
第三十四章 – 番外編:サミュエルの電子日記
番外編⑦ サミュエルの電子日記
2038/02/06(土)
今日は我が家のバスルーム、その大々的リフォーム着工の日である。両親の要望で元来のユニットバスから、セパレート型の水回りへと変更となる。竣工まで2週間かかり、その内トイレが使えない3日間だけ、近所のホテルに泊まることになる。何だかんだ私としても、完成して入浴できるその日が待ち遠しい。
2038/02/20(土)
ついに竣工の日。記念すべき一番風呂に入ったのは父、その次が母だった。二人とも仕上がりに満足してくれたようである。私も最後に入ったが、なるほど、両親が入浴好きな理由が分かった気がする。シャワーよりも身体が芯から温まるので、これからの冬場は重宝しそうである。
当初懸念していた衛生面の問題であるが、特に問題なさそうである。それよりもあの『自動湯張り』や『追い炊き』機能の便利さを知ってしまったら、掃除の手間や初期費用の高さもすっかり気にならなくなった。停電に備えて別途蛇口は着けたが、必要なかったかもしれないな。
そしてあのジェットバスである。最近肩こり・腰痛に悩んでいたから、あの泡によるマッサージ効果に期待したいところだな。両親の安全に配慮して半身浴サイズのバスタブにしたとは言え、やはりもう少し深い方が温浴効果は高そうである。
2038/07/07(水)
今日は我が子エリスの13回目の誕生日だった。例年通り、エリスの友達とその親御さんを招いて、我が家でささやかなパーティーを催すことになった。妻エリーズは半日休暇を取ってケーキを焼いてくれ、私の両親が他のご馳走を用意してくれた。私も仕事を早く切り上げて合流し、エリスが友達と楽しそうに遊んでいるのを見ながら、親御さんたちとの会話を楽しんだ。
エリスへの誕生日プレゼントは、私なりに考えて『高音質のヘッドフォン』をチョイスした。彼は毎年何も強請ってくれないから、私もプレゼント選びには苦労するのだが、最近よく『音数の多い音楽』を好んで聴いているようなので、より鮮明な試聴環境を提供できればと思い、ヘッドフォンを選んだのだ。幸い彼は大喜びしてくれた。
パーティーは19時半にお開きとなり、我々はしばらく後片付けに追われた。しかし全ての仕事を終えてもなお、私とエリーズだけは妙な緊張感に襲われていた。なぜなら本日はついに、先週話し合った『あのこと』を決行する日だったからだ。そう、エリスに『彼自身の身体のこと』を話すときが来たのである。気は進まないが、彼の健康に関わる重大な事項なので、話さないわけにはいかないだろう……私たちはチャンスが来るのをひたすら待った。
20時45分。シャワーと寝支度を済ませて自室に戻ろうとする彼を捕まえて、私たちは真相を打ち明けた。幼い彼にあのような選択を迫るのは酷なことだが、致し方ない……これから彼がどのような選択をしようとも、私はそれを最大限尊重するつもりだ。
2040/07/06(金)
ついにこの日が来た。エリスが『例の決断』を下す日である。彼が課題を期限ギリギリまで提出しないのは珍しいことだが、それだけ彼が悩んでいたことは私も重々承知しているし、悩んで然るべき課題だとも思う。しかしまさか、彼があのような決断を下そうとは、夢にも思っていなかった……明日は忙しくなりそうだ。
2040/07/07(土)
午前9時半。早速私はエリスを連れて、予約していた病院へと足を運んだ。かかりつけの医師に今回の事情を説明したところ、実に快く対応してくださり、結局エリスはこれから毎日、処方された女性ホルモン薬を飲むことになった。彼にとっての日課が増えることになるが、他の選択をして大掛かりな手術が必要になることを思えば、身体への負担がずっと少ないので安心している。
そして11時から15時は、久しぶりの週末開催となる恒例のバースデー・パーティーだった。これでエリスも15歳。彼のみならず彼の友達も皆、この一年で大人っぽく成長したように思える。そろそろ親の干渉を煩わしく思う年頃だろうが、こうやって変わらず余所のホーム・パーティーに参加してくれるのだから、それだけ息子が愛されているということなのだろう。
それにしても、我が子が今年からギムナジウムに入ると思うと、何とも感慨深く、就寝前の今にして涙が零れている……。全く、私も年を取ったな……。
そうそう、今年もプレゼントは私の独断で選ぶことになったのだが、いろいろ悩んだあげく、いよいよエリスにもスマホを持たせる決心をした。Z世代の私としては、SNSなどの暗黒面は嫌と言うほど知っていたので、どうしてもこの決断に踏み切るまでに時間を要した。もう同級生はとっくにスマホを手にしていたので、彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
ともあれ彼もこれでスマホ・デビューである。誕生日おめでとう、愛しているよ、エリス。
2040/07/15(日)
前々から予定していたイギリスへのサマー・スクール、その出発日となった。朝早くエリスを空港まで送っていき、チェックイン・カウンターで未成年フライト・サービスを契約した後、ハグして彼を送り出した。普段ほとんどハグなどしないが、旅の無事を祈って、思わず私からしてしまった。どうか彼が安全で楽しい旅を過ごせますように……。
2040/07/21(土)
エリスと別れて1週間弱。時折送られてくるメッセージを読むに、彼は順調に旅を楽しんでいるようだ。さすがにブラを買ったと知らされたときは驚いたが、ホルモン治療をしている以上、いつか必要なるかもしれないとお医者様もおっしゃっていたので、すぐに受け入れることができた。むしろ大変なときに旅立たせてしまって、彼に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
2040/07/22(日)
今日は両親が半日旅行に行くとのことで、珍しく親も子供もいない一日だった。私は思い切って昼間から妻をセックスに誘ってみた。彼女もOKしてくれ、私たちは寝室で事に及んだのだが、残念ながら思ったようには楽しめなかった。
エリーズは変わらず魅力的だし、彼女も私を魅力的だと言ってくれる。しかし互いの性欲が落ちてきているのか、はたまた『互いへの性欲』が落ちてきているのか、とにかく私が40を越えて以降、私たち夫婦がセックスレスになりつつことは事実だった。
2040/07/28(土)
エリスがイギリスから帰国した。空港で再開したときの彼は、前よりもひと回り大きくなったように見えた。別に胸元のことを言っているわけではないし、態度や立ち振る舞いは相変わらず落ち着いているのだが、彼の纏うオーラと言うか、どこか以前よりも成長したように感じるのだ。きっと、いろいろ経験してきたんだろうね? エリスよ、明日たくさん土産話を聞かせておくれ……。
2040/08/12(日)
私たちもサマー・ヴァケーションを満喫しようと言うことで、明日から子供は両親に預けて、私とエリーズは4泊5日の旅行に出掛けることにした。1日目はフランスのシャモニーにてエギーユ・デュ・ミディ展望台に上った後、イタリアの避暑地クールマイユールまで行って宿を取ろうと思う。どちらでもモンブランの絶景を楽しみながら、ゆったり地元のチーズやワインを味わうつもりだ。
2日目はトリノ郊外の町コッレーニョのホテルにチェックインしてから、一日トリノの街を観光しようと思う。3日目は思い切ってミラノまで足を伸ばし、同じく郊外の町コルナレードで宿を取った後、ミラノの街を散策するつもりだ。
そして4日目は、妻が行きたいと言っているベッラ島のボッロメオ宮殿を訪れる予定で、妻の言う『グロテスクな物』とやらを見た後、そのまま次の日に備えて国内入りし、アレッチ氷河の麓の町フィーシュのホテルに泊まろうと思う。
※アレッチ氷河とは、スイス・ヴァレー州にあるアルプス山脈最大の氷河であり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
5日目最終日は、そのままフィーシュからロープウェイに乗ってエッギスホルン展望台へと上り、アレッチ氷河の雄大な景色を見る予定だ。下山後は1時間20分掛けてマルティニーまで戻ってきて、私が前々から興味があった『Trapgame』という体験型謎解き脱出ゲームのお店に立ち寄ろうと思う。
あとは残り時間、ゆったりとドライブしながらニヨンまで帰ってくればいいだろう。よしっ、これで旅行日程の復習は完了だ。旅行中はデジタル・デトックスするため、日記はまた帰ってから付けようと思う。願わくば妻と旅行中、ロマンティックな気分にも浸りたいものだ。
2040/08/17(金)
1日目、シャモニーにて。
相変わらずエギーユ・デュ・ミディ展望台からの眺めは圧巻である。昔幼いエリスを連れて家族で訪れたのを思い出した。あのときはエリスのやつ、ロープウェイが怖くてずっと泣いていたっけな。でも頂上からの壮大な景色を目の当たりにしたら最後、彼はケロッと泣き止んで、それからは高山病で参っている人を見ては、私の水を持って心配そうに声を掛けにいったりしてたな……懐かしい……。
同日、クールマイユールにて。
初めて来たが、本当に美しい街だ。夕方から夜に掛けて少し散歩してから、ポレンタなどを食べて就寝した。
2日目、トリノにて。
案の定ではあるが、とても一日では周り切れなかった。モーレ・アントネリアーナ、トリノ王宮、マダーマ宮殿、スペルガ大聖堂、エジプト博物館など、名所がずらりと立ち並んでいるが、今回は時間と予算の都合であまり中は見られなかった。今度『トリノ + ピエモンテカード』を用意して、ちゃんと来ねばな。
3日目、ミラノにて。
トリノ同様、見るべき物がありすぎる。スカラ座、ドゥオーモ、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア、ブレラ絵画館、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、スフォルツェスコ城など……。大体見てきたが、駆け足観光だったので、堪能したとは言い難いな。
それにグラツィエ教会で、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』を見れなかったのも心残りだ……さすがの人気で、公式サイトからの事前予約が取れなかったばかりか、当日券も売り切れだったのだ……。ミラノにもまたいつか訪れよう。
4日目、ベッラ島にて。
あの宮殿はバロック建築の傑作だ。特に地下のグロッタ(洞窟)様式の内装は衝撃的だった。壁や天井に貝殻や石がびっしりと敷き詰められていて、実にグロテスクなのである(今日では不気味で奇抜な物を形容するこの言葉だが、本来はこのグロッタ様式そのものを意味するようだ。ありがとうエリーズ、勉強になったよ)。
5日目、エッギスホルンにて。
山頂の店『Horli-Hotta』の中から、アルプス山脈の大パノラマを一望しながらいただくココアは、格別だった。当展望台へは初めて来たが、地元民がオススメする理由がよく分かる……しかしながら、氷河は私の子供のころの記憶よりも数段縮小していた印象で、地球温暖化の深刻化を実感せずにはいられなかった。
同日、Trapgameにて。
この店にはまた行きたい。今回は午後4時から妻と二人で、人気の『アンテナ・パレス』という部屋のゲームに挑戦したが、とてつもなく面白かった。室内の凝った装飾による圧倒的没入感と、俳優たちの演技力、世界観と設定、変化に富んだパズル、どれを取っても最高の娯楽体験だった。
アンテナ・パレスは最低2人の大人を含む6人までが参加できる部屋で、今回は私とエリーズだけで挑戦したわけだが、難易度設定が絶妙だ――私たちは制限時間90分の5分前に、ようやくクリアできた。他にもこんな部屋がいくつも用意されているようなので、今度エリスを連れて別の部屋にも挑戦してみたい限りだ。
全ての旅を終えて。
総じて素晴らしい旅ではあったが、肝心の妻とのロマンスに関しては、ほとんど進展・改善は見られなかった。クールマイユールのホテルで一度セックスしたが、それ以降は旅の疲れでそれどころではなかったのもある。こう言っては何だが、Trapgameで一緒に冒険しているときが一番、身も心も若返ったようでロマンティックだった。
2040/09/06(木)
新学期が始まって間もなく、エリスから楽器が欲しいという要望があった。何でも友達と、ヴァルキュリア・ナントカって言うバンドを組んだらしいのだ。よく分からないが、ようやく私も親らしいことをしてやれそうだ。早速今週末、彼と楽器店に買いに行く約束をした。
2040/09/09(日)
約束通り、エリスと楽器を買ってきた。少々奮発したが、彼の嬉しそうな様子を見れて大満足だ。それにしてもあの楽器店のスタッフは、エリスが私の『息子』だということに終始戸惑いを感じていたようだ。無理もないか……親の私からしても、彼の外見と内面は魅力的だ……いや、こんなこと個人日記でも書くべきじゃないのかもしれないが……。
2040/09/21(金)
エリスも大分エレキベースが上手になってきた。私も二階から微かに聞こえる重低音に慣れてきて、むしろ心地いいと感じるようにもなってきた。明日からバンド友達と合同練習するとのことで、彼も張り切っているのだろう。
2040/09/26(水)
やってしまった……。今日私はエリーズとの夫婦関係始まって以来の、酷い不貞行為に及んでしまった……。実は仕事中ついムラッとしてしまって、帰宅してシャワーを浴びるなり自室に籠って、ポルノを観ながら自慰行為に励んでしまったのだ。
妻とは特に約束しているわけではないが、黙ってポルノを観るのはパートナーへの裏切りに等しい。実際私も酷い気分だ……。すまないエリーズ、すまない……。
2040/10/19(金)
今日エリスたちの学校では、『Promotions』という進級祝い式典が開催されたようで、ついに彼らのバンドも練習の成果を披露できたようだ。内部イベントなので私は見ることができなかったが、彼の幸せそうな様子を見るに、その『ラグナロク』とやらは成功したのだろう。よかった、よかった。
2040/11/03(土)
エリスがオリジナル曲を創ったようで、今日は友達の家でそのアレンジを考えていたらしい。『いい曲になったよ』と言う割に、あまり元気がない様子だった彼。目は泣き腫れて充血していたし、友達と何かあったのかもしれない。
そして私は二度目の不貞行為に及んでしまった……。もう性欲を感じても、エリーズを誘おうという気分になれないのだ。自分でも酷い夫だと思う……。とにかく、どこかで歯止めを掛けないといけないな――このままではポルノ依存症になってしまう……。
2040/12/22(土)
今日から年末休暇だ。今年もよく働いた。連休中は家でゆっくり過ごすつもりだが、何か自分にご褒美を買ってもいいかもしれないな。はてさて何がいいだろうか……? そ、そう言えばこの間、部下の若い男性社員が『最新のVRゴーグル』を買ったと自慢していたな……何でも、それで観る『VRポルノ』がすごいらしいのだ。
正直そそられないと言えば嘘になるが、今さら40の私がVRゴーグルというのも考えものだな――と言うのも実は、私も昔『Oculus Quest 2』を持っていたのだが、結局いくつかのゲームをプレイしてはすぐに飽きて、ネットオークションで売ってしまったのだ(当時のVRゴーグルはまだ画質も悪く、古いゲームを無理やり移植したものも多かったので、操作が全くデバイスに最適化されておらず、油断するとすぐに酔ってしまう危険な玩具だった)。
以来私は、そういったデバイスとは距離を置き、現実の体験を重視するようになったのだ。
2040/12/25(火)
か、買ってきてしまった……VRゴーグル……。家族に内緒で買ってしまったのだが、だ、大丈夫だろうか? もしクレジットカードの明細をエリーズに見られたりしたら……。まぁそのときは、腹を括って正直に打ち明けるしかないか……。
2040/12/26(水)
一日デバイスの設定をしたり、体験版のゲームをプレイしたりして、VRゴーグルの操作感に慣れつつ環境を整えてみた。私の若いころとは違って、現代のVRゴーグルは映像が高精細で、バッテリーの持ちもよく、かつ軽量だ。これは多くの人々が依存するわけだ……。明日はいよいよ、ポルノ動画をダウンロードして再生してみようと思う。
2040/12/27(木)
VRポルノを観てみた。なるほど、従来の360°カメラの映像を首振りしながら見る動画だけでなく、今ではゲームのように『位置移動も可能』な実写ポルノ映像があるようだ。部下が言っていた『すごい』とは、その自由視点+高画質を意味していたわけだ。
しかしながら、私は興奮できなかった。人気の動画をいくつか観てみたのだが、なぜかほとんど勃起自体しなかったのだ。理由はいくつかあると思うが、やはり一つは『罪悪感』であろう。通常のポルノと違って視界全体で相手を捉え、空間を共有しながら行う自慰行為は、もはや現実の浮気と大差ないのだ。心の奥底で、最低な行為だと実感してしまうのだ。
そして二つ目が、『俳優の魅力不足』である。普段エリーズやエリスのような、圧倒的美人たちと暮らしているからか、高精細すぎる映像は俳優たちの粗が目立って、つい萎えてしまうのだ。まさに知らぬが仏と言うべきか……スマホの小さい画面で見ていれば、自分の想像を当てはめられる分、マシなのだが……。
それに私は、不必要なほどヒップやバストを強調したボディーや、淫乱な印象で迫ってくる女性は好きになれない……そんなわけで最終的に、性欲は3DCGアニメーションの動画で解消することになった。こういうヴァーチャルなものをオナペットにしてしまったのは初めてだが、幾分か罪悪感は低くなり、またキャラクターは申し分なく魅力的だ(だが心なしか、あの一番人気のキャラクターはエリスに似ていたな……いかん、また罪悪感が……)。
2041/01/04(木)
連休が明けて間もなく、少し仕事でミスをしてしまい、そのストレスからまたポルノアニメーションを観てしまった。はぁ、虚しい……。罪悪感が和らいで、かつ充分な性的興奮を味わえると言えども、やはりこの虚しさだけはどうにもならないな……。
家庭や職場では硬派で気さくな印象を貫いている私であるが、その実プライベートでは夜な夜な自室に籠って、こんな馬鹿な機器を装着しては馬鹿みたいにペニスを扱いているのだから、自尊心が傷つくのも当然だな……。
もうこんなことはやめて、次からは潔くエリーズを誘おう……。
2041/02/03(日)
久しぶりにエリーズとセックスした。やはり妻は美しく、聡明で魅力的な女性だ。避妊のため毎回コンドームは着けるが、それでも自分の手よりは彼女の中の方が数段気持ちがいい。もちろん、快楽のことだけで言えばゴムは外したいが、私はこの家族・生活に充分満足しているので、目下もう一人子供が欲しいとは思っていない。
そうそうセックス中、妻に「どうして謝るの?」と言われて初めて、自分が『すまなかった』を連呼していることに気が付いた。その場は適当に乗り切ったが、あれはまずかったな……本格的に浮気を疑われたかもしれない……。
2041/03/11(月)
我が社が経営難に立たされている。元々アナログ腕時計は、昨今のIoT社会においてはスマートウォッチなどの台頭で、完全に実用的価値を喪失していたのだが、スイスの高級時計市場は長らく、その希少性を維持しながら投資資産としての価値を確立してきた。
しかしそれもこれまでかもしれない。以前、中国・香港市場が縮小したときには、新しくインドとアフリカへの市場を開拓することで打開したが、今はそちらの売上高も大幅に減少している。それもそのはずだ――アメリカ経済のリセッションに世界経済が引きずられている現在、富裕層でも時計に投資していられる余裕はないと思われる。
よって早急に何らかの対策を打たねば、スイス時計産業は近い将来多くの痛手を負うこととなり、やがては『職人が手作業により作る時間の芸術』という謳い文句だけで細々と続く、廃れた伝統工芸になり果てるだろう。
2041/03/13(水)
本日、会社で緊急の役員会議が開かれた。私も、上司に呼ばれて初めてに出席することができたのだが、その際僭越ながら、いくつか意見を述べさせてもらった。議題は主に『現代のニーズに対応した新戦略の立案』であったが、結論としては、前々から候補に挙がっていた以下のようなサービスを推進していく方向で合意がなされた。
①CPO(Certified Pre-Owned:認定中古品)市場の取り込み
新商品の製造量を抑える代わりに、すでに存在しているCPO二次市場を自社に取り込むことで、循環型ビジネスの確立と利益を確保する。顧客はメーカー公式の真贋保証・アフターケアを受けることができ、より安く本物のブランド時計を所有することができるようになる。
②デジタル所有権の付加
元来の実物商品のみならず、メタバース内やAR(拡張現実)空間内で手にできる『実物を完全再現した3DCDデータ』をも、NFT(非代替性トークン)証明書付きで商品に一体として含める。これにより顧客は現実・仮想現実の両方で商品を所有することができ、新時代に対応した確実な資産形成を行うことができる。
以上のような戦略で、我が社は経営の巻き返しを図りたい所存である。
2041年04/19(金)
明日はエリスの通う学校で、『春祭り』という一般客も参加可能な催しが開かれる。思えば彼がモーザー学校に入学したてのころ一度、私たち家族も遊びにいったことがあったが、以来はずっと足が遠のいていた。
今回はエリスたちのバンドがステージのトリを務めるということで、私たちも久しぶりに赴くこととなったのだ。彼らのパフォーマンスを見るのはこれが初めてなので、楽しみではある一方、我が子の晴れ舞台であるがゆえの、独特の緊張もある。どうか彼らのステージが成功しますように……。
2041年04/20(土)
彼らのライヴは大成功だった! いやぁ、私も後ろの方で静かに観ていたが、彼らの情熱や努力が音となって胸に響いてきて、気づけば涙が零れていた。ヴァルキュリア・セレナード……とてもいいバンドじゃないか……頑張ったね、エリス? よぉし! 私も来週からまたバリバリ働くぞぉ~!
2041年04/21(日)
今日は信じられないような出来事の一部始終を目撃した。何と我が子エリスが、自室のベッドでマスターベーションしていたのだ。それも大声を出しながら激しく乱れたやり方で……。すぐに私は彼と話し合って、正しい性的な知識を説いたりしたのだが、それからも彼はずっと落ち込んでいて、私としても気が気でない。
今度のことはエリーズや両親には秘密にするつもりだが、もし数日経っても彼があの調子だったら、正直に打ち明けてサポートを求めようと思う。とにもかくにも、彼のメンタルヘルスが心配だ。
――などと言いつつ、私も今日は眠れないかもしれない……。彼が目の前で果てていく姿が、目に焼き付いて離れないのだ……。気をしっかり持たねば……息子を性的な目で見てしまうなど、あってはならないことなのだ……。
2041年04/22(月)
今日仕事中、エリスの通う学校から連絡が来て肝を冷やした。何でも彼が自傷行為に及んで、病院に救急搬送されたと言うのだ。彼の容態はエリーズが看てくると言うので、私は仕事を続けたが、本当はすぐにでも駆けつけたかった。まず間違いなく、原因は昨日のアレだろうからだ……。
帰宅して退院したエリスに事情を聞くも、彼は頑なに口を閉ざしていた。もうそんな詮索にはうんざりだと言いたげな様子だった。だがそれでも、どこか浮ついた印象もあって、異様なほど元気そうなのだ。エリーズいわく、友達からの励ましが功を奏したらしいが、本当に大丈夫なのだろうか……? あの頭の怪我であれだけ元気だと、むしろ当たりどころが悪かったと思われかねないのではなかろうか……。
2041年04/23(火)
連日驚き続きだ。今日はエリスが、いきなり『空手を習いたい』などを抜かすもので、ついムキになって反対してしまった。彼はめげずに説得しようとしていたが、私も早々折れるつもりはない――ただでさえ貧弱な彼が、大怪我した翌日に空手などと……言語道断だ!
2041年04/24(水)
今日はエリーズをセックスに誘ってみたが、彼女も最近心労が溜まっているようで、『それどころではない』と断られてしまった。いいさ、私にはVRゴーグルがある……はぁ……虚しいな……。
2041年04/30(火)
今日はエリスが妻と病院へ行き、頭部の怪我の抜糸をしてもらったようだ。幸い傷は綺麗に塞がっていたが、抜糸は相当に痛かったようだ。だが彼は昔から我慢強く、幼いころ受けた予防接種などの注射でも、静かに痛みを堪え忍んでいた記憶がある。ま、それでも痛いのは誰だって嫌だよな? そんな彼が痛いと言うくらいなのだから、相当だったのだろう。
「ほらっ、怪我もすっかり良くなったよ? ねぇ空手習ってもいいでしょ? お願いお父さん!」そう言うエリスには気の毒だったが、今日も私の答えはNonだった。
2041年05/04(土)
エリスが連日連夜、しつこく空手やその道場に関してプレゼンしてくるもので、ついに私も折れてしまった。「いいだろう、そこまで言うのならやってみなさい。ただし、上手く続けれたとしても、通えるのは今年までだよ? 来年からは大学入学資格取得に向けて、たくさん勉強しないといけないよ?」私がそう言うと、彼は嬉しそうに抱きついてきた。
2041年05/07(火)
今日から彼の空手稽古が始まったようで、放課後3時間みっちり稽古してきた彼は、ヘトヘトになって家に帰ってきた。右手にはテーピングまでしていたので心配になったが、どうやら大事ではないようだ。よかった……。
彼はすごく充実した顔をしていて、夕食もいつにも増してモリモリ食べていた。何だか、そのとき初めて私は『本当に息子を持った』ような気分になった。このまま彼が健やかに育ってくれることが、私の願いだ。
2041年05/31(金)
今日もエリスは空手の稽古だったようで、ナントカっていう型をマスターしたとか何とか……とにかく嬉しそうに話していた。1カ月前からは考えられないほど、彼は毎日生き活きと過ごしている。空手は彼に良い影響を与えているようだ。
一方で、私とエリーズの関係は少し冷め気味かもしれない。今晩もセックスに誘ってみたのだが、「気分じゃないの」と一蹴されてしまった。空手のことは全く詳しくないが、きっと『みぞおちに蹴りを食らう』とは、こういった気分なのだろうな……。
2041/06/13(木)
先々月から本格的に始動していた我が社の新戦略であるが、予想以上に成果を上げている。特にデジタル所有権により得られる『ヴァーチャル時計』が思いの他人気で、数人のセレブやインフルエンサーが購入後、率先して宣伝してくれているのだ。
これが上手くコレクター層の目に留まってくれれば、需要と売上の拡大が見込めるだろう。高級時計は新時代に適応し、これからも成長と進化を重ねながら、人々のステータス・シンボルであり続けるのだ!
2041/06/28(金)
明日はエリスが初めて空手の昇級審査に臨む日だ。彼は自信ありげな様子だが、もし上手くいかなかったときは、私も親として存分に慰めてやろう。
2041/06/29(土)
本日をもって、私の短い人生は終わりを迎えた……。きっかけはエリスから言われた「一緒にお風呂入らない?」という提案だった……。私はまんまと誘いに乗ってしまい、浴室で成す術なくペニスを勃起させてしまっただけでなく、彼の優しさに甘えて彼の身体を弄り回したあげく、彼の背中に吐精してしまい、さらにはその醜態をエリーズに見られてしまったのだ……。
当然、彼女はカンカンに激怒し、私は家庭での面目を完全に失った……。だが不思議なことに、彼女は一度も『離婚』という言葉を出さなかったのだ……まぁそれも、エリスの必死の擁護があったからかもしれないな……号泣しながら説得してくる彼の手前、彼女も切り出せなかったに違いない……恐らくは時間の問題だ、明日すぐにでも離婚を迫られるだろう……。
我ながら、破滅寸前でこんなことを書くのも恥知らずだと思うが、最後にこれだけはハッキリさせておこうと思う。そう、私は断じて小児性愛者などではないのだ……しかし彼の溢れんばかりの魅力が、私の砦を容赦なく破壊したのだ、突破してきたのだ……。
そして私は、人生最高のオーガズムを味わってしまったのだ……。
2041/06/30(日)
奇跡が起きた。私は今日もシンクレア家の一員として生きていて、こうして就寝前に日記をつけているのである。今日は家族会議が開かれて、昨日起こった事件について、ついに両親にも知られてしまった……私は幾度となく謝り続けたが、私よりも打ちひしがれたように反省していたのはエリスの方だった。両親もエリーズも、そんな彼の様子を見ては困り果てるばかりだった。
「お父さんのことを許してあげて! 全部悪いのは僕の方なんだ!」そう言って泣きながら、隣で私を庇い続ける彼の声が、今も耳に心地よく残っている……。そのとき私は、真に自分が彼を愛しているのだと理解した。もはやこれは、単なる親子愛という感情ではないのである……そう、れっきとした恋愛感情なのだ。
こんな感情を抱えてしまった以上、もう二度と私が彼に触れることは許されないだろう……だがそれでいい。もうエリーズをセックスに誘うこともなければ、馬鹿なゴーグルを装着することもないのだから……なぜなら私は一生、空想の世界で彼との愛を育むことで、己のリビドーを鎮めることができるからだ……。
人間とは――とりわけ男とは脆い生き物だ……生の欲動『リビドー』が、同時に死の欲動『デストルドー』でもあるのだから……今度のことで私は社会的破滅を免れたが、心は完全に破滅した……。このグチャグチャな感情をひた隠しにしながら、私は明日から何気ない顔で日常を送るのだろう。
おやすみ、エリス……愛しているよ……。もし願いが叶うならば、いつまでも変わらぬ、優しいままの君でいてほしい……そして、ずっと私の傍にいてほしい……。
第三十五章 – 青春時代② 高校生活 Ep.22:The 16th Birthday — Overdive in the 60s!
エリスの高校生活⑯ 家庭崩壊の序曲
2041年07月01日、月曜日。その日の朝エリスは、いつぞやの『悲劇的な月曜日』を思い起こさせるほどの打ちひしがれた顔で、学校に登校していた。そう、空手を始める前の、あの4月22日の再来である。
前回は友達とビデオ・セックスしてアプリをバンされたことに加え、初オナニーを父と親友に見つかってしまったことで、自尊心がズタボロになった彼だったが、今回は父との性行為を母に見つかってしまい、あわや両親の離婚――ひいては家庭崩壊――を招く寸前だったことが、自己否定感の誘因となっていた。
『誰かを幸せにすることで自分も幸せになりたい』という彼のようなタイプの人間は、性的な分野とはとことん相性が悪いようで、そのことは昨日と一昨日でたっぷりと彼の骨身にも染みていた――可哀そうに彼はこの二日間、全身全霊をかけて母に『父の無実』を訴えかけていたのだ。
その成果もあって、しぶしぶ母は父へ向けた矛を収めてくれたのだが、おかげで家庭内は完全に冷めきってしまったし、そのせいで彼は食事もろくに喉を通らずに、眠りに落ちるそのときまでベッドで泣き続けていた。そんなのはサマー・スクールの『カラオケ・ナイト』の日以来であった……。
自転車を降りて学校に入っていく彼は、心の底で神に向けてこう誓いを立てていた。『分かりました、神様……。僕はもうエッチなことはしません、考えません……。だからどうか、僕から大切な人たちを取り上げようとしないでください……。これ以上は、僕も耐えきれません……』こうして神に祈るのも、イギリスでテムバが入院したとき以来だった……。
周りの生徒たちはそんな彼の様子を見るなり、あの日の教訓を活かして、彼のことは『触れたら割れてしまうシャボン玉』だと思って、そっとしておくことにした――秘かに彼のことを慕う数人に限っては、彼のことをそっとしつつも、またいつ何時彼が自傷行為に走るとも知れないとして、『有事の際は自分がクッションになるんだ!』という覚悟のもと、絶妙な距離を保っていた。
そんな状況下で、ちょうどエリスが廊下の角を曲がって、自分のロッカーへと向かっていたときだ――彼の前方に、彼に輪を掛けて『魂の抜け殻』と化している人物が現れたことで、思わず彼から狂気的なオーラが消えた。他者への思いやりに溢れた、いつもの顔を取り戻した彼が、心配そうにその人物へと声を掛ける。
「おはよう、ダニエル……。大丈夫? 元気なさそうだけど……」
その人物とは、かつてエリスに『男の娘』という概念を教えてくれた友達、ダニエルだった。普段エリスのことを見つけると、はにかみながらも嬉しそうに声を掛けてくる彼だったが、今日はそんな気力さえ残ってないようで、言葉を選ばず表現するなら『死んだような目』をしていた。
それもそのはずだった――前に第三章で、ダニエルの父の酒癖の悪さについて少し触れたが、残念ながら今現在、それは『素行』と言えるまでに悪化していた。それもアルコールが入っているときのみならず、シラフでいるときにもずっと虫の居所が悪い始末で、もはや完全に彼の父親は、『アルコール依存症』および種々の合併症を引き起こしているのである。
よって家庭内暴力は日常茶飯事となり、ダニエルと彼の母は常に父からの虐待に怯えながら、父の機嫌を損ねぬよう細心の注意を払って、息の詰まる毎日を送っているのだ。
もちろん、今のダニエルはかつての気弱なポッチャリくんではなく、鍛え上げられた肉体と勇敢な心を持っている。だからこそ、父が暴れたときにも必要最低限の抵抗はできるし、学校では特に問題を抱えている素振りなど見せずに、これまでは教師にも友達にもSOS信号を出すことなく、独りで気丈に困難へと立ち向かっていたのである。
しかしそれも限界間近だった……。昨日の父の暴れっぷりは平素にも増して激しく、母親は初めて顔を殴られてしまい、それに激怒したダニエルが必死に反抗するも、父親に『逆らうなら学校を辞めさせるぞ』と脅されたことで、泣くなく手を引いてしまったのである。学校は彼にとって唯一、父の圧制から解放される居場所であり、また大好きなエリスにも会える安らぎの場でもあったので、失い難かったのだ。
「ダニエル……? ねぇ返事して?」友達がずっと黙ったまま、やみくもに自分のロッカーを物色しているので、ますます心配になったエリスが再度声を掛ける。するとようやく彼の耳が機能したようで、ピクッとエリスのことに気づいたダニエルが、 蚊の鳴くような声でこう応答した。
「あっ、エリス……おはよう……何か用?」それ自体が、彼のSOSだと敏感に感じ取ったエリスが、彼の心労の種を探っていく。
「ひと目見て、君の様子がおかしいと思ったから、心配で声を掛けたんだ……。あの、もし助けが必要なら、遠慮なく言ってね? 僕、精一杯力になるから……」ダニエルが無言なので、やむなく話を続けるエリス。「それか、もし僕に言いにくいことだったら、他の誰でもいいんだ、相談相手を見つけて? 君をそんなにまで苦しめているほどの悩み事なんだもん、きっと重大なことなんだろうし……と、とにかく! 一人で抱え込んじゃダメだよ?」
一言一句、今のエリス自身、そしてかつてのエリス自身にも当てはまる助言だった。本当に深刻な事態に陥っている人間というのは、概して自分の殻に閉じこもりがちなもので、そうせざるを得ない理由の一つは、紛れもなく『社会そのものへの不信感』であろう。
『真に自分を気遣ってくれる人などいない』『自分の悩みなど他者にしてみれば取るに足らないものだ』そういった思い込みや孤独感が、彼らを救いの手から遠ざけるのである。しかし彼らの抱くそれらの固定観念は、必ずしも『思い込み』と言えるだろうか? 私は考えは否だ。少し話を脱線させよう――。
『悩み相談電話サービス』、『自殺防止ホットライン』の類は、どの国にも大抵は存在している。スイスには『Die Dargebotene Hand(差し伸べられた手)』という匿名・無料・24時間対応のホットラインがある(番号は143)。運営資金は各方面からの寄付金により賄われ、25年現在(当小説執筆時点)で約700人の訓練を受けたボランティア・スタッフが、手分けして電話・メール応対を行っているようだ。
こういった仕組みは、一見して多くの命を救える素晴らしいものに思えるかもしれないが、実際はそうとも言い切れない――この手の電話サービスが救えるのはせいぜい毎年数十人程度で、その何倍もの相談者はむしろ希死念慮を強める恐れさえある。なぜなら自分を大切に思ってくれているはずもない他者への相談で、死にたくなるほどの悩みが解決するはずなどないし、勇気を振り絞って掛けた電話で『取って付けたような慰め』ばかり受けたのでは、反って『あぁ、私の悩みはやっぱり解決不可能なんだな』と実感してしまうのではなかろうか?
もちろん、この手のサービスがいくつかの『衝動的な自殺』を防止していることは事実だ。それだけで間違いなく価値があることなのだろう。だが私がこの場で声を大にして伝えたいことは、『その申し訳程度で設置されたサービスごときで、世界中の誰も彼もが平等に保護されていると言うのであれば、それは思い上がりも甚だしいぞ』ということである(管理がずさんなサービスだと、そもそも電話すら繋がらない始末なのだ!)。
これと同様の理由から、私は『精神科病院』や『心療内科病院』も偽善的な側面を持っていると考える。先ほどのホットラインの場合は、『匿名性の対価として信頼性が欠如する』という構造上拭い難い欠点を抱えている一方で、『非営利目的』という確かで大きな利点もあった。
しかし病院の場合はその逆で、『双方とも実名であるがゆえ塩対応は評判に直結する』というネガティブな意味での『信用』はあるものの、『営利目的』という致命的な欠点がその信用すら危うくしていると言える――なぜなら、あちらから見て患者は言わば『飯の種』、もっと悪く言えば『金づる』だからである。
そんな事実を前に、いったい何人の医師たちが心から患者の回復を願っているだろうか? 恐らく彼らの多くはこう考えているだろう。『あぁ、今日も仕事はつまらないな。毎日まいにち会いたくもない患者たちがやってきて、私に解決しようのない悩みを打ち明けたり、向精神薬を強請ってくる……助けてほしいのは私も同じだ……けどまぁ、親の金で医大を出れたからこそ、私はこうして楽に金を稼げる立場にはいるわけだ……ならば現状に甘んじて、今日も患者たちにテキトーに薬を処方でもしながら、長期休暇が来るのを待つしかあるまい……』
そう、悲しいことに……多くの人にとって、『自分には信頼できる味方がいない』という命題は、真なのである……。だからもし、あなたにも今のダニエル――そして、かつてのエリス――のように、親身になって声を掛けてくれる友達がいるのであれば、それはものすごく幸運なことである――ぜひ遠慮せずに、秘めた思いを共有してほしい。それが最悪の事態を防ぐことができる、ラスト・チャンスかもしれないからだ……。
全く、私としたことが……いつになく酷い脱線の仕方をしてしまったな……それでは、そろそろ物語に戻りたいと思う。ダニエルは無事、エリスに悩みを打ち明けられるのだろうか?
「じ、実は……」ようやく開かれたダニエルの口であったが、開かれただけで硬直してしまい、やがて震える唇は弱々しい微笑として閉じられてしまうのだ。「実は昨日、徹夜で絵を描いてたから、すごく眠たくて――」そこで一つ、上手な欠伸をしたダニエルが、慣れたように虚言を続ける。「だから、特に悩みがあるとかではないんだ。でも、心配してくれてありがとう、エリス」
こうして彼は、最上のカウンセラーとの面接権を自ら放棄した。しかし彼がそうした訳は、何もエリスのことを信頼していないからではなかった。むしろその逆で、『もし彼に何か悩みを打ち明けたならば、彼は真摯に耳を傾けてくれ、そして問題解決へと動いてくれるだろう』という確信はあったのだ。
だがもしそうなると、問題はさらに重大な事件へと発展する可能性もあり、そうじゃなくともこれまでのささやかな日常は確実に脅かされ、最悪、相談相手のエリスにもとばっちりが行く可能性だってあった。だからダニエルは沈黙を選んだのである。
そんな彼の複雑な事情を感じ取ってか、しばらくエリスは真意を探るような目で相手を見つめていたが、ついにはダニエルの演技力が勝ったようだ――彼は安心したように表情を緩ませて、こう答える。「なら良かった……いや、良くないね? 寝不足だって辛いよね? もしどうしても眠かったら、先生に言って授業中休ませてもらってね?」ダニエルは申し訳ないと思いつつも、とぼけた調子で「うん、そうするよ」と頷いた。
「でも、ダニエルがそこまで夢中で描いてたって言う絵、すごく気になるかも」エリスが話題を発展させていく。「またアニメや漫画のキャラクターの絵?」※ここで今一度おさらいしておくと、ダニエルは『漫画絵師』を目指すオタク男子で、かなりの画力と日本のサブカルに関する知識を持っている。そういった活動一つ一つが、困難に直面する彼の生き甲斐でもあったのだ。
「えぇっと……そ、そう! まぁそんなところ……かな?」このうえ嘘を塗り重ねないといけないのは嫌だったが、話題が核心から遠ざかっていくのは願ったりだったダニエル。少し前に描いた絵のことを思い出しながら、さも今朝のことであるかのように話していく。「『メイのないしょ make miracle』っていう漫画の主人公、『春名メイ』ちゃんの絵をね……描いてたんだ……」本来ならこんなふうに、エリスと話していられる時間は彼にとって幸せで、それが大好きな趣味の話ともなれば、なおさらだった――しかし今日に限っては、どうしても昨日の惨事が頭を過ってしまい、心が締め付けられるダニエルだった。
「へぇ~『メイ』ちゃん! 可愛い名前だね? もしかして~、『男の娘』だったりして?」そう言って無邪気に笑う親友を見ていると、『自分は今、幸せを感じてもいいんだ』と思えてくる……『笑ってもいいんだ』と思えてくるのだ……。そんな癒しの力が心に巣食う闇と反発し合って、気づけばダニエルの目から涙が零れていた。「えっ? ダニエル……どうしたの?」
「ご、ごめんっ……何でもないからっ……ちょっと口を閉じたまま欠伸(あくび)しちゃって――」そう言って懸命に涙を拭うダニエルは、もうこれ以上エリスに心配を掛けないよう、今だけは本気で会話を楽しもうと決意して、間髪入れず話を繋いでいく。「そ、それにしてもビックリしたな~、メイちゃんが男の娘だって、どうして分かったの?」
「えっ? あぁえぇっとね……変だな……どうしてだろう?」エリスは内心、『ダニエル、よっぽど眠たいんだな……』と思いながらも、それでも話に付き合ってくれている彼を喜ばせたい一心で、次に言うべき言葉を探しては、自問自答を始める。もちろんエリスにとっても、こうしている今は昨日の嫌なことを忘れられて、とても心地の良い時間だった。だからその感謝の印として、彼はようやく見つけたその言葉を、丹精込めた贈り物のように差し出すのだった。
「たぶんさっき、メイちゃんのことを話し始めたときの君がね……一瞬だけ、昔『ミズホ』のことを話してくれたときの君に見えたから……だと思う」そんなことを言われて、思わず懐かしくも甘酸っぱい気持ちに包まれるダニエル。当時すでに父の暴力は始まっていたが、そんなことは全部忘れられるくらい、あの日は楽しかったのだ。『もし、あの日に戻れたら……』そんなたわいない考えが、ふっと頭に浮かんでくる。
「あの日、君が描いてくれた『僕の肖像画』はね、今でも僕の宝物だよ?」ダニエルが無言だったので、エリスはここぞとばかりに『切り札』を切った。今の沈黙で、やっぱりダニエルが何か悩みを抱えているのだと確信した彼は、絶対にこの授業前の短い時間のなかで、彼を元気づけたいと思ったのだ。しかしその切り札の威力があまりにも凄まじかったもので、ついにダニエルの涙腺が崩壊する。
「あ、あれっ……? おかしいな、僕……もう欠伸が止まらなくて、止まらなくて……」拭っても拭っても溢れてくる涙。『素敵な男の子』になろうと決めて、これまでたくさんの努力をしてきた彼だったからこそ、今こんな衆目のなかで――何よりも、好きな人の目の前で――情けなく泣きべそをかいている自分が恥ずかしかった。「今日はちょっと、僕もうダメみたいだ……先生に言って、学校は早退させてもらうよ……」そう言って歩き去ろうとするダニエルを引き留めて、エリスが最後のメッセージを伝える。
「君の、その『あくび』の本当の訳……君が打ち明けてくれる日を、僕……待ってるからっ」そうして彼が、掴んでいたシャツの裾をそっと放すと、ダニエルは何も言わず立ち去っていく。
結局そのまま、その日ダニエルは本当に学校を早退してしまい、以降その週は、一度も学校に姿を現さなかった。学校側には『風邪による病欠』という連絡が毎朝なされていたようだが、エリスの胸には自分の家庭のこととダニエルのこと、二つの不安が日に日に募っていった。
エリスの高校休日⑫ The 16th Birthday — Overdive in the 60s!
本日は2041年07月07日、日曜日。エリスの16回目の誕生日である。事前の予定通り、この日は友達と外に遊びにいくことになったエリス。いろいろ大変な時期ではあるが、今日だけは嫌なことは全部忘れて、思いっきり楽しもうと決めていた彼なので、昼の12:20に「行ってきまーす!」と元気よく挨拶しては、意気揚々と家を後にした。
今から彼が自転車で向かうのは、ニヨンにある『HAPPY DAYS』というアメリカ料理店で、そこが今日のためにとみんなで決めた『パーティー会場』だった。HAPPY DAYSは60年代のアメリカを思わせるようなレトロな雰囲気が売りのお店で、ハンバーガーやフライドポテト、パンケーキ、フレンチトースト、ベーコンエッグ、ベーグル、クレープ、ミルクシェイクなどの、典型的なアメリカン・ダイナー的メニューが供される人気店である(文章で書くとあまりにも違和感があるが、本当に人気のようだ)。
そして今回のパーティーに参加予定なのは、ソフィー、キアラ、エミリー、ソユル、ニコラ、レオ、ジャン、エリオ、リナの9人だった。普段のホームパーティーだともう少し多く参加できるのだが、HAPPY DAYSはさして広い店ではないとのことで、やむなく人数を絞ったかたちである――メンバーを見て分かる通り、エリスはこれを機に『ヴァルキュリア組』と『旭信流空手組』を会わせようと画策している。この手の集会で初対面の人が多くなるのは、盛り上がりの面でややマイナスだが、幸いムードメーカーのニコラもいるので、そこは問題なかろうとの見立てだった。
しかし、彼が本当に来てほしいと思っていた人物からは、無情にも一昨日に、断りのメッセージが送られてしまってた。当然その人物とは、学校を連日欠席しているダニエルである。そのメッセージによると、もう彼の風邪はほとんど治ったみたいだが、まだ病み上がりなこともあり、またエリスたちに病原菌をうつしたくないからとの理由で、本日は参加を遠慮するとのことだった。
正直エリスは、『風邪くらいうつしてくれてもいいから、体調が良くなったのなら来てよダニエル!』と思っていた。一刻も早く彼の元気な姿を見ないと、それこそ心労が祟って病気になりそうだったからだ――今さっきまで、ウキウキと自転車を漕いでいたエリスであるが、やはりふとしたときにダニエルのことが胸をついてしまい、今や『これから自分がパーティーを楽しめるのかさえ、分からないような心境』になっていた。
はぁ……どうしよう……僕、一応『今日の主役』なのに……こんな気持ちのまま、みんなと楽しい一日が過ごせるのかな……もしかしたらあんまり笑えなくって、パーティーを台無しにしちゃうかも――。そんな鬱々とした気分のまま自転車を漕いでいると、いつの間にか目的地周辺へと来ていたようだ――『HAPPY DAYS』と書かれた小さな案内標識が見えてくる。
そこを通り過ぎた先の交差点を左折した彼は、自転車を降りて手押しに切り替えてから、矢印が示す方にある小道へと入っていく。ハンドル部分に装着したスマホのナビ画面を見るに、目的の店はそのすぐ右手側のようだ。
「ハッピー・デイズ……ハッピー……あっ、あれだ」すぐに該当の店を見つけた彼は、スマホをホルダーから取り外してボディーバッグに仕舞った後、駐輪スペースを探して周囲に目を走らせる――案の定、それらしきスペースはどこにもなかったので、仕方なく彼は自転車を付近の街灯の傍に停めてから、チェーンロックを巻いて支柱に固定した(ヨーロッパの小都市は重度の自動車社会なので、自転車での移動はほとんど想定されておらず、学校や駅以外に駐輪場はあまりない)。
ハッピー……デイズ、かぁ……。そのあまりにもストレートな店名が、今の自分には場違いに思えてならないエリスだったが、この先に幸せな日々が訪れると信じて、意を決して店の門をくぐるのだった――するとすぐに、『コカ・コーラ』や『ペプシ』などのレトロなベンディング・マシーン(あくまでただの飾り)が出迎えてくれ、彼を古き良きアメリカの世界へと誘っていく。
「ごめんくださぁ~い」彼が入り口戸を開けて入店すると、途端にカラフルな内装が目に飛び込んでくる。ネオン管の灯、錆びれた道路標識、謎の看板、謎のナンバープレート、そしてやっぱりコカ・コーラの自販機に、なぜかガソリンの給油機まである……。バックでは時代を感じさせるクラシック・ロックまで流れていて、まるで本当に60年代のアメリカのダイナーに迷い込んだみたいだった。
しかもよく聴くと、そのBGMはチャック・ベリーの『Johnny B. Goode』ではないか! エリスは『BTTFでマーティがカヴァーしてた曲だ!』と心躍らせながら、奥のカウンターへと進んでいき、目についた卓上ベルを「チャリーン」と鳴らした。するとすぐに「はい、ただいま」と返事があり、奥から女性店員が現れる。「いらっしゃいませ。お客様、お一人ですか?」
「あの、予約したエリス・シンクレアです。友達とここで待ち合わせしているんですが、僕と同年代くらいの子たち、まだ来ていませんか?」そう尋ねながら、店内をキョロキョロ見回す彼だったが、どこにもそれらしき姿は見えなかった。
「あっ、シンクレア様ですね。お待ちしておりました」店員が手元の予約表を覗き込みながら、丁寧に対応してくれる。「お友達はぁ~……まだいらしていませんね。予約した席でお待ちになりますか?」
エリス「あっ、はいっ、そうしますっ」
店員「ではそちらの奥の席へどうぞ――」
彼女に言われるまま、示されたカウンター裏の席に向かうエリスだったが、内心、友達がまだ一人も来ていないことに戸惑いを感じていた。あれっ……みんなに伝えた時間、間違ってたかな……。そんな不安は次の瞬間には、一瞬で消し飛ぶのだった――。
パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ! 突如クラッカーの音が盛大に上がり、ところどころの死角から紙吹雪とともに、友達みんなが一斉に飛び出してくる!
「サプラァ~イズッ!!」
わっ! ビックリしたぁ――。ハトが豆鉄砲食らったような顔して固まってしまうエリス。あまりに驚いたもので、全く声すら出なかった。へ? みんなもう来てたの? いつの間に? って言うかみんな……いつの間にそんなに仲良くなったの!?
「ハッピー・バースデー・エリスゥ~(お嬢ぉ~)(エリスさぁ~ん)!」
ソフィー、キアラ、エミリー、ソユル、ニコラ、レオ、ジャン、エリオ、リナの9人が、楽しそうに祝いの言葉を掛けてくる。こんな状況で彼が『上手く笑えない』なんてこと、あるはずもなかろう――気づけば彼は、「もう、みんな……ビックリしたよぉ!」と言って、嬉しそうに顔をほころばせていた。
「へっ! サイプライズ成功だな、ニコラ!」背後の座席の影にいたジャンがそう言うと、カウンターの裏にいたニコラが「フッ、俺の完璧な計画に抜かりはない……」と、気取った調子でそれに応える。
と言うのも実はニコラ、今日のためにメッセージアプリ上で、エリスを除いた9人のグループを作っており、そこで彼らと事前に友好を深めた後、当日は彼らに12時――エリスよりも30分早い時刻――に集まるよう指示していた(ちなみに日曜のHAPPY DAYSは12時開店)。そうして本日、当店に一番乗りで来店した彼は、店員にも事情を話して協力してもらい、今回のような『はた迷惑な騒動』を巻き起こしたのだ。
「ま、実際は行き当たりばったりの愚策だったけどねぇ~」同じくカウンター裏にいたエミリーがそうツッコミを入れると、先ほどトイレから登場したソフィーが「全くですわ! ワタクシとキアラなんか、かれこれ10分もお手洗いにいたんですわよ!」と、立案者の計画性のなさに苦言を呈する(彼女ら二人が気まずい思いをしたのは、言うまでもない)。
「人がちゃんと隠れられる場所って、意外とないものですね?」トイレ脇の垂れ幕のところにいたソユルがそう言うと、その横の壁柱に隠れていたリナが、「ですね……私のいたところなんかカウンターから丸見えで、さっきは見つかっちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしました……」と、それに同意する。
「けど無事、サプライズは成功しましたね! エリスさんの驚いてる姿、すごく新鮮で可愛かったです!」先ほどジャンの隣にいたエリオがそう言うと、リナとソユルの隣にいたレオが「動画撮ったから、あとでみんなに送るよ。何なら、インスタにも上げよっかな?」と言ってスマホを仕舞い、エリスへとイタズラっぽい笑みを投げかける(いつぞやのエミリーのセリフを凌ぐほどの人名密度の高さ……読みにくくて、すみません)。
「も、もう! 恥ずかしいから、それはやめてよレオくん!」慌ててエリスがそうお願いすると、辺りは温かい笑い声に包まれる。そしてひと通り笑いが落ち着いたところで、満を持してキアラが祝賀会の開会を宣言するのだ。
「そんじゃ、主役のお嬢も揃ったことだし、そろそろ宴を始めないかい!?」
一同「さんせーい!(異議なーし!)(でっすわー!)」
キアラ「――てなわけで、ニコさん、あとはよろしく」
ニコラ「ニコって呼ぶなしっ! ご、ゴホンッ……て、店員さ~ん! 注文頼みま~す!」
親たちのいない自由なパーティーということもあり、いつになく浮かれている様子の彼らだった。
*
食べて、飲んで、喋って、騒いで、笑って、歌っての楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、午後5時にパーティーはお開きとなった。さすがにそれなりの料金にはなったが、そこはきっちり割り勘で支払った彼ら。特に暴飲暴食をしていた人もいなかったので、誰も不満はなさそうだった。
エリスとニコラ以外のみんなは親から車で送ってもらっていたので、店先で迎えを待つ彼らを残して、二人だけひと足先に帰路に就くことになった(ニコラはエリスに見つからないよう、少し離れたところに自転車を停めていた)。
それからは二人して自転車を漕ぎながら、その日の出来事についてあれやこれやと談笑したり、時には店内でかかっていた歌を合唱したりしながら、ゆったりと家路を辿っていった。
そうそう店内ではあの後も、時代を象徴する名曲が絶えず流れており、特にエルヴィス・プレスリーの『Jailhouse Rock』、ベン・E・キングの『Stand by Me』、ザ・バーズの『Mr. Tambourine Man』、ボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』、ロイ・オービソンの『Oh, Pretty Woman』、ライチャス・ブラザーズの『Unchained Melody』などの超ヒット曲は、再生されると必ず誰かが反応して、それからはスマホで歌詞を見ながらの大合唱が始まったりしたのだった。
またブリティッシュ・インヴェイジョン(60年代半ばに起こったイギリスによる文化侵略)もちゃんと再現されており、ビートルズの『I Want to Hold Your Hand』や、ザ・ローリング・ストーンズの『(I Can’t Get No) Satisfaction』、ザ・キンクスの『You Really Got Me』などは、同じく合唱の対象となった。
エリスは映画『ゴースト』が好きだったので、アンチェインド・メロディーがかかったときの喜びようは半端ではなかった。それに子供の頃よく聴いていたGleeのサントラでは、『I Want to Hold Your Hand』のカヴァー曲(作中では、ゲイキャラクター『カート』が、病気で床に伏せっている父親を思って歌った)がお気に入りだったこともあり、ビートルズの原曲に対し『あっ、こんな陽気な曲なんだっ』と新しい発見もあって、いろいろと充実した誕生日会になった。
ニコラ「スタ~ンド・バ~イ・ミ~♪」
エリス「スタ~ンド・バ~イ・ミ~♪」
最後は仲良く青春ソングを歌い終えた二人。家に着いてしまったので、名残惜しくも別れていく。
ニコラ「そんじゃエリー、また明日!」
エリス「うん! 今日はいろいろありがとね、ニコ! バイバ~イ!」
この瞬間にも、過ぎ去っていく現在。彼らにもいつか、今日のことを懐かしむ日が来るのかもしれない。まだ遠く感じる、大人になった未来……もしそんな日が来ても、彼らなら大丈夫。目を閉じて記憶を辿っていけば、いつでもまた、この日に『オーバーダイブ』できるから……。
エリスの高校休日⑬ 過去から、未来へ
「ただいま~」エリスが帰宅した。いつもなら家族の誰かが「おかえなさい」と返してくれるのだが、このときばかりは返事がなかった。「お父さん、お母さん?」一度リビングを覗いてみるも、やはり誰もいない。開け放たれた窓からは、午後の優しい陽光と風が入り込んでいる。あれれ? おかしいな……ガレージには車もあるから、みんな家にいると思うんだけど――。
「おじいちゃん、おばあちゃん?」そのまま一階の祖父母の寝室、父の書斎、バスルームと見て回って、やっぱり誰もいないので、続いて二階の両親の寝室、ゲストルーム、そして――まさかとは思ったが――自分の部屋を見てみるも、やっぱりやっぱり誰もいない。うーん……みんなで散歩にでも出掛けちゃったのかな?「フロスティは何か知ってる?」隅っこにいるエレキベースにそう尋ねてみるも、返事など望むべくもない。
仕方ないので鞄を自室に置いて、部屋着に着替えた彼は、脱いだ服を持ってバスルームへと戻り、洗濯機の中にそれらを入れた後、水を飲もうとキッチンへと向かった。彼がアイランド・キッチンの手前に差し掛かったそのとき――。
パン、パン、パン、パンッ! クラッカーの音とともに、その影から家族全員が飛び出してくる。「サプラァァァァァイズ!」エリスの心境はこうだった。『えぇぇぇぇぇ! またぁぁぁぁぁ!?』
エリス「も、もう! みんなしてぇ……ずっとそこに隠れてたの?」
祖父「なぁに、ほんの10分くらいじゃよ」
祖母「ワシら年がいもなく、息を潜めてお前さんを待っておる間は、かくれんぼ(cache-cache)しているようでワクワクしたぞい!」
エリス「逆に僕は、ちょっと怖かったんだからね?」
サミュエル「ははっ、驚かせてしまってすまない。でもほら、今年はいつもと違う誕生日になってしまったろう? だから私たち、『それならいつもと違うことをしよう』って話になってね」
エリーズ「はいっ、あなたの大好きなチョコレートケーキよ~! 誕生日おめでとう、エリス!」
エリス「うわぁ~」
サミュエル「言ったろ? 『彼女は必ず焼く』って……どんなときでもね……」
エリス「……」
エリーズ「どうしたの? ケーキよ? 嬉しくなぁい?」
エリス「二人は……もう、仲直りしたの……?」
サミュエル「あぁ……昨日と今日、たっぷりと話し合ってね」
エリーズ「私ももう、あなたたち二人のこと、怒ってないわ……サミュエルのこと、許すことができたわ」
「う……っ……」堪え切れず、ここずっと蓄積されていた彼の不安感が、涙となって溢れ出す。
すぐに傍へ駆け寄ったサミュエルが、息子を強く抱きしめながら告げる。「この1週間、君にはずっと辛い思いをさせてしまったね……本当にすまなかった……」
同じく息子を包み込むエリーズ「私たちは、これからもずっと家族よ……」
エリス「うん……うんっ……」
こうして温かな陽だまりのなか、16歳を迎えられたエリス。いろんなことがあった15歳に別れを告げ、また明日から新しい未来を生きていくのだ。困難を乗り越えるたび、強く成長している彼だからこそ、きっとこれからも大丈夫。何があっても、乗り越えていける……私はそう、信じている……。
第三十六章 – 青春時代② 高校生活 Ep.23:つかの間の、筋肉パワー!
エリスの高校生活⑰ つかの間の安らぎ
2041/07/08(月)。その日エリスは、いつもより少し早めに学校に来ていた――と言うのも、先週ずっと学校を休んでいたダニエルから、『今日から登校復帰する』との連絡を受けたので、一度ちゃんと話したいと思った彼は、ダニエルに『早めの時間に来てほしい』とお願いしたのだった。来週月曜日からは夏休みが始まってしまうので、直接会って話せる機会はそう多くないとの焦りもあった。
「ダニエルッ!」朝7時40分。彼がロッカーに到着すると、そこにはすでにダニエルの姿があった(モーザー学校は7:30開門、8:20授業開始)。ホッとひと安心した彼は、友に接近しながら見舞いの言葉を掛けるのだ。「よかった……僕、すごく心配したんだよ? 体調、もういいの?」
「いろいろと心配かけてごめん。おかげさまで、今はすっかり元気だよ」相手が穏やかな表情でそう答えるも、エリスは言い知れぬ違和感を感じずにはいられなかった。そしてその違和感の正体の一つが目に留まる。
「あっ、ダニエル……その左目の痣、どうしたの?」見ると彼の左目周辺に、薄っすらと青く内出血したような痕が残っているではないか。すると彼は最近、そこを強打したに違いない。
「あっ、これね……実は僕、恥ずかしいんだけど……先週、熱でうなされているときに、寝ぼけてベッドから落ちちゃったんだ。それでそのとき、顔をベッドフレームにぶつけたみたいで、僕も知らないうちに、こんなふうになってたんだ……」
嘘だった。本当はその青痰、先週水曜日に父親から殴られたときの傷だった。そう、彼が本当に風邪で休んでいたのは火・水曜日だけで、それ以降は虐待の発覚を恐れた父親に学校を休まされていたのだ。だから当然ダニエルは、昨日の『エリスの誕生日会』にも行きたかった……死ぬほど行きたかったのだ……それでも、大切な母を残して自分だけ遊びにいくことなど、到底できなかったのである。
「そっか、大変だったね……すごく痛かったでしょ? 今も痛い?」とエリス。
「ううん、もうほとんど治ってるから……でも、気遣ってくれてありがとう」とダニエル。彼にしてみれば殴られたことよりも、昨日のイベントに参加できなかったことのほうがよっぽど辛かったが、それでも今こうして、エリスの関心と時間を独占できていることについては、まさに『怪我の功名』だと思っていた。エリスが「そんなお礼なんて……でもよかった……」と応えたところで、一旦の沈黙が訪れる。
早朝の静かな学校で、二人だけの時間がゆったりと流れている。彼らはその静寂のなかで、ふと恥じらいを思い出したよう落ち着かない仕草をした後、やがて飛びっきりの照れ笑いを交わしてから会話を再開するのだった。
ダニエル「昨日は君の誕生日会、行けなくてごめん……どうだった? 楽しめた?」
エリス「うんっ! すっごく楽しかったよ! だから残念。君がいてくれたら、もっともっと楽しかったのに……それに空手道場の友達も、紹介したかったな……」
「うん、残念……」ダニエルが複雑そうに苦笑いを浮かべる。確かに、大好きなエリスの誕生日会に出席して、彼を祝福できなかったことは残念だったが、他の『連中』に会えなかったことはさして気にしてなかったからだ。彼はニコラもソフィーも、そしてキアラも苦手だったし、他のソユルやエミリー、あと『その空手道場の人たち』とも特に接点はなかったので、そう感じるのも無理からぬことだった。結局のところ、彼ら全員を繋いでいるのは、『エリス』という絆に他ならないのだ。
――とは言え無論、ダニエルとて『エリスの空手事情』には興味があった。だから彼は好奇に満ちた目で、こう尋ねるのだった。「そう言えば、空手の方はどう? 練習、大変でしょ? 辛かったり、辞めたくなったりはしない? あと……強くなってる自覚はある?」そう、彼もご多分に漏れず、エリスから『空手を習い始めた』と知らされて仰天した人物の一人だった。だってどう考えても彼には才能がないし(酷い!でも事実!)、生きるために腕力を全く必要としない類の人種であることは、疑いようがないからである。
だから他の多くの人たち同様、『エリスが空手を習い始めるに至った経緯』を知らないダニエルとしては、ただただ彼のその選択が腑に落ちず、不思議な気持ちでいっぱいなのだ。大方の見解としては、『きっとエリスはエミリーに誘われて、興味本位+付き合いで空手を始めたのだろう』だった(ほとんどの人にとっては、エリスが自傷行為に及んだ理由も定かではないので、そう思うのも仕方なかった)。
「大変だけど、だからこそやりがいがあって、とっても楽しいよ!」そう元気に答える親友を見ながら、ダニエルは少なくともエリスが、『エミリーへの義理で空手をやっている』わけではないことは、何となく分かった気がした。だとしたら彼は本当に、『腕っぷしの強さ』が欲しいのかもしれない……その目的は何だろう? やっぱり『自己防衛』かな? そんな新しい疑問が湧いてくる。
「それにね、強くなってる自覚も結構あるんだ! 見ててね? それっ――」そこでエリスが、右真横に向かって一発の鋭い<上段足刀横蹴り>を空に放つ。ブォン、という風を切る音がしっかりと耳に届き、ダニエルは思わず「うわっ、今のすごいね! 当たったらダメージすごそう!」と感激するのだった。
「えへへっ、こんなのもあるよ? もいっちょ見ててね――」これに気をよくしたエリス、調子に乗って次の技<上段後ろ回し蹴り>をも披露しようと、颯爽とダニエルから二歩離れ、廊下の真ん中へと移動する。そして辺りに障害物になる物がないことを確認した彼は、意を決して『渾身の技』を繰り出すのだった。「えいっ!」
鞭のようにしなやかで長い彼の右脚が、ブンッと高空を裂く! だがその蹴りは他の物まで裂いてしまうのだった――彼の穿いていたショートパンツの股底のところから、ビリィィッ!という嫌な音が聞こえる。「あっ! お股がっ!」蹴り終わった彼が、慌てて破けた部分を覗き込むと、そこには6cmほどの裂け目と無残に解(ほつ)れた糸の断面があった。「あぁ……お気に入りのパンツだったのに……」
ダニエルは目のやり場に困りながら、また掛けるべき言葉も見つからずではあったが、とりあえずその華麗な演武に対して、精一杯の賛辞を贈ることにした。「すごく高い蹴りだったね? きっと今の蹴りが、そのパンツの想定可動域を越えていたからこそ、股の部分が破けちゃったんだと思うよ? つ、つまり……それだけ君の蹴りがすごかったってこと!」
「そ、そうかな……?」親友が泣きそうな目で見つめてくるので、ダニエルは「もちろんさ!」と親指を立てて慰める。するとこれが功を奏したようで、親友は安心したように、「そうだね……うんそうだ! 物は考えようだね? だったらこれは、今日の僕の『勲章』ってことにしておこう!」と立ち直ってくれた(なお着替えはないので、本日エリスは帰宅するまで、その勲章とやらを抱えたまま過ごすこととなる)。
「その意気、その意気」ダニエルは内心、『今日だけは誰も、エリスの股間を下から見ませんように……』と願っていた。もしそんなことになれば……とにかく悲劇だった(具体例なし!)。そんなアバウトな懸念を振り払うように、おだて続ける彼。「それにしても、ホントに驚いたな……君ってもしかして、道場でも相当強いんじゃないの?」
その言葉に偽りはなかった。今ちょこっと技を見せてもらっただけで、素人目にも洗練された動きなのが伝わってきたし、もうすっかりダニエルのなかのエリスのイメージは、格ゲーに出てくるような『武闘派美少年』に書き換わっていた。すごいな……あれで手にヨーヨーでも持ってたら、完全に『ギルティギア』の『ブリジット』じゃないか――。
「ううん、僕なんか全然だよ~」否定しつつも、まんざらでもなさげに照れ笑いを浮かべるエリス。「実際まだ、道場じゃ一番弱くって……でも、だからこそ僕は、一刻も早くエミリーたちみたいに強くなれるように、日々稽古を頑張ってるんだ~」確かな自信と喜びがオーラとなって、彼の身体全体から満ち溢れているように見える。今のダニエルにとって、そんな彼の姿は少し眩しすぎた。
そうこうしているうちに今では、ちょこちょこと他の生徒たちも登校してくる時間になっていた。だがエリスとダニエルは周りのことなど全く意に介すことなく、それからも授業が始まるギリギリの時間まで談笑を続け、先週会えなかった分の無念を少しずつ埋め合わせながら、絆をより一層深くするのだった。
そうして別れ際、もっと話したいと思ったエリスの方から「よかったら今日の放課後、二人でどこかに遊びにいかない?」と提案したところで、ダニエルは少し悩んだあげく困った顔をして、こう返事するのだった。「ごめん、すごく行きたいんだけど……最近、学校以外であまり長く外にいると、親がよく思わなくって……」
「親って、あの優しいお母さん?」なおも食い下がるエリス。「そんなに門限に厳しいようには見えなかったけど……」
「あいや、ママじゃなくって、ウチのパパが……」心なしか、そこでダニエルの顔色が悪くなったような気がしたエリスは、「そっか……」と言って少し黙念してから、すぐに「だったら久しぶりに、君のお家に遊びにいってもいい?」と提案を訂正する。それなら一度『成功例』があったし、彼の厳しくなった門限にも引っかからないだろうと考えたのである。
しかしこれにも、あまり乗り気ではなさそうなダニエル。「うーん、どうかな……」と呟いたところで黙り込んでしまう。エリスは内々で、『やっぱり、何か都合が悪いのかな……』と思いつつも、夏休み前のラスト・チャンスかもしれない思って、最後にこう説得してしまうのだ。
「2年……ううん、もう3年前だね……あの日、君のお家で遊んだ記憶は、今でも僕の大切な思い出……だからねダニエル? 僕は『今の君』とも、そんな思い出が作りたいなって……」
嬉しかった。親友から――いや違う、好きな人からそんなことを言ってもらえて、ダニエルは心から嬉しかった。僕だって同感だ、そう思う……だけど、それでもねエリス……そんな君にだけは、何があっても……絶対に……。
『絶対に今の僕の生活――あの地獄のような家庭環境――は見せたくない! 知ってほしくない! あそこに近づいてほしくもないし、あれに巻き込まれてほしくもないんだ!』そう強く願っていたダニエルだからこそ、当然ここも断るつもりだった。断るはずだった――だがしかし、彼の口はそんな意思とは裏腹に、無造作に、それでいて残酷に動いてしまうのだった。
「うん……ホント言うと僕もさ……君ともっと話がしたい……いろんなことして遊びたいよ」限界だった……もうこれ以上やりたいことを我慢するのは無理だった……。だ、大丈夫だ……パパが仕事から帰ってくるのは午後6時以降……それまでの1、2時間くらいなら、遊んでたって平気なはずだ――。「じゃ、じゃあさ、今日ウチに来る?」
「いいの……?」エリスが最終確認すると、ダニエルは全てを受け入れたような――求めるものを得るために、リスクを冒す覚悟をしたような――表情で、しかと頷いた。そしてそれと重なるように始業ベルが「ポーン♪」と鳴って、1時間目の授業の開始時刻を知らせる。
己の遅刻が決定されたにもかかわらず、嬉しそうに破顔するエリス。「やったぁ! じゃあまた放課後にね!」と言って急いで教室へと走っていく。ダニエルも心躍っていた。「うん、また放課後に!」と返事して、浮かれ調子で別の教室へと向かっていく(※一時間目の教科は『歴史』で、ダニエルはフランス語のみのコースだったので別教室。詳しくは十三章参照)。そうだ……今日は、今日くらいは……僕も息抜きするんだ! 幸せを掴むんだ!
ダニエルは知らなかった。この決断が後に、大事件を招くことを……。
エリスの高校生活⑱ ダンベル5キロも持てる?→筋肉パワーがあれば必ずモテる!
7時間目の授業が終了した15:45(※モーザー学校の授業時間は1コマ45分)。エリスとダニエルは約束通り合流して、早々とダニエル家への移動を開始していた。それからは気ままにお喋りしながら自転車を漕いで、だいたい16:10には目的地に到着した(ちなみに幸い、その日は誰も『エリスの股間の割れ目』には気づかなかった)。
「ただいまぁ」ダニエルが帰宅すると、家内は静まり返っていた。続いて彼が「ママ、いる?」と、在宅中のはずの母に呼びかけるも、返事がない。一瞬、不吉な予感が頭を過った彼だったが、何らかのアクションを起こすまでには至らなかった――すぐにバスルームからトイレを流す音が聞こえて、母親が姿を現した。
「あら、おかえりなさい、ダニエル」いつも通り、おっとり優しい微笑みで迎えてくれる母。先週旦那に殴られたときの唇の傷は、もう大分目立たないようになっている。すぐに「お勉強お疲れ様。待っててね、今おやつを持ってくるから――」と言ってキッチンへ入ろうとする彼女だったが、ふと戸口の裏にある人影に気づいて、足を止める。「あらら? お客さんかしら?」
「うん、今日は久しぶりに……あの、エリスが遊びにきてくれたんだ……上がってもらってもいいかな?」照れながら許可を求めるダニエル。前にエリスが来てくれたのは3年前だったが、普段もよく母親には彼の話をしていたので、その名前は今でも共通言語として使えた。だからこのセリフに含まれる『あの』は、恥じらいから来る『感動詞』である。
「まぁまぁそれは! もちろんよ! すぐ入ってもらって?」そう言って母が喜んで許可してくれたので、ダニエルは嬉々として玄関戸を開けて、外にいる友達を呼び寄せるのだった。「遊んでってもいいって! さっ、来てっエリス!」そして『あのエリス・シンクレア』が、3年ぶりにダニエル家の舞台へと戻ってくる(せっかくなので、『連体詞』の方の文章も作ってみました)――。
「お邪魔します」そう言って玄関戸をくぐったエリスは、すぐさま正面にいる住人に気づいて、和やかに挨拶するのだった。「あっ、こんにちは、ダニエルのお母さん。お久しぶりです」
これには住人も悦喜して歓迎する。「お久しぶりエリス。まぁまぁ! しばらく見ないうちに、すっかり大きくなったわね? さぁ来て、おばさんとハグしましょ――」と言いつつ彼女は、自分から迎えにいってゲストを包み込むのだった。はいハァ~グッ! あぁ……いいわ……華奢だけど、ほどよく筋肉と脂肪が付いていて……抱き心地最っ高……これで男の子なのよね、この子……どうにかダニエルのボーイ・フレンドになってくれないかしら――。
(前回エリスのことを女の子だと思っていた彼女だったが、あの後すぐに息子から素性を知らされていたので、今ではちゃんと『諸々の事情』を把握していた。そのうえで息子とくっ付けたがっているのは、ひとえに、それが息子の幸せだと知っているからだ――ダニエルが直接そう口に出したわけではなくとも、母親として彼の気持ちはお見通しのようだ)
などと考えながら、彼女が息子の友人をギュッとしていたときだ。突如、意識がクラッと揺らいで、よろめいて倒れそうになる彼女――すぐさま「うわっと! だ、大丈夫ですか?」とエリスが支えると、彼女は頭を押さえながら「え、えぇ……」と言って、少しの間目を閉じながら意識を手繰り寄せていく。
「ママ、大丈夫……? もしかして、先週の怪我の影響だったり……する?」心配そうにダニエルがそう尋ねると、ようやく平常通りの感覚を取り戻した母が、何食わぬ顔でこう説明するのだ。
「いいえ違うのよ。ビックリさせてごめんなさいね、二人とも……ただ私、今『生理中』なのよ」その回答に、目の前の男子二人がキョトンとしているので、面白くなった彼女はさらに具体的な説明を付け加える。「学校で習わなかったかしら? 女性は月経時に黄体ホルモンの働きで、受精に備えて子宮内膜が厚くなるのよ。で、結局受精しなかった場合、そのまま内膜が剥がれ落ちて、『おりもの』と一緒に膣口から排出されるの。要するに、そのとき大量の血と鉄分が身体から失われるから、こうして生理中は貧血が起きたりするのよ――フフッ、今さっき私、バスルームでタンポンを交換してたんだけれど、更年期に入ったからかしらね――本当にすごい量だったわ! まさに血の海!」
まるで猟奇的な殺人事件の話でも聞かされているような顔をする二人の男子。彼らにとって未知の領域すぎて、一度耳にしたくらいでは到底、理解が追い付かなかった。だがしかし、その話題がゲストをもてなすための『ウェルカム・トーク』としてはあまりにも不適切だと直感したダニエルは、憤慨して母を咎めるのだった。「もうやめてよママ~! そんな話~!」
母「フフッ、ごめんなさいね?」
エリス「えっと、大丈夫なんですか……? 貧血、また起こるんじゃ……?」
母「これから、鉄分を補給できるドリンクを飲むつもりだから、大丈夫よ。心配してくれて、ありがとうエリス」
ダニエル「それじゃ、僕らもう二階に行くね。僕らのことは構わなくていいから、ママはそれ飲んで安静にしててよ?」
母「はいはい。あっ、おやつだけ持っていくわね。よかったら二人で食べて」
ダニエル「いいから! そんなの僕が持ってくから! ママは休んでて!」
「はいはぁ~い(母、リビングへと消えゆく)」※ちなみに、ダニエルの母は訳あって専業主婦をしている。家事はひと通り得意だが、何より得意なのは『お菓子作り』で、もはや趣味の域を超えた素晴らしいベイカーだった。つまりダニエルが昔ポチャっていた原因は、まさにそれだったわけだ。
*
チョコチップ・マフィンと牛乳の載ったトレーを運ぶダニエルとともに、階段を上って二階にある彼の部屋の前まで来たエリスは、そこで手の塞がっているダニエルから「エリス、ちょっとドアお願い」と頼まれたので、「うんっ、任せて!」と楽し気にそのドア・ハンドルに手を掛けるのだった。あぁ~3年ぶりのダニエルの部屋か~、どんなふうに変わってるかワクワクするな~。そして取手は捻られる――。
ガチャリ。開いた入り口から先にダニエルが入室し、エリスもその後に続く。するとすぐに、やや様変わりした友達の部屋景色が目に飛び込んでくる。「うわ~! ダニエルの部屋だぁ~、懐かしい~!」向かって右手前にベッドがあり、その奥に学習机がある。左手側の壁にはクローゼットがあり、その前の空間は今や、カーペットが敷かれた運動スペースになっているようだ――カーペット上に、いくつかの運動器具が見受けられる。
今しがたエリスは『懐かしい』と言ったが、以前彼が訪れたときには当然そんな物はなかったし、何ならそのカーペットすらなかった(ちなみにそこは、絵のモデルになったとき彼が座っていた辺り)。机とベッドの位置関係も逆だったし、カーテンも別の物に変わっていた。「へぇ~少しだけ、模様替えしたんだね?」ひと通り見渡したエリスがそう言うと、ダニエルはトレーを机に置きながら、「う、うん……去年、掃除も兼ねてね」と照れくさそうに答えてくれる。
「いつもここで運動してるの?」エリスが興味津々でその運動スペースを見る。床には3kgと5kgのダンベルが各2つずつと、腹筋ローラーが転がっていて、天井には懸垂バーが打ち付けられているのだ。ダニエルの「まぁね。一日一回はルーティンをこなしてるよ」という返事を聞きながら、まずはそのダンベルに目を付けた彼。いつぞやのジムのときみたく興奮した面持ちで、「ちょっとやってみてもいい?」と果敢に挑むのだった。
「いいけど、気を付けてね? 少し重いよ?」そうダニエルが忠告するも、エリスは「平気へいき。僕、空手で鍛えてるから」と5kgのダンベルを両手持ちし、無謀にもダンベルカール(の真似事)を始めてしまう。そうして「イチ、ニ、サン……」と左右交互にダンベルを上げていく彼だったが、各腕二回目にはもうキツくなってくる。あ、あれっ……5kgってこんな――。「シ……ゴ……ロック……シッチッ……ハッ……あぁぁぁぁもうダメだ――」
あえなくダンベルを床に返した彼は、悲鳴を上げている上腕二頭筋を摩りながら、己の非力さを再確認するのだった。そ、そう言えば……二頭筋の運動なんて、普段やってなかった……(ハァ、ハァ)。何だかエリスが悔しそうにしているので、気の毒に思ったダニエルは「四回でもすごいよ! 上出来!」と言って励ますのだが、彼はいつも左右15回を2セットしていたので、やはり4回は褒められた記録ではなかった。
「つ、次はこれやってみる!」めげずに腹筋ローラーを手にしたエリス。早速それを使って筋トレしようとする彼だったが、正しい使い方が分からずあたふたしたあげく、最終的に正座になって床をコロコロ往復させるのみだった。それを見たダニエルは苦笑しながら、「エリス……それじゃあ『ボイラー室で薬を調合する釜爺』だよ……」とツッコミを入れる他ない。
対してエリスも、薄々やり方が違っていることに気づいていたのだろう、「た、確かに……」と言って苦笑する。仕方なく彼が「お手本見せて?」とローラーをダニエルに渡すと、ダニエルは「いいよ。まずこうやって、前屈状態でローラーを床に付けるんだ」と、解説を交えながら実演してくれる。
「それからこうやって床をこ~ろ~が~し~て~いってぇ……」運動強度が上がるに従い、ダニエルの声にも力が籠る。「こうして両腕を伸ばしきったところで、一旦停止してぇ……(プルプル)……あとは、また戻ってくれば――フッ――いいんだ」実演を終え、額に滲んでいた汗を拭うダニエル。たった1回とは言え、喋りながらのスローな『立ちコロ』だ、彼も相当頑張る必要があった。
「すごいなぁ~、そんなふうにして使うんだ!」エリスには分かっていた、『今の運動は、自分には荷が重い!』と……。だから彼は気を取り直して、天井の懸垂バーを見上げるのだった。「ぼ、僕……あっちの棒の方をやってみようかな~(ミスディレクション)」
「あれれエリス? まだローラーをやってないよぉ?」彼の心中を察したダニエルが、あえて意地悪く追及していく。恐らく懸垂でも同じ状況になるだけだったので、このローラーをもってダニエルは、彼に成功体験と自信を提供したかったのだ。「ほらっ、こうやって膝を突くやり方だと少しは易しくなるから、頑張ってやってみよ?」
「う、うん……」再びローラーを握って、床に跪くエリス。「じゃ、じゃあやってみるけど、すぐ突っ伏しちゃうかもしれないから、そのときは下で身体支えてね?」
「了解っ! そのときはちゃんと補助するよ」ダニエルがローラーの手前で両手を仰向けて、床の上ギリギリのところで待ち受ける。そして言葉の力でエリスの背中を押しながら、運動を促すのだった。「それじゃ行くよ? イチ、ニのサンッ――」
インストラクターの号令に合わせて、身体をニューッと伸ばしていくエリス。「フッ……くっ……」どうにか一番の難所――身体が床と平行に近くなるところ――まで来たが、そのあまりのキツさに彼は、気を抜くとすぐにでも床と接吻しそうだった(インストラクターは『補助する』とは言ったが、あくまで倒れたときの支えてであって、まだ彼の身体には触れていない)。
「大丈夫! もうちょっとだよ! そのまま! ファイト!」イントラクターの鼓舞を受けながら、何とか体幹の力を振りぼって身体を折り曲げていくエリス。お願いっ……僕の筋肉……もうちょっとだけ……強く――。そうして彼は、顔を真っ赤にしながらようやく一回目の『膝コロ』を完遂した。「よしっやった! 頑張ったねエリス?」
「こ、これ――ハァハァ――すごい大変だね」達成感とともに、まだ知らぬ筋肉が活性化したような感覚に陥るエリス。それら感覚の正体は全てドーパミンだが、今確かに彼の体内では成長ホルモンが爆増しつつあった(※なお、これより記載される『筋肉』は、全て『マッスル』と読みます。なぜならマッスル、マッスル! 筋肉はマッスルだからです!)。
ダニエル「でもちゃんと出来たじゃないか! はいっ、もう一回行ってみよー!」
エリス「えぇ!? も、もう無理だよ!」
ダニエル「諦めないで! ダンベルも四回は持てたんだから、これだって四回はやれるはずさ!」なかなかにスパルタなインストラクターである。しかしそうやって鞭打ってくれる人がいるというのは、甘えがちな生徒としてはありがたいものなのだ。さてエリスよ、やるのかやらないのか……どっちなんだいっ!?
エリス「うぅ……もうどうなっても知らないよ?」いったい、どうなると言うのだろうか?
ダニエル「筋肉を信じて! 筋肉は嘘を吐かないよ!」意味不明な理屈。
エリス「筋肉を……信じる! うりゃ~!」はたして、彼らは何をやっているのだろう……。
ダニエル「そうだ! その調子!」補助に回っていた彼の左手の平に、生徒の左乳がホニュンと当たる。その際、乳首の突起感がダイレクトに伝わってきて、彼の興奮が一気に最高潮へ達するのだ。「大丈夫! まだ君は倒れてない! 筋肉は生きているよ!」
エリス「生きりゅ~!」気のせいだろうか……ボン・ジョヴィの『It’s My Life』が聴こえてくるのは……。
ダニエル「よくやった! さぁ三回目だ! 今やらなくて、いつやるんだ!」それこそまさにナウ・オア・ネヴァー! さぁ答えるのだエリス! お前はイッツ・ヤルン――。
エリス「ニャーァァァァァッ!!」スパゲティにパルメザンチーズを振り撒くような気合を見せる生徒。もはや乳が何度教官の手に接触しようと、気にしてられる余裕はなかった。
ダニエル「最高だ! さぁ四回目! 君は何を信じて挑むんだ!?」
エリス「筋肉ぅぅぅ~!」
ダニエル「パワーァァァァァ!」
エリス「ぷぁぅぅぅぅうわぁぁぁぁぁぁっ!!!」そうして辛くも、膝コロ4回を達成した生徒だったが、教官はそこで甘んじるのを許さない。
ダニエル「おっと! まだ終わらないぞ? 君の限界はここじゃない! そうだろう!?」
エリス「ふぇっ!? も……も、もちのロン!」どうやら彼は、ここでやめる気満々だったようだ……。しかし今さらこの流れは切れなかったので、改め直して彼は、腹直筋・腹斜筋・腹横筋を硬直させていくのだ。「チェストォォォォォ!(Alleeeeeez!!)」
とは言え、筋肉にも必ず限界は来る。エリスの場合それは、やはり5回目となる今だった――ダニエルの両手を押し潰すかたちで床にバタンキューした彼は、そのまま隣からの発せられる「な、ナイス・トライ……君の筋肉も喜んでいるよ……」というセリフを聞きながら、荒く呼吸を繰り返していく。
そしてしばらく二人は、その姿勢のまま多幸感に浸るのだった。この先に絶望が待っているとは知らず……。


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