
前書き
この物語は、『最高の人生』という概念を私なりに言語化したものである。考えられる限りの幸福と幸運を詰め込んで、当人が受ける苦痛を極限まで制限し、常に質の良い快楽に満たされるよう努めた。
これがこの地球上で、人間として産まれた場合の唯一絶対の『正解』である、とは言わないが、どれほどの反出生主義者でも『産まれたこと』を羨ましく思うほどの、素晴らしい人生であることは間違いない。
またこれは私の、ある種の思考実験でもある。今現在この世界に絶望している私自身が、もしもう一度この世に生まれる権利を与えられ、その誕生から永眠までの全事象を自分の手で定義できるとしたら、はたしてどんな人生を歩むだろうか? そんなたわいない疑問を解くための実験である。
そして最終的には、次の問いへの答えを知りたいのだ。
『全てを書き終えた後で私は、本当に転生してまで、その人生を生きたいと思うのだろうか?』
第一章 – 存在の始まり
人生というものは、往々にして突然始まるものである。彼らが皆、事前に自分の運命を操るために、『あの世』で何らかの手続きを踏んだのかはさておき、今回ばかりは私が『神』だ。さてさて出来レースを始めようではないか! 楽しい楽しい人生の始まり始まり~。
出生条件① 誕生 – 彼の名前はエリス
2025年7月7日。彼は先天的な染色体異常により、精巣を持たない男の子として、スイス南西部――レマン湖畔にある町『ニヨン(Nyon)』――にて、裕福な若い白人夫婦のもとに産まれた。彼を見舞った疾患というのは、性腺無形成症における無精巣症(Anorchia)に該当し、これは簡単に言えば、『身体のどこにもタマタマがない』病気だった。
無精巣症の赤ちゃんは、胎児発生時に分泌されるテストステロン量が極めて少ないことから、第一次性徴による男性器の発達が不十分になるケースが多く、なかには全く男性器を持たずに産まれてくる子もいる。彼の場合はミニサイズのおチンチンを持った『小陰茎症(マイクロペニス)』という状態だった。
通常、小陰茎症として生まれた男の子は、テストステロンを投与して人為的に陰茎部の発達を促されるか、あるいは性転換手術を受けて女の子として育てられる場合が多いが、幸い尿道下裂(尿道が陰茎尖端に向かって真っすぐ開口しない症状)が見られなかったため、彼の両親は苦慮の結果、どちらの治療も行わない決断をした。
これは英断だった。なぜなら性腺を持たない以上、どちらにせよ彼に繁殖能力はなかったし、彼の生命維持機能に関係のない治療のために、わざわざメスや針や薬を用いて、その小さく脆弱な身体を傷つけるのは、リスク以外の何ものでもなかったからである。
彼は少しばかり普通とは違っていたが、彼の両親はただただ、我が子が生きて産まれてきてくれただけで嬉しかった。そんな愛情深く賢明な両親に恵まれたこと、それが彼にとって何よりの救いだった。両親に『エリス(Ellis)』と名付けられた彼は、家族の優しさと愛に包まれながら、慎ましく穏やかで、それでいて活発な子供に育まれた。
出生条件② 美しすぎる容姿
彼は生物学的に見れば、ただ『性腺を持たないだけの普通の男の子』だったが、実際にはそうも言い難かった――何と彼は、両親から極めて優れた遺伝子を受け継いだことによる、絶世の美貌を持っていたのだ。
彼が成長するにつれ、その美しさは徐々に顕現し始め、2歳半にもなれば疑いようのほどだった。ちょっと両親とお散歩に出掛けようものなら、近隣住人や道行く通行人の誰もが、彼に気づいて度肝を抜いた。二度見、三度見は当たり前。まるで天使が地上に舞い降りたかのようだった。
出生条件③ 両親の信仰とキャリア
彼の両親はともに無宗教者で、特定の信仰に縛られることなく、自由な価値観を尊重できる人たちだった。また父親の『サミュエル(Samuel)』は、ジュネーヴの大手時計メーカーに勤務するエンジニア兼デザイナーで、安定した高収入を得て出世街道を順調に歩んでいた。
一方母親の『エリーズ(Élise)』は、ローザンヌを拠点にするパフォーミング・アーツ・グループに所属し、舞台演劇の俳優やダンサー、歌手としてマルチに活躍していた。多才で引っ張りだこだった彼女は、夫に負けず劣らず高収入だった。
出生条件④ 住居と家庭環境
ニヨンにある彼らの住居は、レマン湖の畔からE25号線(欧州を縦断するAクラス幹線道路)方向に少し行ったところにある、とある草原に佇む大きな一軒家で、エリスが伸び伸びと何かに挑戦できるほどの、充分な居住スペースと拡張性を備えていた。
その家は父親の実家でもあったので、同居する家族は彼と彼の両親の他に、父方の祖父と祖母を含めた5人だった。よって両親が仕事で家を空けるときには、祖父母が喜んで彼の面倒を見てくれたし、もっと言えば二人とも、エリスを溺愛していた。
出生条件⑤ ファミリーネームと血筋
彼の一家は『シンクレア(Sinclair)』という苗字だった。これはフランス語由来の英語名で、かつてイングランドに住んでいた祖父が、スウェーデンからの移民であった祖母と結婚し、息子サミュエルを授かってから間もなく、スイスに移り住んだことに起因している。
よって彼の血筋は、祖父のゲルマン系(アングロ・サクソン系)と祖母のノルディック系(スカンディナヴィア系)に加え、母エリーゼのラテン系(ガリア・ローマ系)の血がミックスされた複雑な白人(コーカソイド)系ということになる。
エリスが受けた教育① École maternelle
彼は3歳になると、近所にあった『The Secret of Childhood Montessori School(幼少期の秘密モンテッソーリ学校)』という幼稚園に通い始めた。6歳までの3年間をそこで過ごした彼は、モンテッソーリ教育法に基づいたカリキュラムを通して、自主性や社会性を育み、たくさんの楽しい経験と友達を得ることができた。
またバイリンガル対応の園であったため、多様性に富んだ先生や友達にも恵まれ、在園中は彼の住むロマンド地方で話されるフランス語だけでなく、イギリス英語(ブリティッシュ・イングリッシュ)にも触れる貴重な機会となった。
エリスが受けた教育② École primaire
6歳からは初等教育として、近所の小学校『École Saint-Exupéry(サン=テグジュペリ学校)』に入学した。その名の通り、『星の王子さま』にインスパイアされた学校で、まるで3つの惑星を旅するように、それぞれフランス語、ドイツ語、英語のみを使用した授業が受けられるシステムになっていた。
12歳までの6年間をそこで過ごした彼は、プルリリンガル(それぞれの習得レベルに関係なく、複数言語を話せる状態)の基礎を身につけると同時に、芸術やスポーツ、歴史、地理、科学、数学などの初歩的な知識――世界の面白さ――を学ぶこととができた。
エリスが受けた教育③ Enseignement secondaire I
12歳からは中等教育Iとして、隣町にある『École Moser Nyon(ニヨン・モーザー学校)』に通い始めた。『モーザー』という一家が経営する私立学校(8歳から18歳までを受け入れる小中高一貫校)で、こちらも三言語によるプルリリンガル教育を推進していた。15歳までの3年間で中等教育Iを修めた彼は、各教科の中級レベルの知識と、多くの友人たち――とりわけ数人の『親友』と呼べる存在を得ることができた。
エリスの親友① 幼馴染編
幼稚園からの親友『ニコラ(Nicolas)』は近所に住むヤンチャな男の子で、エリスとは互いに『エリー(Ellie)』、『ニコ(Nico)』と呼び合う仲だった。ニコラは『トムとジェリー』や『スポンジ・ボブ』、『怪盗グルー』シリーズが大好きで、よくアニメさながらの秀逸なイタズラを仕掛けては、エリスを驚かせて自分の親に叱られていた。
彼は先にモーザー学校に入学していたため、エリスとは小学校が別々だったけど、その間も休みの日はよく二人で遊んでいた。だから彼は、エリスが同じ中学に来てくれて嬉しかったし、次のイタズラの計画は着実に練られようとしていた……。
続いて紹介する『ソフィー(Sophie)』は、エリスの小学校生活における一番の親友だ。ディズニー・プリンセスに憧れる高貴な印象の女の子で、いつもフリルが付いたワンピースドレスを着ていた。エリスとは二年生のときに演劇の授業で、『ヘンゼルとグレーテル』をダブル主演したときに仲良くなり、よく二人でメルヘン・トークしたり、童話ごっこしたりして遊んだ。
彼女の一番のお気に入りは、『王女と執事ごっこ』という――二人で架空の王女とその執事になりきる――遊びだった。ソフィーは自分が命令口調で、「エリス! ワタクシの紅茶が切れましてよ! すぐに替わりを持ってきなさいっ!」などと雑用を申し付けると、彼が片膝を突いて「かしこまりました、お嬢様」と従順に従ってくれるのが、もう……堪らなく『ボヘーッ!』って感じだった。
エリスの親友② 中学校編
中学校に入って最初に親しくなったのは、『エミリー(Émilie)』という勝気な黒人の女の子だった。彼女は父親が見ていたNetflixのドラマ『コブラ会』に影響を受けたことで、幼少期より近所の道場で『空手』を習っており、その腕前は大会で何度も表彰されるほどだった。またエミリーはスタイルも良くオシャレだったので、みんなのファッションリーダー的存在でもあった。エリスとは体育の授業でバスケットボールをしたとき、同じチームになったのがきっかけで仲良くなった。
次に出会ったのは『ダニエル(Daniel)』という、少しポッチャリしたオタクっぽい男の子だった。日本のアニメや漫画が大好きで、よく中庭に座ってスケッチブックを開き、いろんなキャラクターの絵や風景画を描いていた。エリスとは偶然カフェテリアで昼食をともにした際、『千と千尋の神隠し』や『ポケモン』の話で盛り上がって意気投合した。
最後に打ち解けたのは、『キアラ(Chiara)』という両耳にピアスを開けた派手な女の子だった。彼女はメタル音楽が好きで、お気に入りのバンドは『Ancient Bards』と『Rhapsody Of Fire』、そして『DragonForce』だった。いつも学校にiPodとAirPodsを持ってきてたので、ときどき先生に見つかって没収されていた(また髪の毛もしょっちゅう染めていたので、先生によっては派手すぎるぞと注意することもあった)。家ではエレキギターを練習していて、いつか自分もメタルでビッグになると豪語していた。二人が打ち解けた理由は……それは後述しよう。
エリスの親友③ 特別編
彼には小学校低学年くらいまで、『ノア(Noah)』というイマジナリー・フレンドがいた。ノアは世界最強の魔法使いで、エリスが困ったり怖気づいたりして、挫けそうになったときにはいつも、『ルミアラ・フェレルーヌ、無限の勇気よ!(Lumiara Ferelune, courage infini !)』という呪文を唱えて、彼に一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。
彼とノアはたくさんの冒険を乗り越えたけれど、彼に現実の友達が増えていくほどに、ノアと過ごす時間は短くなっていき、いつしか彼のなかからノアはいなくなっていた。それでもノアがくれた『勇気の魔法』だけは、いつまでも消えずに彼の心に宿っていた。これからもずっと……。
第二章 – 資質と気質
この辺りで一度、エリス自身の人間性について詳しく触れておこう。ここまで順風満帆に成長した彼であるが、15歳ともなれば多くの場合、『思春期』と呼ばれる時期が到来し、精神的にも肉体的にも成熟してくることで、交流分析における『人生脚本』を書きつつある年齢である。
人生脚本とは自分の物語に対する『あらすじ』であり、その核の部分は7歳前後で書かれるとされる。そして15歳前後は、その脚本の改訂が進められる時期であり、この頃の子供たちは無意識に、自分とは何者で、何ができて何ができないのかを理解して、また世界とはどんなところで、自分はこの世界でどうやって生きていくのか、ということを決めているのだ。
この改訂作業は、多くの子供たちに強い恐怖とストレスを与える。加えて同年代の友達も同じ葛藤を抱えることで、より人間関係も難しくなってくる時期である。そんな15歳を迎えた彼は、はたしてどんな能力・世界観・生活様式を持ち、これからどんな人生選択を行うのだろうか?
エリスの能力① 知性と勉学
彼は知的能力が高かった。だから学校の勉強も大好きで、いつも成績は6や5(英語圏でのAやB)を取り、相対的には学年上位に入っていた。
優秀ではあるが1位や2位、3位ではなかったので、全く嫌味がなく、むしろより上位の人からも下位の人からも慕われていた。
それに彼は記憶力こそ人並みだったので、学科試験はどちらかといえば不得意だった。彼の知性で秀でていたのは、知的好奇心や閃き、問題解決能力などの天才的領域だった。
エリスの能力② 運動とスポーツ
彼は身体能力も高かった。筋力は女性と同等なので力こそ弱いが、走ったり跳んだり回ったりする運動は全般得意だった。だから何かの動作に失敗して、自分や他人を怪我させてしまうことは稀だったし、痛い思いや罪悪感を経験することも少なかった。
また、彼は特定のスポーツクラブには加入していなかったため、各スポーツにおいてはそれぞれの一流選手には及ばないものの、どれもそこそここなせたため、よく助っ人を頼まれたり、遊びに誘われたりした。
エリスの能力③ 対話と交友
彼の能力で最も秀でていたのは、そのコミュニケーション能力だった。彼はどんな相手に対しても穏やかな態度で、適切な口調と話題を用いて話すことができた。だから当然、彼は誰からも好かれていたし、みんな彼を『友達』だと認めていた。
もちろん、そんな彼に淡い嫉妬心を抱く者も出てくるが、彼を心から憎める人はまずいなかった。それほどまでに彼は友好的で親切で、他人にとって『仲間』以外の何者でもなかった。
エリスの嗜好芸術① 映画編
彼はハートフルな映画を好んだ。傑作はひと通り見ており、特にお気に入りだったのが、『ハリー・ポッター』、『チャーリーとチョコレート工場』、『ビッグ』、『ターミナル』、『素晴らしき哉、人生!』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『モンスターズ・インク』、『トイ・ストーリー』、『インサイド・ヘッド』、『ポーラー・エクスプレス』、あとはもちろん『千と千尋の神隠し』だった。
『ゴースト/ニューヨークの幻』、『タイタニック』、『シックス・センス』なども好きだったが、人が死んでしまうシーンは少し怖かったり悲しかったりしたので、全体的に明るい作品が好みだった。お気に入りのラインナップで分かる通り、一番好きな俳優は『トム・ハンクス』だった。
そしてこれから先の人生、彼に影響を与えることとなる作品は、『リトル・ミス・サンシャイン』、『セレブな彼女の落とし方』、『アバウト・ア・ボーイ』、『主人公は僕だった』、『イエスマン』、『キャスト・アウェイ』、『ライフ・オブ・パイ』、『マイ・ブラザー』、『きっと、うまくいく』、『サニー 永遠の仲間たち』、『エリザベスタウン』、『エターナル・サンシャイン』、『ミリオンダラー・ベイビー』、『チョコレートドーナツ』、『ショーシャンクの空に』、『ロード・オブ・ザ・リング』、そして『マトリックス』となる。
エリスの嗜好芸術② 音楽編
明るいもの好きな傾向は音楽にも表れていた。幼少期より祖父母の影響で『ABBA』とか『Enya』とか『Sarah Brightman』とか『Electric Light Orchestra』とかを聴いて育ったし、両親の影響で『Scatman John』や『タイタニック』のサントラ、あと『Glee』というドラマのサウンドトラックもよく聴いていた。
そんな彼が12歳になったばかりのときだ。ちょうど近所の中古CDショップが閉店セールをしていたので、ふと友達と立ち寄ってみた彼は、そこで美麗なジャケットに惹かれて一枚のCDを買った――それがスイスのシンフォニック・メタル・バンド『Lunatica』の2ndアルバム『Fables & Dreams』だった。
家に帰って再生してみた彼は、その幻想的な世界観とサウンドに衝撃を受けた。そのときはまだ『こんな音楽もあるんだな~』くらいの認識だったが、この経験と予備知識が後に、キアラという変わり者と接点を持つこととなる要因であった。
*
それから数週間経ったある日、エリスはいつものように学校の休み時間中、早めに次のクラスに向かおうと階段を上っていた。すると踊り場のところで一人の女の子に遭遇した。イヤホンをしながら、ノリノリでエアギターしている女の子――彼女こそがキアラだった。
「楽しそうだね! 何を聴いているの?」彼が話しかけると、キアラはイヤホンを耳から外して「DragonForceだよ。イングランドのパワーメタル」とぶっきらぼうに返答した。
「どらごん、ふぉーす? ぱわー?」エリスが不思議そうに呟くと、キアラは「まぁ、あんたみたいな『お嬢様』には縁遠い音楽さ。じゃあな」と、その場を立ち去ろうとする――寸前、彼が言い放ったセリフに足を止めた。
「メタル音楽なんだね? 僕も一つだけ、ルナティカってバンドなら知ってるよ! AvalonとかHymnとか……綺麗な曲だよね!」
「ま、マジか……」プルプル震えながら振り返ったキアラは、満面の笑みでエリスにメロイック・サイン(人差し指と小指を立てるメタルのシンボル的ハンドサイン)を向ける。「あんた、分かってんじゃんっ!」
「キツネさん? コーンコーン(ouah-ouah)! 可愛いね?」エリスが彼女の手真似をする。
「なっ、これはキツネじゃねぇー!」これが彼ら二人の出会いだった。
世界中のメタルに精通していた彼女は、それからことあるごとにエリスが好みそうなバンドのCDを持ってきては、「これっ、聴いてみな!」と貸してくれるようになった。彼女のチョイスはいつもドンピシャで、15歳までにたくさんのメタルを聴いたエリスは、すっかりこのジャンルに魅了されていた。
特に気に入ったバンドは『Fairyland』、『Stratovarius』、『ReinXeed』、『Power Quest』、『Aquaria』、『Twilight Force』、『Fellowship』、『摩天楼オペラ』だった。
エリスの生活様式① 睡眠
彼はすこぶる健康だった。毎日きっかり9時間の睡眠をとり、夜の9時に就寝し、朝の6時に起床した。睡眠中に夢を見ることはほとんどなく、朝もひとりでに――アラームに頼ることなく――目を覚ました。
目覚めると彼はまず、ベッドから立ち上がって伸びをしてから、毎朝の日課であるストレッチ運動を行った。身体の各所を伸ばしたり、体操したりして血流を促進すると、身体を徐々に活動モードに移行することができた。
10分ほど行い完全に眠気を吹き飛ばすと、彼は運動をやめて部屋のクローゼットを開けた。そして、その日一日を過ごす服装を決めてから、その着替えを持ってバスルームに向かった。
エリスの生活様式② 身支度
バスルームに着くとまず、彼はトイレで用を足した。それから洗面台で手を洗うついでに、ぬるま湯で軽く洗顔して、肌に付着した余分な皮脂や、埃汚れ、目元の目ヤニなどを洗い落とした。最後に冷水でさっと肌を引き締めた後、柔らかな綿のタオルで水気を取っから、適度な機能を有した日焼け止めクリームを、顔全体に満遍なく塗り広げた。
続いてパジャマを脱いで洗濯物カゴに入れてから、下着姿の状態で肌が露出する箇所にも、同じように日焼け止めクリームを塗った。それから持ってきた洋服に着替えた彼は、最後に髪の毛に櫛を通して髪形を整えてから、朝食を摂るためにダイニングルームへ向かった。
(ちなみに彼は、日中定期的に日焼け止めを塗りなおしたり、帰宅後に洗顔・保湿したりする以外には、これといって他に特別なスキンケアを行わなかった。彼自身があまりにも美しすぎるので、特段必要なかったとも言えるが、これが逆に功を奏した――過剰なケアで肌に負担を掛けなかったことが幸いして、彼の美しさはこれからもずっと続くこととなる)
エリスの生活様式③ 食事
彼は一日三食を徹底し、決して食べ過ぎたり食べなさ過ぎたりせず、有機野菜中心の食事で、肉や魚、卵、乳製品なども適度に食べた。また間食として一日二回、マルチビタミンのサプリメントを飲んでいたが、それを除いては高加工食品を控えていた。嫌いな食べ物はなく、好物はハチミツとアサイーだった。
毎食多様性に富んだ食材を口に入れていたので、彼にアレルギーは皆無で、消化器官は万事順調に機能していた。摂取した栄養素は効率よく吸収され、血流にのって体内の必要な器官に速やかに運ばれた。残渣は適度な固さを持った便となり、腹痛を起こすことなく快適に、毎朝一回排泄された。
よく噛んで食べることを心掛けていたが、どうしても固い食材は無理せずに、柔らかく料理してから食べていた。もちろん毎食後はすぐに、丁寧に歯磨きを行っていたし、彼が歯科医院のお世話になることは、ほぼほぼなかった。
エリスの世界観① 愛情
彼は自分が大好きだった。でもそれと同じくらいお父さんとお母さんも大好きで、もちろんおじいちゃんとおばあちゃんも、学校の友達と先生たちも、よく会うご近所さんとその飼い犬も、よく会う野良猫とその家族も、よく行くお店の店主さんや店員さんも、これから出会うかもしれない世界中の人たちも、この世に生きとし生ける草も木も花も動物たちも、みんなみんな大好きだった。
その証拠として、彼は絶対に故意に他の生き物を殺めたりしなかった。外を歩くときはできるだけ虫たちを踏んずけないよう気を付けていたし、食卓にハエが飛んでいてもそっとしておいた。寝ているときに蚊が飛んでこようものなら、「どうぞお飲み~」っと言って腕を差し出したりする子供だった。
彼はこの世界にある全てのものをありのまま受け入れて、尊重し、愛していて、その存在に感謝していた。誰もが幸せになる権利があると思っていたし、幸せになってほしいと思っていたし、幸せだと信じていた。それが当たり前だと、ごく自然にそう思っていた。
エリスの世界観② 性別
彼は『男』と『女』という人間の遺伝子的違いを、頭でこそ理解していたが、現実的実感を持って真に理解はしていなかった。だって彼は男の子も女の子も好きだったし、男の子の好きなものも女の子の好きなものも好きだったからだ。それでいいと思っていたし、世界もそれを許してくれると思っていた。
それでも周りの友達は少しずつ、お鬚が生えたり声が低くなったり、胸が大きくなったり苦しそうにトイレに駆け込むようになっていった。たびたび彼が「大丈夫?」と女の子に声を掛けると、「いいから、ほっといて!」と撥ねつけられたりしたし、彼が男子トイレに入っていくと、居合わせた男の子たちはモジモジして、居心地が悪そうにしていた。
彼はみんなの気持ちを分かってあげたかったけど、どうして分からなかった。だから自分が知らず知らずのうちに誰かを傷つけているかもしれない、という漠然とした不安感ばかりが募っていった。そんなある日、彼は自分と他者の違いについて、その真の意味を知ることとなる――。
第三章 – 実存の形成
彼の生まれ持った資質と育んできた気質が分かったところで、少し『実存主義』という哲学の話をしよう。実存主義によると、これらの性質(資質・気質)はその人の『本質(何者であるかの定義)』ではないそうだ。本質を決めるのはその人の選択と行動であり、それらを決めるのが『実存(Existence)』と呼ばれるものである。
実存とは言わば、その人自身が信念と主体性を持って創造した『生き方』であり、単なる存在(being)とは区別されるものである。つまりエリスと同じ遺伝子(資質)を持って生まれた人間が、必ず彼と同じ性格(気質)を持つとは限らず、当然その人が創造していく実存は、これから彼が創造していく実存とは異なるのだ。
このように実存および本質は、先天的なものだけでなく、後天的なものにも多大な影響を受ける。だからエリスがこの時点で、優しい心を持っていられるのは、ひとえに彼が置かれた家庭環境や、両親を始めとする身近な人たちの人格のおかげである。ただこれから先、彼が出会う全ての人間が善人であるはずがない。これが私の思考実験であるとしても、それはあまりに現実的ではないのだ。
よって私がしてあげられるアシストはここまでだ。ここからがいよいよ、彼の人生の本番となる。
エリスの課題① オトコ?オンナ?
彼が13歳を迎えた誕生日――毎年恒例のバースデー・パーティーを催して、お家に友達を招いて楽しくゲームしたり、ご馳走を食べたりした日――の夜だった、両親は彼をリビングに呼びつけて、彼に『彼自身の持つ無精巣症という疾患のこと』を言って聞かせた。何でも、ホルモンという物質が生成できないから、このままでは第二次性徴が起こらず、身体が大人になれないと言うのだ。
また骨密度低下の恐れもあるため、健康の面も考えていずれは、『ホルモン治療』を受けなければならないだろう、とも……。そして最後に父親は、彼のそばまで来てこう伝えた。
「いいかいエリス。これは君にとっての最初の難しい決断だ。もし君が『男の子』になりたいなら、私たちは精一杯それをサポートするし、『女の子』になりたいなら、もちろんそれだって構わない――私たちは全力でサポートするよ。だからこれから自分でよく考えて、15歳の誕生日までに答えを出しなさい。いいね?」言いながら父親は、彼が女の子になりたがってくれるよう祈っていた。なぜならスイスには徴兵制度があり、男性は20歳から30歳のうちに兵役義務を全うする必要があったからだ。
そして一度でも従軍すると、男性は国から予備役軍人として扱われ、退役後も自動小銃を一つ貸与されることになるのだ。このような理由からスイスでは銃による自殺率が高く、その95%が男性でもあった。父親自身も数年前に徴兵されており、以来ずっと書斎の棚には自動小銃が保管されていた。だから父親としては、我が子にそんな物の使い方など知ってほしくはなかったのである。
頭を撫でられたエリスは、「うん、分かった」とコックリ頷いてから、「おやすみなさい」と静かに自室へ帰っていった。その儚げな後ろ姿を見ながら父親は、幼い我が子に酷な運命を背負わせてしまったな、と自責の念を覚えていた――。
その日初めて、エリスは眠れぬ夜を経験した。彼は暗闇を見つめながら、ただ一生懸命に考えた。自分がどうしたいのか、どうなりたいのか。男の子か、女の子か。考えて考えて、考え尽くしたけど、その答えは出なかった。やがて考え疲れた彼は、いつの間にか眠りに落ちていた。
エリスの課題② 学校インタビュー前編
エリスは次の日から、隙間時間を見つけては、中学校の仲間たちに突撃インタビューを行うようになった。男の子と女の子それぞれに、自分の性別についてどう思うか聞いてみたのだ。
ニコラの答えはこうだった。「あんっ? そりゃ男はサイコーだろ! 立ってションベンもできっしな! 女なんかギャーギャーうるせーし! なぁエリー、何悩んでっか知んねーけど、まぁまぁお菓子でも食って元気だせよ」差し出されたハチミツ・キャンディーを取ると、ネズミ捕りみないなバネ式トラップが作動して、エリスの指がペチンッと挟まれた。
ソフィーの答えはこうだった。「あらワタクシ、女として――そう、プリンセスとして――生まれて幸せですわ! 間違っても、ニコラのような野蛮な男には生まれたくありませんもの! そんなの……悲劇ですわっ! あらっ? エリス、背中に何か付いてましてよ?」彼女は背中から一枚の紙を取ってくれた。そこには『僕を蹴って!』と書いてあった。ニ、ニコのやつぅ――。
エミリーの答えはこうだった。「アタシはちょっと男の子にも憧れるな! 空手やってると、どうしても体格負けしちゃうこともあるから……。あでも、ミニスカ履けなくなるのはカンベンかも? ま、エリスみたいに似合っちゃう子も、たまにいるんだけどねっ! アハハッ!」エリスは股間にゾクッと悪寒が走るのを感じた。と言うのも彼は以前、エミリーたち女の子グループにロッカールームへと呼び出されて、ミニスカートを着てほしいと頼まれたことがあったのだ。
彼は快く承諾して、その日一日をミニスカ+ニーハイで過ごしたのだが、そのとき学校のみんなにドン引きされたのだ(似合いすぎていて)。ニコラはひと目見るなり彼に駆け寄り、「お、おいエリー。その格好はどうした!? あぁ何て酷い……(きっとソフィーの仕業だな!)。も、もうそんな格好するなよな(俺以外の前では)!」と、怒った様子で彼を更衣室に連れていき、彼を元の服に着替えさせることで事態を収拾させた。
ちなみにスイスの多くの私立学校では、制服がなく私服で登校するのだが、最低限のマナーとして露出の多い服装は禁止されている。しかしこのとき先生たちは、すでにエリスの先天的な状態を親から報告されていたし、それに彼の人間性(頼まれたら断らない性格)も重々承知していたので、また誰かからイタズラされているのだろうと、見て見ぬふりをしていた。
エリスの課題③ 学校インタビュー後編
ダニエルの答えはこうだった。「僕は正直、女の子がよかったな。だって僕の父さん、身体中モジャモジャなのに、頭はツルッツルなんだもん……。僕も将来あんなふうになると思うと……ダメだ。想像するとオエーッって感じ。男って女を引き立てるために、わざと醜くなっていくみたいだ。女はみんな当たりクジを引いたんだ――」
「――ちょ、あんたバカァ!?」たまさか近くにいたキアラが、いきなり二人の会話に入ってきた。本当にたまたま偶然だろうが、その日の彼女はオレンジ髪でツインテールだった。「今のは聞き捨てならないな! 女が当たりクジだって!? 冗談ポイよ! あんたに一度、生理痛の苦しみを味わわせてあげたいわ! 毛くらい人工的にどうにでもできるでしょうが! 本当につまんない男だな!」全くもって図らずとも思いがけず、その日は彼女の精神崩壊月間だったようだ。
「ごめんねキアラ、ダニエルも悪気があったわけじゃないと思うんだ。だから許してあげて? あっ、そうだ――」エリスは鞄からCDを取り出してキアラに差し出す。「これ、先週貸してくれた『Sonata Arctica』のベストアルバム。ありがとう、すっごくよかったよ! 煌びやかで、旋律的で……」
「だろぉ? やっぱソナタはメロスピの金字塔だよなぁ!」CDを受け取ったキアラは、先ほどとは打って変わってご機嫌そうだ。「お嬢のお気に召すと思ったんだよね~♪」
「うん! 特に『Fullmoon』って曲が興味深かったかも? あれって満月の夜オオカミ男に変身しちゃう男性が、ただ女性を襲ってしまうってだけの歌じゃない気がする……もしかすると二人は恋人同士なんじゃないかな……だって、男性がオオカミ男になっちゃうのは初めてじゃないみたいだし……でもそう思うと、なんだか切ないお話だよね? どんなに愛し合っていても二人は毎月、満月の日に離ればなれになってしまうんだもん」エリスが涙ぐみながら話していると、前方の二人が耳を塞いでいるのに気が付く。「僕、変なこと言ったかな?」
「今は毛むくじゃら男(月経に苦しむ女)の話なんか聞きたくなーいっ!」ダニエルとキアラが口を揃えて苦言を呈す。
「えぇっ! 僕そんな話したぁ!?」そのときばかりは彼の話題選びが、逆の意味で的確すぎた。
エリスの課題④ 言えない苦しみ
その日の放課後、珍しくダニエルが遊びに誘ってくれたので、エリスは初めて彼の家にお邪魔することになった。どんな家かな? どんな部屋かな? そうワクワクしながら駐輪場まで歩いていると、ふとダニエルがポツンと呟いた。「エリス、君もしかして自分の性同一性のことで悩んでる?」突然のことだったので、エリスは呆気に取られて、ただ「う、うん……」と正直に答えるしかなかった。
「だったらね、悪いことは言わない。女を選びなよ」ダニエルは決然とした態度で言った。「キアラとか他の女子たちはいろいろ文句言ってるだろうけど、綺麗ごと抜きにしてさ、男として生きるのって、サイアクだと思うよ」
「どうして、そう思うの?」エリスはそこでやっと気づいた。ダニエルの様子がいつもと違っていることに。すごく心配で、不安になった。
「僕はただ……そう思うんだ……そうだって、知ってるんだ……」ダニエルは言葉を嚙み殺しているようだった。このとき彼は明かさなかったが、実はダニエルの父親は酒癖が悪く、ときどき酔って家族に暴言を吐いたり、暴力を振るったりしていたのだ。その経験が彼の観念を歪めてしまっていたのである。「だから……どうか女の子になってエリス……君は外見もそんなだし、きっと差別とか受けないと思うよ――」震える彼の左手を暖かな何かが包み込んだ。
「でも僕は知ってるよ?」エリスが彼の手を握って微笑んでいた。「ダニエルが素敵な男の子だってことっ」その言葉を聞いて、彼は思わず泣き出してしまった。こんなの……反則だ……僕の方が君を救ってあげたかったのに……たったひと言で君は、僕の心をこんなにも軽くしちゃうなんて――。
「そんな君にだから――えっく――真面目に助言してるんだ……」ダニエルは涙を拭いながら必死に訴えかける。「僕、君に後悔したり苦しんでほしくないんだ……でもできることなら――ぐすんっ――君には今のままでいてほしい。僕たちみたいな『普通の人』になって、ワンサイドな見方しかできなくなってほしくないんだ」
「ありがとう、たくさん心配してくれて。僕、きっと後悔しない道を見つけるね? だから――」エリスは彼の手を引いて、再び前に進みだす。「さぁ行こっ! 僕、ダニエルのお家に行くの待ちきれないよ!」
エリスの課題⑤ 男の娘って何ですか?
「ただいま」ダニエルが玄関戸を開けると、ちょうど彼の母親が廊下で掃除機をかけているところだった。母親は息子の帰宅に気づくと掃除機を止め、静かに「おかえりなさい」と笑った。「ママ。今日は学校の友達を連れてきたんだ――さぁ、入って」ダニエルが後ろにいる誰かを招き入れると、彼女の目の前に光が飛び込んできた。
「こんにちは」光が揺れ動きながら、澄んだ音を発している。「はじめまして。僕ダニエルの友達のエリスといいます。あの……もしお邪魔じゃなければ、少し遊んでいっても構いませんか?」そこまで来てようやく、彼女はそこにいるのが人であると認識できた。
「まぁ、まぁまぁ!」彼女は全てを悟った――今日ついに、息子がガールフレンドを連れてきたのだと! それも相手は、超一級の国宝級美少女なのだと――。「どうぞ、いらっしゃいエリス。もちろん大歓迎よ!」彼女は掃除機をほったらかして玄関まで駆けつけると、その眩い光をムギューっと抱きしめた。それから戸惑うエリスの顔を両手で包み込んで、しばらく見つめて涙ぐむ。
「ママやめてよ! エリスが困ってるよ?」ダニエルが忠告すると、母親はやっと我に返って、「そうね、ごめんなさい」と手を離した。エリスは『優しそうなお母さんだな~』と思うばかりで、彼女の腕まくりした右肘の側面に、大きな青痣ができているのには気づかなかった。
「ダニエルと仲良くしてくれてありがとう。今日はどうか楽しんでいってね」そう言うと母親は奥のキッチンに消えていく。「ちょうどクッキーを焼いているところなの~。あとでミルクと一緒に持っていくわね~」
*
それからエリスはダニエルに連れられ、二階にある彼の部屋を訪れた。一歩足を踏み入れるなり、エリスが感嘆の声をもらす。「うわぁ~、綺麗な絵がいっぱい!」彼の部屋はそれほど広くはないが、落ち着いた雰囲気で整頓されており、ベッドと学習机とPCデスクがあるだけの、大人っぽい部屋だった。ただ壁には彼の個性が反映されており、いろんなアニメや漫画のキャラクターの絵が飾られていた。それらはカラー印刷されたものではなく、全て鉛筆と色鉛筆で手描きされたものに見受けられる。「これ全部、君が描いたの?」
「う、うん……」ダニエルが照れくさそう笑い、ベッドの脇に鞄を下す。「僕、漫画イラストレーターになるのが夢だから」そう、彼はいつもスケッチブックでデッサンの練習をしており、特にいい出来だった力作を、こうして額縁に入れて飾っていたのである。それらはどれも、中学生が描いたとは思えないほどの秀作であった。
「素敵な夢だね? きっと叶うよ!」そうエリスに励まされると、本当に叶うような気がしてきて、ダニエルは自信と羞恥心が入り混じった、くすぐったい気持ちになった。
「そ、それで……」彼は照れ隠しするために本題に入った。「今日君を誘ったのはね、これを見てほしかったからなんだ」彼が一枚の絵を壁から取り上げる。そこには栗色の長髪に白のワンピースドレスを着た、清楚なキャラクターが描かれていた。「彼の名前はミズホ・ミヤノコウジといって、アニメ界を代表する『男の娘(Otokonoko)』キャラクターなんだ」
「オトコノコ?」エリスがキョトンとしながら復唱する。
「つまり、彼は『男性』なんだよ!」ダニエルが力説する。「ファンタジーの世界にはね、彼みたいな女性顔負けの美しさを持った男性がごく普通にいるんだ! そういう子たちのことを男の娘っていうんだ。特にこのミズホは君そっくりなんだ。髪色を少し暗くしてロングヘアにした君に瓜二つだよ!」
「男の娘……彼は男の子……」エリスはその明晰な頭脳を使って、必死に何かを理解しようとしている。そして最も論理的かつ合理的な結論を導き出した。「もしかしてダニエルは、ミズホのことが好きなの?」
「えっ、いやっ、そのっ、違くて――」不意打ちすぎる質問に、彼はどもりながら、茹でだこのように顔を赤くする。「こ、こういう選択肢もあるって、いい、言いたかったんだっ。女性でも男性でもない、だ、第三の性があるってことをっ」
「うんっ! よーく覚えておくね?」エリスは全く何も理解できていないようだったが、この経験は確実に、後の彼の選択に影響を与えることとなる。
「う、うん。ぜひそうして」彼はエリスがミズホとは違い、ちょっぴり鈍感でいてくれたことに感謝するのだった。「そ、それで、もし君さえよければなんだけど……君をモデルにして絵を描かせてもらっても……いいかな?」それこそがダニエルにとっての、本日のメインイベントだった。
「もちろん! うわぁ僕、モデルって初めて!」快諾するエリス。
「それじゃあ、ここに座って――あっ、鞄はその辺に置いておいて!」ダニエルは学習机の椅子を部屋の真ん中に移動させてから、急いで画材の準備に取り掛かる。
「分かった! えぇっと、服はこのままでいい?」
Please come with me ア~メン♪ そんな讃美歌が聞こえてくるほど、その言葉は魅惑的な響きに満ちていた。ダニエルはたくさんの誘惑と心のなかで格闘し、辛くも打ち勝って、煩悩を唾とともに飲み込んだ。「うん、そのままで……今の君自身を描きたいんだ」ちなみに、今日のエリスの服装は白のセイラー服で、上が半袖青リボン、下がショートパンツと膝下丈ソックスだった。そう、そのままでも充分エロかったのだ。ヴィヴァ! 夏の暑さよ!
「それじゃあスリッパだけ脱いで、ここに座るね」エリスが椅子に腰かける(補足として、スイスでは多くの家庭で外履き靴を脱ぐ習慣があり、ダニエルの家庭でもスリッパを採用していた)。「ポーズはどうすればいいかな? ただ座っていればいい?」
「そ、そうだな~」ダニエルは頭をフル回転させ、できるだけ自然に彼の魅力を引き出しつつ、それでいて長時間の姿勢維持も苦ではなさそうなポーズを考え出した。「それじゃあね
、右足を椅子の上に置いて、その膝の上に右肘を置いて、そう! それから左手を右内肘に載せて、右腕を曲げて左手を挟み込んで、そうそう! そしたら左腕は楽にして、そのまま右手で頭を抱えるようにして、顔を少し斜めに倒してみて」
「こ、こうかな?」エリスは懸命に指示に従いながら、ただただ、ポーズを的確に言葉で伝えられるダニエルに感心していた。
「か、完璧だ……」彼は今や、宇宙が生み出した至上の芸術作品と対峙していた。いつも遠くから瞥見することしかできない友の姿を、間近でじっくりと観察し、それを絵画に描き写す栄光を賜ったのである。彼の友人として、そして芸術家の卵として、ただひたすらに感無量だった。「じゃあ、しばらくそのままにしてて。できるだけ早く終わらせるから――」ダニエルは深呼吸すると、意を決して、スケッチブックに筆を走らせ始めた。
静寂のなか、紙と芯が擦れ合う音だけが空間を支配する。画家はモデルの全身にくまなく目を走らせ、その全体像や各パーツの比率など、だいたいのアタリを取っていく――その際、一瞬だけ二人の目が合った。そこでエリスは初めて知った。大好きなことと向き合っているときの彼が、こんなにも真剣な眼差しをしていることを。あれっ、何だろう? この気持ち――。エリスは自分の胸の鼓動が、少しだけ早くなったのを感じた。
ラフ画が完成するかというとき、部屋のドアがノックされた。「コンッ、コンッ」二人とも返事はしなかった。三秒後、ドアが開く。「ダニエル、エリス。クッキーが焼けたわ――あらっ、お邪魔だったかしら?」母親は入ってくるなり、部屋を包み込む神聖な空気を感じ取って、声色を緩めた。「クッキー、ここに置いておくわね」彼女はおやつの載ったトレーを机に置くと。去り際にこんな言葉を残して消えた。「ふふっ、そうしてると二人は、まるでタイタニックの『ジャック』と『ローズ』ね」そうして部屋のドアは閉じられた。
はたからすれば、彼らは事前のまま何一つ変わっていないよう見えたが、今や二人とも心臓が早鐘を打っていた。互いが自分のドキドキが表に出ていないかと心配していた。そんななか絵は細部の描き込み段階に移っており、二人の目が10回、15回、20回と合っていく。エリスにはトクンッ、トクンッという自分の心音が明瞭に聞こえていた。そして相手の目線が次第に下に流れていくと、そのたび身体が熱くなっていくようだった。どうしたんだろう? 僕、風邪でも引いちゃったのかな――。
30分ほど経過したところで、ダニエルが筆を置き、「完成したよ」と静かに告げた。エリスはゆっくりポーズを解くと、股間にバチッと痛みにも似た刺激が走るのを感じた。立ち上がり際、力が抜けてよろける彼――。「だ、大丈夫エリス!?」すぐさま支えに行くダニエル。「ごめん、長時間無理させちゃったね。一回深呼吸して」彼に言われるまま、深く息を吸って吐くと、身体の火照りが取れていくのが分かった。
「ううん、ありがとう。ちょっぴり緊張しちゃって」言いながらエリスは、自分が興奮しすぎたせいで、チョコレートをいっぱい食べたときに出る鼻血みたく、おチンチンが怪我しちゃったのかな? と未知の恐怖を感じていた。「それより僕、どんな絵になったのか、気になるな~」
「はい、どうぞ」ダニエルが手渡してくれたスケッチブックを見ると、そこには見たことのない自分自身の姿が描かれていた。濃さの違う黒鉛筆のみで描かれたその絵は、写真とはまた別の存在感と質感を持って、涼し気な目をした少年の姿を表現していた。自分ではもっと強張った、情けない表情をしていた自覚があったエリスは、きっとダニエルが気を使ってくれたんだろうと、画家の配慮に感謝していた。
「すっごいね! 君こんな絵も描けるんだ? 陰影の使い方がすごく上手!」そのタッチやぼかし、細かな線一本いっぽんから、作者が込めた思いが伝わってきて、まるで魔法のようだと彼は思った。「でも、やっぱり僕、ミズホとは全然似てないね?」可笑しそうに首を傾げるエリス。
「そんなことないよ! 画法が違うだけで……君はミズホみたいに可愛いよ! あっ――」思わず口を抑えるダニエル。彼があまりにも的外れなことを言ったので、つい訂正して本音をもらしてしまったのだ。「と、とにかくね――」慌てたダニエルは、スケッチブックからその絵の描かれた画用紙を引きはがし、それをエリスに差し出して続ける。「これっ、君にプレゼントするよ! き、今日の記念に!」
「ありがとう」エリスは受け取った絵をもう一度見てから、彼に微笑みと「大切にするね?」という言葉をお返しした。
*
それから一階のリビングに移り、ビデオゲームをしたりして遊んだ二人は、何事もなく楽しい時間を過ごし(一度トイレをお借りしたエリスは、おチンチンが平穏無事なことを確認して安堵した)、午後6時に解散することになった。その日はエリス、ダニエル、そしてダニエルの母親にとって、とても幸せで、充実した日になったし、言わずもがな、プレゼントされた絵は、エリスの一生の宝物となった。
エリスの選択① 決定!これが僕の歩む道
15歳の誕生日を控えた前日、今度は彼が両親をリビングに呼びつけた。父サミュエルと母エリーゼは『ついに来たか』と思いながら、神妙な面持ちでソファーに腰かける。それでもずっと息子が黙ったままなので、彼らはどっちが対話をリードするのかと互いに目配して、やがて根負けした父親が話を切り出た。「え~エリス? 例の件について答えが出たんだね?」息子がコックリと頷く。
「お父さん、お母さん。僕……男の娘になるよ」そう言われた両親はポカーンと口を開けたまま動かない。「えぇっとね、つまり……僕は男の子にも女の子にもならないっていうか……どっちにもなりたいっていうか……とにかく、そういう結論になりました!」まだ両親は口をあんぐり開けているだけだ。
あれっきりエリスは、誰かにインタビューしたりすることはなかった。ただ自分自身の課題について、そっと胸のなかに秘めながら、毎日を一生懸命に過ごしていた。男か女か、どっちにすべきか……そんなときいつも、ダニエルの言葉が思い出された。『君のままでいて』『第三の性別があるってこと』そのたった一度伝えてもらった言葉がいつも、他の二つの鐘よりも大きな音色で心に響いていたのだ。彼がどれほど悩んでいたのかは、両親が一番理解していた。だから開いた口が塞がらない、何てことはなかった。
「すると、手術したり戸籍を更新したりは……しなくていいのかい?」父親が恐る恐る告げる。「それが君の、ファイナル・アンサーなんだね?」それに対しはっきりと、息子は首を縦に振った。「なら、私は……それを尊重するよ。約束したからね」
「でもホルモン治療はどうするの?」母親が心配そうに疑問を呈する。
「それは明日、お医者様に相談してみよう。それでいいかい? エリス?」
「うんっ! ありがとう、お父さん!」
こうしてエリスの向かうべき道の一つが定まった。来週から始まる夏休みでは、イギリスへのサマー・スクール(語学留学キャンプ)に参加する予定の彼。そして夏休み明けの来月からは、いよいよ新しい学年として高校生活がスタートする!
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