は全て他の命を踏み台にしている」という事実から目を逸らしてはならない! 誰かがマウントをとるとき、嫌な思いをしている人がいるし、誰かが金を得れば、金を失っている人がいるし、誰かが食事すれば、殺されている命があるし、誰かが陽だまりに入れば、弾きだされるガラス玉があるんだ!
 いいかい? 今こそ俺は声を大にして宣言しよう。
 世界なんてクソだ! 命なんてクソだ! 常識なんてゴミだ! 固定概念なんてカスだ!
 全ての人間は、快楽主義的な大人たちが深い考えなしにセックスした結果として産まれただけの浅はかな存在だ。いい加減、命は素晴らしいとか、セックスは罪じゃないとか、中絶が罪だとか、自殺が罪だとか、安楽死は認めないとか、そんな大嘘を信じるバカでいるのはやめよう! そんなだから世界はいつまで経っても終わらないし、戦争も貧困も地獄も終わらないのだ。
 赤ん坊たちはそのことを知っている。生まれる寸前まで宇宙のソースコードや集合意識的な次元と繋がっていたからだ。だから彼らは泣きながら産まれてくるのだ。それも大号泣しながら産まれてくるのだ。肺呼吸を開始する際に発せられる産声は、別に「大爆笑」だっていいではないか? つまり赤ん坊たちは知っているのだ、これは「笑えない事態」だと。

反出生主義 – 成熟

 とまぁ、そんな我流哲学をもともと持っていた俺だったが、「反出生主義」という言葉を知ったのは二十一歳くらいのときだったと記憶している。ちょうど哲学とかに興味を持っていて、少しネットや本で勉強していたのだが、どうも哲学という学問には「厭世観的思想」が珍しくもなく存在していることが分かった。
 自分で言うのもなんだが、こういった人生を悲観的に捉える思想は、どこまでも真実と知りながらも、やはり一般人からすればサイコパス的で、異端だと思われるだろうな、という認識も持ち合わせていたので、それが想像を絶するほど昔から、それも「すこぶる賢い人たち」によって提唱されていたということが驚きだったのだ。
 なかでも近代哲学において興味を惹いたのは、18世紀から19世紀にかけて活躍したドイツの哲学者「アルトゥール・ショーペンハウアー」という人物だった。俺は彼の本(日本語訳版)を数冊購入し、メモを取りながら夢中になって読んだ。時折難解な思想に躓きながらも、全体としては強く共感し、すんなりと読むことができた。
 自分と似た考えを持つ人が、ここまで思想を体系的にまとめ上げ、それを学問として昇華させているということに感動した。人の心とは複雑なものなので、人生観とか世界観とか、全てを論理演算のように分かりやすく定式化することはできない。だからこそ文字を並べて文章にして、不完全な言語を用いて可能な限り順序立てて、自分が考えていることを何とか「形」にしようと努めるのである。
 哲学者とは、一方的に思想を説くだけの宗教の教祖とは違い、持論を展開しながらもときに、その思想に自分で反論をぶつけたりして、世界の「真実」を明らかにしようとする人たちである。複数の文章が論理的に繋がったとき、例えそれが厭世的であったとしても、どこまでも美しく、希望に満ちているのである。きっと俺がこのブログを始めたのも、本当はそんな数々の哲学者みたく、自分だけの「書籍」が欲しかったからかもしれない。
 何はともあれ、ショーペンハウアーの本を通して反出生主義は、俺のなかでは反論不可能な鉄壁の思想へと成熟したのである。

お終いに

 反出生主義は「恐ろしい思想」だと考える人がいるかもしれないが、それは誤解である。俺は人も世界も無い方がいい、と思ってはいるが、すでに生まれてしまった命はみんな、できるだけ幸せになって生涯を全うして欲しいと思っている。ただ、そのために新しい命を生みだす必要があるのであれば、それは「この世界が自分たちだけでは幸せになれない(幸福のために足りないものがある)」という真実を逆説的に証明することになるのだ、とみんなに理解してほしいのだ。
 そして「他の命を殺すことは間違いなく罪」だとも思っている。それは多くの人にとって理解に難くないだろう。では次に言うことも理解してもらえるかもしれない。
 命を生みだすことは、命を奪うよりも重い大罪である。
 なぜなら、命を奪うのは別の見方をすれば、その命が受ける苦しみを終わらせることであるのに対し、命を生みだすということは、一つ以上の苦しみを必ず生みだしつつ、さらに確約された死までも生みだすことだからである。
 それでは、今回の記事はここまでだ。いつになく長い文章を最後まで読んでくれてありがとう。また次の記事で会おう。

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