[R18]オリジナル小説「ELLIS-エリス- 世界最高の生き方」第十章~第十二章【スイスで生まれた男の娘のお話】

オリジナル芸術作品

この作品には性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧を禁じます。

第十章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.7

エリスのサマー旅行記⑰ 別れ

 エリスの目が覚めた。泣き腫らした重い瞼を開くと、見覚えのない天井の模様が目に映る。ここは、どこ……あれからどうなって……。するとすぐ傍から、よく知った声が聞こえる。「起きたか、エリー」彼が上体を起こして確認すると、隣で椅子に座ってスマホを弄っているニコラがいた。「気分どう?」
 「に、ニコ……」どうやらここはニコラたちの部屋のようだった。彼は図書室で倒れ掛けたエリスを支えて、自室まで運んできてくれたようだ。そんなことまで考えが回らないエリスは、お礼を言うでもなくすぐに本題に入る。「ねぇニコ! あれからカイトとテムバはどうなったの? それに僕、どうしてニコの部屋に?」彼は全身で嫌な予感を感じ取っていた。
 「あぁ、今は部屋にはいない方がいいと思って……二人とも荷造りしてるから」ニコラがスマホを見たまま気のない返事をする。はっ? 荷造りって何? それってどういう――。「あいつら『退学』になったんだよ」た、退学……? ドクンッ、ドクンッ。エリスの鼓動が早鐘を打つ。
 「話は周りにいた連中から聞いたよ。二人してエリーを奪い合ってたんだって?」ドクンッドクンッドクンッ。「バッカだよな~? 何もそんなことで喧嘩しなくてもなぁ~? あのカイトって奴なんか、つい昨日来たばっかじゃんか? これで学費がパーだよ――」堪らずベッドを抜け出し、走り出すエリス。「おいエリー、やめとけっ! もうできることはないさ!」
 ドアを開ける間際、後ろを振り向いて激昂したエリスが叫ぶ。「バカなのはニコの方だよっ! 人を本気で好きになったこともないくせにっ!」そのままドアを開け、走り去っていくエリス。
 残されたニコラは、それからしばらくスマホを見ていたが、その瞳孔は震え、画面には焦点が合っていなかった。あ、あいつがあんな怒ってんの……初めてみた……。ほ、本気で人を好きになったことない、だと……。「ふざけんなっ!」ニコラがベッドにスマホを投げつけると、跳ね返ったスマホは床へと落下し、その画面にはピキッと亀裂が走った。
 *
 「ガチャリッ」エリスが自室のドアを開けると、テムバとカイトが黙々と帰国の準備をしていた。「二人とも、話は聞いたよ……退学だって?」エリスが尋ねるも、二人とも彼には見向きもしない。「ねぇ、こんなの間違ってるよ! 一緒に校長先生のところに抗議しにいこう?」彼の訴えかけに、テムバだけが手を止めて静かに応える。
 「ごめん、もう君と口利いちゃいけないって、先生たちから言われてるんだ」作業を再開するテムバ。エリスは彼に縋りついて、「それでもいいよ! 口を利かないって条件で、退学は取り消して貰おう? ねっ?」と切言するも、彼は応えない。
 続いてカイトを攻める。「ねぇカイト、君はいいの? まだ一日しか過ごしてないんだよ? 学費……すっごく高かったでしょ?」堪らず涙が零れてしまうエリス。あぁ僕、最近泣いてばっかりだ。いつからこんな泣き虫になっちゃったんだろう? ここに来てからの僕、ヘンだ――。
 打ちひしがれたようなカイトが応える。「わ、悪りぃエリス……今回のことは、全面的に俺のせいだ……。俺が軽薄な『ヤリチン野郎』だったから……」クッソ……考えが甘かったぜ……。まぁあんだけ挑発して、反撃もしちまったしな……心証も悪くて仕方ねぇか――。
 「そんなことないよ! 僕、君がそんな子じゃないって知ってるもん!」エリスが彼を庇う。「だからこんな仕打ちあんまりだよ! 待ってて、僕が先生たちを説得してみせるから――」エリスは退室寸前、後ろの二人に向かって苛烈な様子で命令する。「二人ともこの部屋にいてねっ? 勝手に帰ったりしたら、僕たち絶交だからっ!」
 *
 エリスはディッカー校のメイン・ビルディング一階にある、スタッフ方がよく出入りしている談話室にやってきた。そこは普段、全面解放されているはずなのに、今日はなぜか重々しい扉で締め切られている。彼がそのうち一つのドアを開いて中に入ると、そこには校長を含めた多くのスタッフたちが集まっており、部屋は緊迫した会議室の様相を呈していた。
 エリスはスタッフ方の痛い視線を全身に受けながら、涙ながらに二人の弁護を行った。彼らが自分にしてくれたこと、言ってくれた言葉、彼らの温かな人格を反映するエピソード、それら全てを事細かに陳述していくエリス。それはあまりに赤裸々すぎて、むしろスタッフたちの方が赤面やら咳払いやらして、落ち着かない印象で聞いていた。
 最後に彼は、二人への処罰が厳しすぎること、減刑していただけるなら代わりに自分が処罰を受けること、もし二人の退学が撤回されないなら自分も退学にしてほしいこと、を主張して退出した。早々にザワつく会議室。そんななか一人だけ挙手して、こう発言するスタッフがいた。
 「私は厳罰軽減に一票入れますっ!」キャサリンだった。
 *
 協議の結果、テムバとカイトの二人は退学を免れ、代わりに教員からの厳重注意と、反省文の提出、プラスして放課後の奉仕活動(寮の掃除や食堂の手伝いなど)を言いつけられた。またエリスとの接触は禁止となり、三人は別々の部屋へと移された。エリスに限っては個人的な処罰は下らなかったが、新しく移った部屋は狭い二人部屋で、ルームメイトもいなかった。

エリスのサマー旅行記⑱ いっしょにとれーにんぐ TRANING WITH ELLIS

 次の日の火曜日。午前中の授業が終わって昼食の時間になっても、三人は互いの姿を見ることがなかった。カイトの英語レベルはB1相当と評価されたが、エリスとは別のクラスにされたので会えなかったのだ。エリスは二人が退学にならなかったことがすごく嬉しかったが、もう自由に話したりできなくなったことが辛くて悲しくて、ずっと生気ない表情で塞ぎ込んでいた。
 みんなそんな彼を腫れ物に触るかのごとく扱った。つまり定期的に優しく薬を塗ってあげる以外には、そっとしておいたのだ。「昨日は大変だったね?」「元気出してね?」そんな励ましを受けるたびエリスは、「うん、ありがとう」と重たそうに口角を引き上げていた。
 エリスはランチ中も食事の手が進まず、丸1時間も呆然とスープを掻き混ぜていた。ふと我に返った彼はスープを飲み干すと、食器の載ったトレーを返却口に置きにいく。そのときだった、厨房で懸命に皿洗いしているテムバを見つけたのは――彼もエリスに気づき、二人の目が一瞬合うが、互いにいたたまれない気持ちになって目を逸らした。はぁ……ずっとこんな気持ちのままスクールを終えて、君たちとお別れするなんて絶対に嫌だな――。
 エリスは風の向くまま気の向くまま、校内を散歩して気を紛らせることにした。とりあえず、普段あまり立ち寄らない運動場の方へ歩いていると、『Dorms House』と呼ばれる男女兼用の寮の一室から、ゴミ袋を抱え持ったカイトが出てくるのが見えた。向こうもエリスに気づいたが、テムバのときの二の舞になるだけだった。
 テムバもカイトも、忙しそうだったな……本当なら楽しくお喋りしながら、君たちのお手伝いをしたいのに……話せないどころか、一緒に何かすることすらできないんだ……。そのときエリスのなかで、沸々と煮えたぎるような感情が沸き起こった。もう、何でそんなことすら許されないの!? 二人はちょっと喧嘩しちゃっただけなのに、そもそもとして学校側の対応が厳しすぎるよ! あぁ、ムシャクシャする!
 エリスはこの感情をぶつける矛先を探すように、運動場に隣接されたジムへとフラッと立ち寄った。中では何人もの体育会系の生徒たちが、熱心にトレーニング機器を使って身体を鍛えいてる。ディッカー校でのサマー・スクールには、スペインのプロサッカー・リーグ『LALIGA』のコーチによって運営される『フットボール・キャンプ』というコースも存在し、多くの将来有望なサッカー選手たちが参加しているのだ。
 エリスはそんなガチ勢たちに混じって、筋トレで自分の身体をいじめ抜けば、存外気分も晴れるのではないかと思い至った。自信満々に歩き出し、空いている機械を探しにいく彼。よーし、今の僕はなんだってできるぞ! だって怒ってるんだもん! ふふっ、マシン壊しちゃったりして? そんな妄想を抱きながらジムの奥まで足を進めると、一台のマシンが目に留まる。そのマシンは如何にもボス級の風格を有しており、『私を倒せるかな?』とエリスを挑発しているふうにも見えた。よし、キミに決めたっ!
 そのボスの正体は、『デュアル・アジャスタブル・プーリー(DAP)』という左右にケーブルを持つタワー型の大型マシンだった。両サイドのプーリー(滑車)のアタッチメントや高さを自由に変更でき、全身の筋トレ運動に応用できる万能なものである。エリスは使い方すら分からないまま、ただやみくもにそのDAPの真ん中に立つと、ちょうど胸の辺りにあった両サイドの『Dハンドル』を握り、全身全霊の力を加えて前に押し込もうとする! うりゃ~!
 ハンドルはビクともしなかった。へ? ナニコレ? 気を取り直して再挑戦する。今度は一歩前に出て両腕と胸筋を使って引いてみた(スタンディング・ケーブル・チェストプレスと呼ばれる運動)! ふんっにゅ~! けれどケーブルは全く進まない。エリスが泣きそうな顔で、近くでエアロバイクを漕ぐ女の子を見ると、彼女はツボだったみたいで、顔を覆いながら笑いを堪えていた。ガーン! ば、バカにされてる……。
 ちなみにそのときのDAPは、各側の重量が30kg(プーリー比率2:1なので実質15kg)に設定されており、15~17歳のスポーツ経験豊富な男子でも結構キツイ状態になっていた。非力なエリスでは太刀打ちできなくて当然だった。出鼻を挫かれた彼は、そそくさとDAPのもとを後にし、別のマシンへと逃げていった。
 次に彼が目を付けたのは、よくある傾斜がついた『腹筋マシン(シットアップ・ベンチ)』だった。よーし、あれならイケそうだ! なんたって僕、体幹には自信があるんだからっ! 意気揚々とベンチに座り、前のバーに足を引っかけて膝を立てたエリスは、シャカリキに腹筋運動を始める。1、2、3……軽いかるい! 4、5……ろ、6……あらら? 何かおかしいぞ? な、ナァナッ……ハァァ~チッ! き、キュ~~~~~~(プルプル)ウッ! ジュ~……。
 周りでトレーニングに励む他の生徒たちは、各々が本日のメニューをこなすことで疲弊しながらも、真ん中で果敢に己の限界に挑んでいるエリスを見ては、筋繊維をズタボロにする勇気とパワーを分け与えてもらっているような気が――するはずもなく、ただ回し車で必死こいて運動しているハムスターを見ているような、何とも言えない癒しだけを感じていた。『あー可愛ぃーなぁーもー!』
 ジュ~ゥゥゥゥゥゥゥゥゴッ! ガクッ――。エリスは15回やったところで力尽きて、ベンチの傾斜を下っていき、そのまま競りにかけられる冷凍マグロみたいに床を滑ってから止まった。ゼィゼィと激しく呼吸するエリス。う、ウソでしょ……傾斜があるとこんなにキツイの……? とてももう1セットなんて……。やっとのことでうつ伏せになって立ち上がると、なぜか周りからは「パチパチ」と、健闘を讃える拍手が鳴り響いた。
 「へへっ、どうも~」と応えながらもエリスは、この拍手が半分お情けなのは分かっていた。ふんだっ! みんなして僕をバカにして――。これが彼の闘志に火をつけた。彼はそのまま『レッグプレス・マシン』のところへ行って座り、足で前の壁を何度も蹴り押して、大腿四頭筋をヒィヒィ言わせた。これでもか、これでもかっ! 彼の頑張りに負けじと、他の生徒たちも追い込みをかけ、自身の限界突破に精を出した。
 *
 2時間みっちり運動した彼は、途中親切な生徒たちにマシンの手ほどきを受けたり、水筒に入ったスポーツ・ドリンクやプロテイン・シェイクを分けて貰ったりしながら、徹底的に身体をいじめ抜くことに成功した。いささか無謀ではあったが、運動中は悩みなど忘れて無心になれたので、この憂さ晴らし作戦は功を奏したかたちになった。切磋琢磨したみんなとお別れし、ジムから出たときのエリスの気分は、どこまでも爽やかで晴れやかだった。
 アタタ……こりゃ明日は筋肉痛だなぁ~。でも良い経験になったし、今度ニコでも誘ってマウント取っちゃおうかなぁ~? ふふっ、ニコのやつ驚くだろうなぁ~。あ、でも……ニコともあれっきりなんだった……僕、ニコに酷いこと言っちゃったんだ……。フラフラになりながら自室に戻ったエリスは、そのままベッドに倒れ込み、枕を涙で濡らしながら眠りに落ちた。そんなに簡単に心が救われるはずもなかった……。

エリスのサマー旅行記⑲ 謝罪のカラオケ・ナイト

 エリスが目覚めると、時刻はもう18:25だった。いけないっ、早く夕食を摂らないと! 彼は急いで食堂へと走っていき、ササッと食事を済ませると、一人寂しく校内劇場へと向かっていった。今日の夜はそこで、全校生徒合同の『カラオケ大会』が催される予定になっていたのだ。彼が劇場へ入っていくと、もうほとんどの生徒が席に着いていて、近くの友達と談笑したりしていた。
 彼が一番後ろらへんの空いている席に座ると、ちょうどイベントが始まったようで、前方の舞台にマイクを持ったスタッフが現れ、今晩の催しについての説明をしていった。カラオケ大会と言っても、この前のタレントショーみたく一番を決定するものではなく、ただみんなでカラオケを楽しもうという趣旨のイベントだった。
 使用する機材は、フィンランド発祥のカラオケアプリ『Singa』が入ったタブレットPCと、その画面をスクリーンに映写するプロジェクター、あとはPCとオーディオ・インターフェースを介して繋がったスピーカーとワイヤレスマイクだった。約2時間のイベント中、歌いたいと立候補した生徒が順番に舞台に立ち、最大1曲(6分)まで好きに歌うというルールだった。つまり順調に行けば20~24人の生徒が歌える計算だった。
 スタッフが説明を終えると、早速一番手の生徒が舞台上に上がり、流行りのポップソングが流れ始める。Singaの高品質音源に劇場備え付けの大口径スピーカーが合わさって、音響もしっかりしている印象だった。満を持してその女生徒が歌い出すと、まるで歌姫かと聴き惚れるほどの上手さで、みんな初っ端からヒートアップする。「うおぉぉぉ!」「ヒューヒュー!」
 歌が始まって間もなく、席を立つ生徒がチラホラ見られたが、みんな次の出番に向かっているというわけでもなさそうだった。と言うのも、ステージ上の机にはささやかな『おつまみ』やドリンクが置かれていたので、大抵がそれを取りにいっている生徒だった。それもそうだ、200人以上いる全校生徒の前で堂々と歌える人などそうそういやしないのだ。ましてや、こんな上手な子の後ではやりずらいのも頷ける。
 第一曲目が終盤に差し掛かったとき、一人の生徒がタブレットを弄って曲を入れているのが見えた。それはニコラであった。そして彼の番が来たとき、再生された曲はQueenの『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』だった。彼は最初のコーラスが終わり、ピアノ伴奏が掛かった瞬間に服を脱ぎ、上半身裸になって「Mama, just killed a man(ママァ、人を殺しちまったよ)」と歌い始める。
 彼はフレディ・マーキュリーの真似をしてマイクスタンドの上の部分を取り外し、腕を突き上げたりして歌っていく。ただ叫ぶように……唸るように……。「Mama, ooh. I don’t wanna die. I sometimes wish I’d never been born at all(ママァ、あぁぁ。死にたくないよ。ときどき思うんだ、いっそ生まれてこなければよかったと)」
 ギターソロに入り、彼の熱意のこもったパフォーマンスに賛辞が飛ぶ。みんなニコラがただ全力で物真似しているだけだと思っているようだが、エリスにはそうじゃないと思えた。あんなに感情を剥き出しにして歌うニコラを始めて見たし、説明はできないけど何か熱いメッセージが込められている気がした。
 ニコラはそのままシャツを着なおすと、オペラ部分が始まる寸前で演奏中止を押して舞台から降りていった。ここからが盛り上がるパートだっただけに場内はやや騒然とし、しばし沈黙に包まれるが、すぐに次の曲が始まって活気を取り戻す。ニコラの雄姿に勇気を貰った数名が、後に続いていたのである。
 エリスも彼の姿に気づかされていた。そうだ、このイベントは全校生徒が参加しているんだ。今だけはニコラ、テムバ、カイトたちと時間を共有できるんだ。僕も勇気を出して歌って、みんなに気持ちを伝えるんだ――。彼は立ち上がり、ステージ上へと向かっていく。
 *
 3、4曲のノリのいいポップスが終わった後で、いよいよエリスの番が来た。彼が入れた曲は、オーストリアのシンフォニック・メタル・バンド『Serenity』の『Forgive Me』という曲だった。この非常にマイナーな曲が奇跡的に収録されていた理由は、Singaが2040年時点で世界のカラオケアプリ業界の覇権を握っており、収録曲数は20万曲を越え、マイナーな英語曲や有名なK-POP、J-POPなどもひと通り網羅していたためだ。とは言え、この会場でこの曲を知っている人は一人もおらず、またこの曲はバラードでもあったため、開始早々静まり返る場内。
 エリスは声が震えそうになるのを抑えて、ただひたすらに『自分の気持ちを彼らに伝えたい』という願いを乗せて、目を閉じたままAメロ、そしてBメロと歌っていく。大好きな曲だったので、歌詞は全て心に刻まれていたし、また何度も口ずさんだ歌でもあったので、Aメロの音が低いところをオクターブ上で歌って、上手くBメロに架けて原音にシフトすることもできた。
 そしてBメロを終え、ついにサビになろうかというとき、彼が思わず目を開けて会場の景色を見ると、そこはスマホのフラッシライトの光に満ちていて、光がゆったり音楽に合わせて揺れているのが見えた。感動で胸がいっぱいになりながら、彼は感情を全て吐き出すようにサビを歌った。

I'm sorry(ごめんね)
My world does a call(僕の世界が呼ぶんだ)
I altered to someone else(別人になっちゃったねと)
I can not deny it(否定できないよ)
I'm sorry(ごめんね)
I beg you, don't cry(どうか泣かないで)
It's my fate to reach the sky(空に辿り着くのが僕の運命だから)
Before our world has turned to grey(僕たちの世界が灰色になる前に)

 彼がこの歌で伝えたかったことはシンプルで、『ごめんね、許してね』ということだった。こんなことになってごめんね。僕たちもう会えないかもしれないけど、どうか泣かないでね? この会場のどこに君たちがいるか分からないけど、僕たちの世界が灰色になる前に、それだけ伝えておきたかったんだ――。
 全てを歌い終えたエリスがお辞儀すると、大きな拍手が会場を包み込んだ。キャサリンを含めて、彼の込めた思いを知る一部の人たちは涙を流していた。嬉しいな……僕の気持ち、こんなに多くの人に届いたんだ……この拍手のどれかがテムバやカイトのものだったらいいな……。
 彼が舞台を降りようとした瞬間、軽快なギターイントロが鳴り響き、会場がいっきに明るくなった。そしてエリスと擦れ違うようにして舞台に上がったのは、何とカイトだった。彼が選んだ曲は『和田光司』の『Butter-Fly』で、彼はイントロが終わると同時にエリスにウィンクしてから、「ゴキゲンな蝶になって きらめく風に乗って 今すぐ キミに会いに行こう♪」と歌っていく。
 エリスはこの日本語の曲を知らなかったし、ましてやそれが『デジモンアドベンチャー』というアニメのOPテーマだとは知る由もなかったが、心地よい疾走感がカイトにすごくマッチしていて、何て素敵なんだろうと思った……そしてサビが始まる。

無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ
そうさ愛しい 想いも負けそうになるけど
Stayしがちなイメージだらけの 頼りない翼でも
きっと飛べるさ On My Love

 カイトがこの歌に込めた思いは言わずもがな、『俺はサナギが蝶になるように成長、いや進化するぜ!』だった。なぁエリス、例えサマー・スクールがこのまま終わっちまったとしても、もし君が俺を求めてくれるならさ、一途な風に乗って俺は、スイスまで君に会いに行くぜ。オーイエー、当然さ。今はまだ頼りない翼かもしれねぇけど、きっと飛べるから。俺の愛に懸けて誓うぜ!
 全てを歌い終えたカイトが舞台を降りる。その間際エリスは、彼からの二度目のウィンクを受けて初めて、自分がずっと舞台袖でカイトに見惚れていたのだと気づいた。それほど彼の登場は衝撃的だったし、彼のパフォーマンスは最高に格好良かったのだ。だが何よりも、自分たちの気持ちが繋がっていると確認できたことが大きかった。ふふっ、嬉しいな……もしかして次はテムバが登場したりして?
 だがそうはならず、結局カラオケ・ナイトが終了するまで一度も、テムバが舞台へ上がることはなかった。どうしたのかな? やっぱり大勢の前で歌うのは嫌だったのかな……。エリスは次の日、彼が歌えなかった本当の理由を知ることとなる。

第十一章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.8

エリスのサマー旅行記⑳ 恋のアナフィラキシー

 次の日の水曜日。朝7:30に校内一斉放送がかかった。その内容によると昨日19時頃、非常に危険性の高いスズメバチがカフェテリアに侵入し、一人の生徒が刺されてアナフィラキシー・ショックを起こし、病院に搬送されたとのこと。そのため本日は緊急で駆除業者を手配し、近辺の木々(特に広大な庭の森の中)などに蜂の巣がないか捜索することになったようで、午前中の授業はキャンセルとし、代わりに午後に予定されていたアクティビティ遠足を繰り上げで行う、とのことだった。
 遠足に出掛けない生徒たちは午前中いっぱい自室待機とし(朝食は部屋に支給される)、やむを得ず外に出る場合は黒い服装を避け、また森の方へは決して近づかず、万が一にでも蜂と遭遇した場合は体勢を低くしてジッと動かないように、とのお達しだった。エリスは部屋で独り放送を聞きながら、また同内容のメッセージがスマホに送られてくるのも見て、強い不安感に襲われていた。その刺されたっていう生徒が心配だな……どうか無事でいてくれるといいんだけど――。
 遠足組は朝食を出先で食べるらしかったので、とりあえず出発時刻である8時に向けて身支度を始めるエリス。は~、大変なことになっちゃったな……もし巣が見つかっちゃったら、蜂さんたちもみんな退治されちゃうのかな? 可哀そうだな……。そんなことを考えながら歯磨きしていた彼の耳に、誰かが部屋のドアをノックする音が届いた。「はーい、今出まーす」急いで口をゆすいだ彼が部屋のドアを開けると、そこには血相を変えたキャサリンが立っていた。
 「キャス? どうかしたの?」エリスが尋ねると、彼女は「さっきの放送聞いた?」と質問で返すので、「うん、聞いたよ」と彼が頷くと、彼女は深刻そうなトーンで「話があるの、今いいかしら?」と言う。エリスは彼女を部屋に上げて、使用していない方のベッドに座ってもらった。すると深呼吸したキャサリンが話し始める。
 「これは昨日のカラオケ・ナイトの途中で知らされたことで、まだ上からは口留めされているし、今あなたに話すべきかも分からないけれど、私の独断であなたにだけは伝えておくわ」あの陽気なキャサリンがこれほど前置いて話す内容とはいったい何だろう? と危機感を覚えるエリス。「実は……昨日、カフェテリアで蜂に刺された生徒っていうのは、奉仕作業として夕食の片づけを手伝っていたテムバなのよ」彼の名前を聞いた瞬間、エリスは両耳の後ろ辺りでスーッと血の気が引いていくのを感じた。
 「幸い近くにいたスタッフがすぐ彼の部屋からエピペンを持ってきて、直ちにテムバに投与したらしいんだけど、ショック状態が6分以上続いてしまったらしくって、そのせいで一時、もしかしたら心停止になっていたんじゃないかって……すぐに救急車で搬送された彼だけど、病院に着くまでずっと昏睡状態だったって……」キャサリンが悲痛そうに話す内容が、まるで頭に入ってこないエリス。えっと……キャスは何を言ってるの……?
 そのとき、「チャリーン」という通知音が鳴って、キャサリンが自分のスマホを取り出した。画面をのぞき込んだ彼女は、早々に肩を撫でおろす。「あぁ神様……。聞いてエリス、朗報よ。ちょうど今朝方、テムバが目を覚ましたって! たった今病院から、そう連絡が入ったって! あぁよかった……」そんな彼女の言葉もエリスには届かない。えっ、よかった? よかったって何が……?「エリス? あなた大丈夫?」
 「キャス……僕……」彼が全身を震わせながら応える。「テムバに会いたい……会って自分の目で無事を確認しないと……もう、何も手につかなそう……何も、喉を通らなそう……」彼の様子を見たキャサリンは、深く溜息を吐いてから、覚悟を決めたようにこう言った。
 「分かったわ。だったら一緒にお見舞いに行きましょう」
 *
 今日の遠足は本来、学校から南東方向にある町『ポールゲート(Polegate)』へと出向いて、『The Ordinary Climbers Rock Climbing Gym』という施設で室内ロック・クライミング(およびボルダリング)を行う予定だったエリス。しかし今回キャサリンの計らいで、彼だけはその予定をキャンセルして、テムバの見舞いに行けることとなった。クライミング場からさらに南にある、彼が搬送されたという医療施設『イーストボーン地区総合病院(Eastbourne District General Hospital)』まで、先週みたくバンで送ってもらえることになったのだ。
 2週に渡って彼を特別扱いしたことで、ややスタッフ内での立場が危ぶまれるキャサリンだったが、彼女は「あなたに心労の種を植え付けてしまった代償よ」と、一歩も引き下がるつもりはなさそうだった。バンの運転役には先週と同じ男性が、「どーんと任せなさい」と快く買って出てくれたし、道中後半はお馴染みのメンツによるドライブとなった。今度もエリスは震えていたが、理由が前回とはまるっきり違っていた。
 出発から20分ほどで目的地に到着し、バンを降りたエリスとキャサリンは、上空でセグロカモメの群れが「クォン、クォン」と鳴き叫ぶなか、確かな希望を抱いて病院のメイン・エントランスへと入っていく。まず受付に行き、手こずりながらも患者との面会許可を取り付けた二人は、そのまま示された場所――中央区画(第四ブロック)3Fの『救急救命病棟(Critical Care Unit)』にある『集中治療室(ICU)』へと向かった。そこにテムバがいるようなのだ……。待っててね、今行くから――。
 ちなみに先ほど受付で手こずった理由としては、本来この時間がICUの面会時間外だったからだ。しかし今回、サマー・スクール中の特殊なケースということで、特別に許可されたのだった――目的の病棟へと到着し、窓口で面会許可証を提示した二人は、ナースから教えられた部屋番号を探して、廊下の奥へ進んでいく。すると該当する部屋はすぐに見つかった(ICUは5部屋あり、彼の部屋は2番目だった)。中の様子を隠す、堅牢そうな横引きドアが目に留まる……ここにテムバが入院してるんだ――。
 二人がドアを開け中に入ると、カーテンが閉め切られた薄暗い室内には、人工呼吸器と心電図モニターの作動音だけが静かに繰り返されている。中央にある間仕切りのカーテンを抜けると、大型ベッドに横たわるテムバの姿が見えた。あぁ、ようやく君に会えた。よかった、ちゃんと息してる……。ちょうど彼は眠っているようで、布団から出た左腕には包帯が巻かれている……恐らくそこを刺されたのだろう。
 しばらく彼の様子を見たエリスとキャサリンは、そっと部屋を出て安堵する。これで当初の目的を達成できた。欲を言えば彼と話したかったエリスだったが、今はただ彼が生きていてくれたことに感謝していた。キャサリンが「私、朝食を買ってくるわね」と1Fへ降りていったので、独り部屋前のベンチで待っていることになったエリス。ふと彼はスマホを取り出して、ブラウザで『アナフィラキシー』という単語を検索しようとした。その寸前――。
 一人の看護師が慌ただしくテムバのいる部屋へと入っていく。扉が開いた瞬間、心電図モニターの音が物すごい勢いで「ピッピッピッピッピッ」と鳴っているのが聞こえた。そしてすぐさま、別の音が加わる。「先生! 先生っ! 二相性反応です!」部屋を飛び出した看護師がそう叫ぶと、遠くから別の声が「分かった! すぐにエピペンを投与しろ!」と応える。非常に切迫した空気が伝わってきて、エリスは居ても立っても居られなかったが、今ここにいても治療の邪魔になることは明白だったので、どうにかはやる気持ちを抑えて、その場から離れることしかできなかった。
 く、苦しいよ……テムバが大変なときなのに、僕には何もできないのか――。そんな遣る瀬なさを感じながら廊下を歩いていると、彼の前に神聖なオーラをまとった部屋が現れた。ドアには『Multi-faith Room』と書かれている。それは多宗教に対応した『お祈りの部屋』だった。無宗教者のエリスだったが、もはや藁にも縋る思いでその部屋へと入った。
 そこは案外こじんまりとした部屋だったが、床には礼拝用のカラフルな敷物がいっぱい敷かれ、壁には難しそうな祈りの言葉か書かれたタペストリーが掛かっていた。さらに小さな机には四つの本が置かれており、一つはキリスト教の聖典『The Holy Bible(聖書)』で、もう一つはイスラム教の聖典『The Qur’an(コーラン)』、さらにもう一つはヒンドゥー教の聖典『The Bhagavad Gita(バガヴァッド・ギーター)』、最後の一つは仏教の聖典『Buddhist Sutra(仏教経典)』だった。
 確かテムバはクリスチャンだったよね……。そう思って聖書を手にしたエリスは、そのまま部屋の中央で跪き、一枚の敷物の上に聖書を置く。それから胸の前で十字を切って、そのまま両手を強く組んでから彼は、満を持して祈りを捧げ始めた。
 『天にまします、主イエス・キリスト様。僕は普段お祈りをしないので、無作法なのをお許しください。ですが僕の友達は敬虔なクリスチャンなので、きっとお祈りが上手だったと思います。ご存じの通り、彼の名前はテムバといい、今病で苦しんでいます。どうか彼をお助けください。そして僕たちみんなが無事、サマー・スクールを終えられるようお導きください。アーメン』
 祈り終えた彼は、自分がどうしようもなく偽善者のような気がして嫌だった。普段信仰しているわけでもない神様の力に、都合のいいときだけ頼るのは間違っているようにも思えた。そして神様という存在そのものへの疑いも少しあった。たとえ今テムバが救われたとして、はたしてそれは自分の祈りがもたらした結果と言えようか? 本当に彼を救ったのはエピペンの成分であるエピネフリン(アドレナリン)ではないだろうか?
 それに神様はいい加減だ。人を愛することを説きながらも、一方で同性愛を禁止したり……そのせいでテムバは、僕に『ごめん』って……でもそんなことは全部どうでもいいっ! エリスは床に崩れ落ちて苦しみに咽び泣く。理由なんて何でもいいぃぃ! お願いします神様ぁぁぁぁぁぁぁぁ! テムバをぉぉぉぉ、テムバを助けてぇぇぇぇぇぇぇ! 彼の涙が何粒も、聖書に落ちて沁み込んでいった。
 *
 「ここにいたのね」祈りの部屋の扉を開けたキャサリンが、聖書を抱いたまま椅子で丸くなっているエリスを見つけた。彼女に「朝食買ってきたわよ。さっ、食べて元気をつけましょ」と言われたエリスは、ゆっくりと立ち上がって聖書を机に返すと、生まれて初めて霊的な儀式を行った、彼にとっての聖域を後にする。
 キャサリンが買ってきてくれたのは、卵サンドイッチと、フルーツや野菜のミックスジュースだった。ベンチに腰かけてそれらを受け取ったエリスは、サンドイッチをひと欠片食べて呟く。「ねぇキャス、アナフィラキシーって何なの? どうしてテムバはこんなことに……」すると彼女がゆっくりと説明してくれる。
 「アナフィラキシーっていうのは、一度受けた毒に対する免疫反応として、大量の抗体が体内で生成された状態において、もう一度同じような毒を受けた場合に発現する、過剰なアレルギー反応のことよ。テムバは幼少期に『アフリカミツバチ』の群れに襲われたことがあって、そのときも強いアレルギー反応が起こったようね――以来、彼はエピペンを携帯するようになったの。そういう致命的な情報はちゃんと学校側にも知らされてるし、全スタッフもきちんと認識しているわ。だから今回、テムバの症状に対応したスタッフは焦ったでしょうね。彼、昨日に限ってエピペンを部屋に忘れていたんだもの……」
 そう言えば、彼はお医者さんになるのが夢だって……もしかしてそう思ったきっかけって、ミツバチに襲われた経験から? だとしたら、そんな……これは間接的には僕のせいだ……。テムバはエピペンを忘れるほど思い悩んでいたんだ……。「彼、助かる……よね?」エリスが言うと、キャサリンは「そう信じて待ちましょう! ささっ、手がお留守よ? ちゃんと食べて」と励ました。
 *
 遅い朝食を済ませたエリスが、サンドイッチとジュースの抜け殻をゴミ箱に捨てて戻ってくると、ちょうど居合わせた看護師が彼にこう伝えてくれた。「患者さん、目を覚ましましたよ! 二回目のピークを持ち堪えたのでもう大丈夫です! 会いに行ってあげてください!」急いで病室に行くエリス。やっと……やっと君と話せるんだね――。部屋まで来たところで、ドアを二回ノックすると、奥から「はい、どうぞ」と返事がある。エリスが「失礼します」と入っていくと、ベッドで上体を起こすテムバが目を丸くする。
 「え、エリスッ!? おっどろいた……俺の見舞いに来てくれたの?」彼の様子はすこぶる元気そうだった。よかったぁ、治療が効いたんだ! もしかすると、僕の祈りも……。
 「うん……キャスと一緒に」はにかむエリス。するとちょうどトイレから戻ってきたキャサリンも入ってくる。「彼が目覚めたって!?」テムバの無事を確認した彼女がホッと床にへたり込む。「あぁもう……本当に心配したんだからっ!」彼女もいろんなプレッシャーに襲われていたのだろう。「すぐ学校の方にも知らせるわね! これからどうするか学校や病院と相談するから、二人はしばらくここで待ってて――」部屋を去っていくキャサリン。
 思いがけず二人きりになったエリスとテムバは、お互いに気まずそうな照れ笑いを浮かべる。エリスはテムバのいるベッドの傍まで来ると、近くにあった椅子に座って、静かに「身体の具合はどう?」と聞いた。彼は「絶好調!」と言ったとたんに苦笑いして、「ってわけではないけど、気分はいいよ。君が来てくれたから、もっとよくなった!」と答える。
 「でも、君を苦しめちゃったのも僕なんだ……」エリスが自責の念を吐露する。「君がエピペンを持ち忘れたのだって――」
 「いやいや、それは単なる俺のおっちょこちょい」テムバが彼の肩を持ちつつ、正直な気持ちをもらす。「けどまぁ、君のことで悩んでいたのは、本当かな……。と言うより、たぶんカイトに嫉妬してたんだと思う……」エリスが『えっ、それってどういうこと?』みたいな顔をしているので、テムバは笑って告白する。
 「昨日も言ったけどさ、俺は『君のことが好き』だよ、エリス。どんな『好き』かっていうのは、きっとカイトが君に抱いている感情と同じだと思う……でも、その気持ちの強さでは、たぶん俺が負けているんだと思う……」テムバがベッドサイド・テーブルに置かれた、自分の十字架のネックレスを見つめた。途端に彼の目に涙が滲む。
 「だって俺はさ、あんなにすんなり告白なんかできないし、もちろんプロポーズもできない……ましてや君のためにスイスに移住するなんて、簡単には言えないんだ……。しかもその理由を俺って奴は、ずっと自分の信仰のせいにしてた……けどそんなのは全部言い訳で、本当はただ俺自身が未熟だから……俺自身が弱気で臆病で、すでに心の奥底で負けを悟っている『チキン野郎』だから……」テムバは泣き顔を隠すように手で目元を押さえる。
 「カイトが現れて気づかされたんだ……自分のなかにある、どうしようもない弱さに……。今だってそうだ! 俺は情けない患者の格好で君の前にいる。これでどうやって、カイトみたいなクールな奴に勝てるって言うんだ!? そんな道理あるわけ――」突如、首筋に冷たい物が触れて、驚きで振り向くテムバ。手の目隠しを外したはずなのに、なぜ頭が固定されていて、未だ視界も遮られている……それに甘い匂いがして、唇だって濡れている……えっ、これって……もしかしてキスしてる……? エリスから、俺に……?
 唇を重ね合わせるだけのキスが5秒、10秒と続いていく。これは両者にとって事実上のファースト・キスだった。つまり家族とのキスや偶然のハプニングなどを除いた、正真正銘の恋愛感情を伴うキスだった。初めこそ戸惑いを隠せないテムバだったが、間近に迫ったエリスの瞼と長い睫毛を一度見てから、受け入れたように目を閉じていく……15秒、そして20秒経ってようやく、エリスは彼を解放した。あ、頭がクラクラする……エリスはいったい、なぜこんなことを――。
 「勝ち負けなんてないよ。テムバはテムバ。この世界に一人だけの特別な存在だよ」慈しむように笑うエリス。「だから今日ね、君が死んじゃうかもしれないって思ったら、僕すごく怖かったんだ。確かなことは分からないけど、これもきっと恋なんだと思う。だから……」エリスがテムバに抱きついて耳元で囁く。「僕も君が好きだよ、テムバ……生きててくれて、ありがとう」
 心も身体も温かくなって、テムバは涙が流れ出るのを禁じ得なかった。あぁ君ってやつは……どうしてそんなこと平然と言えるんだ……存在そのものを肯定されちゃったら、誰だって嬉しくて泣いちゃうさ……。でもそれじゃ俺は、やっぱり君にとっての特別にはなれないってことなんだ……そうだよエリス、たぶんその気持ちは本当の『恋』じゃない、一種の『吊り橋効果』なんだ。だって恋には『明確に勝ち負けがある』んだ……君もいつかそれを知るんだろうね? だからごめん……君の優しさに甘えるのは、これが最後だ――。
 「ねぇエリス」テムバが彼のことを引き離す。「俺やっぱり、君のことは諦めるよ。だから君ももう『俺に恋している振り』なんかしないで」そう言われたエリスは悲し気に「どうしてそんなこと言うの?」と返す。「いやぁ~さっきのキスで満足したっていうか、やっぱり違うな~って思ったというか……とにかく、これ以上『恋愛ごっこ』しててもさ、お互い最後は傷つくだけと思うし……」エリスは納得してなさそうだ。
 「考えてもみてよ? 俺たち未成年で一緒にいられるのもあと数日、その数日も接触禁止命令発令中の学校で過ごすんだ。それからは遠い異国で離ればなれになって……そうじゃなくても俺たち人種が違うし、同性同士だし、俺にはそれを咎める信仰まである……もう結ばれない運命としか思えないでしょ?」テムバは自分が口を開くたびに、自尊心が欠落していくのを感じた。そうさ、これすらも俺のワガママなんだ! 言い訳ばかり並べ立てて、結局は自分が傷つくのが怖いだけなんだ――。「正直さ、君を見てると辛いんだ……絶対に手に入らない宝石を見せつけられてる気がして……だからさ、笑ってサヨナラしよう?」もう俺をこの苦しみから解放してくれ、エリス――。
 「僕は……」衣擦れの音を立てて、エリスは服を脱いでいく。「ここにいるよ?」Tシャツ、ハーフパンツ、ブラ……そしてドロワーズ……その間テムバは何もできなかった、何も考えられなかった。この世の物とは思えない美しき情景に、ただ見惚れることしかできなかった……。「過去も未来もない……」彼は靴とソックスも脱ぐと、ベッドに這い上がって、四つん這いになる。「今この瞬間を、全力で『恋』しよ?」彼の大きな瞳が眼前に迫ってきて、意識が吸い込まれていく……そして唇は再び繋がった。
 「はっん、はっむ」互いが唇をはみ合って、唾液を交換すると、テムバの口の中に甘酸っぱい味が広がった。これっ、何だろ……リンゴ、じゃなくてパイナップル……? いや、マンゴーだ……。あぁダメだ……脳がトロける……一回目もすごかったけど、二回目はそれをも遥かに凌駕して――あーもう! これで君のこと、一生忘れられなくなっちゃったじゃんか……。
 途中、心電図モニターの異変を検知した女性ナースが部屋に入ってきたが、彼らは気にせず口づけを続けていたし、彼女の方もベッドに浮いているエリスのお尻を見た瞬間、無言で目隠ししながら引き返していった。はぁ~患者の心拍数がBPM135になってるから何かと思えば……まぁときどきあるのよね、こういうこと! それにしても、いいわねぇ~青春ねぇ~(うっとり)。
 「んっ」二人の唇が離れ、間に唾液の糸がツーっと伸びては、すぐにパチンと弾ける。呼吸を荒げたテムバが「ど、どうしてこんなこと……」と言うと、エリスは彼の胸に身体を預け、こう言う。「カイトが言ってたんだ……裸で愛し合えれば、それが『セックス』だって……僕、君とセックスしたいんだ……だめ?」
 「だっ……」テムバは一生に一度の選択を迫られた。このまま彼の『優しさ』に甘えて、今この瞬間だけに恋して生涯の思い出を作るのか、それとも――。「ダメじゃない、けど……ごめんね――」
 テムバがナースコールのボタンを押した……。

第十二章 – 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.9

エリスのサマー旅行記㉑ 一番の願い

 駆けつけたナースが見たものは、一糸まとわぬ姿で涙を流し患者を仰ぎ見る、絵画のように美しい面会人の姿だった。ちょ、どういう……もしかして破局!? しかも患者側が振ったのこれっ!?「すみません、彼に服を着せてあげてください」患者にそう言われ、ナースはつい従ってしまう。本来なら面会人の介護など業務内容には含まれないはずだったが……。それにしても、えっ、彼……? 男の子なの、この子!?
 「あーえっと、あなた? とりあえずベッドから降りましょ?」彼女が面会人の腰を摩ると――って何これ肌スベスベすぎ――、彼はゆっくりと立ち上がり、呆然とブラを着け始める――って何で上から着ようとするのっ!? ナースが下に目をやると、小っちゃなおチンチンがプラプラと揺れて――あっと、これは観ちゃダメなやつね。「はいっ、足を上げて」彼女は椅子の上に載ったドロワーズを取って、ウェスト部のゴムを広げて床で構えると、面会人が消え入りそうな声で「どうもすみません」と言って、履き口へと足を通していく。
 *
 「これでよしっ」彼女が全ての服を着終えた面会人の肩を叩くと、彼は「ご迷惑おかけしました……」と微かに呟く。ちょうどそのとき面会人二号が登場し、場に似つかわしくないトーンで喋りながら部屋に入ってくる。「二人ともお待たせ~、ようやく話がついたわ! テムバはもう退院できるって! さぁみんなで学校に帰りま――」彼女は室内を満たす葬儀場みたいな雰囲気を感じ取って固まる。「また……次のトラブル?」彼女が震え始める。
 「ごめんキャス、あと少しだけエリスと二人きりにしてくれない? あー、ナースのあなたも……すみません、本当に助かりました」テムバにそう言われて、二人の女性が退室する。扉が閉まったのを確認すると、彼はベッドから抜け出して自身の胸に付いた心電図モニターの端子を外し、途端に喚き出すモニターの電源を落としてから、蒼白な顔で俯くエリスのところに行き、彼と向き合って話し始める。「傷つけてしまって、ごめん。でも君を心から拒絶したわけではないんだ、それだけは分かってほしい」エリスは微動だにしない。
 「いいかい、よく聞いて? 君の優しさは『強力な薬』だ。どういうわけか君は、周りにいる人全員に幸せを分け与える才能を持っている。相手が欲していることを敏感に感じ取ってしまって、君はそれを無意識で叶えようとするんだ。そして君は決して相手を拒絶しない。それは奇跡のように素敵な、君だけに与えられた特別な力だ。でもそれは、ある種の『麻薬』でもあるんだ。相手が使い方を誤れば『毒』にもなる危険な力だ。分かるかい?」エリスが首を横に振る。
 「じゃあもう一度はっきり言うね。君は『俺に恋なんかしてない』んだ、エリス。君がどんなに『そうじゃないって振り』をしても、俺には分かってる。なぜかって? それは俺が君に好きになってもらえるようなことを何一つしてないからさ。強いて言えば偶然ルームメイトだったってことと、君にエセ医者まがいな治療をしたこと、そして君への愛でカイトと喧嘩したことくらいさ。それはこのサマー・スクールを客観的に見てくれた神様の視点からすれば、一目瞭然の事実だと思う。こんなこと自分で言ってて悲しくなるけど、俺は他の人と比べて『特別魅力的』ってわけではないんだ。だから俺やカイトが君に『ひと目惚れ』するみたいに君が俺に惚れるなんて現象は起こり得ないんだよ」光の雫がエリスの膝にポタポタと落ちていく。
 「さっき君が俺に迫ってきたとき、俺はすごく自分が嫌になった。一方的な気持ちを君に伝えてしまったせいで、君にこんな無理を強いてしまってのか、って……。でも一番辛かったのは、君とセックスしたいって願望――いや下心が俺のなかに確かにあるって気づかされたことだ。まるで欲望を映す鏡を見ているみたいに……そうまさに、あのハリポタの『みぞの鏡(The Mirror of Erised)』だよ……言わば君は『スリエ鏡(The Mirror of Ellised)』だ。そこから垣間見えた真実の自分像が、相当堪えた……俺も結局その程度の奴なんだって……カイトのこと悪く言う資格ないんだって……」
 「セックスって、そんなにいけないことなの……?」エリスが涙を拭う。けど拭っても拭っても溢れてきて、どうしようもなかった。「テムバの言ってること、分かんないよ……」
 「愛のあるセックスは決して悪じゃない。だけどそれでも、決して軽々しく行うべき行為ではないんだ。それに――」テムバがエリスの両肩を掴んで、痛切に諭す。「この世界には愛のないセックス、いや『偽りの愛』に基づくセックスが横行している。君がまだ知らない『悪』も蔓延っているんだ! だからここで誓ってほしい、絶対に『さっきみたいなこと』はしないって! 相手の気持ちを優先させるがあまり、易々と他者に身体を許したりはしないって!」厳しく叱られたエリスは、嗚咽を交えながらも「はい……誓います……」と確かに宣言する。テムバは彼を抱きしめてから、愁眉を開いた。
 「ありがとう。最後にこれを覚えておいて、俺やニコラ――そして不本意ながらたぶんカイトも、一番の願いは一つってこと。それはね、もっと『君に自分を大切にしてほしい』ってこと……俺たち、君が『友達』ってだけでも充分に幸せなんだ。そのうえで、君がもっと大人になってから、もし生涯のパートナーを選ぶ段階になったときに、自分が選ばれたら最高! って思ってるだけなんだ……まぁ、ニコラに関しては不明だけど……。少なくとも俺は、今サイコーって気分だよ? だって君と二回もキスできたんだから! 俺は初めてだったけど、もしかして君も……?」エリスが恥じらいながら頷く。
 「すごく光栄だよ。じゃあ俺、君のファースト&セカンドキスを貰っちゃったんだ!? うっはー……」心も声も弾ませるテムバ。「あっ、それに君の『素っ裸』を見たのも、友達のなかでは俺が最初じゃない!?」その質問には答えにくそうだったが、何度かモジモジしてからエリスは「ニコとは幼いときから、何度もプールに行ったり、お泊りで一緒にシャワー浴びたりしてるから……」と答えてくれる。えっ、何度も!? ニコラうらやましっ! けど『幼いときから』だし、きっと無邪気にはしゃいでただけなんだろうな二人とも……。当時の光景が容易に想像できるテムバだった。
 そのとき「コンコン」とノックの音がして、僅かに開いたドアの隙間からヒョコっと、キャサリンの気遣わしげな顔がのぞく。「あの~、まだかかりそう?」するとテムバが「いえ、もう終わりました」と返答して立ち上がる。彼は机から十字架のネックレスを取ると、それをゴミ箱に放ってエリスへと手を差し出す。「えっ、テムバ? ネックレス……いいの?」困惑しながらその手を取って立ち上がるエリス。テムバはいたずらっぽく笑ってこう説いた。
 「うんっ、もう俺には必要のない物だから」彼はエリスの手を引っ張って出口へと歩き出す。「ねぇエリス? 今から俺も正式に、君の『お婿さん候補』に名乗りを上げるよ! いつか必ず立派な医者になって、君にプロポーズしにいくから!」エスコートされるエリスは、彼の大胆発言に面食らいながらも、心のつかえが下りたような表情で「はいっ」と返事する。
 それから二人は、学校へ戻るまでのつかの間の時間、バンの中で一緒に過ごし、学校へ着いてからも互いの姿を見るときは、以心伝心したように笑顔を交わしていた。今朝から感じていた精神的ストレスを解消したエリスは、ようやく昨日の筋トレで負った全身の筋肉痛を思い出し、その日一日痺れびれ~な思いをした。身体が痺れている感覚って、なぜか笑えてくるよね……。
 スズメバチの脅威はどうなったかと言うと、午前中の駆除作業にて学校近隣の樹木からツマアカスズメバチ(Asian hornet)の巣が見つかり、滞りなく駆除が遂行された。よってもう安全に学校生活を営むことが可能となり、このアナフィラキシー事件も雨降って地固まるかたちで終息した。めでたし、めでたし。

エリスのサマー旅行記㉒ 残された貴重な時間

 次の日の木曜日、一日ぶりの授業(結局水曜日はお休みだった)が終わった後、エリスはニコラやルカシュ、ミケルらをジムに誘って、早速トレーニングの成果を披露してマウントを取ろうとした(一日休んで充分筋肉は回復していた)。DAPの重さを調節して、得意げにチェストプレスを行うエリスを見て、見物人たちは「おぉ~」と取って付けたようなリアクションをしてくれた。
 しかし「エリス、僕もやる」と言うミケルと交代すると、2歳年下の彼でも難なくこなせる重量であることが発覚して、エリスのみならず見物人たちも、いたたまれない気持ちになった。ちょうど跳び入るべき穴があったので、エリスは嬉々として次のシットアップ・ベンチにみんなを誘導していく。だがそれからも似たような状況が続き、彼は幾度となく己の『か弱さ』を思い知らされることとなった。
 グァーンッ! 僕ってそんな力弱いのぉ!? 昔はニコラたち同年代の男の子とも、同等に張り合えていたのに――。力自慢を目的としたジム・ツアーは大失敗に終わったが、何だかんだ最後はみんな楽しそうに身体を鍛えていたし、木曜午後のひと時はホンワカ・ムードで過ぎていった。
 *
 その日の夜には、ジム横のスイミング・プールを使った『プール・パーティ』が開かれた。これまで使用機会がなかったが、実はエリスはこの旅行に水着を持参しており(先週の遊園地やビーチ旅行ではうっかり忘れた)、今回ようやく水着姿をお披露目することとなったのだ。もちろん彼の持ってきた水着は短パン一丁の男性向け水着だったので、彼がトップレスで会場に入っていこうものなら、驚いてノンアル・シャンパンを吹き出す人や、前屈みでトイレに駆け込んでいく人が続出した。
 すぐさまニコラが駆けつけてきて、「エリー! お前の乳首はみんなには刺激が強すぎる! とっととブラでも着けてこい!」とお説教した。実際エリスの胸はここ1週間で少し成長していて、Aカップ寄りのAAカップといったサイズだった。先っぽの『しこり』は幾分マシになっているようで、ほんのり色づいた桜色の果実はもうそれほど敏感ではない様子だった。それでも、はたから見れば余裕で18禁の児童ポルノの様相を呈していたし、遠目で見ていたテムバは心中複雑そうだった。エリス……頼むからもっと自分を大事に……あっと、俺も昨日のことを思い出したら股間がっ――。
 ※ちなみに欧米諸国は児童ポルノに対する規制が厳しく、イギリスやスイスではアニメや漫画などの『非実在児童ポルノ』の所持者にも刑罰を設けている。一方で写実風でないものは合法としている国々も多く、またスウェーデンのように非実在児童ポルノ所持容疑で起訴された男性が、刑事裁判で無罪を獲得した例などもあり、この分野に対する見解は国によってバラバラだったりする。
 当作品は小説であり、加えてまだ『本番』は描いていないことから、もしスイスやイギリスの方々が当作品を認知してくれた場合、どうか寛大な目で見てくれると幸いだ。リアリティを追求していくと性的な描写は避けられないし、表面だけ取り繕った展開に魅力はないのである。だからどうか『表現の自由』を尊重していただきたい。それでは一刻も早くエリスを18歳(成人年齢)にすべく、時間を進めようか――。
 *
 次の日の金曜日の午前中、これまでの学習の集大成となる『最終テスト』が行われ、エリスたち全員は己の力を振り絞り、好感触でテストを終えることができた。そして午後の時間、エリスは動物学コースの生徒たちに混じって、校内動物園へと足を運び、そこにいる動物たちに最後のお別れをすることにした。
 これまで触れてこなかったが、ディッカー校には『動物学&動物管理(Zoology & Animal Management)コース』という、高校2年生・3年生向けのBTECコースもあり、獣医や獣看護師、動物園スタッフ、動物学・自然保護学の学者などを目指す優秀な若者たちが参加していた。そのコースにおける主要施設がディッカー校内の動物園であり、一般公開はされていないものの、生徒は自由に出入りが許可されており、そこでは世界中の貴重な動物たちが飼育されているのだ。
 エリスは先週の火曜日(ブラを買いに行く前の日)の午後や、その他の隙間時間でもちょくちょくこの動物園を訪れており、そこで飼育されているマーモセットやミーアキャット、ウサギ、キンカジュー、リスザル、リングテールキツネザル、ワオキツネザル、シベリアンシマリス、ベランジェジリス、ヨーロッパケナガイタチ、その他の哺乳類・鳥類・両生類・爬虫類・魚類・無脊椎動物などに癒されていた。
 訪問できるのはこれが最後だったので、一頭いっとう一匹いっぴきの動物たちに対して、「じゃあね」「またね」「元気でね」と声をかけていくエリス。今までありがとう、いっぱいいっぱい君たちのおかげで気持ちが安らいだよ。これからも飼育員さんたちに大切にされながら、幸せに生きてね――。動物学コースを卒業する生徒たちが涙ぐむなか、エリスは珍しく泣かなかった。彼はもうこの旅で涙は見せないと決意したのである。

エリスのサマー旅行記㉓ サマー・スクール修了式!

 その日の夕方、ついに『修了式(Leavers’ Ceremony)』という卒業式典が開かれ、明日帰国する生徒たちやその教師たちが、ディッカー校メイン・ビルディング内のホールに集まった。生徒たちは個別に『出席証明書(各コースの修了証明書)』、『アカデミー・レポート(学習の成果報告書)』、『アカデミー証明書(午後の活動の修了証明書)』などを手渡され、教師から「頑張ったな」などと労いの声をかけられていく。
 エリスたちのグループは最初の週、午後の活動に『陶芸』を選択していたので、彼らは出席証明書とアカデミー・レポートに続いて、そのアカデミー証明書を受け取ることになった(これらアカデミーズは事前予約または現地での申し込みが可能で、エリスたちはみんなで現地申し込みしたのだ)。
 加えて『特別賞』という、特定の生徒の努力や成長を讃えるデジタル証明書の授与式が行われた。​著しい進歩を遂げた生徒を讃える『努力賞(Most Improved Student Award)』、創造的な活動での頑張りを評価する『創造性賞(Creativity Award)』、グループ活動での協調性や貢献を認める『チームワーク賞(Teamwork Award)』などがあり、順番に受賞者が発表されていく。
 次に紹介された『リーダーシップ賞(Leadership Award)』を受け取ることとなったのは、何とニコラだった。彼は他の生徒をサポートし、生徒たちの模範となったとして評価されたのである。「やったね!」みんなとともにエリスがニコラを讃えると、彼は「おう! 俺様がリーダーよぉ!」と天に拳を突き上げる。彼はそうやって、周りの人たちにたくさんの笑顔をもたらしたのだ。
 そして最後の特別賞が発表された。それは今回から急遽、導入された賞とのことで、大きな優しさや思いやりを持って、他者への献身や気配りを示した生徒を表彰する賞だと説明された。「栄えある2040年度、第一回『優しい心賞(The Gentle Spirit Award)』に選ばれたのは……エリス・シンクレア! おめでとう!」司会の男性に名前を呼ばれたとき、エリスは自分の耳が信じられなかった。沸き立つ会場のなかで、自分だけ置いてけぼりを食らっているような気分になる。えっ、僕が? でも僕、たくさん学校側に迷惑かけちゃったし……。
 「エリス! 君の温かな人情は、接した人みんなに届いているよ! さぁ胸を張って! この賞に相応しいのは君だ!」司会者が熱くエリスを褒め称える。実際、彼がカイトやテムバの退学を取り消した件や、テムバの病院に見舞いにいった件などは全教員が知っていたし、今回この賞には満場一致でエリスが選定されていた。司会者の言葉を聞いたエリスは、マグマのような感動が胸から湧き上がってくるのを感じたが、もう泣かないぞと決めた手前、全身全霊で涙腺を封じ込めて、笑顔で「ありがとうございます!」と応えるのだった。
 特別賞に輝いた生徒たちには、それぞれ記念品として小ぶりなトロフィーが贈呈された。エリスとニコラは、ともに受け取ったトロフィーで『乾杯』し、その栄光と喜びを分かち合った。こうして、短いようで長かったサマー・スクールの2週間、その最終イベントである修了式典は、大きな拍手に包まれて幕を閉じた。明日はいよいよディッカー校から、イングランドから、そしてイギリスから発つ日であり、同時にそれは、この旅で出会ったかけがえのない仲間たちとのお別れの日でもあった。

エリスのサマー旅行記㉔ サヨナラは言わない

 次の日の土曜日の朝。ディッカー校に停まっているバンの前にて、泣きべそをかきながらエリスに抱きついているカイトの姿があった。彼はあと1週間滞在するので、今日は『ロンドン・アイ』というロンドン中心部にある大観覧車への旅行が予定されているのだが、エリスとは別のバンになったことから(接触禁止命令自体は今日から解除されていた)、実質これが彼らに残された最後の時間となり、さすがのカイトもこみ上げてくるものがあったようだ。
 「うわ~ん、エリスゥ~! やっと話せるようになったってのに、もうお別れなんて、あんまりだぜ~!」カイトが不平不満を吐露する。「俺は君とロンドン・アイに行って、大観覧車に乗ってイチャイチャ・デートしたいんだー!」
 彼はこう言っているが、ロンドン・アイはかなり大規模な観覧車なので、カプセル状のゴンドラにはたくさんの乗客が収容される――要するに、あまり人目を憚らず『イチャイチャ』できる空間ではないのだ。それでも『ビッグベン』などのランドマークを一望できるのには変わりないので、恋人とそんな絶景を堪能しようものなら、ロマンティックな気分になること間違いなしだった。
 「うん、付いていけなくて、僕も残念……でも――」共感を示したエリスが、スマホの画面をカイトに向け、最後の言葉をかける。「ジャーンッ! ほら見てっ、僕も『インスタ』入れてみたんだ! これでいつでも君の活躍はチェックできるよ! それにメッセージアプリを使えば、簡単にビデオ通話だってできるでしょ? 離ればなれになったって、僕ら繋がっているんだ! ねっ? だから今この瞬間だけ、ちょっぴり寂しいのを我慢しよっ?」
 「お、おう……」涙を拭ったカイトがエリスを解放する。「なら毎晩ラブコールするからなっ? 絶対電話取ってくれよ?」彼の出した条件に、エリスは「うんっ、約束」と小指を差し出す。二人は硬く指切りをしてから、「また夜にね」と言って別々のバンへと乗車した。カイトが乗ったバンが先行して発進する――窓をのぞきながら後ろを振り返る彼は、心のなかで自らの幸運に感謝していた。本当は不平不満など微塵もなかったのである。
 あぁ、俺この旅行に来てホントよかったな……何たって君に出会えたんだ、エリス……。たとえ『ほんのつかの間』だったとしても、君とルームメイトにもなれたなんて……クソッ、まだ信じらんねぇ……まるで奇跡だ……。ありがとな、俺を成長させてくれて……。いつかWSLやISA(どちらもサーフィンの世界大会)で優勝して、君を迎えにいくからな! それまでじゃあな、エリス――。
 *
 それからヒースロー空港へと到着したエリスたち帰国組は、それぞれ搭乗する便もバラバラだったので、チェックインカウンターの前で早々に解散することとなった。別れを惜しむ気持ちはあったが、もう充分すぎるほど気持ちは通じていたので、しんみりと別れの言葉をかけ合うでもなく、最後まで楽しく雑談していた彼ら。まるで明日も当たり前に会えるかのように、くだらない冗談を言い合って笑っていた。
 「それじゃ、来年の夏は『アイスランド』集合ってことで!」そんなジョークで離脱していくルカシュ。「アイス、食べたい」と言って後に続くミケル。彼はこれからすぐの便に乗るようで、未成年フライト・サービスの手続きに向かったのだ。「ま、『サハラ砂漠』よりかはマシだな……」と言って去っていくテムバ。彼のフライトはまだまだ先のようだったので、今から空港内で仮眠を取るのだそう。
 残されたエリスと二コラは、そんなさっぱりした別離に拍子抜けしながらも、互いに笑顔を交わしてから帰路に就いていく。ちょうどスイス行の便がチェックイン時刻になったとアナウンスが流れたので、Eチケットを持って自動チェックイン端末へと向かい、そこで搭乗券を発行した二人は、続けて荷物を預けるため、チェックイン・カウンターまで伸びる長蛇の列に並び始める。そのときだった――。
 「エリスッ!」背後から大声で呼ばれて、びっくりしたエリスが振り向くと、そこには身一つで佇むテムバの姿があった。えっ、テムバ!? いったいどうしたの? っていうか荷物は!? 彼がうろたえていると、テムバが早い足取りで接近してきて、そのままドンドンどんどん接近してきて――いつの間にか、二人は接吻を交わしていた。隣にいるニコラや周りの人々が仰天する。だが一番驚いていたのはエリスの方だった。
 「あむっ、あっ――てむっ――は、はげしっ――」彼の貪るようなキッスを受けて、なかなか話し始められないエリス。口の中にテムバの舌が入ってきて、脳がバチバチと痺れていく。「やめれ、この咎人!」ニコラに妨害されるまでの10秒間、テムバは人生で一番集中して、『今この瞬間に恋』していた。記憶に刻み付けるんだ、この匂い、この味、この感触、この子の全てを――。
 「て、テムバ……どうして、こんな……」苦しそうに息するエリス。戸惑いのなかに恥ずかしさもあり、同時に嬉しさもあって、胸のドキドキが止まらなかった。
 「ごめん、君のサードキスまで奪っちゃって……」同じく呼吸を整えながら話すテムバは、「はっ? サード?」と困惑するニコラを他所に感情を爆発させる。「『笑ってサヨナラしよう』って言ったのは俺の方だけどさ、ごめん、そんなの無理だったよ――」彼の目から聖水が溢れ出す。「俺は神様とも信仰とも決別しちゃったからさ……もう心の拠り所がないんだ……これからは自分の信念だけを貫いて生きていかなきゃいけない……だから今だけ、今だけは自分の気持ちに嘘はつきたくない! エリス、君が大好きだっ! ずっと一緒にいたい! こんな『くそったれ飛行機(Goddamn plane)』になんか乗ってほしくないっ!」
 「ず、ずるいよ……こんなところで、そんなこと言うなんて……」エリスが赤面させた顔を顰める。「せっかく泣かずに飛行機まで乗れそうって思ってたのに……そんなこと言われちゃったら……」彼の心の井戸から、命の泉が噴出する。「最後まで僕、泣き虫のままになっちゃうじゃんか!」
 「あぁエリス――」二人が熱く抱擁する。今やカウンターまでの列は十数歩分進んでいたが、誰も彼らを抜いて先に行こうとはしなかった。誰もがその場に立ち尽くし、ただ二人の結末を見届けようとしていた。そしてニコラも……その震える拳を握りしめて、この状況を黙認していた。今回だけだからな、テムバ……お前の愛とガッツに免じて見逃してやるよ――。
 「ねぇ聞いてテムバ」ハグを終えたエリスが話し出す。「僕たちもう行かなきゃ……ごめんね? でも僕この飛行機に乗るよ。大切な家族や故郷の友達が待ってるから」そんな不都合な言葉をかけられているのに、なぜだろう? テムバの心に巣食う不安や混沌が清められていくのは……。
 「僕たちの人生、僕たちの物語はまだまだ序章なんだ。これからもたくさんの『めぐり逢い』が待っているんだと思う。だから『サヨナラ』なんかないんだ! また僕ら、いつかきっと巡り会えるはずだもん! でしょ?」テムバが号泣しながら、この洗礼の儀式に臨んでいる。今度の宗教には神はおらず、定められたルールもない……。それは、ただひたすらに自分自身を信じて、次の未来へと歩んでいくこと目的とした、究極の『無神論』だった。これは、そのための最初で最後の通過儀礼だったのだ……。
 「だからそれまでの時間、ほんの少しの間だけ……僕ら、別々の物語を生きよう?」とエリスが締めくくると、何度も何度も頷いてから、全てを受け入れたようにテムバが言った。「分かったよエリス。長く引き留めちゃってごめん。さぁ行って――」彼はエリスの肩をそっと押してから、その場を離れていく。去り際、振り返る彼――エリスの方も、開いてしまった前列まの間隔を詰めてから、彼の方へ振り返る。
 目が合った二人は、笑顔で手を振ってこう言った。
 「またいくつか!」

 第一回サマー・スクール編 完

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