※この作品には性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧を禁じます。

第四章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.1
欧米の学校では8月中旬~下旬に新学期がスタートする場合が多く、エリスが通うモーザー学校も例外ではなかった。また欧米の子供たちは、7月中旬から始まる夏休みを利用して、『サマー・スクール』と呼ばれる留学プログラムに参加することも多い。サマー・スクールでは外国のボーディング・スクール(寄宿学校)に数週間~数ヶ月間滞在し、語学能力の向上や異文化交流を楽しむのだ。
留学先としてはイギリスが人気で、その理由は伝統的な正しいアクセントの英語を学べることと、高緯度なので夏でも快適な気温だからだ。サマー・スクールは個人で手配する場合と、在籍する学校が提携している場合との2パターンあるが、エリスの場合は後者のパターンでの参加だった。
ある日両親が『いい経験になるから』と提案してくれたので、エリスは二つ返事で参加する意向を伝えた。その後両親は、滞在中の彼が心細くないようにと、ニコラの両親にも『一緒にどうですか?』と話を持ち掛け、双方にとってメリットがあることを説明したのだ。当人たちも乗り気だったので、話はとんとん拍子で進み、かくして二世帯一緒に応募する運びとなった。
こうして初めての外国旅行は、親友のニコラとイギリスに行くことになったエリス(まぁ厳密にはフランスになら何度か行ったことはあったが、車での短期旅行だったので実質ノーカンだった)。はたして彼らを待ち受けるのは、どんな貴重な冒険なのだろうか?
エリスが受けた教育④ St Bede’s Summer School
エリスとニコラが参加するサマー・スクールは、『セント・ビーズ(St Bede’s)』という団体が企画しているものの一つ、『English Plus』コースだった。これは週20時間の英語学習+各種アクティビティ体験を提供している、セミ・インテンシブ(半短期集中)型の人気コースで、毎年夏に6週間開かれていた。
滞在先はイギリス南東部、サセックス州に位置する『Bede’s Senior School(通称:ディッカー校)』という全寮制高校(イギリス各地に点在する同団体運営学校の一つ)で、開催中は各週世界中から、延べ200人以上の子供たちが、当校舎に集まってきていた(他のコースも合わせれば300人以上にも上る)。
エリスたちは7月15日~28日までの2週間弱滞在する予定で、出発当日は朝7:30に『ジュネーヴ・コアントラン国際空港(GVA)』からスイス・インターナショナル・エアラインズ(SWISS)のエアバスA321neoに乗って、1時間45分掛けて『ロンドン・ヒースロー空港(LHR)』へ向かうことになる。そこから9:00に送迎リムジンに乗り、2時間弱掛けて滞在先の寄宿舎に向かうのだ。
『未成年フライト・サービス』を契約すれば、搭乗手続きなどの面倒事も、航空会社のスタッフが手厚くサポートしてくれるだろう。さぁ、待ちに待った冒険の始まりだ!
エリスのサマー旅行記① いざ行かん!雲を突き抜け空へと!
「それじゃあ二人とも、空の旅を楽しんでね! バイバ~イ」空港の搭乗ゲート前でバービー人形のように手を振る女性が、エリスとニコラに最後の別れを告げた。彼女はSWISSのスタッフで、チェックインカウンターからずっと二人を案内し、無事ここまで連れてきてくれたのだ。二人は笑顔で手を振りながら、人生初の飛行機に乗り込んでいった。
「イイお姉さんだったね?」エリスが言うと、「あぁ、実に良い尻をしていた……」とニコラが感慨深げに呟く。機内に入った二人は、航空券に示された座席を探し、手荷物を座席上の収納棚に入れる(ちなみにこの時点でのエリスの身長は162.4cm、ニコラは174.4cmだった)。
「窓際いただきぃ!」ニコラが座席にダイブすると、続いてエリスも「もう、ニコってばぁ! じゃあ僕は真ん中いただき~!」と隣の席に腰かける。今日は二人ともワクワクしっぱなしで、見るもの全てに目を奪われていた。座席に着いてからも外の景色や、目の前のテレビモニター、簡易テーブル、パンフレット、嘔吐袋などに逐一リアクションしていたし、何なら空港だけでもプチ旅行気分を味わっていた。
「おいエリー、見ろよ! たくさんの映画が見られるぜ!」ニコラがモニターを操作している。「あっ、『パディントン』もある! 2もだ! なぁエリー、お前『ヒュー・グラント』好きだったろ? ほらっ、あのウンパルンパの人……なぁ一緒に見ようぜ――」彼が隣を見ると、エリスがスマホと睨めっこしていた。
「う、ん……ごめん、今お父さんに『飛行機に乗ったよ』って連絡しているところ……よしできた!」満足げにスマホを仕舞うエリス。実は彼はこの旅を機に、初めて両親からスマホをプレゼントされていたのだ。学校の授業でもタブレットを使ったりはするのだが、それだと文字入力はキーボードのレイアウトだったので、まだスマホのフリック操作には慣れていないようだった。
「メッセ送れたならさ、機内モードにしないと、エリーのせいで飛行機墜ちちゃうぜ? 航空パニックがお望みかい?」ニコラが意地悪な言い方で注意する。ちなみにエリスのスマホはデータ通信にスイスのeSIMを利用していて、この旅に合わせてイギリスのeSIMも2週間契約してあった。
「そう、それが僕のフライトプラン……なんてね! 教えてくれてありがとう」同じく冗談を交えながら、素直に機内モードするエリス。ちなみに、2040年の航空通信機器は電波干渉に強かったため、もうほとんどの空港で6G回線までの利用が認められていたが、SWISSはまだ短距離路線で旧型のエアバスA321neoを利用していたので、その限りではなかった。
「プォーン、プォーン」大きな通知音に続いて機内アナウンスが流れる。「皆様、当機は間もなく離陸準備に入ります。座席のリクライニング・シートとテーブルを元の位置に戻し、シートベルトをしっかりとお締めください。また電子機器は機内モードに設定し、大型の電子機器は電源をお切りください……」CAさんたちが機内をチェックし始め、しばらくして機体が滑走路へと向かい始めた。
「いよいよだな」ニコラが不敵な笑みを浮かべる。「エリー、離着陸でビビッて漏らすなよ?」そんな冗談を言ってはいたが、本当は彼の方が内心ビビっていた。
「う、うん……努力するよ」エリスはあからさまに不安げだった。彼は乗り物酔いには強かったが、遊園地の絶叫系乗り物は苦手だったので、どうしても『墜ちたらどうしよう?』と考えてしまうのだ。
「君たち飛行機は初めてかい?」そのとき、エリスの隣にいた――通路側の席に座る――老紳士が、英語で話しかけてきた。ちなみにA320シリーズの座席は左右3席ずつの横6席だ。「ご両親は? もしかして二人旅かい?」
「は、はい。僕たちサマー・スクールに向かっているところで」エリスが応答する。
「そうかい、そうかい。いやはや偉いね? 若いのに勉強熱心で――」老紳士はポケットから飴玉を二つ取り出し、エリスの方に差し出す。「さぁこれをどうぞ。舐めると気持ちが落ち着くよ」
「ありがとう」受け取った彼は、一つをニコラへと渡し、包みを開けて飴玉を口に入れる。途端に桃の優しい甘さが口いっぱいに広がった。「おいひ~れふ」そう言って笑う彼の横顔を見ながら、老紳士の方も何か、懐かしく甘酸っぱい気持ちになった。
「皆様、当機は間もなく離陸いたします」最終アナウンスが流れる。「今一度、シートベルトが確実に締められていることをご確認ください。また安全のため、シートベルト着用のランプ点灯中は、そのままの状態でお過ごしください。それでは、快適な空の旅をお楽しみください」飛行機が加速を始める。ものすごい轟音が機内を満たした。
「エリー、さっ、手を貸せよ」ニコラが右手を仰向けて示したので、エリスは迷わず左手を上に被せ、指を絡ませて手を繋ぐ。続いて老紳士も「私の手も使うかい?」と左に倣ってくれたので、彼はそれも甘受した。そうして深呼吸して目を閉じると、自分が神様に守られているような、とても温かな気持ちになった。きっと大丈夫……僕たちは大丈夫だ――。
次にエリスが目を開けると、窓の外には青空と、小さくなっていく街の景色が広がっていた。隣のニコラもそれに気づき、二人はしばし黙って外を眺めていた。建物も車も何もかも、どんどん小さくなっていく……あぁ、世界って何て広いんだろう……。やがて白い煙が視界を覆い尽くし、一瞬だけグラッと機体が揺れる。思わず目を閉じて、両手を強く握ってしまうエリス――次の瞬間、そんな彼の横顔に強い光が差し込んだ。
彼が目を開けると、窓の外にはさんさんと煌めく朝日と、綿飴のように広がる雲海、そして地平線彼方まで続く天空の青さだけがあった。耳元で囁き声が「エヴァーブルー(Everblue)……君の瞳と同じじゃ」と告げると、もう彼から恐怖心はなくなっていた。
ニコラとエリスは互いに顔を見合わせ、『すごー!』という気持ちを込めて顔を綻ばせた。繋いでいた手が自然に解ける……。続いてエリスが右隣に対して、「手を貸してくれてありがとうございました。すごく助かりました」とお礼を言うと、老紳士は「いいんじゃよ」と優しく右手を開放してくれた。すぐさまはしゃぎ出す二人の若者を見ながら、自分も少しだけ青春を取り戻した気がした老紳士だった。
*
それからのフライトは快適そのものだった。二人はともにパディントン2を視聴しながら、時折その愛らしいクマにうっとりしたり、彼の作るマーマレードサンドに涎を垂らしたりした。途中、機内食が提供されたので、ニコラはビーフ、エリスはヴィーガン用のハンバーガーなどを食べた。そうこうしているうちに目的地が間近に迫っていたようで、眼下にロンドンの街並みが広がっていた。
『着陸態勢に入る』とのアナウンスが流れたとき、また両サイドの二人はエリスへと手を差し出したが、彼は首を横に振って、「今度は自分一人で頑張ってみる」と助けを断った。パイロットの腕が良かったことに合わせ、その日のロンドンは珍しく快晴だったこともあり、着陸は拍子抜けするほどスムーズだった。機体が完全停止し、ベルト着用のランプが消えた瞬間、二人は最高にワクワクした気持ちで座席を後にした。
エリスのサマー旅行記② 到着!これがハリポタの国!
お世話になった老紳士に別れを告げた後、トイレや所用(スマホの機内モードを解除して、相手先と父親に到着を報告したり)を済ませた二人は、入国審査の列に並んで順番が来るのを待っていた。「パディントン可愛かったね~」などと話していると、いよいよ自分たちの番になったので、彼らは意を決して、別々のカウンターへと進んでいく――エリスが向かった方の審査官は黒人男性だった。
審査官が「パスポートを見せて(Show me your passport please.)」と言ったのでそれに従うと、審査官はエリスの顔とパスポートを交互に見ながら「滞在の目的は?(What is the purpose of your visit?)」と尋ねる。彼が「サマー・スクールのプログラムのために来ました(I’m here for a summer school program.)」と答えると、「どこに滞在するの?(Where will you be staying?)」と返されたので、彼は滞在先の住所が書かれたスマホの画面と、学校の入学証明書(Acceptance Letter)を提示する。
審査官はそれらを確認し終わると、「何日間の予定?(How long will you stay?)」と追撃してきたので、彼は「2週間の予定です(I will stay for two weeks.)」と負けじと応戦する。しばし怪訝そうな表情で彼を見つめた審査官は、突如満面の笑みで「問題ありませんね。手続き完了です。では良い旅を!(Everything looks good. You’re all set. Have a great trip!)」と言って、スマホなどを返却した。
それらを受け取ったエリスは「Thank you!」と微笑み返してからゲートを通り抜ける。審査官はしばし立ち去る彼に見惚れていたが、最前列の女性に咳払いされたことで我に返り、また仕事に戻っていった。その夜、審査官の男性はいつもの酒場で仲間たちに、「今日とてつもなく可愛い少年を見た! あんな美人、20年務めてきて、いや……40年生きてきて初めて見たよ!」と自慢したのだった……。数日後、管理職に昇進することを、彼はまだ知らない。
*
一番の難所を抜けた二人は、意気揚々と次の手荷物カルーセルへと進み、流れてくる旅行鞄を受け取ってから、税関と両替所をパスした。現地での交通費や食費などは諸々プランに組み込まれていたので、あとはお土産代など少額があれば事足りる計算だった。エリスは父からクレジットカードと、現金200スイス・フラン(CHF)を渡されていたので、あとで手数料が有利な街中の両替所に行けばいいや、と考えていた。
「いよいよイギリスだな? きっとオシャレな駅に紳士とか、カフェに文豪とか、お城に伝説の騎士や魔法使いがわんさかいるんだぜ!」ニコラが大仰な期待を語る。
「ねーっ! アロホモーラッ(開けっ)――」エリスが人差し指を立てた手を杖に見立てて振ると、目の前の自動ドアが驚くことに、自動で開いた。
到着ロビーまで来ると、前にいる数人の待ち人たちのなかから、『BEDE’S SUMMER SCHOOL – Dicker』という札を持った女性が目に留まる。二人は彼女の前まで歩いていき、入学証明書を提示して名を名乗った。女性は「エリス、ニコラ、ようこそロンドンへ!」と挨拶し、追加でパスポートや保険証を確認した後、二人を空港の待合室まで案内した。そこには先に到着していた数人の子供たちと、運転手と思しき成人男性が一人いた。
「みんなお待たせ! 今日最初の送迎メンバーはこれで全員よ! あとは運転手の彼に付いていけばいいからね? ささっ、出発よ」彼女が促すと、成人男性が先導して歩き始めたので、みんなそれに続く。その際ニコラが「やぁよろしく、よろしく」と一人一人に挨拶していくので、エリスもそれに倣う。
ここにいる子供たちはエリスとニコラの他に、デンマークのコペンハーゲンから来た子、アイルランドのダブリンから来た子、ドイツのミュンヘンから来た子、南アフリカのケープタウンから来た子、チェコのプラハから来た子、スペインのバルセロナから来た子が一人ずつの、計8人だった。ケープタウンからの子は10時間のフライトだったみたいで、さすがにお疲れモードだった。
彼らが空港の外にある駐車場まで来ると、グリーン塗装された大きな車が、両目を瞬かせて「ピョッピョッ」と挨拶した。どうやら、それが送迎用リムジンのようだ(ちなみにその車は、『フォード・トランジット』という車種の小型バンで、11人乗りの水素エンジン搭載モデルだった)。運転手に荷物を積載してもらった子供たちは、順番にバンに食べられていき、最後に大きな獲物を飲み込んだバンは、「ブロロロォォォン!」と雄々しい鳴き声を上げた。まだ食べたりない様子だったが、何事も腹八分目がちょうどいいのだ。
*
それからしばらく、バンは『M25モーターウェイ』という環状高速道路を通って、イギリスを順調に南下していたが、特に感動を誘うドライブ風景というわけでもなく(高速道路から見える景色のつまらなさは異常!)、その間乗客はあまり口を利かなかった。ただエリスは、自国とは逆の『右ハンドル左側通行』の道路交通事情に感心しながら、珍しかったり面白かったりする車はないかな~と、車窓からの景色を楽しんでいた。
途中M25→M23→A23→A27と路線を乗り換えていくのだが、A23の中間辺りで南アフリカの子が車酔いしたみたいだったので、エリスが頼んでサービス・エリアで小休憩を取ってもらった。エリスは辛そうな彼にトイレまで付き添い、「もし辛かったら、一度思い切って吐いちゃうと楽になるかも? でも嫌だったら無理しないでね」と背中を摩ってあげた。その子はエリスを信じたようで、機内食の一部を便器にリリースしてから、運転手から渡された水を飲んで、少しずつ元気を取り戻していった。
A27号線に入ってしばらくすると、徐々に道幅は狭くなっていき、同時に視界が開けてきたことで、豊かな緑や農家・牧場と思しき建物が目に入ってくるようになった。そしてようやく街みたいな景色が見えてきて、オシャレな建物や小さなガソリン・スタンド、赤くて可愛い公衆電話ボックスなどがお出迎えしてくれた。エリスはあの電話ボックスが、ハリポタに登場する『魔法省の入り口』みたいだな、と思った。
そうこうしているうちにバンは、幹線道路帯を左折して抜けたようで、『コモン・レーン』と呼ばれる小道に入っていく。見渡す限り草原、丘、農地! その名の通り、実に『ありふれた車線』だった……。また左折して『ステーション・ロード』を行くと、住宅街に入ったようで、レンガ造りの可愛いお家が、みんな煙突を空に掲げて、祖国への忠誠を示していた。
そこから真っすぐ道なりに進んでいくと、突如として左手側に馬鹿ヤバすぎる建物が出現し、子供たちが歓声を上げた――ニコラがみんなを代弁して叫ぶ。「どっひゃ~! 何じゃこりゃ~(What the heck?! Blimey!)」そのオレンジ色の宮殿こそが、彼らにとっての『ホグワーツ』だった(もっとも、Bede’s Summer Schoolのなかでは『Lancing校』こそが、本当にホグワーツっぽい見た目をしている)。
バンが学校に到着すると、子供たちは嬉々として下車し、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。運転手に荷下ろしを手伝ってもらっていると、別のスタッフと思しき女性が歩いてきて、「ようこそ! ディッカー校へ!」と彼らを施設内に招いた。運転手にお礼を言ってから彼女に付いていくと、すぐにレンガ造りの家々が隣接しているのが見え、そこは学校というより集落のようだった。
まず案内されたのが、あの最初に目に飛び込んできた『メインの建物』で、板チョコのような細工が施された木の門の入り口から、両脇に暖炉のあるレセプション・ルームへと通された。高い天井にはシャンデリアが吊り下げられ、観葉植物や美術品が飾られた趣のある部屋である。エリスたち一行はそこで、受付を済ませて学生証を発行してもらった。
続いて寄宿舎に案内された彼ら8人は、まず男女5-3のグループに分けられ、そこから男子のみ3-2に分けられた。できた3つのグループ各人に、それぞれ部屋の鍵――サルト・カード(Salto Card)という非接触型カードキー――が渡され、自室に荷物を置いてくるよう指示される。エリスとニコラは別々の部屋となり、ニコラはデンマーク人の13歳『ミケル(Mikkel)』と、チェコ人の16歳『ルカシュ(Lukáš)』と同室になった。
一方エリスは、南アフリカ人の17歳『テムバ(Themba)』とペアになり、一緒に目的の寮部屋へと歩いていた。その途中、テムバが言葉を詰まらせながら話し始める。「あ、あの……さっきはありがとう。まだ、その……ちゃんとお礼言えてなかったから……」もう気分は回復していた彼だったが、あのとき吐いてよかったと思う反面、エリスの目の前で吐いてしまったことには、一抹の後悔を覚えていた。
「ううん、困ったときはお互い様だよ」エリスが応える。「僕も今日ね、初めて飛行機に乗ったんだけど、離陸のとき怖くて、周りの人たちに助けてもらったんだ。人ってそうやって、支え合って強くなれるんだと思う」彼が流暢に話す言葉一つ一つが、テムバの心に深く刻まれていく――ふと彼の背中に、エリスに『よしよし』されたときの温かな感触が蘇った――。なぜだか『気持ち悪くなってよかった』とさえ思えるテムバだった。
と同時に彼は、エリスと同室だという事実をやっと実感し、その幸運に感謝し、内々で神に十字を切った。おぉジーザス……こんな天使のような子を我がもとに遣わしてくださり、ありがとうございます……。「だったら、君が困っていたら、今度は俺が支えるよ」テムバが言うと、エリスは「うん! ありがとっ」と笑った。
二人が部屋に到着し、鍵を開けて中に入ろうとした矢先、部屋のドアが開いて一人のアジア人が現れた。「やぁ! 君もこの部屋の生徒?」エリスが挨拶すると、その男の子は掛けていた眼鏡をカチャリと動かしてから、無言でどこかへ行ってしまった。さぁて役者は揃った。ここからどうなるサマー・スクール!?
第五章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.2
エリスのサマー旅行記③ オリエンテーション
荷物を置いたエリスとテムバは、先ほどのスタッフのところに戻って、今さっき会ったルームメイトのことを尋ねてみた。すると彼女は「予告し忘れてごめんなさい」と謝り、彼について少しだけ教えてくれた。
何でも彼は『リウ・ティエンジェ(刘 天杰:Liú Tiānjié)』という名前の、中国深圳市からの留学生で、17歳でとても頭がよく、2週間前からここに来ているようだ。ただ内気な性格ゆえか、英語のスピーキングが苦手で、あまり人と関わらずに、いつも図書室で勉強ばかりしていると言う。
また本来、日曜日の今日は遠足らしいのだが、それも体調不良を理由に欠席しているとのこと。もしかするとつい昨日、仲良くしていたルームメイト二人が帰ってしまったので、それが原因で落ち込んでいるのではないだろうか、とのことだった。エリスはその話を聞いて、『ティエンジェの抱える寂しさを、少しでも埋めてあげたいな』と思った。
それからしばらく彼らは、そのスタッフにオリエンテーションとして、学校の規則やスケジュール、アクティビティなどの説明を受けていた。その途中、エリスたちが乗ってきたのと同種のバンが4、5台到着し、多くの子供たちが学校の敷地に降り立った。その時点で合計57人の子供たちがいて、出身国としてはイタリア、ドイツ、フランスが多そうだった。
エリスたちは先行して、施設内を案内してもらうことになった。順番に『教室』や『美術室』、それからダンス・演劇・コンサートのための『劇場』、『科学室』や『図書室』、陶磁器を焼く釜土などがある『工房』を訪れる――図書室を含め、どこにもティエンジェの姿はなかった――。
次にスポーツ施設に移り、各種トレーニング機器を有する『ジム』、その横には『スイミング・プール』、その先に『テニス場』や『フットボール場』、その先に天然芝の『運動場(クリケット、ラグビーなど多目的に使える)』などがあった。それらはどれも教育的に充分で、素晴らしい設備に思えた(このとき案内されなかったが、他に『動物園』や『スカッシュ場』などもある)。
そこまで終わったところで、ちょうどお昼時になっていたので、エリスたちは『カフェテリア』へと案内され、そこでランチを食べることになった。カフェテリアは受付がある本館内の逆側にあり、生徒は決まった時間に部屋のカードキーを使用して入れるようになっていた。食事はプレート・ビュッフェ形式(最初に好きな料理を取れるが、おかわりは不可)で提供され、ドリンクのみセルフで飲み放題となっており、キッチンの先にはコーヒー・サーバーなどがあった。
各種ドリンクや、フルーツ、デザート、カナッペ、その他さまざまな料理が並ぶなか、エリスはローストビーフとマッシュドポテト、そしてヨークシャー・プディング(シュークリームの皮みたいな料理)を皿に盛り、そこにグレイビーソース(肉汁を元に作られるイギリスでは定番のソース)を掛けて、伝統的な『サンデーロースト(Sunday Roast)』を完成させた。イギリスの家庭では日曜日の昼に、こうした付け合わせでロースト肉を食べる風習があることを、彼は予習して知っていたのである。
また彼は別の皿に、コールスロー(千切りキャベツのサラダ)や茹でたニンジン、生のパプリカやトマトやキュウリを取って、追加でフルーツポンチとリンゴジュースもグラスに注いでトレーに載せた。あとは実食を待つだけだと、奥のダイニングルームへと入っていくと、そこは円卓が並んだ開放的なスペースとなっていて、横にテラス席もあった。エリスたち8人は、4人ずつ室内中央の席に着き、談笑しながら空腹を満たした。どの料理もちゃんと美味しかった。
エリスのサマー旅行記④ ティエンジェの劣等感
午後は自由時間とのことだったので、昼食を終えたエリスたちはルームメイトごとに解散して、校内を探検してみようということになった。エリスはテムバと一緒に、まずティエンジェを探して誘ってみようと決め、他に心当たりもなかったので、とりあえず図書室に行ってみることにした――するとそこにはティエンジェがいて、机に本とタブレットを置いて真剣に何かを読んでいた。
「やぁ、また会ったね! 君、ティエンジェだよね? 僕たち今日からルームメイトになるエリスとテムバだよ、よろしく!」エリスが声を掛けるも、彼は一度顔を上げて頷いただけで、また読書に戻ってしまった。「何読んでるの?」エリスが聞くと、彼は小声で「宇宙の本……」とだけ答える。どうやら机に置かれているのは英語で書かれた『宇宙物理学』の本で、彼はページをタブレットで撮影して『Google翻訳』アプリを使って読んでいるようだった。
「俺たち、これから施設探検に行こうと思うんだけど、君も来ない?」テムバが聞くと、ティエンジェは苦笑いして首を窄める。「ごめん、俺たち邪魔かな?」テムバが追って聞くと、彼は首を横に振って、ゆっくりとこう答えた。「ただ俺……英語を話すのが……得意じゃないから……」
実はティエンジェは『宇宙飛行士』になるのが夢で、目下、中国の名門『清華大学』進学を目指して猛勉強していた。そしてゆくゆくは、自国中国の宇宙開発機関『中国国家航天局(CNSA)』に所属し、科学者・エンジニア枠として宇宙飛行士になることを目標としていたのだ。地元の高校では一番の秀才である彼は、成績で他人に遅れを取ることは稀だった。
ただどうしても英語だけは苦手で、これまでその弱点は見ないふりをしていたが(CNSA所属にあたって英語は必須ではない)、仮に夢が成就した後のことを考えると、いずれは国際宇宙ステーションで他の国の宇宙飛行士たちとも意思疎通を図る機会があるかもしれないので、英語ができると有利であることは否めなかった。
父親に勧められ、半ば無理やり連れてこられた今回の旅は、そりゃー英国の文化を知る良い経験になっているし、それなりに英語力が伸びているのも実感できているのだが、これまでの旅を本当に楽しめていたのは、ルームメイトがたまたま中国人と台湾人だったからだ(台湾や中国の南の方では、緯度の関係で夏休みが6月下旬や7月初旬に始まるので、サマー・スクールの最初の2週間はこれらの国の出身者が多く参加している)。
だから英語を流暢に話す人と対峙していると、普段感じることのない劣等感に苛まれてしまい、どうしようもなく居心地が悪かったのだ……。特に今、目の前にいるエリスって子は美人すぎるし……これで緊張するなって方が無理な話だ――。そんなことを考えていた彼は、いつの間にか自分の左手がエリスに掴まれていることに気づき、戸惑いを隠せなかった。
「そんなこと関係ないよ! 僕も簡単な単語を繋げてしゃべっているだけだもん。ねっ? せっかく来たんだから、もっとみんなと話してみようよ!」エリスがティエンジェの手を引くと、彼は照れくさそうに頭を掻いた後、『降参だ』というようなジェスチャーをして立ち上がる。
「オーケイ。なら俺の、お気に入りスポット、に案内するよ」
エリスのサマー旅行記⑤ ダックダックゴー
ティエンジェに案内されたのは、大きなマロニエの木などが植えられた学校の広い庭だった。奥に行くと池が見え、水面にはマガモなどの水鳥が数羽泳いでいる。「のどかなところだね?」エリスが言うと、ティエンジェは「ちょっと見てて――」と池の畔に近づいて、ピューッと口笛を吹いた。
すると、池の真ん中にある茂みのなかから、3、4羽のアヒルが泳いできて、エリスたちのいる陸まで上げって近寄ってきた。「わ~可愛いアヒルさんっ」それらはみんな綺麗な羽根を持っており(黒を基調として緑や青の差し色が見られる)、胸には特徴的な白い模様があった。恐らく『ポメラニアン・ダック』という品種で、それぞれ体長が50cm前後、体重は3~3.5kgほどの『ずんぐり体型』をしている。
「よく、ここで餌、やってるんだ」ティエンジェが鞄から袋を取り出して、中身を足元にパラパラ撒くと、アヒルたちは嬉しそうに地面を啄み始める。「この餌、ちょうど先週、街で買ったんだ」彼の持っている袋には英語で、『アヒル用ペレット(Duck Layer Pellet)』と書かれていた。ペレットとはペット用の、栄養バランスが調整された小粒飼料のことである。「あげてみる?」
「うんっ」エリスが飼料を受け取って、それを撒こうとした瞬間――1羽のアヒルが袋に飛び掛かって、そこに描かれた白いアヒルにきつーい一撃を加えた。その情景をひと言で表すなら、そう……。『ポメラニアン・ワンパンッ♪』だった……。エリスは後ろに尻もちをついて、持っていた袋をひっくり返してしまう――ペレットが雪崩落ちてきて、彼のTシャツの中やお腹の上に降り注いだ。
アヒルたちが一斉に飛び掛かる! あるアヒルはエリスの服の中に入り、胸やヘソに引っかかったペレットを啄み、またあるアヒルは彼のお腹に乗って、飛び上がりながら首元のペレットを啄んだ。「やっ、ふわっ――ひゃんっ――くすぐったい!」エリスが苦悶の声を上げる。そこへ、どこからともなく1羽のでかいガチョウも現れ、アヒルたちのビュッフェ・ランチに加わった。「だ、だめっ――そこはっ――今、敏感でっ――」ガチョウが執拗に胸元を攻撃する。
「クワッ、クワッ」「ギョエェェェー」「グワァァァー」5羽の水鳥たちが奇声を上げながら、エリスのことをめちゃくちゃにしている様子を、テムバとティエンジェの二人は成すすべなく見ていた。「テムバ……ティエンジェ――あっ、んっ――た、助けて……」そう言って涙目を浮かべるエリスを見て、ようやくテムバは今朝交わした約束を思い出した。『君が困っていたら、今度は俺が支えるよ』
「おい! あっち行けよっ」テムバがエリスに纏わりつく鳥たちを手で追い立てると、鳥たちは一旦距離を取ってから、また攻撃を再開する。「ティエン! 手を貸してくれ」呼ばれたティエンジェも一緒に追い立てると、今度はもっと遠くまで鳥たちが退いたので、その隙にテムバはエリスを立たせながら、彼の身体に付着したペレットを叩き落とした――その際一瞬だけテムバの手が、彼の胸の突起に当たってしまったが、気にしてられる暇はなかった。
そのまま1歩2歩と現場から後ずさると、ペレットに飢えた獰猛な野鳥たちの攻撃は、エリスから離れて、哀れな地面へと移っていった。今や騒ぎを聞きつけた近所中の野鳥が集合しており、そこは『のどかさ』の欠片もない完全なるカオスだった。「大丈夫?」テムバが聞くと、エリスは困った表情で「うん……」と応える。よく見ると彼の身体には、ところどころ擦れ傷や切れ傷ができていて、一部出血も見られた。「大変だ……すぐに手当てしに行こう!」
*
テムバとティエンジェは、エリスを連れて自分たちの部屋へと戻ってきた。途中、ニコラのグループと再会したのだが、事情を話している暇はなかったので、ただ「怪我をしたんだ」とだけ伝えて帰路を急いだ。それからはニコラ、ミケル、ルカシュの三人も心配そうに付いてきていたが、使命感に燃えたテムバの意中には入らなかった。早くしないと、彼が『鳥インフルエンザ』や『サルモネラ菌』などに感染してしまうかもしれない――。
テムバは部屋に入るなり、エリスを狭いバスルームへと押し込んで「とりあえず服は全部脱いで、傷口を水で洗って」と伝える――ちなみに彼らの寮部屋は『エンスイート(en-suite)』タイプだったので、部屋の中にバスルーム(トイレ、バスタブ、シャワー)が付いていたのだ――。そして自分の鞄を開けたテムバは、中からポビドンヨード原液とペットボトル水、医療用脱脂綿を取り出して、早急に消毒の準備を進める。
彼の意図を汲んだニコラは、勝手にエリスの鞄を開けて、中から替えの下着とTシャツを取り出して――って下はドロワーズ(パンプキンパンツ)かよ!? 何てもん穿いてんだエリー!――、それをバスルームに投げ入れて「洗ったらすぐ身体拭いて、それ着てこっち来い!」と叫んだ。
エリスのサマー旅行記⑥ 治療と検診
「あ、洗えたよ」2分後、バスルームの扉が開いて、白の下着姿をしたエリスが現れた。肩に掛かる髪の毛先が少し濡れていて……さすがに5人に見られていると恥ずかしそうだ。テムバは彼を自分のベッドまで連れてきて座らせると、赤く濁ったペットボトル水に浸された脱脂綿を取って、「傷を消毒したいんだ。少し身体を触ってもいいかい?」と静かに伝える。
するとすぐさま「うん、お願い」と、エリスがTシャツをたくし上げようとするので、テムバは「あいや、シャツは少し浮かせるだけでいいよ。身体は見ないようにするから」と要求を訂正するが、エリスは「ううん、別に見てもいいよ」と最後までたくし上げ、その柔肌と熟れた果実二つをあらわしにした。
「じゃ、じゃあ拭いてくね」テムバが脱脂綿を当てていくと、そこからエリスの白い素肌が赤く染まっていき、ヨウ素の独特な匂いが鼻をつく。「服が汚れちゃったらごめん――っていうか、服着る前にバスルームで自分で塗った方が楽だったよね……なのに何で俺が拭いちゃってんだろ? なぜか成り行きでこうなって……本当ごめん……」彼は緊張からか、やけに捲し立てながら手当てを進める。
「ううん、いいの」エリスが彼を庇う。「バスルームは狭くて暗かったから……それに、一人じゃ塗れないところも、んあっ――」ちょうど左胸を拭き始めたとき、エリスが小さく悲鳴を上げて顔をしかめたので、テムバが瞬時に布を離す。「ごめんっ、沁みた?」
「ち、違うの……」エリスが恥ずかしそうに顔を伏せる。「大丈夫だから……つ、続けて……」彼がそう言うのでテムバは作業に戻り、左胸、右胸、肩、そして首筋まで塗っていく。途中、エリスは明らかに苦しそうに、Tシャツの裾を咥えて声を押し殺していた。「もし痛かったら我慢せず言ってね」
「じ、実は、僕……」エリスが赤面しながら口を開く。「先週から『エストロゲン』のお薬を飲んでるんだ……それで、昨日くらいから胸の先っぽに『しこり』ができてきて、痛くって……」実はエリスは、あれから病院に行って医師に『できるだけ今のままでいたい』という意向を伝えていたのだが、そのとき『だったらこれがいいでしょう』と、弱い女性ホルモン薬を処方され、以来、毎日一錠ずつ飲んでいたのだ。
「エストロゲン? それって……」エリスの身体に腕をまわし、側面や背中を拭き始めるテムバが、怪訝な様子で隣にいるニコラを見る。ニコラは頭を掻いてから「あいや、何て言うか~、こいつ複雑で」と応えるが、正直なところ、ホルモン治療のことは彼も知らされてなかった。エリーのやつ、そんな大事なこと何で俺に黙ってんだよ――。
「お医者さんが、1カ月くらいで『しこり』は無くなるって……だから、今は我慢しなきゃいけないの」苦笑いを浮かべるエリス。彼は今身をもって、第二次性徴に入った女性の大変さの、ほんの一端を体感していた。これまで性ホルモンが分泌されていなかった彼の身体にとって、それは天地がひっくり返るような感覚だった。
「しこり、か……」テムバがエリスの両腕まで拭き終わったところで、難しそうな顔をして呟く。「あの、もし嫌じゃなかったら、そのしこり触ってみてもいいかな?」あまりの衝撃的な発言に、それから数秒の間、全員がシーンと押し黙っていた。すると言った本人も失言だと気づいたようで、慌てた様子で付言する。「ごめん俺っ、まだ言ってなかったけど、医大志望なんだっ。胸のしこりは『乳腺症』とか『乳がん』の恐れがあるから――」エリスが顔を背けながら胸を突き出す。彼が「いいよ……」と囁くと、5人はゴクリと息をのんだ。
「それじゃ、触るね――」テムバは内科医が聴診器を当てるかのごとく、両手で優しくエリスの胸を押していった。「うん、乳房のところにはないね」それからプックリと膨れた乳頭の周りを摘まんでいく。「乳腺は……少し張ってるけど、ここも大丈夫」そして満を持して、乾いたポビドンヨードでオレンジ色に変色した、柔らかな乳輪へと指を沈めていく。すると中にやや硬い組織があることがすぐに分かった。「なるほど、これがしこりだね? こうやって触ると痛い?」彼はしこりを何度か摘まんでみる。
「んっ……ちょっとズキズキするかも……でも、わ、分かんない……」エリスはTシャツを咥えたままモグモグ喋る。「もっと、先っぽかも……」
「ここ?」テムバがピンク色の粒つぶを人差し指で押したとき、彼が「ひゃっ」とシャツの裾を吐き出したので、すかさず指を離して「痛かった?」と聞くと、紅潮したエリスがコクッと頷いた。その瞬間、テムバ先生のなかで何かが壊れた。
「痛みは10段階でいくつくらい?」先生が先っぽをコネコネ、クリクリと弄り始める。この時点で彼には、エリスが深刻な病気でないことは分かっていた。しこりは柔らかかったし、強い痛みも出ていないようだったので、恐らくエストロゲンの作用で乳腺が発達し、その初期症状として軽い乳腺症状が出ているのだろう、と。「イチが最小、ジュウが最大で」それよりも、この子の性知識のなさの方がよっぽど重症だ! 誰かが気づかせてあげないと! ほらっ、これでも痛いのかい? エリス――。
「な、ナナ……い――あんっ――ろ、ロクか――にゃんっ! そ、そりぇきゃんっ――ご、ゴかも……あっあっあ――」エリスが目に涙を溜めながら、必死に自己申告するも、もはやただの喘ぎ声にしか聞こえない。「ヒリヒリィ――んくっ――してぇ、ジンジン――んっんっ――すりゅの……いっくっ」二コラですら、親友のこんな甘ったるい声聞いたことなかったし、こんなだらしなく口を開けて、唾液を垂らしている彼の姿なんか見たことがなかった。クソッ、エリー……乳首感じてんのかよ――。
「て……てぇむばぁ……ぼ、ぼく……へんにゃきもちに……にゃ、にゃっちゃった……」エリスがとろけそうな表情で先生に縋りつく。「ぼきゅ……びょ、びょうき……にゃの?」そこまで来たところで、ニコラの感情が限界を迎えた――。
「もういいっ! 全員ここから出ろっ!」ニコラはテムバ、ティエンジェ、ミケル、ルカシュの4人を部屋の外へと乱暴に追い出すと、エリスのところまで戻って、彼の衣服を直しながら「エリー、お前は病気じゃねぇ。その症状は一時的なものだ。気にすんな」と慰める。それから彼は、消毒液とエリスとをバスルームに閉じ込めて、「もしまだ塗れてないところあったら、自分で塗っとけ」と叫んだ後、ふーっと息を吐きながらベッドに腰を下ろした。ったく、初日からこれかよ。前途多難すぎるだろ――。
追い出された4人も気まずい思いをしていた。テムバは両手を見ながらワラワラ震えていたし、ティエンジェは『やりすぎだぞ!』という思いをのせて、テムバの肩に軽いパンチを食らわせた。一番年下のミケルに至っては、性衝動を抑えられなかったようで、ズボンのポケットに手を突っ込んで、無我夢中で自分の物をしごいていた。それに気づいたルカシュは、そっとミケルの手を制し、「気持ちは分かるけど、昼間に公衆の面前だし、やめときな」と静かに諭すのだった。
第六章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.3
エリスのサマー旅行記⑦ 乳首が擦れて気持ち~です
あれから夜にレクリエーションを受けた彼らは、集まった子供たちで自己紹介し合ったりして友好を深めた後、各自部屋に戻って休眠をとった。その間テムバはエリスに『行き過ぎた診察だった』と謝って、彼から『ううん、いいの』とお許しの言葉をいただいていたが、それでも彼らの関係はギクシャクしてたし、部屋の空気は重かった。ティエンジェは『早く仲直りしてくれ~』と願いながら眠りに就いた。
*
次の日の月曜日、エリスたち新参入組は英語の実力を見るための『エントリー・テスト』を受けていた。発音の正確性を測る『スピーキング』、文法読解力を測る『リーディング』、文章作成能力を測る『ライディング』に分けて、午前中いっぱいテストされた。
英語のレベルには7段階あり、下からA0が完全なる初心者、A1が簡単な単語や挨拶ができる程度、A2が短い文章で基本的な日常会話ができる程度、B1が旅行や仕事で困らない程度、B2が自然なビジネス会話ができる程度、C1が流暢に専門的な議論ができる程度、C2がネイティブ相当となる。
テストの結果、彼らの英語レベルはエリスがB1、ニコラもB1、テムバがB2、ルカシュがA2、ミケルもA2だった。彼らは明日から、自分たちのレベルに見合ったクラスで英語を学ぶことになり、このメンバーではテムバだけが上級者クラス、他はみんな中級者クラスだった(ちなみにティエンジェはスピーキングが足を引っ張っているせいでA2レベルである)。
午後からはテニスをした彼らは、火照った身体を冷ましながら夕食を摂っていた。みんな楽しく談笑しながらも薄々気づいていた、あれからエリスの調子がおかしいことに……今日も少し元気がないし、ときどきボーっとして上の空だった。
その原因も何となく分かっていた――エリスの両乳首はTシャツの上からでも丸分かりなほど、ずっと勃起していた。ホルモンの影響がピークを迎えており、衣服で擦れるだけでも刺激になるほど、敏感になっているようだった。ニコラは何とかしてあげたかったが、個人的かつ繊細な問題だったので、今はそっとしておくことにした。
*
次の日の火曜日、午前中の授業が終わって昼食を摂った後だった。苦しそうに息を荒げたエリスが来て、ニコラをトイレの個室へと呼び出した。ニコラは嫌な予感しかしなかったが、親友が辛そうにしているのをこれ以上見てられなかったので、仕方なく彼に同行することにした。
エリスはニコラを個室に引き込むなり、トイレの鍵を締めて、戸惑う親友を壁ドンで抑え込む。「え、エリー? い、いきなりナム?」ニコラがおどけて反応するも、エリスは「に、ニコ……」と荒く呼吸を繰り返すだけだ。ヤバいヤバいヤバい! この状況はヤバいぞ――。「どうしたん? ち、乳首擦れて辛いのか?」
「ニコ……僕のこと……」エリスがベルトを外して、ハーフパンツを下ろしていく。「病気じゃないって……言ってくれたよね?」続いて彼は、下に着ていた黒のドロワーズを下ろしていく――ニコラの視界にナニかが飛び込んできた。「これでも僕……病気じゃない?」それはエリスの勃起したおチンチンだった。巨大なクリトリスくらいのサイズでピョコッと反り立っている。
「あ、あぁ~、ち、チンポ、勃っちゃったんだなぁ~」ニコラが気まずそうに目線を天井に逃がしながら、できるだけ軽い調子を装う。「男ならたまになっちゃう、よくある現象さ~。し、然るべきところに血流が起こったら、筋肉が自然と硬直して――うわっ」
「もっとよく見てよっ!」エリスは相当怖がっているのだろう、突如として乱暴にニコラを頭を掴み、それを自身の股間に引き寄せる――気づけばニコラの目の前には、ピクンッ、ピクンッと脈動を繰り返すウィンナーがあった。「せ、切ないよ……ニコォ……」エリス自身の甘い香りと、オシッコの刺激臭とが混じった、独特な匂いがニコラの鼻を直撃し、頭がクラッと揺れる。だ、ダメだ……こいつのチンポなんか見慣れているはずなのに、この匂いのせいで理性が――。
「エリー……ちょっと、おっぱい見せろ……」ニコラはゆっくり立ち上がると、逆の壁にエリスを追い込んで、彼のTシャツを擦り上げていく。そして彼の腫れあがった乳首を見ると、ニコラはポケットから何かを取り出して、それを包みから出して――彼の乳首に貼り付けた。
「ニコ? これって……」エリスが見たそれは『絆創膏』だった。ニコラはもう一枚の絆創膏も包装紙から出し、その保護シートを剥がしてから、エリスのもう一方の乳首に貼り付ける。「んっ……」
「これで多少マシになると思うぜ」ニコラはエリスのトップスを整えた後、しゃがみ込んで彼のボトムスも直し始める。「何度も言うけど、お前は病気じゃねぇよ。コレも触らなければ、いずれ治まるからさ」テント状態になったドロワーズの又部が、ハーフパンツに隠れゆく。「だから、安心してキャンプを楽しめよ。テムバともちゃんと仲直りしてさ」
「うん……」エリスはまだ落ち込んでいるようだ。「でも僕……明日からも我慢できるかな? いつも『先っぽ』ばかりに意識が行っちゃって……いつか自分がとんでもないことしちゃいそうで、怖いんだ……」彼の目から涙が零れる。「何か大失敗して、誰かに迷惑掛けちゃうんじゃないかって……」
「大丈夫さ」ニコラがトイレの鍵を開ける。「来いエリー、俺が何とかしてやるよ――」明日への扉が開かれた。
エリスのサマー旅行記⑧ ブラジャー・デビュー!
ニコラはエリスを連れて、いつもよくしてくれる女性スタッフのもとを訪れた。彼はもうプライドも何もかもかなぐり捨てて、大人に助けを求めようと決断したのである。彼がスタッフにだいたいの経緯を説明し、「乳首擦れて辛いみたいなんす」と相談しているのを横で見ながら、エリスは途方もない安心感を得るとともに、顔が燃え上がるような恥じらいを覚えた。あうぅ……こんなことになるなら、お薬なんか飲まずに骨粗鬆症になって、骨折した方がよかったのかも――。
その20代後半の女性スタッフは、真剣にニコラの話を聞きながら、時折エリスへと案じの目を寄越しては頷いて、お終いに笑顔でこうアドバイスしてくれた。「そういうことなら任せて! 明日一緒にブラジャーを買いに行きましょう!」
「ぶ、ブラ……?」ニコラとエリスの二人は呆気にとられていた。
*
次の日は水曜日だったので、このサマー・スクールでは多くの場合、午後は近場へ出掛けて学校外施設を利用する日だった(学校外施設の利用には別途費用が掛かる)。その日はディッカー校から南に17kmほど行ったところにあるイーストボーン(Eastbourne)という町の、『トレジャー・アイランド・アドベンチャー・パーク(Treasure Island Adventure Park)』という施設で、アドベンチャー・ゴルフをすることになった。
目的地に到着し、ほとんどの生徒たちがバンから降りたところで、一台だけ発進するバンがあった。みんなウキウキした表情でパークの外観を眺めているのに対し、ニコラだけが気掛かりそうな目で、そのバンを見送っている。エリー、きっと怯えているだろうな……いろんな意味で……もうちょっとの辛抱だぞ! あと少し何とか耐えてくれ――。
「そんなに緊張しないで、きっと良いブラジャーが見つかるわ!」女性スタッフが、隣の座席で震えている生徒の頭を愛撫している。彼女は『キャサリン(Catherine)』という27歳の女性で、このスクールのスタッフとして働くのは、これがまだ二度目だった。それでも成長期の女性の悩みについては熟知していたし、万全のサポートを提供できる自信はあった。もっとも、今優しくグルーミングしてあげている隣の小動物が、厳密には『メス』ではないということを、彼女は半分見落としていた。ちょっと何よコレ、この子の髪サラサラすぎ――。
「ひゃ、ひゃいっ!」未知の小動物のような鳴き声で、辛くも返事したのはエリスだった。バンの中は結構な振動で、乳首もアソコも擦れて大変なことになっていた。決死の思いで半勃ちに抑え込んでいるが、油断したら快楽が全身に広がって、嬌声がもれてしまいそうだった。あ、あとにゃんぷん……にゃの……? でぁめ、オシッコ……漏れちゃうきゃも……。
「エリスは、好きな人とかいるの?」キャサリンがふと尋ねる。やっぱ恋バナは必須よね! という単純な理由からだった。「しゅ、しゅきにゃひと?」とエリスが呆然としているので、彼女は「そうそう、あのニコラって子は? 彼、あなたのことを親身に相談しにきてくれたでしょ?」と続ける(ちなみにイングランドは2014年3月29日から、スイスでも2022年7月1日から同性婚が認められていたし、2040年の社会ではジェンダー的多様性は充分に認められている)。
エリスは「わ、わかりま、しぇ、しぇん」と答えることしかできなかった。正直、彼は『好き』って気持ちがよく分からなかった。みんなのことが好きだったし、そこに特別な好きなんて、家族を除いてはあるわけがないと――ふと頭に浮かんできたのは、『ダニエル』のことだった。ダニエル、今どうしてるのかな……。今の僕の姿、ダニエルには見せたくないな……。自分のことがちょっとだけ嫌いになって、知らず知らずのうちに涙が零れていた。
「さぁ着いたわよ!」キャサリンが前方を示す。どうやら目的地に着いたようで、バンは立体駐車場の坂道を上っていた。「ここが、この辺りで一番のショッピングモール『The Beacon Eastbourne』よ! ここならきっと可愛いブラジャーが――ってエリス、大丈夫?」ようやくエリスが泣いていることに気づいた彼女が、慌てて介抱する。「よしよし、いい子いい子……男の子でも必要ならブラくらいすればいいのよ? からかってくる子がいたら言って、私がとっちめてやるから!」彼女の慰めはかなり的を得ていたが、今回に関してはやや中心を外していた。
バンは2F駐車場に停車し、エリスはキャサリンに支えられながら、とぼとぼとモール内へと入っていった。バンを降りる際、涙を拭いながら「ありがとう……ございました」と言って、懸命に笑顔を作ろうとするエリスの姿を見ながら、運転手は『あの子のためなら、あと5時間でも運転してられるな』と思った(パークからモールまでは片道5分)。
*
やってきたモールには、『マークス&スペンサー(M&S)』や『H&M』などの有名アパレルショップも入っていたし、探せばティーン向け下着も見つかる算段だった。ただし男の子向けの、それもエリスの体型に合ったブラとなると、ややレアリティが高いかしらね――。そんなことを考えながら歩いていたキャサリンは、まず目に入ってきた『プライマーク(Primark)』というアパレルショップに、とりあえず入ってみることにした。
Primarkはアイルランドのファッション・ブランドで、衣料品やアクセサリー、化粧品、靴などを幅広く取り扱っていて、またキャラクターとのコラボ商品も多数販売する、日本でいう『しまむら』のようなお店だった。煌びやかでいて落ち着いた雰囲気の店内に足を踏み入れ、まずは婦人服コーナーを散策しにいくキャサリン。彼女に付き従うエリスは、バンから降りたことで幾分か刺激から解放されていた。
「エリス、あなたのお母さんは胸が大きい?」歩きながらキャサリンが尋ねると、彼は「うーんと……中くらいです」と答える。中くらいってことは、まぁ平均的ってことでしょうから、きっとBかCカップくらいね? それに彼が飲んでいる薬は成分量が少ないものみたいだから、これから成長したとしてもAカップ程度が妥当かしら――。そんな考慮を重ねていると、婦人服コーナーに着いたので、適当に見繕って買い物カゴに入れていく。えぇっと、これとこれと、これ……えぇい! このハーフカップの白色レースブラも入れちゃえっ!
「とりあえずいくつか選んでみたから、試着して具合を確かめてみましょ!」キャサリンがエリスの手を引き歩き出す――。ちなみに、Primarkはブラに関しては試着可能で、このお店にはユニセックスの試着室もあった。
*
買い物カゴを渡され試着室に閉じ込められたエリスは、上半身裸になって白のレースブラを持ち上げていた。えぇっと……どうやって着ければいいの?「あの……キャス?(キャサリンの愛称。彼女は自己紹介のとき、ぜひそう呼んでと言った) 僕、やり方が分からなくて」彼が呼ぶとキャサリンがカーテンから顔をのぞかせ、熱心に説明を始める。
「まずカップを背中にして、横のベルトをアンダーバストに巻き付けて――いいわよ。そのまま前でホックをちょうどいいところで留めて、できたらカップを前に持ってきて――上出来! あとは肩紐を両肩に引っかけて、肩のところのアジャスターで長さを調節すればいいわ――あっ、調節は私に任せて~……はいっ完成!」エリスが鏡を見ると、ちょっぴり大人びて見える自分自身の姿が映っていた。
「このブラはパッドが入っているから、外部の刺激から胸を守ってくれるわ! それに胸を下から支えるアンダーワイヤーが着いていないタイプだから、締め付けも弱くて長時間の着用も苦じゃないはずよ。難点があるとすれば、レース部分が刺激になることと、Tシャツの上からでもブラが目立ってしまうことね? 着け心地はどーお?」
「す、少し大きいかも……」エリスがモジモジしながら感想を述べる。全体としては悪くない感じだったが、やっぱりSサイズでもカップの中には隙間ができていたし、それが絶妙にバストトップに当たる位置だったので不快だった。「次の試してみます」
*
それからブラトップ(カップ付きインナー)、Tシャツブラ(薄めのカップ&シームレス)、スポーツブラ(ノーパッド&シームレス)などを試したのだが、どれもしっくり来なかった。カップ付きはやっぱりフィットしないし、かと言ってスポブラは締め付けが強いのと、防御力の低さが否めなかった。
最初にカゴに入れた物が全滅だった時点で、キャサリンは「ちょっと待ってて!」と、どこかへ走っていってしまう。エリスは溜息を吐いて、脱いだスポブラを畳んでカゴに戻していた。やっぱり、僕にはブラなんて早かったのかな――。
「これはどう?」戻ってきたキャサリンが持っていたのは、青と白の縞々模様が可愛い、ティーン向けのソフト三角ブラだった。「そこの秋冬物の割引コーナーで――はぁ、はぁ――ラスイチを見つけたの! ふーっ、ふぁーっ――パッドなしで、厚手の生地、綿100%――んっく――裏地は起毛よ――はぁ~! ちょっと走っただけで暑っついわ」
「ありがとう。着てみます」エリスはそのブラを受け取ると、肩紐に両腕を通し、Zカン式のフックで細いサイドベルトを留めた。するとフワフワの起毛裏地が優しく胸を包み込み、それは奇跡的なほどエリスの体型にフィットしていた。「すごく……心地いいです!」喜ぶ彼の笑顔を見ながら汗を拭うキャサリンは、カーテンの隙間から親指を立てた手をのぞかせ、ひと言こう言った。
「キュート!」
*
「お待たせしました」二人がバンに戻ってきた。運転手が挨拶してくれたエリスに対して「やぁ、いい買い物はできたかい?」と聞くと、彼は横髪を持ち上げて首筋を見せながら、「はいっ」と飛びっきりの笑顔を浮かべた。その首元で空色の肩紐がチラリと揺れる。運転手は、『この子のためなら、あと10時間でも待ってられたな』と思った。
運転手「それじゃー行くよー!?」
エリス&キャス「おぉー!」
最高にホットな夏はここからが本番だ!
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