
第七章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.4
エリスのサマー旅行記⑨ 陶芸とタレント・ショー
あれからみんなのいるパークに戻って、アドベンチャーゴルフに混ざったはエリスは、グループのメンバー――特にテムバ――に対して、『個人的な理由で、これまで気が抜けた態度ばかりとってしまって、本当にごめんなさい』と謝った。そして『どうにか問題は解決したこと』と『これから関係修復のために努力すること』を伝えて、完全に和解することができた。
当のテムバたちにしてみれば、今回のことがエリスだけの責任でないことは重々承知していたし、彼がわざわざ努力せずとも、これからもずっと友達であることに変わりはなかった。むしろ四六時中『発情しっぱなし』の彼の姿は一生忘れられない思い出にもなったし、何なら今も『どんなブラ買ったのかな~?』と気になって仕方がないくらいだった(当然ニコラが言いふらしたわけではないが、噂というものは概して広まるものだ)。
*
次の日、木曜日の午後。エリスたちは学校の工房で陶芸作業の続きをしていた。実は火曜日の午後にも陶芸を行っており、その日は土練りから成形までを行っていて、これまで生地を自然乾燥させていたのだ。火曜日はみんな、独創的なオブジェクトなどを造るなか、エリスは手回しロクロを使ってサラダボウル用の器を造って、外側に個性的な彫刻を掘ったりしていた(ちなみにティエンジェは先週やっていたので不参加)。
このサマー・スクールで造る陶磁器は、『ビスケット磁器(Biscuit Porcelain)』という種類の、素焼きのみで完成となる白磁器であった。釉薬(表面をガラス質にするための薬品)を塗って本焼きを行わないため、強度がやや低いことから置物や装飾品向きで、本来食器には適さない製法ではあるのだが、エリスは映画『ゴースト』の有名なシーンに憧れていたことから、ぜひともロクロを使ってみたかったため、サラダボウルを造ろうと決めたのである。
本日はその乾燥素地を焼き窯に入れて、素焼きを施して生地から完全に水分を飛ばす作業だった。600℃から毎時100℃ずつゆっくり加熱していき、最終的に目標温度1160℃に達してから1時間ほど保温し、そこから徐々に温度を下げていって、合計8時間で素焼き工程が完了する設定だった。焼成後、窯が完全に冷めるまで1日程度待って、あとは作品を取り出せば完成となる。難しいことは全部焼き窯が自動で行ってくれたので、作品を窯に入れたエリスたちは、早々にスカッシュ場に遊びに行っていた。
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その日の夜。『ビーズ・ゴット・タレント(Bede’s Got Talent)』という、イギリスで有名な公開オーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント(Britain’s Got Talent)』を模した一芸コンテストが開催された。集まった全員が各自一つずつ、思いおもいの芸を披露していき、最終的に参加者の総評により優勝者を決めるという、実際の番組とは違い審査員がいない方式だった。
一番手だったティエンジェは、三桁の掛け算を瞬時に暗算してみせ、いきなり会場を大いに沸かせた。テムバは即興ラップを披露したが、早い発音にスラングまで多様したので、ほとんどの人が聞き取れずに凄さが伝わっていなかった。エリスは口笛で鳥の鳴き真似をして、観客から「可愛いぃー!」と歓声を浴びた。
ニコラは『スポンジ・ボブ』のオープニング・テーマ物真似をすると言い出し、会場が失笑に包まれたのだが、ひとたび彼が「準備はいいかねぇ?(Are ya ready kids?)」と言うと、みんな楽しそうに「アイアイ、キャプテン!(Aye Aye, captain!)」と返し、彼が「聞こえないぞぉ~?(I can’t heeeaaar yooouuu!)」と言うと、また「アイアイ、キャプテ~ン!(大声)」と叫んでいた。
ニコラが「うぅぅぅぅぅぅぅ~パイナップルに住んでいる~♪(oooooooooooo………Who lives in a pineapple under the sea?)」と歌い出すと、観客はしっかり「スポンジ・ボブ、ズボンは四角!(Sponge Bob Square Pants!)」と合いの手を打っていく。彼の歌はてんで上手くなかったが、間違いなく場はドッと盛り上がったし、彼が歌い終わりに鼻でピッコロを吹こうとしたときには、爆笑まで起こった。
ミケルの番が来ると、彼は可笑しな格好で登場してパントマイムを始めた。頭には男性スタッフから借りたらしい『山高帽子(ボーラーハット)』が載っかていて、顔にはマジックペンで書かれた『ちょび髭』が……どうやらサイレント・コメディーの巨匠『チャーリー・チャップリン』になりきっているようだ。彼は『杖』に見立てて傘を振り回したり、テムバから借りたブカブカの靴を『ドタ靴』に見立てて履いて、ガニ股でパタパタ歩いたりした。
ほとんどの子供たちはチャップリンを知らなかったため反応はイマイチだったが、大人のスタッフたちからは「ブラヴォー!」という歓声や、称賛を込めた口笛が響いたりした。ミケルは歓声に応えるように、最後は山高帽を高々と掲げて、観客にお辞儀してから退場した。ナイス・トライ、ミケル!
満を持してルカシュが登場した。彼は『ヨーヨー』が趣味らしく、この旅行にも自前のヨーヨーを持参していたとのことで、この場を借りてその腕前を披露してくれると言う。
まず彼が実演したのは、一つのロング・スリープ(長時間空転)式のヨーヨーを使って行うストリング・トリックだった(公式では『1A』と呼ばれる部門の技)。彼は、素人には何がなんだか分からないくらい糸を交差させては、その交差にヨーヨーを引っかけたり弾ませたりして、最後には糸を解いてヨーヨーを引き戻したりしていた。
続いて糸を指から外し、そこに『カウンター・ウェイト』と呼ばれる錘を装着した彼は、ヨーヨーをヌンチャクのように振り回して行うフリースタイル・トリック(公式では『5A』と呼ばれる部門の技)を披露して、割れんばかりの拍手喝采を浴びた。な、なんじゃあれ……。趣味とか言うレベルちゃうやろ……。
結果、コンテストはルカシュのぶっちぎりの優勝だった。当然だった……あれはすごすぎた……。
エリスのサマー旅行記➉ さらば、ティエンジェ!
金曜飛んで土曜日の午前10時半、エリスたちは一日遠足としてロンドンを訪れていた。今回遊びに来たのは、ロンドン中心部より南西に32km行ったところにある、『ソープ・パーク(Thorpe Park)』という絶叫系アトラクション満載の遊園地で、ありがたいことに当日は晴れだった。
ただ残念なことに、ティエンジェは今日でスクール期間終了とのことで、そのままヒースロー空港に行って帰国する予定になっていた。バンから降りたエリスたち一行は、振り返ってティエンジェに寂しげな目を向ける。
「ありがとう」ティエンジェがバンから降りて、一人一人に握手していく。「君たちのおかげで、俺のサマー・スクールは掛け替えのない思い出になったよ。それに英語力もグンと伸びた――」みんな目を潤ませながら握手に応えていく。最後にエリスの番が来た。「人と話すことの楽しさを教えてくれて、ありがとう。エリス」ティエンジェが優しく微笑んで手を差し伸べるも、エリスは涙を拭うばかりで、なかなか握手に応えられない。
やがて運転手に「おーい、もう行くよ!」と言われたティエンジェは、無理やりエリスの右手を捕まえて、一度大きく振ってからバンに戻っていく。その間際、「ティエンジェッ!」と強く呼び止める声がしたので、彼が後ろを振り向くと、そこにはスマホを空高く掲げるエリスの姿があった。
「僕たち、またいつでも話せるから! 繋がってるから!」エリスの叫びに呼応するように、ニコラたちもスマホを天に掲げる。「過ごした時間は短くても、僕たちの友情は永遠不滅だからっ! それに僕らみんな、君の『宇宙飛行士になる』って夢を応援してるからねっ!」全身全霊で叫ぶエリスの目から、涙の雫が迸る。
ティエンジェも思わず感極まってしまう。あぁもう……泣くわけないって思ってたのに――。眼鏡を押さえ、泣き顔を見られないよう慎重に前を向きなおすと、彼はポケットからスマホを取り出して、それを頭の横で二回振って別れの意を伝えた。なってみせるさ、宇宙飛行士に! じゃあな、みんな……じゃあな、エリス――。
彼を乗せたバンが去った後、しばらくエリスたちはその場に立ち尽くしていた。すると全員のスマホが一斉に通知音を鳴らしたので、各人自分のスマホ画面を見る。するとティエンジェから宛てられた、こんなメッセージが表示された。「バーカども! いつまでも突っ立ってないで、パークで遊んでこいや!(Hey, you fools! Quit standing around and go have some fun at the park!)」
全員がクスリと笑って、ソープ・パークの方を向く。
「よっしゃ、遊ぶかぁー!?」ニコラが叫ぶと、全員が「おぉーっ!」と喚起した。
エリスのサマー旅行記⑪ 絶叫アトラクションを克服せよ!
入場チケットを開示し、遊園地の門を抜けたエリスたちは、清々しい気分でフリート湖に掛かる橋を渡っていた。ちなみにソープ・パークは入場料を払って入園すれば、当日園内の乗り物は全て乗り放題になるシステムで、その入場料もスクールの計画に予め組み込まれていたので不要だった。
橋を渡って最初に見えてくるのが、『The Dome』と呼ばれるドーム状の建物で、中にはロッカー、ATM、保健室、迷子センター、インフォメーションなどの主要サービスが揃っている、このパークのベースキャンプ的施設だった。ドームに入る辺りで徐々に聞こえてくる、アトラクションの稼働する音、人々の賑わい……エリスたちはパークの地図を見ながら、まず最初にどこへ行こうかと話し合っていた。
ドームを抜けると、目の前にはウォーター・パークが出現し、プールで水遊びする人たちやウォーター・スライダーを滑る人たちが見えてくる。7月は行楽シーズンなこともあって、園内は家族連れやカップルでごった返していた。とりあえず真っすぐ進み、景色を楽しみつつ歩いていた彼らは、心の底では『暑いなぁ~プールいいなぁ~』と思っていた。
そんな折、「バッシャーン」という音とともに空高く水柱が上がっているのが見え、全員が度肝抜かれた。一帯がひんやり涼しくなる。地図で確認すると、それは『タイダル・ウェーブ(Tidal Wave)』というアトラクションのようだった。満場一致で、本日最初に乗るアトラクションが決定した。
タイダル・ウェーブは、ボートに乗って26mの高さからプールにダイブし、大きな水しぶきを全身に浴びる、『シュート・ザ・シュート(Shoot the chute)』と呼ばれる類のライドである。終わった後は高波に襲われたようにビショビショになるようだ――出口から衣服を絞りながら出てくる客たちが見えた。「気持ちよさそう」「いやむしろ寒そう」などと各々が感想を述べるなか、エリスだけは『た、高そう……』と、その斜面滑降への恐怖心を感じていた(彼はそういうのが苦手)。
彼らの番が来て、一同が乗ったボートが坂道を上っていく(ボート3隻が周回しており、各ボート20人乗り)。一番上まで来たところで、ボートがラグーンめがけて滑り落ちる。「キャーッ!」乗客が叫び声を上げながら着水すると、辺りが水脈を掘り当てた直後のような激流に覆われる。やがて視界が開けると乗客は、どしゃ降りの雨に打たれて下着までグッショリになった。
幸い落下感覚は、エリスでも何とか耐えられる程度だった。「楽しかったねー!」出口通路を歩きながら、髪の毛をタオルドライするエリスがそう言うも、誰も返事しない……みんな恐怖で絶句しているのだろうか? いや違う――みんな彼の胸の透けたブラジャーを見ながら、『し、シマシマだぁー!』と思っていたのだ。
*
ちょうど正午を迎えたくらいの時間だったので、出口付近にあったケバブ屋さんで昼食を買ったエリスたち一行は、意を決して天高くそびえる処刑場のようなレーンに向かって歩いていた。その処刑場の正体は、ソープ・パークを代表する発射型超速ローラー・コースター『ステルス(Stealth)』だった。
ステルスは出発後わずか2.3秒で時速128kmに達し、そのまま鋭角に曲がった約62mの頂点まで上っていき、勢い削がれぬまま超特急で降下して帰ってくるという、驚くべき絶叫体験を味わえるアトラクションである。ケバブに被りつきながら、さも当たり前のように搭乗の列に並ぶニコラたちを他所に、エリスは「じゃ、じゃあ僕はここで~」とパーティを離脱しようとする。
「あ、エリー……逃げるんだ?」ニコラが意地悪く引き留める。「お前がそんな根性なしだと知ったら、ティエンジェはどう思うかな~?」こんな見え透いた挑発に乗るエリスではなかった。そそくさと立ち去ろうとする彼――しかし次にニコラが言い放ったセリフは卑怯だった。「どうしたよエリー、お前チキンか!?(What’s wrong Ellie? Chicken!?)」
はっ? 今……。「僕のことを何て呼んだ、ニコ?(What did you call me, Nico?)」待てまてまて、聞き違いかもしれないじゃないか――。エリスは何とか平常心を保とうと努めるも、ニコラは「チキンだよ、エリー!(Chicken, Ellie!)」と追い打ちを掛ける。周りのみんなは『あーはいはい、BTTFのマーティとグリフの物真似ね』と傍観しているしかない。
「誰にも……(Nobody…)」踵を返したエリスの目は、完全にブチ切れていた。「僕を『チキン』とは呼ばせない!(-calls me “chicken”!)」言い終わった途端、満足したように演技をやめるエリス。「だってニワトリさんは本当は臆病なんかじゃないし~、それじゃニワトリさんが可哀そうだよ~」と言ってまたエスケープ決め込もうとする彼。あぁもう、これじゃ埒が明かない――。
「ごめんエリス、これは君のためだ」テムバがエリスの腕をガッチリとホールドする。ルカシュとミケルもそれに倣う。「そうそう、俺たちだって怖くないわけじゃないんだし」とルカシュ。「エリスも、いっしょ」とミケル。これにはさすがのエリスも、もう降参するしかなかった。トホホ……。
*
「うぎゃゃゃゃゃ~!!」乗客たちの絶叫が轟くなか、ステルス・ミッションは瞬く間に遂行された。今度のは本格的にヤバかったようで、全員がコースターの上で放心している……。
「す、すげぇな……マジでビビった」ニコラが言うと、みんな口をつぐんだまま頷く。「エリーなんか漏らしちゃってたりして?」彼が後部座席を振り向くと、ばつが悪そうに俯くエリスがいた。あれっ、まさかのまさか?
「くっ――」おもむろに左手で目元を覆い、かと思えば突如「あーはっはっはっはーっ!」と高笑いし始めるエリス。彼が左手のバイザーをどけると、その目は完全にイっちゃっていた。「まーたまたまたニコってばぁ~! 冗談キツイんだからぁ~!」彼は無理やり高所に行かされたことで『ハイ』になっているようだった。「僕が漏らすだって!? そんなわけないじゃないか~!」そこで彼の目に涙が滲む。
実際にはちょびっとだけチビっていた彼は、ニコラの指摘が図星だったので悔しくて仕方がなかった。あぁぁぁぁ、僕のバカァァァァァ! お気に入りのドロワーズだったのにぃぃぃぃ――。でも彼に代わって弁明させていただくと、それはほんの数滴程度……そう、『ちょびっツ』くらいだった。
*
それからパークの外周をグルっと周って、目についたヤバそうな乗り物に片っ端から挑戦していった一同。エリスも意固地になっているようで、全ての挑戦に真っ向から立ち向かっていた。もう怒った、絶対にニコには負けないから!
まず乗ったのが『ネメシス・インフェルノ(Nemesis Inferno)』という、宙吊り状態で乗るローラー・コースターで、名前からして完全にヤバかったし、実際乗り心地もヤバかった(そして私の語彙力もヤバい)。それでもエリスは、『宿敵』ニコラを『地獄』へと送るべく、ただ死に物狂いで恐怖に堪え忍んでいた(誇張表現です、エリスはそんな悪い子ではありません)。
次の障害は、『ハイぺリア(Hyperia)』という当パーク最恐のアトラクションで、最高到達点が約72m、瞬間最高時速は脅威の130km越えという、身の毛もよだつ乗り物だった(ちなみにハイぺリアは長らくイギリスで『最高最速』の記録を保持していたが、2040年では別のコースターに称号を奪われている)。これが終わった時点で、ミケルがダウンして離脱する。
ほいで次の『コロッサス(Colossus)』という、搭乗中に10回上下逆さまになるコースターでテムバがダウンし、その次の『SAW – The Ride』というホラー映画『ソウ』をテーマにしたカスタム・ユーロ・ファイターで、ついにエリスとニコラが同時にダウンした。補足として、『ユーロ・ファイター』とは90°以上の角度で落下するコースターの通称で、ソウ・ザ・ライドでは100°の角度で30m落下する、映画さながらのホラー体験が提供された。
「も、もうダメだ……ギブアップ!」ニコラが両膝に手を突いてゼエゼエ呼吸している。エリスも同じ様子で、「こ、今回は引き分けだね……」とパークに降参を告げた。唯一生き残っているルカシュは、顔色一つ変えずに「じゃ、俺は最後の怪物を討伐してくるよ」と、最終ステージへの道を歩き去っていく。そんな彼の勇敢な後ろ姿を見ながら二人は、『ば、化け物めっ!』と思っていた(とても勇者には見えない)。
*
二人が最初のドームに戻ってきた。クレーンゲームで遊んでいたミケルにテムバの所在を尋ねると、『彼は眩暈で保健室に行っている』とのことだったので、さっそく保健室を覗きにいくと、ちょうど中から彼が出てきて、「マジで勘弁してほしいよ、あのグルグル~」と言って笑った。よかった、テムバはどうにか元気そうだ――。
四人は残りの時間、別々になってドーム周辺を散策し、各々でリラックスした時間を過ごした。エリスは戻ってくる他のグループの人たちと「どうだった? どんなアトラクションに乗った?」と談笑していたし、ニコラはギフトショップで面白いアイテムがないか探していた。
そうこうしているうちに、時刻は18:30になり、スクールの生徒たちは退園する時間になった。ギリギリでルカシュも戻ってきたので、みんなして『ラスボスは倒せた? 強かった?』と茶化すと、彼は「んー、まぁまぁだった」とイタズラっぽく笑った。ちなみに彼が討伐してきたのは『ザ・スウォーム(The Swarm)』というモンスターで、7列のペアシートという両翼を持つウィング・コースターだった。奴の攻撃は最高39m、最大瞬間時速95kmで繰り出され、ハンターたちに通常の4.5倍のGをもたらす、その討伐依頼はまさに『G級クエスト』だった。
最後に生徒とスタッフ全員で記念写真を撮った一同は、やや名残惜しつつもパークを後にし、学校へと帰っていった。
香港までの約12時間のフライトが始まって少し経ったとき、機内Wi-Fiを通じて何かを受信したスマホが、眠りかけていたティエンジェを起こした。彼が画面をのぞき込み、メッセージを開くと、そこにはエリスたち五人の集合写真と、エリスからこんなメッセージが綴られていた。
『僕たち、いっぱい楽しんだよ! ルカシュなんか怖い乗り物を6つも攻略しちゃった! 僕も5つまで頑張ったんだ(怖そうな顔文字)。僕らそれぞれ成長した旅だったよね? いつかまた君と再会するときまで、こうやって成長していけたらいいな。それじゃあ、またね!(手を振る絵文字)』
ティエンジェは微笑してスマホを仕舞うと、「再見(ツァイジェン)……」と呟いて眠りに落ちた。ちなみに彼が話した言葉は北京……いや、こんなところで説明を挟むのは無粋だね。今は彼を眠らせてあげよう……。
サマー・スクール第一週 完
第八章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.5
エリスのサマー旅行記⑫ 新たなる出会い
日曜日はディッカー校から南西方向にある、イギリス海峡に面した町『ブライトン(Brighton)』へのゆったり旅だった。エリスたちは各々、いつもとは別のグループで行動し、ブライトン・ビーチ周辺の浜辺を歩いたり、露店で遊んだり屋台で美味しいものを食べたりした。
エリスは女の子グループに混ざって、軽快にガールズ・トークしながら(内容が完全にそうだった)、カットされたスイカやパイナップルを食べたり、あとフィッシュ&チップスも食べたりした(驚くことに彼は、まだイギリスに来て一度もF&Cを食べていなかった)。
でも最も落ち着けたのは、ただ黙々と水辺で『水切り』した時間だった。当日はあいにくの曇り空だったが、海の波は穏やかだったので、水切り石は5~7回くらいまでよく跳ねてくれた。ただ海水浴シーズンでもあったので、人気のない水切り場を探すのには苦労した。
あっそうそう、内陸国のスイス出身のエリスにとっては、本物の海を見る経験はこれが初めてだった。もちろん彼は興奮したし、誰もが一度はやる『波際ギリギリまで引き付けて、波が来たら「わーっ!」と言って逃げる遊び』もバッチリ楽しんだ。
潮の香りも新鮮で、何もかも充実して満ち足りた気分になっていたが、ふと故郷のレマン湖を思い出して、家族が恋しくなるエリス……。あぁ、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんに会いたいなぁ――。時刻は18:00。黄昏時にはまだ少し早かった……。
ここでワンポイント解説! 執筆現在の2025年ではイギリス並びにEU諸国、そしてEU非加入国であるスイスや、その他アメリカなどでも、3月最終日曜日~10月最終日曜日の間には、『サマー・タイム(英国夏時間: BST)』という時間表示が採用されており、通常我々が従っている『グリニッジ標準時(GMT)』よりも1時間進んだ時刻を示している。
これは高緯度の国は夏の間、日中となる時間が長くなるため、それを有効活用するために採用されている制度なのだが、2040年ではほとんどのヨーロッパ諸国でサマータイムが廃止されており(単純にややこしいのと、未来の時計は自動で起床アラームなどを調節してくれるため)、エリスたちが目撃している時間はGMTだということを、ここで宣言しておこうと思う。
よって7月22日のロンドンでは日の入り時刻はBSTでは21:00前後だが、GMTでは20:00前後ということになる。黄昏時にはまだ1時間半ほど早いのだ。エリスは最後に残していた『とっておきの石(大きさも形も完璧! まるでサーフボードみたい)』を海に投げ返してから、ガッツポーズして帰路に就いた――心が乱れていた彼の一投は、波に阻まれてあっけなく撃沈した。
*
19時ジャスト。ディッカー校に帰ってきたエリスとテムバが寮部屋のドアを開けると、中に見知らぬ男の子がいて、熱心に腕立て伏せをしていた。きっと新入りだ! そう思って二人が挨拶しようとした矢先、男の子が二人に気づいて立ち上がった――彼はエリスのことを凝視しながら硬直している。エリスは彼のことを見て、少しティエンジェのことを思い出した。もしかして彼は、いきなり僕らが現れたからティエンジェのときみたく、シャイになっているのかな――。
「やぁ――」エリスが第一声を発したのと同時、男の子が「うぉぉぉぉぉぉ!」と叫び声を上げた。エリスとテムバが戸惑うなか、彼は二人には理解できない言葉で独り言を唱え始める。「Majika…Kawaisugidaro…Dousuruyo? Ikuka? Ikukkyaneeyona? Otokonara!」それは呪文のようであった。
詠唱を終えた彼は、何らかの加護を受けたかのように決然とした表情を浮かべ、急に二人の目の前までズンズン歩いてきては、エリスの片手を取って片膝を突いた。「結婚しよう(Let’s get married.)」彼の口からとんでもないセリフが、指輪のように差し出される。これには、さすがのテムバも黙ってはいられなかった。
「うぉううぉううぉう――」テムバが彼らの間に割って入る。何だこいつ……いきなりエリスにプロポーズしたりして……隣の俺はアウト・オブ・眼中かよ? 俺はお前らの挙式に呼ばた介添え人じゃないぞ! いや落ち着け、クールにやり過ごすんだ。相手は新入りの東洋人なんだ。「悪ふざけはそれくらいにして、ちゃんと自己紹介しよう。君は新しくスクールに来た生徒なんだろう? 俺はテムバ、そしてこっちのか――」
「あっ? 何だテメェ? 俺の『可愛い子ちゃん』の彼氏か?(Huh? Who the hell are you? You the boyfriend of my ‘CUTIE’?)」男の子が鬼の形相をテムバに向ける。なっ、なんじゃコイツはぁぁぁぁぁぁ! っていうか、か、か、彼氏!? そんなふうに見えるのか!? ま、まあぁ? そういうことなら否定しないでおこうかのぅ?
「彼氏かどうかは関係ない! いきなり初対面で結婚とか言われても、冗談にしか聞こえないし、それじゃエリスが迷惑だろうと――」
「へぇ~君、『エリス』っていうだぁ~(Oh, really? Your name’s ‘Ellis’, huh?)」男の子が、テムバの影に隠れるエリスに甘い求愛ボイスを掛ける。「エリス、俺と結婚してくれるかい?(Will you marry me, Ellis?)」こ、こいつ~性懲りもなく~!
「いいかい? 君が思い違いするのも無理ないが、エリスは『男の子』なんだ。分かるか!?」テムバが応戦する。
「そんなこたぁ分かってんだよ! スクールの校則で『異性の部屋には入れない』って言われたばかりだからなぁ!」男の子がテムバを突っぱねる。こいつっ、なんて力だっ――。こ、校則には『暴力禁止』もあるんだからなぁ!?
「じゃお前ゲイか!?」テムバは高圧的な態度になるのを抑えられなかった。そうだ、こいつはゲイに違いない! 派手なピアスにネックレスまで着けて、髪の毛はブリーチしてピンク色のメッシュまで入れてやがる。服装だって上はタンクトップ一枚だし……その浅黒く日焼けしたムキムキの筋肉を見せびらかしたいだけなんだろう――。「それともバイなんですかい!?」
「いや俺はストレートだ! でもエリスと結婚できるなら喜んでバイになるし、ゲイだろうが他のなんだろうが好きに呼ばれても構わねぇ!」男の子は堂々と宣言する。「俺はエリスにひと目惚れした! 添い遂げられるなら、この身を捧げたっていい! なぁ頼む、俺を受け入れてくれエリスゥゥゥゥ」彼は無遠慮にエリスに抱きつこうとするも、テムバはそれを頑なに阻止する。
「相手の意思も尊重しろ! お前そんなんで、よく今まで生きてこられたな!?」とテムバ。「中国人か? 韓国人か? それとも――」
「グゥゥゥゥゥ~」突然、誰かの腹の虫が大声で鳴いた。衝突してた二人が虫の居所を探り当てると、エリスが照れくさそうに腹を押さえていた。
「えぇっと……僕お腹すいたんだ。よかったら、カフェテリアでお話しない?」
エリスのサマー旅行記⑬ 超肉食系男子『カイト』現る
ガツガツと肉を頬張りながら、互いに敵対心を剥き出しにしている二人の男子に挟まれながら、エリスは美味しそうに『スコッチブロス(ラム肉と大麦、根菜が入ったスコットランド発祥のとろみのあるスープ料理)』やサラダを食べている。まるで彼らのイザコザなど意に介していないようだ。はたからすれば、どう見たって三角関係の修羅場だったが……。
エリスの右手側でソーセージを貪っている新入りくんは、『長瀬 海翔(ながせ かいと)』という名前の、千葉県から来た17歳の日本人だった。プロサーファーになって世界大会で優勝するのが夢で、今は地元の大会で結果を出しながら、チャンスが来るのを待っているそうだ。プロの先輩や元プロの父親から英語はひと通り習ったらしいが、少しガラの悪い人たちのようで、荒っぽい言葉遣いが移ってしまったとのこと。
彼は今年の春、練習中にやや重い怪我をしてしまったようで、その怪我自体はこれまで治療とリハビリをしてきて大分回復したようなのだが、大事をとって夏はオフシーズンにしたことから、こうして気分転換にサマー・スクールにやってきたのだと言う。話を聞きながらテムバは内心、『なるほどアスリートか、どうりでガタイが良いわけだ。でも口が悪いのはティーチャーのせいじゃなく、お前自身の態度の問題だろう!』とツッコミを入れていた。
「あの……カイト?」スープを飲み終わって、スプーンを器に置いたエリスが、何かを覚悟したように話し出す。「さっきの『結婚』のことだけどさ……」おっと、まさか承諾するわけではござらんな? テムバは心中穏やかではなかった。ちなみに日本やイギリス、スイスでは婚姻は男女とも18歳以上から可能で、婚約には年齢制限はない。さてエリスはどんな回答をするのだろうか?
「ごめん、今はまだ約束できないかな」彼の返答は至極当然のものだった。「まだ君のこと、あんまり知らないし、君も僕のこと知らないでしょ? 結婚って、強い絆と確かな信頼関係を築いた二人が、一生に一度だけ交わす神聖な契約だと思うんだ。だから……ごめんなさい」
「だったらこれから知り合おう!」カイトが懐からスマホを取り出して、その画面をエリスに見せつける。「ほらっ、これが俺のインスタだよ――あっ、フェイスブックでもよかったら友達になろう? 今の時代アプリさえ使えば、相手を知ることなんて簡単――」
「ごめん僕、SNSはしてないんだ。僕自身あんまり興味がなくって、それにお父さんにも禁止されてるから……」エリスが申し訳なさそうに告げる。現代的すぎるコミュニケーションは、表面的な情報しか交換できず、またプライバシーの問題もあったため、彼の父親は使用を控えるようにと忠告していたのだ。実際これは保護者として正しい指導である。画面のなかの偽りの幸福など、青春真っただ中の彼の人生には不要なものだ。
「そっか……」カイトが残念そうに腰を下ろす。ちぇっ、たぶん脈なしだな……エリスが迷惑がってるのが伝わってくるぜ……あぁそうさ、俺もあっち側の立場をよく知ってるしな……だが、それでもまだ――。「でもさ、こうやって直接話して知り合っていくってのはОKってことだよな?」彼はまだ諦めていなかった。ポジティブなバイブが満ちてくる!「これから結婚を前提として、強い絆を育むために『お付き合い』するってのはどうよ?」
「えぇっと……」エリスが返答に困っているので、僭越ながらテムバが代弁する。「無理に決まってるだろう! 君は日本、エリスはスイス。住んでる国が遠すぎるし、そんな遠距離恋愛が簡単に成立すると本気で――うっ」カイトに鋭い眼光を向けられ、ついテムバは怯んでしまう。こ、こいつの目……ガチで一人、二人くらい殺ってるだろ――。
『うっせぇぇっ、そんなこたぁ言われずとも分かってんだよ! 仮にこれからエリスに好きになってもらえても、遠距離でいつまでも気持ちを繋ぎ留めておける自信はさすがにねぇ! クソがっ!』カイトは必死に考えていた。何か、何か逆転の一手はないのかと……そして思わぬ閃きがあった――。
「ならさエリス。このサマー・スクールの間だけでも、俺と付き合ってくれねぇ?」カイトが真剣な眼差しでエリスを見つめる。「そんで別れるときにさ、もう一度俺から結婚を申し込むよ。そんとき君がイエスって言ってくれたらさ……俺……」彼は頭を掻きむしって深く息を吐いてから、こう告げる。「君と暮らすために、スイスに移住するよ」
はっ? 何言ってんだコイツ? 単なるプレイボーイの域を超えてるだろ!? その後カイトが、「まぁ、時間は掛かるかもしれないけどさ……今なんか俺、スイスが世界地図のどこにあるのかさえ分かんねぇや」と続けている間も、テムバは呆れて物も言えなかった。エリス気をつけろ、こいつ相当やり手のヤリモク野郎か、あるいは結婚詐欺師かもしれないぞ――。「けどな、この気持ちだけは本物なんだ。なぁエリス、俺にチャンスをくれ」
「そんな勝手な提案――」
「――いいよ?」
耐えかねたテムバがエリスに代わって提案を却下しようとした瞬間、エリスがそれを受諾する。テムバは一瞬、自分の耳が信じられなかった。えっ、いいの? いいはずないでしょ? えぇぇ、い、いいんだ? アグレッシブな態度にほだされちゃったとか? ワイルドだろぉ? って? そんな……。当のカイト本人も同様に耳を疑っていたみたいだが、返事の意味が理解できるにしたがい、顔全体に笑顔が広がっていった。
「ほ、本当か?」カイトが改めて確認する。
「うん! 僕、まだ恋ってしたことないんだ。だから今のうちに勉強しておきたくて……」エリスが上目遣いでカイトをうかがう。「そんな理由じゃあダメかな?」ぐはっ! そ、その表情は反則だぜエリス……完全に悩殺されちまった――。
「ぜ、全然ОK! よっしゃやったぜっ、これで決まりなっ!? 俺たち恋人同士だ!?」カイトは完全に有頂天だった。「これからシクヨロなエリス!」
「うん、シクヨロ~!」とエリス。
いや、そりゃちょいと軽率すぎやしませんかね!? テムバはこのカイトとかいうチャラ男のせいで、エリスが悪影響を受けやしないかと気が気でなかった。いつだって純真無垢な子羊はオオカミの餌食になるんだ(ちょっとブーメラン)。お願いだから何事もなく済んでくれ……いや、俺がエリスを守るんだ! カイト! お前を見張ってるよ、どこにいても――。
エリスのサマー旅行記⑭ テムバの奔走、カイトの焦燥
あれから夜に新人を含めたレクリエーションがあったのだが、カイトは時差ボケで眠いとのことだったので(イギリスと日本の時差は9時間)、ひと足先に寮に戻って21時に就寝していた。追って寮に戻ったエリスとテムバは、彼を起こさないように気を使いながらシャワーを浴びたりして、22時に就寝した。
とは言え、それから2時間くらいテムバは眠れなかった。カイトがエリスに夜這いを掛けるのではないか、という危惧が頭から離れなかったのだ。カイトめ……もし事を起こそうってつもりなら……すぐに現行犯逮捕して……日本に強制送還……してやる……むにゃむにゃ……。結局その夜は何事もなく、テムバの警戒は徒労に終わった。
次の日。朝支度して午前中の授業(カイトは英語のテスト)を受けている間も、特にカイトから怪しい動きは見られなかった。しかし午後の自由時間になるとカイトは、エリスのところまで来てひと言「デートしねぇ?」と誘い、まんまとエリスを連れ去ることに成功した――当然テムバは彼を追ったが、エリスに「ごめん、今は二人きりにして?」と制されたことで折れるしかなかった。
テムバはエリスの最大の理解者であるニコラに助け舟を出すことにした。彼を探して施設内を徘徊していると、運動場側の男子寮『Stud House(スタッド=種馬)』内のコモンルームで、友達とビリヤードの『9(ナイン)ボール』で遊んでいるニコラを発見した。
※ちなみにエリスたちの寮は学校側の『Dicker House』と呼ばれる建物で、サマー・スクール中は男女兼用となっている。またStud Houseの隣には『Crossways House(クロスウェイ=交差点=♀の暗号)』という女子寮や、『The White House』という校長用住居、『Knights House』という管理人用の住まいなどがあり、生徒用の寮のコモンルームにはビリヤード台の他、フーズボール(テーブル・サッカー)台やピアノなどが設置されている。
テムバはニコラに事のあらましを説明し、『エリスが今チャラ男とデート中だ』ということを伝えた。するとニコラは「あんっ? まぁ好きにすればいいんじゃね? 別に俺には関係ねぇし……エリーにとっても良い社会勉強だろ?」と、気にも留めていない様子だった。見損なったよニコラ。君は誰よりもエリスを大切に思っていると信じてたのに……俺の買い被りだったな――。テムバがその場を立ち去ったそばから、ニコラは簡単そうなマッチボールへの一打を、盛大にミスショットしていた。彼も動揺していないわけではなかったのだ。
一方そのころエリスとカイトは、あの『ダックダックゴー事件』が起きた池に来ていた。エリスがカイトにそのときの様子を面白可笑しく話していると、池の方から水鳥たちが泳いで近づいてきた――もしかすると彼らはエリスの声と、あのペレットの味を覚えていたのかもしれない。エリスはしゃがみ込んで、「先週はごめんね。ちゃんとご飯あげられなくて」とアヒルたちを撫でなでし始める。餌がなかったからか否か、その日のアヒルたちは大人しく、どこかエリスに謝っているようにも見えた。
『あぁクソ、マジで可愛い……俺マジでこの子と付き合ってんだな……』カイトはそんなエリスを見つめながら、自分の置かれている幸運をしみじみと痛感すると同時に、はやる気持ちを抑えるので精いっぱいだった。けど、与えられたチャンスは長くねぇ……積極的に攻めてくしかねぇんだっ――。
「なぁエリス……」カイトが神妙な面持ちで切り出す。「『セックス』ってしたことある?」彼は変化球など持っておらず、ど真ん中直球勝負を挑むタイプだった。エリスは少し驚いた顔をした後に、難しい顔になって、最後にキョトンとした顔で「セックス(性別)?」と聞き返した。
そっかそっか、知らねぇか……たぶんエリスは『箱入り息子』だったんだろうな。きっと親とか周りの人間に大切にされてきたんだ……それもそうか、こんな子に世の中の穢れを知ってほしくないよな……。カイトは恋人(仮)の予想外の反応を前に、この場合どうしたものかと、次の一手を考えていた。
※ここで重大な補足として、世界の性教育事情について説明しておこう。世界の国々、特にヨーロッパの国々では、日本よりもずっと早く・深く・オープンに、性教育を扱う傾向があるのだが、どういった単元で行うかは国によって、学校によってバラバラだったりする。エリスの生まれ育ったスイスでは、小学校低学年くらいから徐々に行っているのだが、それらは当然それほど踏み込んだ内容ではない(それにエリスは他の人と身体の構造が違うので、それらの授業はほとんど理解できなかった)。
踏み込んだ内容になるのは中学生からなのだが、それも毎月『保健』や『生物』の授業で取り扱うという学校ばかりではなく、『特別教育』の一環として限られた時期に集中して扱う学校も多い(まさにサマー・スクールのように)。そしてエリスの通うモーザー校では後者のタイプだったし、エリスはあろうことか、その週をインフルエンザで休校していたのである。そういう経緯から、エリスが性知識に乏しいという状況を寛容に、ご理解いただければと存じる。
「へぇ~、セックスを知らないんだエリス? おっくれてるぅ~♪」カイトは軽快におちょくってから、エリスに手を差し伸べてこう言った。「なら来いよっ、俺と『お勉強』の時間だ」
「うんっ」純粋な好奇心から、その手を取ろうとするエリスは、その間際に何か、重大な問題に気づいて手を引っ込めた。「あっ、でも僕……」彼は気づいたのだろうか? それが『危険な授業』になりかねないことに――。「その前にまず、手を洗わないとね?」池の水に塗れた手を見せながら、エリスが屈託のない笑顔を浮かべる。
「お、おぅ……」出だしから心挫かれるカイトだった。あぁ俺、すげぇー悪いことしようとしてるな……。大丈夫、行ける! 心を強く持て俺――。
さて、次章描かれる二人の『お勉強会』。いったいぜんたい、それはどんな内容なのだろうか? 乞うご期待!
第九章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.6
エリスのサマー旅行記⑮ イケナイ性教育!?
カイトがエリスを連れてやってきたのは、寮の部屋ぁ~ではなく図書室だった。そこには彼らの他に五人の生徒と、一人の司書係のスタッフが疎らに散らばっており、それぞれ本を読んだり事務作業してたりした。
カイトは一番奥の窓際の席にエリスを座らせると、「ちょっと待ってて」と囁いてからどこかの書棚へ向かっていき、そこから何か目的の本を持ってきては、それを机に置いて開いた。それは男女の身体の特徴や機能の違いなどを取り扱った、性教育用の教本だった。
「こういう授業受けたことある?」カイトが小声で言うと、エリスは「少しだけ……」と言って、開かれたページを興味津々にのぞき込んでいた。そこには成人男女の裸の絵が描かれている……デフォルメされているとは言え、陰毛なども細部まで描かれた生々しい絵だ。「じゃあ性差についてどこまで知ってる?」これは彼にとってのテストだった。
「うんと……」エリスが絵を指さしながら答える。「男性は大きなおチンチンやタマタマがあって、女性は大きなお胸がある……それに男性は大きな筋肉や骨があって、女性は大きな脂肪や骨盤がある」でっかいです……でっかい、セクシーダイナマイトです……。
「なんだ詳しいじゃん?」カイトが小さく悦喜する。「じゃあさ、女性器がどうなってるかは分かる?」彼の質問に、エリスは絵の該当箇所を穴が開くほど見つめるも、そこは陰毛に隠れてて詳細な情報は何一つ得られない。「わ、分かりません……」マジックのタネが分からない子供のように落ち込むエリスを見てから、カイトは種明かしするようにページを捲った。
「実はこうなってる」彼が導いた見開きのページには、でかでかと女性器の構造が図解されていた。「これが女のペニスとも言える、えぇっと……そう『クリトリス(Clitoris)』で、その下のこれがぁ、えぇ……尿道、口(Urethral Opening)? っていうオシッコの穴で、そいでその下のこれがぁ、え~膣口(Vagina Opening)? っていう穴なんだ」カイトは性知識に富んでおり、また英語レベルもB1相当だったが、さすがに各部位の英語名称までは知らなかったため、慎重に本を読みながらエリスに説明していった。「これが『おまんこ(Vulva)』の全容。これ見てどう思う?」
「何だか、不思議……」エリスが素直に感想を述べる。「でも、綺麗……」
「ムラムラしたりする?」カイトがド直球に攻めていく。エリスを発情させるべく彼の耳元で優しく囁く。「妙な気分になったりとか?」彼にとってはこれが相手を落とすための常套テクニックだったが、不覚にも自分の方が何か危険な気体を吸い込んでしまい、脳が痺れほどの感覚を味わうのだった。やっべ、石鹸の香りに微かな汗の匂いが混じって……匂いエッロ……媚薬かよ……。
「う~んと、今は特には……」実際エリスは耳がこそばゆかったが、我慢して真面目に授業に取り組んでいるようだった。「ムラムラするって、どういうこと?」
「あれっ、経験ない?」カイトがエリスの耳元から少し離れる。これ以上の高濃度吸引は過剰摂取の恐れがあったのだ。「ペニスが硬く大きくなって、爆発しそうなくらい苦しくなったことは?」そう言いながら、彼のペニスの方が甘勃ちしていた。
「それならつい最近!」エリスは先週の出来事を思い出してハッとする。少し声のボリュームがオーバーしていたことに気づき、すぐに声色を弱める彼。「実は僕、先週ね……胸の先っぽが擦れて感じちゃって大変だったの。水曜日にバンに乗って遠足に行ったんだけど、そのときはおチンチンも気持ちよくなっちゃって、危うくオシッコ漏らしちゃうところだったんだ。でも今は、キャスに見つけてもらったブラジャーをしてるから大丈夫なんだよ……カイト、どうかした?」
「す、すまね……今の話が衝撃的すぎて……ちと頭を整理させて」カイトは自分のイチモツの状態を確認すべく、机の下でズボン越しにサッと股間に触れてから、『あぁクソ、もう後には引けなくなったな』と腹を括った。「えっとぉ、ぶ、ブラ~はとりあえず置いておいて……その気持ちいい感覚のままオシッコ漏らしちゃったこととかある?」エリスが首を横に振る。「そっか……実はそれ、オシッコとは別のものが出てくるんだよ――」カイトがページを捲っていく。
「これこれ」彼が示したページには、ペニスと睾丸の断面図や、白濁液と無数のオタマジャクシの絵が描かれていた。「男が気持ちよくなっているときにはさ、この精巣(Testicles)ってところで『精子(Sperm)』っていう赤ちゃんの種が作られてさ。それが絶頂したときにペニスを通じて放出されるんだ。これがどこに行くと赤ちゃんの素になるか分かる?」エリスはしばらく唸った後、何か閃いたように目を輝かせた。「もしかして、女性の……膣口の中?」
「しょうゆこと!」カイトがまた数ページ捲って、今度は受精の仕組みを描いたページに辿り着く。「ちょい説明ムズいから、ここに書いてある通り読むな。えぇー『膣の奥には子宮という部屋があり、さらに子宮の左右には卵巣という卵子を生成する器官があります。女性が排卵期に入ると、左右どちらか、もしくはどちらともから卵子が排出され(通常片側から一つだけ)、それが卵管という子宮への通路上に取り込まれます。性交渉(Sexual Intercourse)によって男性が射精すると、注がれた精子は膣内を進んでいき、やがて卵管にある卵子のもとへと辿り着きます。最も速く正確に突入できた一匹の精子のみが卵子へと取り込まれ、やがて互いの染色体(23本ずつ)が融合して、46本(2n)の染色体を持つ受精卵(Zygote)が形成されます。この精子と卵子が出会って受精卵が作られるまでのプロセスを受精(Fertilization)と言います』」
カイトは次の『胎児の発生』のページに移って続ける。「受精卵はすぐに細胞分裂(卵割)を開始し、2細胞 → 4細胞 → 8細胞と分裂成長していきます。だいたい2~3日で細胞数2~8個の分割胚(Cleavage)、4日で細胞数16~32個の桑実胚(Morula)、そして5~6日で細胞数100~200の胚盤胞(Blastocyst)となって子宮内膜に到達・定着します。これを着床(Implantation)と言い、この状態を一般的に妊娠(Pregnancy)と呼びます――とまぁ、これが赤ちゃんの素が作られる原理っちゅーわけだな?」彼は一旦ここでインターバルを取った。いささかグロテスクな想像を伴う、難しい文章を集中して読んだせいで、彼のナニもすっかり萎んでいた。「だから男は性的興奮を覚えっと、ペニスが膣口に挿入できるように硬くなっし、そうやって挿入して精子を注ぎ込む行為のことを『セックス(Sex)』ってゆーんよ。理解できた?」
「そっか……」エリスは今ようやく理解した。カイトが読んでくれた文章には生物の授業で習った部分も含まれていたが、それが人間の性的な行為とやっと頭のなかで結びついたのだ。心の奥底で燻っていた疑問が、全て繋がった気がした。「だから僕、『子供を作れない』んだね」
「うえぇっ!?」カイトがビックリ仰天する。「ドゥ、ドゥーユーコートオン? エリス、子供産めないん?」そのカイトの表現には語弊があった。エリスは『産めないくて』当然だ。
「うん。僕、生まれながらの病気で、タマタマが付いてないんだ……」とエリス。「だから今ね、ホルモン治療でエストロゲンのお薬を飲んでるの。それでお胸が敏感になってたんだ」
「あ、クソ……何てこった……」カイトが憤りを吐き捨てる。その一部は世界への、そしてほとんどは自分への憤りだった。どうりでエリスは男離れしてるわけだぜ……そんな大変な時期の彼に、俺は何てことを――。「つれぇよな? 選択肢すら与えらんねぇなんて……」
「ううん、選択肢なら貰ったよ?」こともなげに告げるエリス。「僕、男の娘になろうって決めたんだ。聞いたことある? 日本の言葉なんだけど」
「はん? オトコノコ? それって普通にボーイって意味じゃね? んーちょっと分かんねぇわ」その言葉の意味は分からなかったが、今カイトのなかで、エリスへの愛情が別の次元へと昇華していた。ダメだ、やっぱ抑えらんねぇは、この気持ち――。「なぁエリス。俺、君とセックスがしたい」彼は耳元で囁くでなく、正面切って正々堂々と申し込んだ。一番遠いスタッフには届かなかったが、その声は他の生徒たち全員の耳に届いた。そこからはもはや、誰も本など読んでいなかった。
「えっ、でも僕……入れられる穴なんてないよ?」エリスが赤面する。「あっ、もしかしてお尻?」
「いや、いいんよ別に。ただお互い裸で抱き合ったり、キスしたり、気持ち良くなったりして愛し合えれば、それで」とんでもないことを口走っている割には、はたから見たカイトは冷静そうだった。ケツの穴だって? そりゃやめた方が賢明だろうな……たぶんエリスは前立腺もほぼ発達してねぇ。そんなんで君に苦しい思いさせるわけにはいかねぇよ――。
「じゃ、じゃあ……」エリスが恥ずかしそうに顔を伏せ、上目遣いでカイトを見たまま告げる。「今から部屋に……行く?」その場にいた六人の生徒たちの心は、嵐のなかの荒波がごとく掻き乱れ、ざわついた。ざわ…ざわ…ざわ……。
「いっ……」行け、イケ、逝け! カイトのなかで心の声がそう叫んでいた。人生、与えられるチャンスは決して多くはない。目の前に迫ったチャンスをみすみす見過ごして捨て去るなんざバカの所業だ! さぁ行っちまえや! ほらイケッ! 逝けぇぇぇぇぇぇカイトォォォォォォォ!!!!
「い……」彼は決死の覚悟で、このチケットを手放す決断をした。「言ったろ? 俺は『愛し合いたい』ってよ。もちセックスはしたいけどさ、それは君が俺のプロポーズを受けてくれた後に取っておくよ。君が俺を愛してくれてるって、確信できるときが来るまでさ」カイトは自分でも驚いていた。この期に及んで自分が、こんなにも他者を思いやっていることに……。ちくしょう俺……エリスのこと本気で……。
周りで聞き耳を立てていた生徒たちは、各々が涙ぐみながら、あくまで格好だけ読書を装うために、手元の本のページをパラっと捲った。カイト、なんて『勇敢な男』だ……お前こそ男のなかの男! 唯一、全く事態を飲み込めていない女性スタッフは、そんな彼らの様子を見ながら愛おしげに目を細める。まぁまぁ、みんなして涙ぐんじゃって、よほど感動的な小説を読んでいるのね――あの子は……カズオ・イシグロの『わたしを離さないで(Never Let Me Go)』ね? ふふっ素敵っ!
そしてあの子が……エミリー・ブロンテの『嵐が丘(Wuthering Heights)』? まぁすごい! あの本で泣けるなんて大人ねぇ~。それであっちの子は……ロアルド・ダールの「奇才ヘンリー・シュガーの物語」!? な、泣ける本かしら……? まぁいいわ。それからそっちの子は……し、『シャーロック・ホームズ』!? いったい、どこで泣くって言うの――ってちょっと待って、あの子『英語辞典』で泣いてるの!?
そんな図書室のカオスなど露知らず、エリスはカイトの心遣いに感謝している。「分かった。カイトはすごく優しいんだね? 僕ちゃんと君と向き合って、最後に正直な気持ちをお返事するね?」これにはとうとうカイトすらも涙ぐんでしまう。あぁエエ子すぐる……俺のド直球を真正面から打ち返そうとしてくれるのか君は……。
そんなカイトに、司書さんはさらに度肝抜かれる。もう勘弁して! あの子は性教育の本で泣いてるって言うの!? 感性が豊すぎるなんてもんじゃないわよっ!? 私の従妹なんか、我が子のエコー写真を見てもあんなに泣いてなかったわよ!?
男泣きを拭ったカイトが応える。「お、おうよっ! 俺、ぜってぇ君に好きになってもらえるよう頑張っから!」俺が君を三振させてゲームセットか、君が逆転サヨナラのグランドスラムを決めるのか、勝負だぜエリス――。
その日、図書室はいつになく温かい空気に包まれていた。
エリスのサマー旅行記⑯ テムバの告白
エリス、エリス! どこにいるんだ! テムバはまだ学校内を奔走していた。あれから目ぼしいところは当たったのに、二人の姿がどこにもない。まさかもうカイトの毒牙に掛かって……いや、諦めるな。今まさに彼が助けを求めているかもしれないんだ! おぉ神よ、どうか彼を救ってください! エリス――。
「ガタンッ!」図書室の扉を開いたテムバの目に、仲睦まじく読書しているエリスとカイトの二人が映った。あぁよかった……彼は無事だ。よりによってこんな、一番あり得ないと思っていたところにいるなんて……。息を整えながら彼らのもとへ歩いていく。
「あっ、テムバ!」エリスが気づいて声を掛ける。「ねぇ見てみて、今赤ちゃんがどうやってできるのかのお勉強してたんだけど、性別とか遺伝的な個性って、受精した瞬間に決まるんだって!」テムバは黙ったままだ。「それでね、性染色体がXXだったら女性になって、XYだったら男性になるの。でもそれだけじゃなくって、染色体数が一本多いXXYやXYY、XXXなんかもあって、逆に一本少ないXだけって人もいるみたい。僕は無精巣症の男の子だから、XXYの『クラインフェルター症候群』なんじゃないかって――」
「バタンッ!」テムバが乱暴に本を閉じる。エリスは彼の行動が理解できず、ただ「テムバ……?」と不安そうに機嫌をうかがうことしかできない。テムバ、もしかして怒ってる? どうして――。
「何でこんなところで、こんな本読んでるの?」声色こそ弱かったが、そのテムバのセリフは節々から怒りの感情が聞いて取れた。「まさかとは思うけど、『セックス』についてご教授してもらってたとか?」エリスは立つ瀬なさそうに俯く。「黙ってるってことは図星なんだ? オッケー、それだけ分かれば――」テムバは隣のカイトの胸ぐらを掴んで持ち上げると、彼を窓際の壁に押し付けて拳を振りかざす――とっさに臨戦態勢に入るカイト。オーライッ、俺とヤろうってんだなテメェェェェ!
「そこまでよっ!」当然スタッフの女性がそれを制す。「それ以上続けるなら、二人ともタダじゃすまないから」彼女は内線電話を構えながら『上の人間に報告するぞ』と脅しを掛ける。「強制帰国になりたくなかったら、大人しく解散しなさい」周りの生徒たちも戦々恐々と、彼らの様子をうかがっている。テムバは事態を重く見たのか、カイトを放して歩き去ろうとする。これ以上ヤったらエリスにも迷惑が掛かるか――。
「テムバ、カイトは君が思っているような悪い子じゃないよ! このお勉強も、僕のことを思ってしてくれたんだ!」エリスが訴えかけるも、テムバは去る足を止めない。彼を止めたのは次のカイトの言葉だった。
「はは~ん、テメェもエリスに『ホ』の字の口か? そりゃそうだよな、こんだけ可愛いんだもんな? どんだけ顕在意識で否定しようとも、潜在意識が叫ぶよな? 『この子を手放すな』ってさ? でもいいのか? テメェのそのネックレス、十字架にキリストの磔刑像(クルシフィックス)……さてはテメェ、ローマ・カトリック教会に仕えるクリスチャンだろ?」テムバは怒りに震えながら、胸のネックレスをシャツの内に隠す。校内を走り回っていたうちに、いつの間にか外に出てしまっていたのだ。
「確か同性愛は禁忌だよなぁ? あそれともぉ? 『ただいま絶賛、信仰が揺らいでまチュー』ってか?」スタッフはこの危険信号が点滅しっぱなしの状況に、もはや電話を掛けて目上のスタッフを呼び寄せている。
「俺の心は……常に神とともにある……神の導きに従う」絞り出したような声でテムバが反論する。「俺は君たちが間違いを犯すのを止めに――」
「勝手に信念押し付けてんじゃねぇ! 恋愛競争から降りてんなら、ちゃんと引っ込んでろやっ!」カイトのブチギレように、エリスは「カイトォ、もういいから、お願いやめて……」と泣いて縋りつくしかない。テムバはそんなエリスを見ながら、何とか胸の十字架を握りしめて、心が怒りに覆い尽くされるのを阻止する。カイトォォォォォォ! あとひと言でもほざいてみろ! お前の顔面に一発ブチ込んでやるからなぁぁぁ!
「最終警告よ! 今すぐに解散しないなら、あなたたち二人ともペナルティ決定よ!」スタッフが受話器を置いて通告する。テムバは死に物狂いで理性を繋ぎ留め、踵を返して歩き出す。が、カイトは最後の追い打ちを掛けて、敵にトリガーを引かせようとする。それこそが彼の目的だった。先に手を出させて、テムバを厄介払いしようという魂胆だったのだ。
「間違ってないぜ、テメェの読み。俺、エリスとセックスしたいと思ってる」これには足を止めざるを得ないテムバ。は? あいつ何言って――。「今日するつもりだった。一発決めてやろうって……エリスのこと、グチャグチャにしてやろうって――」もはやテムバを止める枷はなかった。カイトに向かって猛進する彼――カイトはエリスを後ろに突き飛ばしてから、テムバからの痛烈なパンチを顔面で受ける! あったー、クソ重めぇなぁ……けどこれで、俺の『正当防衛タイム』が発動だぜ!
激しい喧嘩が始まった。グローブも審判もルールもない格闘技が繰り広げられる。互いの強烈な一撃は、ただひたすらに相手の捻じ伏せ、KOするためだけに放たれていた。テメェはお終ぇだテムバァァァァァ!
「おい何してる!」大人の男性スタッフ二人が入ってきた。「ほらっお前たち、やめなさいっ!」それぞれがカイトとテムバを抑え込む。テムバはこめかみに、カイトは下顎のところに攻撃を受けて出血していた。激しい興奮状態の彼らを見ながら、エリスはただ床に崩れ落ちて、涙を流すことしかできない。ウソ……どうして、こんなことに……。
「さぁ立つんだ。お前たち、重い処分も覚悟しておけよ」立たされて、事情聴取に向かわされる二人。彼らを追うエリス。「待ってください! 僕も行きます! 僕も悪いんです」スタッフたちは困ったように足を止めるも、テムバがエリスを押し返してひと言、こう告げる。
「ごめんエリス……俺、君のことが好きだ。好きだから守りたかった……」彼の告白に、エリスは戸惑いを隠せない。え? 好きって何? もしかしてカイトと同じ? 僕と結婚したいの? それとも……せ、セックスしたいってこと? 分からないよ――。「今まで黙っててごめん……好きになって、ごめん……」そしてスタッフたちに連れていかれる二人。テムバは図書室を出る際、出口の傍で物言いたげに佇むニコラを発見したが、彼らが口を利くことはなかった。
残されたエリスは、強い動悸に襲われていた。頭がクラクラして、立っているのもやっとの状態だった。分からない……テムバはどうして謝るの? 人を好きになるっていけないことなの? カイトもカイトだよ! 何であんな嘘を……僕、分かんないよ――。彼の意識はそこで途絶えた。
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