[R18]”男の娘”小説「ELLIS-エリス- 世界最高の生き方」第二十八章~第三十章【旭信流空手編 本格始動!】

ELLIS-エリス- 世界最高の生き方オリジナル芸術作品

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第二十八章 – 青春時代② 高校生活 Ep.16:入門!旭信流空手道場!

エリスの高校生活⑮ 入門!旭信流空手道場!

 次の日の火曜。エリスは前日とは打って変わって、ルンルン気分でスキップ交じりに登校していた。頭部の損傷はまだまだ治癒の途中で、彼の頭には今日も痛々しい包帯が巻きついている。そんな彼が「おはよう! やぁおはよう!」と、いつにも増して元気に挨拶してくるものだから、学校のみんなは『ついにエリスが、頭を打ったせいで壊れてしまった!』と思わずにはいられなかった。文字通り『打って変わった』と言うわけだ……。
 「おはゆ~」エミリーも登校してくる。相変わらずオシャレで人気者の彼女は、さっそく仲間たちに囲まれては、『昨日エリスに何があったのか?』とか『今朝の彼は頭のネジが緩んだようだ』などの質問・報告の嵐に巻き込まれる。彼女はそんな彼らを制しては、ひと言「誰にでも弱点はあるものじゃ……今はそっとしておいてあげるがよい……」と仙人みたいな口ぶりで、ありがたい金言を唱えた。
 いくら彼女が本物の仙人だったとしても、聴衆に真実を言えるはずもなかった。まさか彼が『日本の友達とビデオ・セックスしてしまい、あげく通話アプリをバンされたにもかかわらず、その後すぐに友達をオカズにオナニーしてしまって、絶頂するところ父と親友に見つかってしまい、自尊心ズタボロになったからって次の日に学校で自傷行為に及んだ』なんて……。幸い彼女の仙人ボイスを聞いた聴衆は、「そ、それもそうだな……」と納得して引き下がってくれた。
 エミリーがホッと肩を撫で下してからロッカーのところまで行くと、『噂の男の子』が自分のロッカーをガサゴソと弄りながら鼻歌を歌っていた(ちなみに曲は『Helloween』の『Eagle Fly Free』)。聞いたところでは『頭のネジが緩んでいる』らしいが、なるほどこれは重症だ……(なんでやねん!)。彼女は彼のネジが取れてしまわないように、気を遣いながら挨拶する。「よっす! 今朝はご機嫌だね? 頭の傷は大丈夫?」すると彼が彼女を見て目を輝かせる。
 「あっ、エミリーおはよう! うんっ、ボク絶好調だよ! 今日君の通う空手道場に行けるのが楽しみで仕方ないんだぁ~♪」彼は本気で信じているようだ。自分も空手を習えば、彼女のような強さが手に入ると……。そんな彼を見ながら、エミリーは内心申し訳ない気持ちになった。あっちゃ~ごめんなエリスゥ~、たぶん君が思うようなサクセス・ストーリーにはならないかも……極真空手はそんな甘くないからさ……。
 「それじゃ、僕行くね? また放課後にね~!」そう言って去っていく華奢な少年の背中を見つめながら、彼女はハーッとため息を吐いてロッカーのダイヤルを回し始める。
 *
 そして放課後。約束通りエミリーは、エリスを連れて『行きつけの空手道場』へ向かっていた。狭い道を自転車で走りながら、彼女は彼にこれから行く道場のことや、運営する師範のことを言って聞かせることにした。そうでもしないと隣の少年が、興奮した様子で「どんなところだろう?」「どんな人がいるんだろう?」とか呟いてウルサイからである。
 何でも、彼女の通う道場はモーザー学校から北西にちょっと行った『ジャンジャン(Gingins)』という町の、とある草原のなかにヒッソリと立っているようだ。その名も『旭信流空手道場(Kyokushin-Ryu Karate Dojo)』と言う、2032年に若いスイス人空手家によって開業された、かなり新しい道場とのことだった。
 師範のスイス人空手家は、名を『マルク・ルナール(Marc Renard)』と言い、かつてフランスに住んでいたときに『真城旭信しんじょうあきのぶ』という日本人が営む同名の道場に入門し、そこで彼が生み出したと言う『旭信流きょくしんりゅう』なる流派の空手を学んだ経歴があり、その間に各団体主催の全ヨーロッパ大会で活躍――二度優勝、五度入賞――したすごい人らしいのだ。
 彼は2031年(彼が31歳のとき)に、日本の東京体育館で開催された『第十五回全世界空手道選手権大会(国際空手道連盟 極真会館が4年に一度催す極真空手の無差別級世界大会)』に出場し、惜しくも五位という結果に終わったところで現役を引退し、翌年故郷に戻って当道場を開いたそうな。気難しい性格で指導も厳しいので、道場生はあまり多くないようだが、エミリーがその『マルク先生(Sensei Marc)』のことを心底尊敬していることは、彼女の説明する様子からありありと伝わってきた。
 そうこうしているうちに目的地に着いたようで、開けた草原に佇む白い平屋の建物が見えた。二人はその横にある駐輪場に自転車を停め、そのまま荷物を持って建物に入っていく。外観も内装もすごく新しくて、どことなく伝統や風格に欠ける印象もあった。いったいそのマルク先生とはどんな人なのだろうか? 入り口を抜けて、広い稽古場に出たところで、エミリーが当人を探して挨拶する。
 「ししょー! いるー?」いやエミリー!? そ、そういう感じなの? あまりのラフな挨拶に、エリスも戸惑いを隠せない。彼はもっと『押忍! ボンジュール、先生!』みたいな張り詰めた感じを想像していたのだ。すると稽古場の隣の更衣室らしき部屋から、体格のいい成人男性が気だるそうに姿を現す。
 「だぁ~から、『師匠』はやめろっつってんだろエミリィ~」後頭部を掻きながら煙草を咥えて登場したその男性は、身長185cmはあろうかという大男で、髪は赤みが強いブロンドを後ろに撫でつけていて、顔は彫が深くて無精髭が生えている。だらしなく着崩れた道着からは厚い胸板がのぞく。彼こそが当道場の師範マルクその人だった。
 「あーししょー! 道場で煙草っ! いけないんだー!」エミリーが、その武道家としてあるまじき行為について注意する。こんなところ生徒の親御さんや空手団体のお偉いさんに見つかったら大ごとではないか!? 即刻営業停止処分が下るだろう……。
 「るっせーなー。俺の道場だ、何をしようと俺の勝――」そこでようやくエリスの存在に気づいたマルクは、一瞬目を丸くしたかと思ったら、盛大に煙草の煙に咽始める。「うえっぐぉほっごほっ!」ひと頻り咳き込んだ後、口を道着袖で拭った彼は、その充血させた目で訝し気にエリスを見つめて、「だ、誰でぃこの子は?」と呟く。
 「あっ、紹介するね! この子はアタシの親友のエリス! 空手に興味あるみたいで、今日ウチの道場を見学に来たんだ」紹介されている途中、エリスがマルクに向かってペコリとお辞儀する。マルクはそんな彼の頭部に巻かれた包帯を見てから、思考を巡らせるようにまた煙草を咥える。副流煙がいかに傷の治りを遅らせるか、ということには考えが及ばないようだ。「だからししょー、あんまりダラケタ姿見せないでよね? せっかく来てくれた生徒候補に失礼だよ?」そんなことを言われては、さすがの師匠も不満そうだ。
 「なぁ『お嬢ちゃん』、あんた何だって空手なんかやりてーんだい? ウチが『極真空手』の道場だって分かって来てんのかい? わりぃこた言わねぇからさ、今日んとこは大人しく帰って、もっと『自分の才能に見合った』ことでもやんなよ」
 言い方こそアレだが、彼の言っていることももっともだ。こんな美人、家でちょっと『化粧』したり『ダンス』したりする様子を動画に撮れば、それだけで大金持ちになれるだろうし、その金でボディーガードでも雇えば、身の危険を心配する必要もない。人生ウルトラ・スーパー・イージーモードが約束されているような人間が、何を血迷って自ら厳しい世界に身を投じるのか?
 しかし、それこそがエリスだった。彼は『そんな人生』など想像すらしていないほど望んでいないのである。今だって彼がここに立っている理由はただ一つ、『自分のなかにある自己中心的な考えや弱さに打ち勝ち、本当に誰かを守れる強さを手に入れるため』なのだ。そんな彼の心意気、はたしてマルクに通じるのだろうか?
 「あっ、ややこしい三人称使っちゃってごめんししょー。言い忘れたけど、エリスは『男の子』だよ」エミリーが訂正する。それを聞いたマルクは先にも増して仰天し、また勢いよく咳し始める。はっ!? お、おとっ、男っ!? どっ、どういうげん――ゴホッゴホッ――原理!? 宇宙の法則でも捻じ曲がったんか!? 女だとしても信じられんほどの美貌だぜ、こりゃ……。
 「初めまして、僕エリスといいます!」ここで彼が自己紹介を始める。単なる冷やかしではなく、真剣に空手の神髄を学びにきたことをアピールするつもりだ。「今日僕は、泣き虫で身勝手な自分を変えたいと思ってここに来ました! 空手を通して心身を鍛えて、エミリーのような強い人間になりたいです! よろしくお願いします!」気合だけは申し分ない……だがな……。
 「帰んな」マルクが静かに諭すように告げる。「それなりの意気込みで来たんだってことは認める――その頭部の怪我、何か訳アリなんだろう? だがな、そんなやつらは結構いんのよ。そんでも大半は一カ月もたずしてウチをやめてくわ。だしあんたみたいな『ひ弱な人間』は、もって一週間、頑張ってもせいぜい二週間ってとこが限度だわ。しかも二週間やれば何か得られるってもんでもねぇよ? 『極真空手』ってのは、『千日続けてやっと初心、万日続けてやっと極められる』って言われるほど奥が深ぇもんなんだ。分かったなら帰んな、嬢ちゃ――」
 「僕は帰りません! それに僕は男の子です!」堪らず彼が反抗する。もしここで言われた通り帰ろうものなら、それこそますます自分が嫌になるだろうし、いい加減見かけだけで判断されて、勝手に己の限界を決めつけられるのは、我慢ならなかったのだ。これには師匠もヒートアップする。
 「分っかんねぇかなぁー!? 『それ』が問題だっつってんだよこっちわ!」マルクは稽古場の角に吊るされた大きなサンドバッグのところに歩いていき、二人を身振りで呼び寄せる。「あんた、身長は……160強ってとこだな。体重はいくつだい?」唐突にそんなことを聞かれるので、エリスは言いにくそうに「ご、50kgです」と1kgサバ読んだ(本当は49kg。しかも最近胸の脂肪で増加しての数値)。
 「で、歳は15?」と聞かれるので、彼は正直に「はい」と答える。彼のプロフィールを強奪したマルクは、ようやく本題に入る。「極真空手では15~17歳は『ジュニア』ってカテゴリになんだけどな? 男子ジュニアの平均身長は170強、体重は~まぁだいたい60kg強だわ。そんで、ここに吊られたサンドバッグは長さ170cmで重さ70kg。対して俺の身長は185で体重は90kg前後――」
 クドクドと何か説明しながら、懐から携帯用灰皿を取り出し、そこに煙草の吸殻を入れて蓋をした彼は(本来道着には安全面への配慮からポケットはないが、彼は指導者側で愛煙家だったので、ちゃっかり内ポケットを自作していた)、それを床に置いてから道着をしっかりと着直し、ファイティングポーズになってエリスの顔を見る。「よぉく見ときな、格闘技では体格がいかに重要かってことを――」彼の太い脚がサンドバッグの真ん中を強打する。
 バァァァンッ! 物凄い音を立ててバッグが大きく揺れる。えっ! 今一瞬浮い――えぇぇっ!? 70kgでしょ!? 嘘……。エリスは彼の蹴りに籠められた強大なエネルギーを目と耳で感じ取って、恐怖と興奮が入り混じった武者震いが全身に走るのを感じた。す、すごい……人ってこんなことができるんだ……。バッグを吊っている天上の金具がジャラジャラ音を立てて、やがて揺れが治まっていく。
 「今のは空手の実戦で多用される技『中段回し蹴り』だ」マルクが灰皿を拾って懐に仕舞いながら告げる。「俺の場合、威力はざっと200kgf(約1960N)で、もし地面に対し垂直に力が加われば、蹴りのインパクト(接触時間約0.05秒)だけで70kgのバッグに約0.9m/sの加速力を与えることになり、だいたい0.1秒間の内に4cm浮かび上がらせるだけのパワーがあんのよ。まぁつまり何が言いたいかってーと、『ひと回り体格で優れる空手家は、相手の体重まるまる浮かせるだけの蹴りを持ってる』ってこった。これが腕や脚、ましてや腹部や頭部に放たれたら、最悪死にかねないほどの大怪我を負うってことは、想像できんだろ?」
 エリスは何も言えなかった。別に彼は喧嘩が強くなりたくて空手をしたいわけじゃない。だから試合だって勝てなくていいし、何なら試合すらしなくてもいいとさえ思っていた。しかしそんな『言い訳』は通用しないのだと悟ったのだ。こんなふうに空手家とは、必死の努力と修行によって、己の武の芸と強さを真剣に追求し続ける人種なのだ。とても生半可な覚悟で飛び込める世界じゃない……けど、僕は……挑戦しないうちから諦めるなんて、嫌だ――。
 「あー心配しなくていいよエリス? ほとんどの大会は『体重別』だから」エミリーが気の抜けるネタばらしをする。「実際の喧嘩と『スポーツの試合』は別物だよ~。ししょーってば、現役最後の無差別級大会(全世界空手道選手権大会)で、身長190超え、体重100kgの選手に負けたからって、いつも入門したての子をそうやって脅すんだよ~。ししょーのト・ラ・ウ・マ!」
 マルク「あーてめぇエミリー! いらんこと言うな! 体重別だろうが『この子』にとっちゃ困難な道に違ぇねぇんだ! そんなんで『あっ意外と行けそう』とかいう期待抱かせる方が酷ってもんだろ? 人間『向き不向き』ってのがあんだよ!」
 エミリー「もーししょー。何カッコつけてんのぉ~? 今ウチに何人の生徒がいる? 子供はアタシ含めて5人、大人は6人、合計たったの11人でしょ? いくらこの道場や備品にローンがないからって、それじゃ全く生計は立てられてないし、実際万年金欠貧乏でしょ~が~? いい加減、生徒が寄り付かなくなるようなこと言うのはやめて、来てくれた人は誰でも受け入れるくらいの器量持ちなよ~」
 「な、な……」咄嗟にマルクは何か言い返そうとするが、口をパクパクするだけで返すべき言葉が見つからない。確かに彼女の言う通りだった。道場経営以外に職を持たない彼としては、もうとにかく金がなかったし、酒も煙草もワンランク下の物を買うようになって久しい。道場生があと20人、いやせめて10人でも増えてくれれば、多少生活は楽になるのだが……。
 とは言え、彼が『そんな脅し』を掛けるようになったのには、それなりの理由があった。極真空手の道場はこの辺りでは珍しかったので、興味本位から門を叩いてくれる人は少なからずいるのだが、先に彼が言ったように『大半は根性が足らずすぐにやめていく』ので、よほど見込みのある生徒以外受け入れない方針に自然となってしまったのである。だって生徒がある日『あの、先生……私今週でここをやめようと思います』なんて言いにくるのは、本当に悲しく寂しいことなのだ。
 じゃあここにいるエリスって少年はどうか? こいつが空手で活躍できる見込みはあるか? うんっ、ない(きっぱり)! もし受け入れたとしても、一週間程度面倒みて、得られる報酬は雀の涙。しかも一歩間違えれば怪我させちまって、親が抗議に来たり、最悪訴えられて損害賠償請求されかねない。よってこいつを入門させるメリットは、ない(きっぱりPart2)!
 「お願いします! 僕にチャンスをください!」エリスが懸命に訴えかける。「約束します、最短でも1ヵ月は続けます! その間決して弱音は吐きません! だからどうか……どうか――」
 「押忍! マルク先生! 本日もご指導よろしくお願いします!」彼が懇願していた最中、気合の籠った挨拶とともに、一人の少年が稽古場に入ってきた。黒髪で背丈は175程度、鋭い眼光を持った真面目そうな少年だ。彼は一度マルクに向かって礼をした後、エリスに気づいて数秒彼を見つめてから、やがて何食わぬ顔で稽古場を歩いていっては、先ほどマルクがいた男性用の更衣室へと入っていく。
 続いて三人の子供がペチャクチャとお喋りしながら入ってくる。男の子二人、女の子一人だ。みんなエリスより年少に見えるが、一人は彼と同等の背丈をしている。三人は稽古場のマットに上がる間際、「押忍!」と言って両腕で十字を切り、先の少年と同じくマルクへと一礼をくれてから、そそくさと更衣室へと向かっていく。違いがあるとすれば、その三人は歩きながらもずっと、エリスに対して好奇の目を向けていたことか。
 「ったく……そろそろ時間だな」マルクがかったるそうにそう呟いた後、両手で自分の顔をパンッと叩いて眠気を吹き飛ばす。次に彼が顔を上げたときには、その目つきは別人のものへと変容していた。当道場の師範としての威厳と、格闘家としての殺気に満ちた目である。彼はそんな目でエリスを見てから、「まぁ、見学するくらいはタダだ。今日稽古の様子をじっくり見て、帰り際、それでも入門する意思があるのなら、そんときは何も言わねぇ。お前のことを受け入れるつもりだ。それでいいかい?」そう言われたエリスは、嬉しさで興奮しながらも、笑顔は見せずに威勢よく「はいっ!」と答えた。
 *
 それからエリスは、稽古場の隅で突っ立ったまま、エミリーたち五人の生徒がマルクから指導を受ける様子を見学し始めた。エミリーとは長い付き合いだったが、こうして空手をしている姿を直に見るのは初めてだった彼。まだ見ぬ親友の一面を知れるのが嬉しかった。稽古はまず始礼・黙想(短時間の瞑想)に始まり、やがて入念に行う準備運動が終わったところで、ようやく本格的な練習メニューに入った。
 「それじゃ、いつもの基本稽古からやっていくぞ! はい三戦さんちん立ちで構えて、正拳中段突きから、始め!」開始早々、素人には分からないような専門用語が飛び交い、道場内は迫力と熱気に包まれる。「イチッ、ニッ、サンッ、シッ……」どうやらさまざまな攻撃・防御動作を反復練習しているようだ。各動作を正確にゆっくり6回繰り返した後、より俊敏に力を籠めて10回行うのだ。
 見ていると思わず真似してみたくなったが、見よう見真似で行うべきではないと思って、ただ彼は黙って、真剣に取り組む彼らの様子を見続けていた。素人目にではあるが、やはり一番年長であろう黒髪の男の子と、その次に年長であろうエミリーの動作は、他の子たちと比べても明らかに洗練されている印象だった。「ゴッ、ロクッ、シチッ、ハチッ、キュウッ、セイヤッ!」そうこうしているうちに全ての動作が終わったようだ。
 続いて移動稽古と呼ばれる、フットワークを鍛えるための練習が始まった。各種の立ち方・各種の歩法を用いて行う前進・後退・横移動や、前方から後方への方向転換や反転移動、移動しながら行う技稽古など、一つ一つの技術の美しさもさることながら、それらが一挙動として繰り出されるときの迫力は圧巻だった。エリスは普段何気なく行っている歩行という行為のなかに、これだけ多くの種類やパターンがあることに感銘を受けた。
 「おいジャン! 何度言えば分かる? 騎馬立ちからの反転移動は円を描くな! 後ろ足は前足と接するギリギリの最短距離を通せ!」マルクの叱咤に対し、年少のなかで一番背丈が高い赤髪の男の子が「はいっ! 先生!」と答える。続いて彼が「だぁ~! 違うだろリナ? スイッチ交差は必要最小限のジャンプで足を切り替えるんだろう? フットワークの基本は『すり足』だってこと忘れるな? 空手はダンスじゃないぞ?」とやや優しめに叱咤すると、一番小柄の金髪の女の子が「は、はいっ……先生!」と返事する。
 そうこうしているうちに移動稽古が終わり、次は『約束組手』と呼ばれる、予め決まった動作で行う組手稽古が始まった。今回彼らが行うのは『三本組手』という基本となる約束組手で、前後移動しながら『攻撃側の攻撃を受け側が受ける』のを三度繰り返し、最後に受け側が『反撃』を行ってから、攻撃側と受け側が交代するものだ。攻撃、受け、反撃それぞれが手技なのか足技なのか、あるいは手技のどの技なのか、足技のどの技なのかによって複数のヴァリエーションが考えられる、実に奥の深い稽古である。
 体格の似た者同士でペアとなり、三本組手を行っていく。最年長の男の子はマルクとペアになり、二人は慣れたように各種の組手を難なくこなしていく。だいたい一つ、二つのパターンを終えるごとに、マルクは一旦自身の組手を中断し、他の生徒たちの動作が正しいか見定めていく。約束組手と言っても、やはり実戦を想定して行う大事な練習なので、細部への配慮がおろそかになってしまっては元も子もないのである。
 「ダメだエリオ! それじゃ相手のかぎ突きを脾臓にモロに食らうぞ! 正拳を正拳で受けたなら、反撃の際は受けた手で相手の攻撃してきた手を抑え、必ず動きを殺しながら技を打て! いいな?」今度注意されているのは、二番目に小柄な黒髪の男の子だ。一見大人しそうな印象だが、芯の強さが伝わってくる。その子もはっきりした声で「はいっ!」と返事し、指摘された動作を改めていく。
 約束組手が終わったところで、一旦の水分補給・休憩時間となる。生徒たちはエリスの立っている付近の壁際に置かれた、持参したドリンクやタオルのところまで来ては、それらを拾って汗を拭ったり、喉を潤したりして疲労を回復させていく。マルクは『一服』しに外に出ていったようだ。ここまでで一時間半が経過しており、その大部分をアクティブな運動が占めていたので、生徒たちが相当疲労していることは想像に難くなかった。しかしエリスはまだ知らないが、これでやっと稽古時間の折り返し地点である。
 「お疲れ様。やっぱり空手ってすごいや。みんなの気迫が伝わってくるよ――」戻ってきたエミリーにタオルとドリンクを差し出しながらエリスがそう言うと、彼女はそれらを受け取りながら「あんがと~」と笑った。彼女はそれっきりしばらく黙って、グビグビと喉を鳴らしながらドリンクを飲んでいき、やがて「ぷっはー、スポドリうんまっ!」と言って水筒を口から離してから、うなじや首元をタオルドライしながら「どう? やってみる?」と彼の現時点での意向を問う。
 「押忍! 今日みんなの練習を見てみて、やってみたいって気持ち、ますます強くなったよ!」彼が見よう見真似の十字切りを伴ってそう答えると、エミリーも同じ所作を返して、「エリスと組手できる日、楽しみだぜ押忍!」っと歓迎の言葉を掛けてくれた。そこへ、三人の年少組生徒たちが彼らのもとへ近づいてくる。
 「ねぇねぇ、『お姉ちゃん』もウチに入門するの? あと、その頭の包帯どうしたの?」先ほど『リナ(Lina)』と呼ばれていた女の子が、エリスに興味を持って声を掛けてきた。彼女は同門の女生徒が増えるのが嬉しいのか、はたまた『自分より弱い初心者』が入るのが嬉しいのか、とにかくエリスの入門を期待しているような口ぶりだった。そんな彼女を喜ばせられるか五分五分だったが、エリスは『真実』を伝えていく。
 「うん、そのつもり。頭は……ちょっと『不注意』で怪我しちゃったんだ。あとごめんね、僕『お姉ちゃん』じゃなくて『お兄ちゃん』なんだ」彼が本日二度目の『訂正』を行ったところで、お相手の少女は「ウソでしょ……」と口をあんぐり開けてしまう。すると後ろから、先ほど『ジャン(Jean)』と呼ばれていた男の子が登場し、「はぁ~ん? おめぇが男ぉ~?」とエリスの顔を覗き込んでくる。そして彼は「ホントに『ツイてんの』かよぉ~?」と視線を下半身へと落としていく。お、男の娘モノのあるある展開……(^▽^;)
 「ツ、ツイてるよ!」エリスが赤面して反論していく。相手が『タマ』と言っていない以上、彼の反論に嘘はなかった。しかし百聞は一見に如かず。セクハラ少年は証拠の開示を求め出すのだった。「なら見せろよ~」ひ、酷すぎる……2041年にこんなことが許されてよいのだろうか? だが幸い、時流を汲み取った品格のある男の子もいたようだ。先ほど『エリオ(Eliot)』と呼ばれていた線の細そうな少年が、セクハラ少年の肩を叩いて「や、やめなよジャン……お姉さんに失礼だよ」と注意す――ってお前もかい! まぁ普通の人間(十億分の一クラスの男性が身近にいない人)にはエリスが男だなんて、口で言われただけで信じるのは土台無理な話か……。すぐに間違いに気づいたウッカリ少年エリオは、「あっ、お兄さんだった、ごめんなさい」と発言を改める。
 すかさずセクハラ少年ジャンが(何だこの昭和のエロ漫画のタイトルみたいな呼称は!)後ろを振り返って、一番年長の少年に向かって話を振る。「なぁレオォ~、こいつ男なんだってさ~? 信じられっか~?」すると壁によしかかってドリンクを飲んでいたクールガイが、表情一つ変えずエリスへと一瞥をくれ、それからジャンジャンを代表するセクハラ少年ジャン(お忘れだろうが、この町の名前はジャンジャンです)へと視線を移し、小さな声で「あぁ、信じられるぜ」と呟いた。
 当然これには、不満かつ不思議そうに「はぁ~?」と返すジャンだったが、エリスにはなぜか、彼が自分を庇うためにわざとそう言ってくれたように思えた。えっと『レオ(Léo)』くんだっけ? 気遣ってくれてありがとう……もし入門したら、君とも仲良くなれるといいな――。そんな彼の盲信は裏切られるのだった。「だって、『ツイてるのか』なんて曖昧な聞き方されて、躊躇いなく『ツイてるよ』なんて答えられるの、本物の男だけだろ?」コールド・クールガイ・レオが無神経な正論を唱えながら、群衆にイタズラっぽい微笑を向ける。
 カァァァァァァ。エリスの顔が真っ赤に染まる。えぇぇ!? 『ツイてる』っておチンチンとタマタマ以外にある!? いやこれって解釈の話じゃなくって返答速度の話? と、とにかく納得いかない! だったら教えてよ! 女の子だったらどう返すの~!? レオの掛けた『鎌』に、こう易々と引っかかって動揺しまくっていることこそが、君が男の子である何よりの証拠なんだよ、ってことにまでは、どうもエリスの気は回らなかったようだ。今こそジャンたち三人は、エリスが男だと心から信じることができた。
 「おーい、稽古再開すっぞー」そんな折、マルクが戻ってきたところで後半戦が始まった。まず行ったのは『自由組手』と呼ばれる台本のない組手で、先ほどと同じペアが実戦さながらのコンタクトを繰り広げていた。当然マルクは受けを基本として立ち回り、ときどき攻撃するときも加減しているふうだった。そんな彼らを見ながら、エリスはこんなことを思っていた。 『ふんだっ! レオくんって意地悪だ。もう知らない! 入門した暁には、すぐに君より強くなって、真っ先に君を倒しちゃうんだから! 行け―! マルク師匠ー!』どうやらまだ入門してもいないうちから、もう『宿敵』が決まったようだ。
 *
 それから『型』稽古(今回は詳細を省きます)や、仕上げの『補強運動(腹筋、腕立てなどの基礎筋トレ)』を行った一同は、最後の『終礼』をもって、本日の練習メニューを全て終了した。生徒たちが更衣室で帰り支度を行っている最中、エリスはマルクへ入門する意思が固まったことと、頭部の怪我の原因と状態とを伝え、彼から『入会申込書(氏名、年齢、住所、保護者情報、連絡先などを記載する書類)』と『誓約書(規則、禁止事項、規約への同意書)』、『支払い規約書(月謝の額、支払い方法、退会方法などへの同意書)』を貰っていた。
 「ちゃんと親の同意が得られて、その書類にサインしてもらえたら、それを俺のとこに持ってきな。平日は毎週火曜と金曜の同じ時間に、俺はここにいっから――あっと、ちゃんと『その怪我』が完治してから来いよ? 空手は激しいからな、また傷口が開いたらいけねぇ……だし念のため医者の許可も貰ってこい。全部ОKが出て書類を提出できたなら、そんときは晴れて、お前も俺の門下生だ」
 そうマルクに言われ、彼が「はい! ありがとうございます!」と返事したところで、エミリーの着替えが終わり、二人は夕暮れのなか楽しくお喋りしながら家路についた。
 *
 そして2週間後の火曜日。三枚の書類が入ったクリアファイルを持って道場の門(観音開きのガラス戸)を開いた少年は、そのままロビーのベンチに腰掛ける成人男性のもとへと歩いていき、その手に持ったファイルを差し出した。まだ火がついていない煙草を咥えて、Zippoライターの蓋を「カチン、カチン」と開け閉めして遊ばせていた成人男性は、少年から受け取ったファイルの中から書類を取り出しては、それらを入念にチェックしていき、やがて少年へと右手を突き出してこう告げる。
 「ようこそ、我が旭信流空手道場へ!」

 こうして本格始動する旭信流空手編! 武の芸、正義、力! 『守るための拳』を追求するエリスの闘いが今始まる!

第二十九章 – 青春時代② 高校生活 Ep.17:初めての道着!

 前回エミリーの通う空手道場を訪問し、練習風景を見学した後、2週間後に入門書類を提出することとなったエリスであるが、そこまでの道のりも決して平坦なわけではなかった。まず我が子が自傷行為に及んだ翌日、いきなり『空手を習いたい』なんて言い出すものだから、家族がすんなり許してくれるはずもなく、説得はつい数日前まで続くことになった。
 また頭部の怪我も抜糸までに7日を要し、抜糸後も大事を取って医療用テープで保護する日々が続いた。とは言え縫合した医師の腕もよかったので、彼の前髪の生え際にできた二か所の裂傷は、どちらも綺麗に塞がっていた。そんなこんなで、現在は2041年5月7日(火)の15時50分――正式に入門の握手を交わした直後となる。

エリスの空手修行① 初めての道着!

 「で、どうよ? 傷の具合は?」マルクがエリスの額を見上げながら、その奥に隠れた悲劇の痕跡について容態を尋ねる。ふと彼はベンチに置かれたライターに気づき、それと咥えていた煙草とを懐に仕舞って、最低限のモラルとマナーを守った。対してエリスは左手で前髪を掻き上げて、生え際に貼られたテープを見せながら、こう答える。
 「もう完治してます。ここ2週間安静にしていて、お薬も塗って、栄養もたくさん摂って、たっぷり眠ったので」彼はもうお預けを食らうのはまっぴららしく、マルクに二度と『帰れ』と言わせないつもりで、そう念を押す。実際、彼を担当した医師も抜糸の際、「ほぉ、驚異的な再生力じゃ! いやはや若さとは素晴らしいことよ……この分なら来週には空手もできるじゃろうて……」と、『完治』のお墨付きをくれていた(セリフは誇張しかありません)。
 「どれどれ?」マルクが立ち上がって、エリスの生え際をのぞき込む。ふぅむ、なるほど……傷は完璧に塞がってるようだな……それにしても、こいつの髪……めっちゃイイ匂――じゃねーじゃねぇー! そうじゃねーだろ俺っ! ほらっ、あれ……あれ出してやんねぇーと――。マルクはエリスの肩を軽く叩き、「ちょっと待ってな」と言ってどこかへ消えてしまう。エリスが1分ほど待っていると、マルクが何やら持って歩いてくるのが見えた。
 「これ……実は先週から注文しておったんよ……お前用の『道着』」彼が持ってきた箱を開いて見せると、中には真っ白に輝く新品の道着が収まっていた。左襟には縦に日本語で『エリス』と、右襟には『旭信流空手』と刺繍されている。黒い帯も折り畳まれて同梱されていて、それを見たエリスは言葉もなくただ、喜びで圧倒されていた。マルクが照れ隠しするように説明を続ける。
 「こっちに書かれてんのが、ウチの流派の名前で、こっちのがお前の名前だ。大抵は左胸んとこに組織名が入ったりするもんなんだが、ウチは『全体』より『個』を重視する流派ってことで、こんな様式を採ってる。サイズはオーダーメイドってわけじゃねぇが、まぁ身長160cm用のやつだ――おうっ、そうそう。あと帯の色なんだが、これも本来は階級によって色分けされてるもんで、黒帯は『有段者の証』なんだがな? ウチは全員共通で黒帯にしてんのよ。俺の師いわく、『勝負においては誰もが対等。駆け出しでさえ臆するな、熟達してなおおごるなかれ』ってな思想の現れってことだ。だし昇級するごとに帯の先端から、それぞれの階級に対応した色の刺繍線が加わってくことになる。ここまでで質問とかあっか?」
 マルクが隣のエリスの反応をうかがうと、彼は静かに、それでいて興奮した様子で、「いいえ、ありません」と答える。マルクは若干、彼から期待した反応が得られないことを残念に思いながらも、『ま、こんなもんか』と受け止めて、道着の箱の蓋を閉めようとする――そのときエリスが「あ、あの……着てみても、いいですか?」と言うので、マルクは嬉しそうに蓋を逆さまにし、それを底面に被せてから箱ごと彼へと差し出す。
 「お、おうっ、もちろん。こいつはお前のもんだし、早速これから稽古だしな? あーっとそうか……お前今日、稽古……出るんだよな?」そうやって柄にもなくうろたえるマルクに対し、エリスは箱を受け取りながら「はいっ! 出ます!」と言って、クリスマス・プレゼントを貰った子供のような笑顔を見せた。これにはマルクも、フライングして注文しておいた甲斐があったとご満悦の様子だ。「じゃあ早速着てきます!」と言って稽古場の方へ歩いていくエリスを、嬉々として見送る。
 「更衣室の場所……は~分かるな? とりあえず荷物置いたら、道着着る前にトイレ済ませておけよ? 後から行くと効率悪いからな? あぁあと、道着の着方や帯の結び方は箱ん中に説明書きがあっからな? まぁ分からんことがあったら俺呼んでくれや~」
 歩き去るエリス「はぁ~い!」こうしてロビーには静寂が訪れた。

 ここで少し、エリスとマルクが結んだ契約や当旭信流空手道場についての説明をしておこう。まず稽古頻度であるが、当道場では週3日、火曜、金曜、土曜日が稽古日となっており、子供の部が平日16時~19時、土曜日が11時~15時。大人(18歳以上)の部が平日19時~22時、土曜日15時~19時となっている。
 そして生徒側が支払う費用であるが、月謝として100スイス・フラン(当時のレートで約18000円)、初回入会金として100フラン、初回道着代として70フラン、その都度受ける昇級審査・試合出場料として35フランとなっている。月謝はこの手の道場としてはやや高めに設定されているが、稽古時間が倍ほどあるので、むしろ師範への報酬としては安すぎるくらいだ。これらの費用は『支払い規約書』に記載した銀行口座から、毎月15日に自動引き落としされる。
 また昇級審査の頻度であるが、一般的な極真空手の道場では3カ月に一回(年四回)、その道場内で独自に、あるいは別会場で他流派と合同で開催されるが、当道場の場合は独自に、偶数月の最終土曜日に開催される(つまり2ヵ月に一回)。しかも『初審査は最低3ヵ月通ってから』とか、『次の審査は前の審査を受けてから30日以上稽古に通ってから』とかのルールも基本的には適用されず、場合によっては臨機応変に『飛び級』も行われる。
 これも稽古時間が倍あるから可能なことで、創始者の旭信あきのぶ氏の思想『最短で強くなる』『機会の最大化』『実力主義』を反映したものである。ゆえに審査は厳格に行われることになり、審査頻度は多けれど昇級速度にさほどの違いはない。加えてもちろん、初段審査からは極真団体公認の審査を受ける必要があるので、初段以上の昇段速度は全くの平等となる。
 ちなみにこの時点での各人物の段位はと言うと、マルクは五段、レオが初段、エミリーは一級、ジャンが三級、エリオが四級、リナが五級となっている。初心者のエリスは無級なので、まずは十級への昇級を目指すこととなる。さて、エリスがトイレを済ませて戻ってきたようだ。彼の空手ライフを彩る最初の物語に戻ろうか。

 ガチャリ。更衣室へと入室したエリスは、ロッカー前のベンチに載った箱を見ながら、ウキウキした様子で服を脱ぎ始める。き、着るぞ~! まずはズボンからだ! ハーフパンツを脱いでドロワーズ姿になった彼は、早速道着のズボンを持ち上げては、そこに右脚を通そうとする――がしかし! 一抹の疑問が頭を過り、ふとズボンをベンチに返した彼は、説明書を探して箱の中を物色し始める。あれっ? これって下着も脱がなきゃいけないのかな? どうだろ? あ、あったあった――。
 そうして見つけた説明書に目を通すも、下着に関する記載はどこにもない。困った彼は、少し自分で考えてみてから、やがて『道着にドロワーズって合わないかも』という理由だけで、下着も脱いでから着ることに決めた。下半身丸出しでいざズボンを持ち上げようとした矢先! 更衣室のドアが開いて誰かが入ってくる。えっ、嘘っ、待っ――。彼は山道でいきなり車と遭遇したシカのように硬直しながら、己が『轢き殺される』までの0.5秒間の猶予を、ただ無抵抗のまま消費した。
 「っ……」今しがた入室し、あられもない姿のエリスと正面衝突したのは、当道場一番の期待の星! 最年長のクールガイ『レオ』だった。彼は一瞬目を見開いてエリスの顔を見たところで、すぐに下半身へと目を落とし、そこにあるナニかをしかと見定めた後、クスリと笑ってこう言った。「ホントだ。確かに『ツイてる』」そして何食わぬ顔で自分のロッカーへと向かっていき、稽古準備を始める彼。エリスは羞恥心やら屈辱感やらで心をかき乱しながら、プルプルと震えることしかできない。
 み、みみみみ見られた! レオくんに見られちゃった! し、しかもレオくん……何か含みのある言い方で『確かにツイてる』って……きっと僕のおチンチンが小さいからバカにしたんだ! く、悔しい~! そこでエリスは深呼吸し、心を静め、冷静になろうと努める。ううん、これくらいのことで動じてたらダメだ。僕は『強く』なるためにここにいるんだ! だから、おチンチンなんて……別に見られたっていいんだ!(ナニその強さ……)
 「ね、ねぇレオくん? 道着のズボンって、下着の上から着るの? 初めてだから分からなくって……」エリスが『その状態』のまま、レオのいるところまで近づいていく。『自分は強くて肝が据わってるから、ちょっとやそっとのことじゃ動じないし、これくらいのことどうってことないよ!』っというアピールでもあったのだが、これが後に、相手にあらぬ誤解を与えてしまう。
 「あー、まぁどっちでもいいけど、一般的には道着を清潔に保つために、下着は着ける場合が多いね。俺は着ける派」レオがエリスには見向きもせず説明する。エリスはこれじゃ何のアピールにもならないと、さらに彼の関心を引き付けるべく質問をしていく。「で、でもね? 僕の下着はドロワーズなんだ。こ、コレなんだけど……変じゃないかな?」さぁ見てっ! 僕は平気だから見て!(ナニその強さPart2)
 レオは仕方なく彼の方を向いて、その右手に掲げる白い下着を一度見てから、視線を左手の道着へ、そしてナニも持ってなさげな股間へと移していって、堪らず『おバカ息子を見る母親』のごとく溜息を吐く。「ねぇ、もしかして君って、『見られたい人』? 露出癖でもあるの? いちおう言っとくけど、他人に無理やり性器を見せるのは、セクシャル・ハラスメントだし、もしここが公共の場だったら、君のやってることは犯罪だよ」それはエリスがこれまでの人生で言われたなかで、恐らく最も辛辣な言葉だった。
 「ご、ごめんなさい……」すごくショックだった彼は、顔を青ざめさせたまま持ち場に戻って、いそいそとドロワーズと道着を穿いていく。露出癖、か……さっきのはそんなつもりじゃなかったけど、否定する資格は僕にはないよね……前オナニーしたとき、友達に見られることを妄想しちゃってたし……はぁ、レオくんに気づかされちゃったな……ねぇエミリー、僕は順調に自分のことが嫌いになってます……いつまで慣れていけるか分かりません……。

 ここでエリスの名誉を守りつつ、また読者様の状況理解を助けるために、少し補足を入れておこう。まずレオという人物は、いわゆる『無性欲者』と呼ばれるタイプの人間である。読んで字のごとく『性欲を感じない人』なのだ(恋愛感情はある)。エリスのような無精巣症の男性も、身体的・医学的に無性欲に分類されることが多いが、彼は心の面では感受性豊かな『普通の男の子』ではあるので、意識的に性的興奮を覚えたり、人並みの変態的欲求は持っていたりする。
 対してレオは、身体的には普通の男性だが、精神的・嗜好的要因により無性欲と分類されるタイプなのだ。つまり簡単に言うと、レオは就寝時に生理現象として『夢精』が起こったりはするが、覚醒時に何か『エロい』ことを考えて勃起したり、それにより性行為を行ったりはしないのである。一方エリスは、夢精(ひいては射精も)しないが、普通に性行為には興味があり、惹かれる部分もある人間である(性感帯の神経は両者とも同等だが、より感度が高いのは言わずもがな『エロを感じられる人』である)。
 だから先ほどのような状況下では大抵、相手が男性であろうと女性であろうと、エリスの裸を見た人物の方が彼よりも動揺し、彼を気遣ったり、何らかのアクションを起こしたりしてくれるのだが、レオの場合はそれが得られなかったばかりか、『小バカにするような笑い』まで返されてしまったがために、エリスは無意識でプライドが傷つけられ、今回のような行為に及んでしまったと思われる。まぁそれも致し方ない。彼にとってレオのような人物と接するのは、これが初めてだったのだ。

 あーあ……僕ってやっぱり自分勝手だな……無神経なことしちゃって、もうレオくんに嫌われちゃった……。落ち込んだまま下の道着を着て、ウェストの紐を蝶結びにしたエリスは、続けて上の服を脱いでいき、ブラを外そうとしたところでまた同じ疑問に襲われる。あれっ? ブラは脱ぐべき……? ただ今回はすぐに答えが出た。って、そりゃ脱ぐよね……普通、男の子はブラなんてしてないし……。彼がブラのホックを外し、カップから乳房を解放したそのとき! また更衣室のドアが開かれる――。
 デジャヴ! 今度彼と正面衝突したのは、年少の男の子ジャンとエリオだった。二人はエリスの胸の膨らみを見た途端に顔を赤くして、片やエリオは目を背けるのに対し、ジャンは思いっきりエリスの胸を指差して、「ほ、ほらっ! やっぱお前女じゃん!」と騒ぎ立てる。もう反論する元気もなかったエリスは、ただ彼らに背を向けて「変なところ見せちゃってごめん……でも僕、本当に男の子なんだ」と静かに呟くことしかできなかった。
 そんな彼の様子を見たジャンとエリオは、何だか過剰反応したことが申し訳なくなり、それから何を思ったのか、二人揃ってこんなことを口にする。「道着の着方分かる?(分かっか?)」対してエリスが「実は……ちょっと戸惑ってる」と返すと、二人とも目を輝かせて「なら手伝ってあげる!(やんよ!)」とノリノリで親切にする。魂胆は……お察しの通り(笑)
 「まずね、この道着を羽織ってね。右襟が内側、左襟が外側になるようにするの――」エリオがエリスの道着を持ち上げ、勝手に彼の身体に纏わせていく。その過程で『なぜか』エリオの手が彼の左乳房に接触する――。ひゃっ! え、エリオくん!? 今わざと触っ……ってそんなわけないよね……まだ幼い子供にそんな疑いを持つなんて、僕ってば自意識過剰だ――。お約束のリアクションで事態を黙認するエリス。
 「バッカ! 違うだろエリオォ~。襟は左内、右外だろぉ~」今度はジャンが参戦し、せっかく合っていた襟元をはだけさせては、逆に重ね直して着せていく。その過程でも――もはや不思議でも何でもなく――ジャンの手が彼の右乳房に当たる。はうっ! じゃ、ジャンくん……今のはさすがに……。やっと彼も気づいたようだ、これが究極の『ありがた迷惑』だと……。
 エリオ「間違ってるのはジャンだよ! 襟はこっち!」
 ジャン「お前右と左も分かんないのか? こっちだろ!」
 シュバンッ、シュバンッ、シュバンッ! 二人がエリスの胸元で物凄い格闘を繰り広げている。様相としては空手なのか柔道なのか分からないが、とにかく彼の胸は何度も『お触り攻撃』を受け、その都度新品の道着の摩擦が彼の乳首を襲っていく。た、耐えろ~、耐えろ~僕~。気持ちよくなるな~? 気持ちよく――にゃるんっ! あっけなく勃起する彼の乳首。
 ちなみに旭信流は組手・実戦重視なので、道着の質感は薄手・柔らかめであり、型用の厚手・硬めの物よりはゴワゴワせず、滑らかな肌触りだ。ただ今の彼にとっては、むしろそれが問題だった。少年たちの遠慮のない手つきがダイレクトに伝わってくるからだ。こ、このままじゃ……そろそろやめてもらわないと……。そう分かってはいたが、力と気力が入らない。先ほどレオにドライな反応を受けたばかりだったので、どんな理由にせよ求めてもらえていることが嬉しかったのもあった。
 「ってか前なんか閉じなくてよくね!?」ジャンが理性の糸をプッツンしたようだ。エリスの道着をバッと開いては、彼に抱きつきながら向こうのロッカーへと押しやって、直に右乳房を揉んでいく。ほぼ同時にエリオも続く。「そうだよね!? 大した防御力でもないし!(嘘)」同様に彼を押しやって、左乳房に甘えていく。
 「ちょ、ちょっ! 二人と……もぉ!」力が抜けて、ロッカーを背もたれにしたままへたり込むエリス。何だか二人の子供を持った母親のような気分になり、初めて彼は『母性本能』を芽生えさせつつあった。ちなみにジャンは13歳、エリオは12歳である。
 「エリス……だっけ……? お前、何でこんな胸デカいんだよ……先っぽも硬くなってっし……」ジャンが右手全体で乳房を掴みながら、掌でエリスの勃起乳首を転がしていく。じゃ、ジャンくん……その手つき……だ、ダメ……。左手で口を押さえ、必死に喘ぎ声を殺すエリスは、楽にした右手が偶然ジャンの股間に当たってしまうのを感じた。じゃ、ジャンくんのおチンチン、勃ってる……。
 「エリスさんのオッパイ……柔らかくてスベスベ……はむっ――」エリオが両手で乳房を包み込みながら、我慢できずに乳首に吸い付いてしまう。年下の男の子の唾液に濡れ、幼い舌で転がされる乳首。エリオ……く……んあんっ! や、やめっ……これ以上されたら……イッ、イッ、イクッ!
 「――ほほおぅ……帰りが遅いと思って見にくれば……何やら三人とも『お楽しみ』かい?」
 突如背後から聞こえたその声に、ジャンとエリオの表情が凍り付く。エリスが霞む目を開いて上を見上げると(ギリ、イけなかった)、そこにはカンカンに怒った様子のマルク師匠が立っていた。エリスの顔も凍る。あ、あれ? 僕たち……ひっじょーにマズイ状況なんじゃ……? そして雷が落ちる。
 マルク「ジャン、エリオ! お前ら何やっとんじゃー! 破門にすっぞー!」
 ジャン&エリオ「ご、ごめんなさーいっ!」
 二人が逃げるように遠くのロッカーへと退き、大急ぎで着替え始めるのを見送ったマルクは、残されたエリスへと目を寄越し、その胸元を見ては状況を把握し、溜息を吐く。「何だよ、やっぱお前『訳アリ』なんじゃねぇか? ほらっ、立ちな――」差し出された両手に掴まり、立ち上がろうとするエリスは、まだペニスが勃起していることに気づいて、咄嗟に右手を振りほどいて股間を隠す(彼のペニスはマイクロサイズなので、別に隠さずともよいのだが……)。その行動の意味も何となく察したマルクは、居心地悪そうに頭を掻いてからこう言う。
 「えぇっと……お前はその、いわゆる『トランス・ジェンダー』ってやつなのか? トランス女性? トランス男性? どっちだ?」最大限の知識を振り絞って、相手の『カテゴリ』を尋ね、理解しようとするマルク。エリスは首を横に振って、申し訳なさそうに説明する。「僕は男の子です。でも生まれつき精巣がありません。だから健康のためホルモン治療しなくちゃいけないってお医者様が……それで自分なりに考えて、できるだけ『ありのまま』でいたいと思ったので、15歳から弱いエストロゲンのお薬を服用するようになりました。だから胸が少し膨らんでいます……大事なことなのに、今まで黙っていてすみませんでした……」意図せずとも周りの人たちを混乱させてしまう、自分という存在が心底嫌になった。
 震えながら自らの『男の娘』というカテゴリを告白してくれた彼を見て、マルクはようやく彼という人間を少し分かった気がした。すぐさま相手の心を気遣う言葉を掛ける。「オーケイ分かった。まぁ何だ? 出会うやつ出会うやつ全員に、自分のデリケートな話しなきゃならん義務もないし、それがいかに苦痛かってことも充分理解できる。だし今回のことは大目に見るし、お前も気にすんな?」エリスがコックリ頷く。ようやく性的興奮が治まってきた。
 「それでぇ~、今度から着替えは別の部屋にするか? まウチは男女の更衣室しかないから、あーそうだな……トイレの個室、とか?」それが『部屋』と呼べるかは微妙だった。案の定エリスは首を振って、「ここのままで大丈夫です。迷惑にならないよう、今度から隅で着替えます」と答える。対してマルクは最大限の配慮としてこう返す。「もしアレなら、道着の下に肌着着てもいいからな? スポーツ用のブラジャーとか……ともかくお前が快適だと思う状態にしな? 分かったか?」
 「はい……」着替えと帯が入った箱を抱えて、部屋の隅へと移動していくエリス。マルクはふと何かを思い出したように、懐から何やらビニールで包まれた物を取り出して、それを袋から出してからエリスを引き留める。「あっとすまん、さっき渡すの忘れてたんだがな――」エリスが振り向くと、目の前に綺麗な白い帯布があった。彼が不思議そうにマルクの顔を見上げると、マルクはそのまま彼の額に布を巻き付け、キュッとちょうどいい締め付け具合で結び着けてくれた。
 「こいつは俺からの贈りもんだ。ウチの道場用にと昔作って、結局ボツになった『ハチマキ』。多少デコの傷を守れっくらいの防御力はあるだろうし、稽古の間だけでも着けておきな?」そう言って優しく頭を撫でられたエリスは、「はい! ありがとうございます!」と元気を取り戻す。これに気分を良くしたマルクは、さらに生徒を鼓舞すべく覇気を宿してこう伝える。
 「ともかくだ! 今日からお前もウチの生徒だし、これからビシビシ鍛えていくから、覚悟しろよ! 分かったか『エリス』!? 分かったら返事はっ!」師範に初めて名前を呼んでもらえ、感情が高ぶったエリスは、その『返事は?』の意味を汲み取ったのを良いことに、その場で荷物を床に置いて、颯爽と両腕で十字を切る。
 「押忍! よろしくお願いします! マルク先生!」彼の道着の前がはだけて、両胸があらわになる。マルクは頭を抱えながら、「わ、分かったから、いい加減帯を締めろ……」と呟くのだった。彼らの様子を見ながら、後ろでクスクスと笑っているレオ。いったいこの旭信流空手道場は、これからどうなっていくのだろうか? おい……いいから早く空手しろよ(正論中段突き)!

第三十章 – 青春時代② 高校生活 Ep.18:才能、皆無!

エリスの空手修行② オッス!オラ自己紹介!

 マルク「えー、それじゃ改めて紹介するぞ! ここにいるのがお前たちの新しい仲間、エリス・シンクレアだ。これからみんな、仲良く手解きしてやるように」
 一同「押忍っ!」
 時刻は16:10。道場生全員が集まったところで、マルクは生徒たちの前にエリスを呼び寄せては、皆に彼が正式入門したことを知らせた。そして彼が「そんじゃ各々、軽く自己紹介すっぞ」と言ったのを皮切りに、生徒たちによるひと言自己紹介が始まった。「まずお前からだ。できっか?」と言われたエリスは、緊張しながらも「はい――お、押忍っ」と一歩前に出て、できるだけ堂々として見えるよう努めながら話し始める。
 「僕の名前はエリスです! よく間違われるのですが、スペルは『E.R.I.S』ではなく『E.L.L.I.S』です! エミリーの同級生で15歳です……うんと……あっ、運動は得意だと思うのですが、武道をするのは初めてなので、分からないことばかりです! だから先輩の皆さんからできるだけ多くのことを学んで、早く追いつけるよう努力したいと思います! よろしくお願いします!」
 一同「押忍っ!」
 最初の務めを果たせたことに安堵しながら一歩後退したエリスは、それから前方の人たちが順番に自己紹介していくのを聞きながら、これからともに切磋琢磨していく仲間一人ひとりの顔と名前を、しかと胸に刻み付けていった。先陣を切ったのは列の中央にいる、16歳で段位一段のレオだった。
 どうやら彼は血液型が『AB型』で、星座は『おとめ座』のようだ……ど、どうでいいわっ!
まぁエリスも『名前のスペル』とか言っちゃってるし、お互い様なのだが……(こういう場での自己紹介って難しいよね)。それから好きな食べ物は……何と、『フォレ・ノワール』とな!? 意外っ! レオきゅん『スイーツ男子』なの!?
 ※フォレ・ノワール(Forêt Noire)とはフランス語で『黒い森』を意味するお菓子で、ドイツ発祥の『シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(Schwarzwälder Kirschtorte:黒い森のサクランボ・ケーキ)』と同義である。ベースとなるチョコレート・スポンジ・ケーキの中に、たっぷりのサクランボが入っていて、場合によってはスポンジに『キルシュワッサー(Kirschwasser)』と呼ばれるサクランボの蒸留酒をしみ込ませて香りづけされる。お好みで上部にホイップクリームとサクランボをトッピングして完成。
 なるほど彼はサクランボが好きなのか……どうりでエリスの股間にはそそられないわけだ……(最っ低な発言)。い、いけない! アータシ錯乱坊~♪ ってか?←こいつ昔、学校の図鑑で見つけた『シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ』って名前がカッコよすぎて、一日中連呼してたんだぜ……いや、それこそどういいですね……はい、お話に戻ろう――。

 それにしても、普段もあまり表情を変えないレオは、稽古時間が始まるとさらに鉄仮面と化すようだ――いや、そうとも限らないのか。ずっと前方を見ながら自己紹介していた彼は、話し終わりにようやくエリスと目を合わせ、かと思えば彼の下半身をチラッと見てから、「よろしく!」と微笑した。むぅ……ムッカー! エリスは怒りと恥じらいで顔を赤くしながら、小さく「お、押忍」と返事する。
 続いて自己紹介し始めたのは、レオの右隣にいるエミリーだった。15歳、級位一級の彼女は、今さらエリスに自分を知ってもらうこともないはずだろうが、さすがは彼女、魅力的な話術で場を和ませていく。「オッス! アタシ、エミリー! もち知ってるよね? でもせっかくだから、君の知らない情報を一つ! 実は~? アタシ『ジャッキー・チェン』が大好きです!」えっ? ジャッキー? ってあのアクション映画スターの? そっか、エミリーって映画好きだから――。エリスがどう反応していいのか決めあぐねている間に、エミリーは自分のアイドルについて恍惚とした表情で語り始める。
 「空手家としてはちょっと言いにくいんだけどね? ほらっ、ジャッキーは中国武術カンフーの人だから。でもダメッ! 抑えられない、この気持ちっ! 最近の若い人はあんまし知らないだろうけど、昔のジャッキーってチョーチョーカッコよかったの! 特に好きな作品は『酔拳2』『ポリス・ストーリー』『スパルタンX』『プロジェクトBB』『香港国際警察/NEW POLICE STORY』そして『ラッシュアワー』! もうアクションもコメディーも最っ高! アタシのベッドの天井にはね、若いときのジャッキーの写真が貼ってあるんだ~♪」
 ま、まぁ? 実際に『場が和んだか?』と言われれば微妙なところであるが、まだ見ぬエミリーの素顔が一つ明らかとなっただけでよしとしよう。当のエリスも「そ、そうなんだね……まさかエミリーにそんな趣味があったなんて……今度僕も観てみるね? 押忍!」と、やや緊張が解けたご様子だ。マルク先生はいろいろと口を挟みたい気持ちをグッと堪えて、この事態を受け流す。
 次なる自己紹介者は、先ほどエリスのちっぱいを右手いっぱいに掌握していた少年、赤毛のジャンだった(アンみたいに言うなっ!)。彼はまだエリスとは顔を合わせづらいようで、真っすぐ正面を見据えたまま、淡々と口を動かしていく。「俺ん名前はジャン、13歳っす。空手を始めて1年半で、今は級位三級っす。空手は好きな人を守れる強さが欲しくってやってます。好きなかたは『突きの型(六級で習う突き技主体の型)』で、得意技は『正拳中段突き』です」
 おぉ! これぞまさしく空手道場での自己紹介! お手本と言っても差し支えなかろう……やれ『名前のスペル』だの『血液型や星座』だの『好きなムービースター』だの……いったい年長の彼らは何を言っていたのだろうか? これにはエリスも「『好きな人を守れる強さ』か……素敵だね? 僕も似たような気持ちで始めました。押忍!」と気持ちのいい返事をしていく。対してジャンはチラッと横目でエリスを見てから、照れながら「お、押忍」を返した。
 次に出番が回ってきたのは、先ほどエリスの敏感乳首を赤子のようにしゃぶっていた少年、ベイビーフェイスのエリオだった(いい加減やめね?この紹介の仕方)。彼はエリスの真正面にいるので、終止エリスの胸元を見ながら自己紹介していく。「僕の名前はエリオです。12歳で四級です。空手歴1年で、好きな人のおっぱ――じゃなくて、好きな人を守れるような優しさと包容力が欲しくて空手やってます。好きな型は皿型――じゃなくて『平安ぴんあんⅣ(同じく六級で習う、技の種類や攻撃・受けのバランスがいい型)』で、得意技は『手刀諸手受け』です」
 相当さっきの件が尾を引いているようである……大人しそうな外見に反して、かなりの『おっぱい星人』らしいエリオくん。しかも『皿型』が好きという『ちっぱい星人』でありつつも、得意技が『手刀諸手受け(開いた両手で受け留める技)』というマニアックぶり! エリスの存在は彼の性癖に多大な影響を与えてしまったのかもしれない……(こいつの言っていること無視していいです)。何事にも気づいていないエリスは、「始めて1年で四級なんてすごいね? 僕も見習わなくっちゃ! 押忍!」と胸を張って、彼にリップ・サービスならぬ『ティッツ・サービス(tits=乳房)』をお返しした。
 そして最後を締めくくるのは、隣で恍惚とするエリオにジト目を向けながら、『男子ってほんっとバカ……』と言うような溜息を吐いた少女、エミリーMk-Ⅱマークツーことリナだった(形容するのを諦めるな!)。彼女はエリスに憎々しげな目線を寄越すかと思われたが、エリオにも増して憧憬しょうけいの眼差しで彼を見つめ、ウットリしたような声で自己アピールしていく。理由は……。
 「私、リナっていいます! 12歳です! 将来の夢は、『王子様みたいにカッコイイ人のお嫁さんになること』です! 特技はお料理とお裁縫で、得意料理は『ロスティ(刻んだジャガイモをフライパンでカリカリに焼き上げるスイスの定番料理)』と、『ゼンメルクネーデル(ゼンメルと呼ばれる小型パンと鶏卵で作る団子料理。スープに入れたりソースを掛けたりして食べる)』です! 今エリスさんのこと『いいな』って思ってます! 彼女さんいますか?」
 ってことらしいです……。リナ……この場を『合コン』か『お見合いの席』だとでも思っているのか……。これにはマルク先生も「おいリナ! 男漁りなら余所でやれ……ここは神聖な道場だぞ……」と頭を抱えてしまう。対してリナは「はぁ~い……」と言って引き下がるも、その間際エリスにウィンクして好意を示した。私としては今のを聞いたうえで、それでもなぜ彼女が空手を習っているのかこそ、ぜひとも聞きたいものだ……(新手の花嫁修業なのか?)。
 当のエリスはやや戸惑いながら、「えぇっと、今お付き合いしている人はいません……けどごめんねリナちゃん。詳しくは言えないけど、僕って結婚相手としては向かないと思うんだ。だから君のお婿さん候補にはなれなけど、これから友達として仲良くしようね? 押忍?」と返事する。
 何も馬鹿正直に答える必要はないのだが、これにより彼は遠回しにリナの命を救ったことになるのだ。なぜならもし、彼女がエリスのお嫁さん候補に名乗りをあげてしまったら、同じ『シンデレラ・コンプレックス』の持ち主であるソフィーが黙っちゃいないだろうからだ。それにしても『押忍』が疑問形で使われているのを始めて聞いた……『それでいい?』的なニュアンスだろうか?
 理解力の高いリナが元気に「押忍!」っと返事したところで、長かった自己紹介タイムは終了した。マルクは内々でこう決心する。『うぬ、自己紹介なんかさせんの……もうやめよう』少人数で個々の自主性を重んじる流派出身の彼と言えども、これは気苦労が絶えなそうだ……。えっ、何なに? 空手シーンはまだかって? はいっ! ただいまー!

エリスの空手修行③ 基本稽古!

 「んじゃ、早速稽古に入るぞ。今日は時間押してっから、黙想はなしだ。まず準備運動からやってくが、初心者のエリスもいっからいつもよりゆっくり丁寧にやってくぞ?」ようやく本領を発揮し始めた指導者マルク。彼はエリスをエミリーとレオの間に立たせ(他の子たちの隣に置くのは危険と判断した)、最初の指導を行っていく。「いいかエリス? とりあえず気張らず、俺やみんなの動きを見て真似するんだぞ? 動かす箇所や伸ばす筋肉はその都度説明すっからな?」
 エリス「押忍っ!」そして稽古は始まった。
 「はい帯の横を持って! 伸脚運動、イチッ、ニッ、サンッ……」
 一丸となって準備運動に取り組んでいく一同。とりあえずエリスは、言われた通りに見よう見真似で運動していくが、特に難しいこともなく、普段あまり伸ばさない足指や膝関節への運動でも手間取ることはなかった。よかった……結構簡単かも――。そう思い始めていたときだった。「はい右から前後開脚!」そのマルクの号令を機に事態が一変する。へっ? 前後開脚?
 「イチッ、ニッ、サンッ……」両隣のエミリーとレオを見ると、右脚前・左脚後ろの綺麗な180°開脚を行っている。バレエ・ダンスやヨガで行うアレである。そんなことやってみたことすらないエリスは、思わず躊躇ってマルクの方を見る。すると彼が「シッ――あっと、エリスは無理せずできるところまででいいぞ。道場生でも完全に脚開けんのは、まだその二人だけだ――ジュウッ! はい逆向き!」と言ってくれる。しかし隣のレオを見ると、彼が何とも言えない『ドヤ顔』で挑発してくるものだから、エリスは柄にもなく無謀な挑戦を受けてしまうのである。
 ムッキー! なら見てなよレオく~ん! 僕は毎朝ストレッチしてて、身体の柔軟性には自信があるんだからねぇ~! 前後開脚なんかこの通り、お茶の子さいさ――痛ったー!! 意を決して脚を大きく開いたエリスは、前に出した左脚の裏腿ハムストリングが、まるでナイフにでも突き刺されたかのような激痛に襲われるのを感じて、思わず涙目でへっぴり腰になって、隣のレオに無言の降参を告げることとなった。
 当のレオは、そんな彼の様子を見ては微笑して、「初めてにしては上出来。君なら2、3ヵ月練習すればできるようになるよ」と優しくアドバイスしてくれる。にもかかわらずエリスは、その言葉を素直に受け取ることができず、ただ単に『上から目線の見下した言動』と捉えて、彼への対抗意識を強めてしまうのだ。それほどまでにレオの話し方は皮肉めいて聞こえるのか?
 いや、もしかするとエリスも楽しんでいるのかもしれない。これまで、こうやって対等の立場で張り合っていられる友達は、幼馴染のニコラを除いてはいなかったので、レオの存在が彼の『少年心』に火をつけたのだろう。だから今エリスは、レオがニコラ同様『自分を普通の男の子として扱ってくれること』に、新鮮さと喜びを感じているのだ。負っけないぞー! レオくぅ~ん! 彼がニコラの『本心』を知る日が来るのは、いつになるだろうか……。
 *
 そうして準備運動を終えて、基本稽古へと入っていく一同。エリスは要所要所で『三戦さんちん立ち(内股で片方の足を一足分下げる立ち方)』や『正拳突き(基本のパンチ)』など用語の説明を受けながら、今度も周りの人たちを手本として動作を繰り返していく。一生懸命さは伝わるのだが、彼が初めて『正拳中段突き』を「えいっ!」と放ったとき、他の者たちはこう思わざるを得なかった。『よっわ……(可愛いですエリスさん……)』

[ワンポイント・レッスン①:基本稽古の心得]
 基本稽古とは、全ての基礎となる技の反復練習である。以下のようなことに注意して丁寧に行っていく。
、バランスよくきちんと立つ。前足に70%の体重を掛けるような重心で、自分の正中線(身体の前面を縦に真っ二つに切ったときの中心線)を意識して立つ。
、構えるときは肩を落して脇を閉め、打つときは目標を見据える。
、反復練習が基本で、反復した動作は必ず身になるので、常に正しい動きを心がける。
、全ての動作は一挙動で行い、身体全体を使う。

[ワンポイント・レッスン②:突きの基本稽古]
 まずは三戦立ちで、<正拳中段突き><上段><下段><裏拳顔面打ち>(前方の相手の顔を狙う裏拳)→<左右打ち>(両サイドの相手への裏拳顔面打ち)→脾臓ひぞう打ち>(両サイドの相手の脇腹を狙う裏拳)→<回し打ち>(親指を下にした裏拳で正面の相手のこめかみを打つ)→<正拳顎打ち>(上段と中段の中間の高さ、自分の顎の高さに打つ正拳)と行っていく。
 今度は騎馬立ち(肩幅の二倍で足を開く。足先は真っすぐ。もし足先を開くと『四股立ち』になる)で行う接近技として、<正拳下段打ち>(手の平を上に向けて構え、相手の水月すいげつ(みぞおちのこと。胸と腹の間の中心)を突き上げるように打つ技で、『正拳下突き』とも呼ばれる)→<肘打ち>(これも接近技。基本稽古では相手の顎を横に打つように出すが、型や実戦ではいろんな方向へ肘打ちする場合もある)と打っていく。

[ワンポイント・レッスン③:受けの極意]
 『受け』とはすなわち防御技である。以下のようなポイント押さえるといい。
、どこを防御するか意識する。
 正中線は別名『第一急所』とも呼ばれるほど、多くの急所が集まっている。眉間、人中じんちゅう(鼻の下)、喉、水月、金的(股間)。加えて『第二急所』と言う、正中線とは逆で身体の側面を縦に切ったときの切り口に沿って現れる急所がある。身体の側面は筋肉が発達しづらいので、防御力が低いというわけだ。
 続いて『第三急所』として正中線の背中側、特に首や背中の中心などの急所があり、最後の『第四急所』は真っすぐ立った時に影になる部分、首元、脇、内股が該当する。基本的に攻撃はこれらを狙って繰り出されるので、どの部位を防御するかを念頭に置いて動作を行う。
、受けは攻撃に対する攻撃
 受けは急所をガードするための動作ではあるが、ただ『添えるだけ、覆うだけ』では実際の攻撃を受けられるほど力は出ない。『攻撃は最大の防御』と言うが、裏を返せば『防御もまた攻撃なり』ということになる。よって意識としては受けるとき、相手が繰り出してきた攻撃(手、腕、足、脚、肘)に対する攻撃だという心持ちで行うといい。

[ワンポイント・レッスン④:受けの基本稽古]
 三戦立ちで<正拳上段受け>(手の平を相手に向けるように拳を上に掲げる。正面から見た場合、掲げた手で片目が隠れるように)→<正拳中段外受け>(真っすぐ突いてきた相手の腕や脚を拳で外から叩き折るように受ける)→<正拳中段内受け>(外受けの動作を内から外へ行う)→<正拳下段払い>(下からの蹴り上げや下段・中段を突いてくる攻撃を下段に払い落す受け)→<正拳内受け下段払い>(内受けと下段払いを両手で同時に行う)の順に行う。

[ワンポイント・レッスン⑤:手刀の基本稽古]
 手刀(しゅとう)とは手を刀のように開いた状態を言う。指を閉じて、親指は甲の方に引くのがコツ。
 三戦立ちで、<手刀顔面打ち>(中段外受けの動作で手刀攻撃。相手のこめかみを水平に打つ)→<手刀鎖骨打ち>(顔面打ちと同じ出発点から、相手の鎖骨を垂直に打つ)→<手刀鎖骨打ち込み>(手刀で行う正拳中段突き。手刀を反して相手の鎖骨をスライスするように突く)→<手刀内打ち>(手刀顔面打ちを内から外へ。ただし水平ではなく斜めに打ち込む)→<手刀脾臓打ち>(顔面打ちと同じ要領。今度は上から手刀を振って、相手の脇腹を横に打つ)と続く。

[ワンポイント・レッスン⑥:蹴りの基本稽古]
 蹴りの基本稽古を行うにあたっては、両手の親指を帯びの輪のなかに入れて腕を固定することが大切だ。これは腕を使ってバランスをとる癖がつかないようにするためである。帯の横を持つ場合と前を持つ場合があり、それらは足技そくぎの軌道の邪魔にならない方を使う。

 まず前屈立ち(片足を大股一歩後ろに下げて立つ。前足に70%の体重を掛ける。対して後ろ足に70%掛けると『後屈立ち』になる。後屈立ちは受けでよく使う)になって前蹴まえけ上げ>(後ろ足を振り子のように蹴り上げる)を行う。
 そして平行立ち(通常の立ち方。足を少しだけ開き、足先を真っすぐ)から、<内回し蹴り>(足を内から外へ大きく自分の身体を包み込むような軌道で回す)→<外回し蹴り>(内回し蹴りの逆回し版)→<膝蹴り>(下から上に相手の正中線上を膝で蹴る)→<金的蹴り>(相手の金的を狙って真っすぐ前に蹴る)→<前蹴り>(基本の場合は上段を蹴り、金的蹴りより高く前に蹴る)→<足刀横蹴上げ>(横の相手に対する蹴り上げ。親指の方を反らせて足刀として蹴る)
 →<足刀横蹴り>(同じように足刀にして、今度は蹴り上げるのではなく鶴足立ち(膝を腰まで上げる片足立ち)になって足を引き付けてから上段を蹴る)→<足刀関節蹴り>(同じく鶴足立ちから、横にいる相手の膝関節に向かって蹴り下ろすように蹴る)→<後ろ蹴り>(平行立ちで後ろの相手を確認すると同時に、膝を上げながら振り向いて、踵で蹴り込む)→<回し蹴り>(平行立ちから膝を引き上げて、腰を返しながら横から中央に蹴る)の順に蹴っていく。

 マルク「おっし! これで基本稽古のメニューは完了だ。初めてでよく頑張ったな、エリス? まずは正確な動きを覚えて、慣れてきたら力強く俊敏に繰り出すことを心掛けろ? いいな?」
 エリス「押忍!」

エリスの空手修行④ 才能、皆無!

 基本の次は移動稽古だった。身軽でフットワークに優れ、また物覚えも早いエリスは、これを難なくクリアする。この『移動』と先ほどの『基本技』を組み合わせて応用したのが、後々行う『組手くみて』や『かた』だと教わったところで、休憩時間となる。そして仲間と談笑しながらドリンクを飲んで休んでいると、すぐに稽古再開となった。
 再開に際して、エリスはマルクから個人レッスンを受けることになり、約束組手を行うレオたちのグループから離れて、稽古場の角にあるサンドバッグのところに行くことになった。な、何するんだろう――。隣に付くマルクを見ると、彼はボクシングのトレーニングで使うような『ミット』まで持っているし、エリスはこれからさせられることを想像しては、ワクワクするような不安なような、どちらとも言えない気持ちになった。
 「うっし、ほんじゃこれから、お前の『力量』を見せてもらうぞ?」目的地まで到着したところで、マルクが話し始める。「さっきまでの稽古でお前の動きはだいたい見せてもらった。基本的な運動能力は申し分ない。良いものを備えてると思ったぞ。恐らくは約束組手や型も問題なくこなせるだろう……だがな――」彼が左手にミットを嵌めながら続ける。「極真空手はあくまで『組手の強さ』を追求する武道だ。自由組手、ひいては試合・実戦での強さだ。お前の考える強さがどういうものであれ、この世界の真理として『力なき正義は無能』だってことは理解しておく必要がある。分かるか?」
 エリスが頷く。確かにそうだ……僕は喧嘩なんかしたことないし、腕っぷしの強さよりも心の強さが欲しくて空手を始めた……けど心だけじゃ救えない人もいて、それじゃいつまで経っても『半人前』のままなんだ――。
 「ま、『正義なき力もまた無能』ではあるんだがな? それに関しちゃ心配しちゃいない……お前が『良い子』なのは見てれば分かるしな」先生がそう言ってくれるのは嬉しかったが、エリスは心中複雑だった。最近自分の弱さを痛感したばかりだったからだ。自分には至らないところがたくさんある。まずはそれを受け入れて、そのうえで短所を改善するのか、見ない振りするのか、はたまた見方を転換して長所とするのかを決めねばならないのだ。臨むところだ! 僕はもう、自分の弱さから目を背けたりしない――。
 「と言うわけで、今からお前の『打撃能力』を見る。まずはこのサンドバッグを打ってもらうが、初めてだと怪我すっかもしれねぇから、パンチするのはこのサポーターで手首を固定してからだ。ほれっ、右用と左用があっから、自分の利き手の方に着けな――」マルクからサポーターを手渡されたエリスは、困惑する。き、利き手……? パンチの利き手ってどっちだろう……普段しない動作だから、分からないかも――。「何だ? 利き手が分からんか? いつも食べるときや字を書くとき、どっち使ってる?」
 「うんっと……食器を持つのは右手で、ペンを持つのは左手です。ハサミを持つのが右で、電話を持つのは左……ボールを投げるのは右で、歯ブラシを持つのは左です。でもどの動作も本当は、逆の手でも行えます」ちなみに彼が初めて自身のペニスをしごいたのは左手でしたね(あれは右向きで横に寝転がってたから、たまたまそうなったんだ!もう黙れよお前!)。
 これは失敬しっけい……しかし真面目に答えるなら、彼はエレキベースは右手で弾いていて、テニスラケットは左右どっちでも振れるが、これも右手で構えることが多い。つまり彼は基本的には両利きだが、世の中の日用品の多くは右利き用に作られているために、やや右の方が熟達しているわけなのだ。
 「そ、そりゃたまげた……お前は『クロスドミナンス(交差利き)』と言うか……完全な『両利き』なんだな?」マルクが仰天する。そんな人間を始めて見たのだ。そう言やこの子、顔もほとんど左右対称だな――。「そう言うことなら、とりあえず右手で打ってみ? 話聞いた限りでは、パワーを要求する動作に関しては右を使う場合が多そうだ。あと人口の9割は右利きだから、対戦相手と向き合ったとき、スタンスの面で戦いやすいのは右なんだ」エリスは言われた通り、右手にサポーターを装着していく。
 「オーケイ。そんじゃ正しい正拳突きの打ち方を教えるぞ? まず拳を握って、腕を真っすぐ前に突き出して、拳面がちょうどサンドバッグに当たるくらいの距離に立つんだ。それが出来たら、左脚を一足分前に出して、そこから右足を肩幅分後ろに下げて『組手の構え』になる。両腕は立てて中段受けにし、後ろの足先は外に45°開き、体重配分は五分五分だ――そう、それでいい。その構えになったときのサンドバッグとの距離感をよく覚えておくんだ。それがお前の『突きの間合い』となる。そこから基本稽古と同じ要領で突いていくわけだが、気を付けるべきことは『肘と手首を真っすぐに保つ』ことだ。しっかり固めておかないと、突いたときの衝撃で手首をすぐに痛めちまうからな? 準備ができたら、軽く打ち込んでみな?」
 「はい、先生」エリスはこの組手の構えになったのも初めてだったのだが、何だか『格闘家』っぽくて格好いいなと思うのと同時に、全身から力がみなぎってくるような『確かな自信』を感じた。意を決して、右拳を突き出していく! えいやっ!
 ポスッ……。ものすごく接触する拳と標的! ホント、ものすっごく接触した! でも接触しただけ……サンドバッグは全く揺れることもなく、まるで久しぶりに再会した恋人が飛び込んでくるのを胸で受け留めながら、長らく濃厚なキッスをしているようだった……。これにはマルクも呆気に取られて目を丸くする。はんっ? 今のパンチ……? 俺の見間違いか? 速すぎて見えなかったとか……? じょ、冗談だろ……。「ま、まぁ? 『軽く』っつったしな? 打感が掴めたなら、徐々に強く打ってってみ?」
 「は――押忍!」そうしてエリスは、精一杯の力を加えながら何回か同じ動作を繰り返えしていく。えいっ! やぁっ! とうっ! その度に――空港だか駅だか港だから知らないが、『感動の再開』の歴史が永遠と紡がれていくのだった……。ウソでしょ――せいっ!――全然――りゃあ!――ビクともしない――こんのっ!――70kgって――これでどうだっ!――こんなに重いの――いやぁぁぁぁぁ!
 彼が己の非力さに嫌気が差していたとき、隣のマルクも自信を喪失しつつあった。お、俺……この子を強くしてやれる自信、ないです……旭信あきのぶ先生……俺はいったい、どうすれば……。そこでエリスのパンチが曲がってきているのに気づいたマルクは、なけなしのアドバイスをして指導者としての体裁を保っていく。「ほらっ、拳を当てる角度がへごってきてるぞ? 第二関節じゃなくて拳面を真っすぐ当てろ!」
 ここで血迷ったマルクは、不注意にも、いらぬ情報を付言してしまう。「まぁ関節を当てる場合もなくはないが、どちらかと言えば第三関節――特に第三中手骨ちゅうしゅこつ(中指の付け根の出っ張った骨)を当てることが多いな。他にも、突き出した中指の第二関節で打つ『中指一本拳』ってな高等テクニックもあったりはする……なぁに、どちらも相当な鍛錬を積んだ者にのみ使用を許された技だ。素人のお前には関係な――」
 ゴリュッ! つい空手バカっぷりを発揮して、マニアックな説明を行っていたマルクだったが、その途中で何やら『不吉な音』が聞こえたので、思わず驚いて、前方のエリスの様子をうかがった。すると彼が左手で右腕を支え持ちながら、だらんとした右手首を掲げてこちらを見てくるではないか? そして彼は泣きそうな声で、こう呟くのだった。
 「先生……手首、痛めちゃいました……」
 「な、何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」青ざめて絶叫するマルク。よ、弱い! 弱すぎる! こうならんために正しい動きを教授してやって、サポーターまで貸してやってんのに……開始早々、動きもしないサンドバッグに負けんじゃねぇぇぇぇぇぇー!!「ちょっと待ってろ! 今氷とテープを持ってくる――」
 えぇいクソ! けどこれは俺の責任だ! サンドバッグ打ちなんてあの子には早すぎたんだ……ったく、やっちまったぜ……だけどこれでハッキリした――あの子は上半身に筋肉がまるでねぇんだ! だから衝撃はダイレクトに骨と腱に伝わるし、失敗はこうしてすぐ怪我に繋がっちまう……こう言っちゃなんだが、あの子は格闘技をする器じゃねぇ! 前提からして間違ってんだ……。
 そう、才能が皆無なんだ――。

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