
第十六章 – 青春時代② 高校生活 Ep.4
エリスの高校休日① キミに決めたっ!
次の日曜日、エリスは父親のサミュエルと一緒に、ニヨンから北東方向のモルジュ(Morges)という町にある『Boullard Musique SA』という楽器店に来ていた。数日前に彼が、「バンドを組んだからエレキベースが欲しいんだ」と家族に伝えたところ、両親も祖父母も快く賛成してくれた。これまでは特に何か習い事をしてたり、塾に通っていたりしたわけではなかった彼が、初めて自主的に『挑戦したい』と主張してきたことだったので、家族一同大喜びの様子だった。
そんなこんなで、今日は近辺で一番大きくて評判のよかった楽器専門店に来ているのである。祖父母と両親が一部貯金を切り崩してくれるとのことで、予算は1000フラン(約17万円)ということに決まった。エリスは「そ、そんなには必要ないと思うよ」と遠慮したのだが、父は「まぁまぁ、せっかくの機会だから、良い物を使いなさい」と言ってくれた。
店内に入った途端、目に飛び込んでくる色とりどりの楽器たち。壁に掛かったたくさんのギターやベース、床に置かれた大きさ様々なアンプ類。「うわぁ~」エリスは思わず心が躍る。このなかから運命の楽器との出会いがありますように、と願う彼だった。
「ごめんください」父が店員を捉まえる。それは入社四年目の若い男性店員だった。「息子がこれから始めるエレキベースを探しにきたのですが、何分私は素人なもので、よければお手伝いいただけますか?」彼の要望に対しその店員は、「喜んで。ではこちらへどうぞ――」と丁寧に接客し、二人をベースコーナーへと導いていく。そのとき彼は態度にこそ出さなかったが、エリスをひと目見た瞬間から動揺しまくっていた。『えっ? 息子? あの子が? えぇっ!?』
「こちらにありますのが、全てエレキベースになっております」目的区画に着いたところで、店員が壁の一画を手で示す。「えぇっと、息子、さん? は、どんな物をご所望でしょうか? プレイ予定の音楽のジャンルや、その他に求めるもの、例えば予算の上限、色、デザインなどを教えていただけると、すぐにオススメの物をご用意できますが?」うわぁ、やっぱこの子えげつない可愛さだわ……。
「エリス? もし何かこだわりがあるなら、きちんと店員さんに伝えなさい?」父が催促する。エリスきゅん! エリスきゅんっていうのかぁ~(ポワワ~ン)。
「はい」エリスが一歩前に出て発言する。って声高っ! ホントに男の子!?「僕メタル音楽を演奏したいと思ってます」メタル!? 意外っ!「でも初心者なので楽器のことは全く分かりません。なので色やデザインもついても、今は特にこだわりはありません。予算は1000フランですが、家族にあまり負担をかけたくないので、できるだけ安く済むと嬉しいです」けなげっ! もう健気ぇ~もう! これは売上優先して必要以上に高い楽器は勧めらんないね――。
「かしこまりました」店員が壁から一つのベースを下ろす。「でしたらこちらの機種などいかがでしょうか?」彼がチョイスしたのは『Ibanez GSR200』という超ド定番のコスパ最強エントリー・モデルだった。顧客の立場からすれば、まさに理想的なチョイスである。そんな誠実な店員は楽器を手にしたまま、各部位を示しながら説明する。
「エレキベースには一般的に4~6弦まで種類があるのですが、初心者のうちは4弦で充分だと思います。またこちらの機種はピックアップという、弦の振動を電気信号に変換するパーツが三つ着いていて、こちらのノブでそれぞれの音量を調節して音色を変えられるようになっております。これも初心者のうちは三つあれば必要充分です。そして何より――」彼は楽器を空中で上げ下げして見せる。
「こちらの機種は重量約3.3kgとかなり軽量になっております。見たところエリスくんは体格が小柄なので、できるだけ軽くて扱いやすい機種になさるとよいでしょう。その点に関してもこちらは優れており、ネックが細く、弦の密集度を左右するナット幅も38mmと狭くなっており、小さな手でも負担なく運指できるようになっております。一度、こちらの椅子に座って構えてみましょうか?」
「はいっ、お願いします!」エリスは示された椅子に腰かけて、渡されたベースを手に取り、それを膝の上に置いてみた――すると、カエデの木で作られたネック裏のスベスベな手触りと、4本弦の冷たい感触、ポリウレタン塗装されたボディのツルツルな触り心地が同時に感じられて、それは驚くほど手に馴染んでいて、しっくりきた。「うわぁ格好いい……それにすごく軽い……」うはぁ~可愛い……しゅんごくキャワイイ……。「これ気に入りました。他に色の選択肢はありますか?」
「残念ながら現在、当店の在庫としては、そちらのブラックのみとなっております」フフッ、何だかんだ色にこだわりたくなっちゃうんだよね。その気持ちよく分かるよ。「本機種は他に赤と白が生産されております。もしよろしければお取り寄せも可能ですが?」
「どうだいエリス? その三色から選ぶかい? それとも他の機種も見てみる?」父が尋ねる。うーん、黒、白、赤……どうしようかな――。エリスは少し考えてから、「もう少し、見てみたいです」と答える。正直どの色もビビッと来なかったし、どこか、ドラマや映画みたいな運命的な出会いを期待していたのかもしれない。
「でしたら、こちらなどいかがでしょうか?」店員が次に取り上げてくれたベースに、エリスの目は奪われた。あっ……すっごい綺麗……。「こちらは『Ibanez SR300E』という機種で、先ほどのGSR200の上位機種になります。重量やネック幅はほとんど同じながらも、ピックアップが四つ着いていることから、音作りの幅としては一段上になっており、また色のラインナップもより豊富です。こちらはナイト・スノウ・バースト(Night Snow Burst)という色で、当店の在庫としてはこちら一点のみとなっております。持ってみますか?」
「ぜひ――」エリスがそのベースを受け取る。持ち心地はさっきの機種に瓜二つだ。違いと言えば、音量調整ノブが一つ多いことと、塗装の色がより幻想的なことくらいだ。ナイト・スノウ……その名の通り、外側は夜に降る雪のごとく白銀色をしており、中央にかけて夜空みたいなロイヤルブルーへとグラデーションになっている。僕これ、好きだな――。思わず笑みがこぼれてしまうエリス。
「いい色でしょう?」店員が推していく。「さっきの物だとヘッドの塗装がどの色でも同じ黒だったのですが、こちらは『マッチングヘッド』と言って、ヘッドにボディと同じ塗装が施されているんですよ。ただ上位機種ゆえ、お値段は3倍以上してしまうのですが……」エリスが値札をのぞきこむ――ゲゲッ、400フランもするの!?「まず間違いなくアンダースペックになることはないので、今後のことを考えれば、全然ありな選択だと存じております!」店員は思った。『あぁごめんよエリスきゅん! 俺っち商売上手すぎるんよ(涙)』
「この色は綺麗だと思います。でも――」エリスがベースを店員に返して微笑む。「僕は前の機種で充分です。初心者なので……。だからさっきの黒色のにしま――」
「君、それを貰うよ」突として彼の言葉を遮って、父親がSR300Eの成約に踏み切った。えっ、お父さん? どうして――。父がエリスに向き合って告げる。「言ったはずだよエリス。良い物を使いなさい、予算は1000フランだよって。あの楽器、気に入らなかったのかい?」エリスが首を横に振る。「だったら遠慮しないで、ね? お前は普段ワガママの一つも言ってくれないから、お父さんたち少し寂しいくらいだよ」父が我が子の頭を撫でる。「だからたまには、私たちに親らしいプレゼントをさせておくれ」
エリスは嬉しくて泣きそうになりながら、「うん……ありがとう、お父さん」と頷いた。「えぇっと……こちらの商品でよろしかったでしょうか?」店員が再確認するので、エリスは椅子から立ち上がって、嬉々として「はいっ、それでお願いします!」と答える。Ibanez SR300E Night Snow Burst、キミに決めたっ! これからよろしくねっ! 彼の気持ちに呼応するかのように、そのベースはキラリと煌めきを返すのだった。
*
それから弦を弾くためのピックを数個、交換用の弦一セット、調律するための電子チューナーを一つ、立って演奏するためのストラップを一本、持ち運ぶためのソフトケースを一つ、部屋で保管するためのスタンドを一脚、音を増幅して鳴らすためのアンプを一台、アンプとベースを繋ぐためのシールドケーブルを一本、そして初心者から上級者まで対応のベース教本を一冊選び、お会計する段階になったエリスたち一行。
どれもちゃんと良い物を選んだので、最終的な金額は約860フラン(当時レートで約14万5千円)になった。特にアンプが高額で、エリスが「ライブでも使えるものがいいです」という要望を伝えたところ、『Fender Rumble 200 v3』という機種をオススメされ、それがベース本体と同じくらいの値段だったのだ。だからこれでもかなり店員さんが、『同時購入割引』として値下げしてくれた方なのだ。
ちなみにそのアンプは、出力200W、重量15.65kg、スピーカー径15インチの物で、小~中規模のライブなら対応可能なスペックを誇っていた。だから今回購入する道具一式は、若いながらも経験と知識が豊富な店員の手腕が発揮されたものと言えるだろう。彼の勧めでポイントカードまで発行し、クレジットカードで決済を行う父。エリスは父や家族への感謝と、新しいことへ挑戦することへのワクワクで、胸がいっぱいになり、ずっとムズムズしていた。
「ご購入ありがとうございます。それでは商品をお車までお運びいたします――」支払いが済んだところで、商品が載った滑車を押して店外に出ていく店員。彼の後を追う父の背中に抱きついてエリスは、「ありがとう、お父さん! 僕たくさん練習するし、きっと大事に使うね?」と宣言するのだった。
番外編② エミリーのドラム取引
エリスが父とベースを買いに行ったのと同日。エミリーはキアラとともにニコラの家を訪れていた。例の倉庫にあるというドラムセットを見にきたのである。エミリーがインターフォンを鳴らすと、ニコラが出てきて「おっ、来たか。よーっす」と挨拶する。「エリーから聞いたよ、兄貴のドラムを買いたいって?」二人が頷くと、彼は「オッケー、来いよ――」と二人を家の庭へと案内する。
庭に設置された倉庫まで来た三人。ニコラがガラガラとそのシャッターを開くと、中に布を被せられた何が収納されているのが見える。彼が布をバサッと取っ払うと同時に、二人は「おぉ~」と感嘆の声をもらした。現れたのは分解された状態のドラムセットで、キアラには――エリスの言った通り――かなり上等な物に見受けられた。興味深そうに細部を観察するキアラ。
「これ何て機種?」彼女の問いに対して、ニコラは「知らね。俺あんま興味ないし」とぶっきらぼうに応える。よく見るとドラムの側部に『Tama Superstar Classic』と書かれたエンブレムが付いていた。「勝手に売っても兄は怒らない?」そう尋ねながらキアラは、スマホを取り出して機種名を検索し始める。ニコラが「あー全然いいよ! 兄貴、俺にくれるって言ってたから」と答えたときには、その検索結果が表示されていた。
どうもそれは『TAMA Superstar Classic 5-piece』という機種の、Indigo Sparkle(ラメ入りのインディゴブルー)というカラーバージョンのようで、ここにある製品はかなり使い込まれている状態だったが、もし新品で買えば800フランはする品だった。
しかもそれだけではなく、ここにあったのは標準装備のスネアドラム、ラックタム×2、フロアタム、バスドラム、タムホルダー、ドラムキー(調律用レンチ)のみならず、別売りのツインペダル、ハイハット、クラッシュシンバル×2、ライドシンバル、ドラムスローン(椅子)、ドラムスティック数本とスティックバッグ、ドラムマット、ダンパーパッド(消音器)、さらにイヤーモニター(特定の音声をモニターするためのイヤホン)に至るまで、丸まる一式揃っていたのだ。総額すれば1800フランはくだらない豪華なセットである。
「マジか……あんたの兄上、ガチプレイヤーだったんだな……」キアラが驚嘆する。軽く確認しただけだが、特に破損らしきものは見られなかったし、かつてニコラのお兄さんが大切に使っていただろうことは明白だった。やばいぞ、エミリーの予算は500フランぽっちだ……さすがにその値段で譲ってもらうのは申し訳なさすぎる――。
「まぁプロってわけじゃないけど、素人の俺が聞いても分かるくらいには上手だったよ」ニコラが誇らしげに照れ笑いを浮かべる。「兄貴、大学のサークルでバンドやってたんだ。これはその名残り。当時パートタイムの仕事で稼いだお金と、一部は親父に頭下げて出してもらったお金で買ったみたい。どう? 欲しい?」
「ちょ、ちょっとエミリーと相談するわ――」キアラがエミリーを連れて倉庫から少し離れ、ニコラに聞こえないよう小声で話し始める。「エミリー、これは『買い』だ。でも逆に困ったことに、500フランで買い叩くには豪華すぎるんだ。それじゃニコラが――というかニコラの兄上が気の毒だ。そこでなんだが、アタイは今手持ちが200ほどある。これも合わせて700フランで買うってのはどうだい? 100は貸し、もう100はアタイの奢りってことで」
「うん、いいよー?」特に不満もなさそうなエミリー。彼女はずぶの素人だったので、何がどの道具で、何のために使う物で、それがどれくらいの値段なのかなど皆目見当もついていなかったが、あのキアラの慌てようを見ればそれだけで、このセットが非常にお買い得で、700でも充分フェアな取引なのだろうと推し量れたのである。まぁあと100フランくらい、今度家のお手伝いでもしてママから貰えばいっかぁ――。
「ん? 相談タイム終了かい、お二人さん?」帰ってきたキアラとエミリーを見たニコラが言った。「それで、どれくらい提示できる?」
「アタイら今日は、元々500で手を打ってもらうつもりで来たんだけど、このセットは想定以上の品だった。そこで、アタイがプラスして200出すから、どうか700で売ってくんないかい? 頼む――」キアラが両手を合わせてお願いする(2040年ではわりかし欧米でもそのジェスチャーが使われている)。
「な、700!?」ニコラが仰天する。「おいおい勘弁してくれ、そんな大金を同級生から貰ったら、俺の方が親から叱られるぜ」彼は後頭部を掻いてから続ける。「かなり使用感強い中古品だし、もう2年くらい倉庫に眠ってただけのもんだから、正直500も出してもらえれ充分だよ――」彼が握手を求めて右手を差し出す。「500でトレード成立ってことで、ОK?」
キアラとエミリーはキョトンとしていたが、何やら破格の値段で落札できたことを実感し、喜びのあまり全力でニコラの握手に応える――のではなく、二人して彼に抱きついた。「ありがとうニコラー!(恩に着るぜニコー!)」エミリーが彼の頬にキスする。
「うぎゃぁ~キスするなエミリ~! キアラも、ニコって呼ぶなし~!」と言いつつ、ニコラは心の奥底で思っていた。フッ、モテる男は辛いぜ……。「その代わり、細かな破損あっても目を瞑ってくれよ? 返品不可だかんな!?」
「うんうん! あたぼうよ~(あぁモチのロンだぜぇ~!)」
こうして友人のヤードセールを利用して、しっかりしたドラムセットを手に入れたエミリー。その後キアラが、農業をやってる祖父に落札した品々の輸送を依頼し、やがて到着した祖父が乗ってきたトラックに全員でそれらを積んでいって、最終的に活動拠点である彼女の自宅へと運んでもらった。ちなみに比較的小さな農家には人気なのだろう、そのトラックとは日本製の軽トラだった。
エミリーとキアラは機材を目的の部屋に運び入れてから、それらを清掃しつつ試行錯誤してドラムを組み立てていき、やがてどうにか完成系まで持っていくことができた。何度か試し叩きしてみると、どうもスネアとバスのドラムヘッド(打面)が大分ヘタっているようだったので、キアラが資金を出して修理パーツを取り寄せることになった。もっとも気になる破損はそれくらいで、他の機材は問題なく動作したし、本当にニコラ様様のありがたいトレードだった。
「ドン、ドン、シャーンッ!」エミリーが慣れない手つきでドラムを叩き、「いや~やっぱり打楽器は楽しいねぇ~!」と笑う。
「おっ、初めて触ったとは思えないほど、板についてんじゃん!」とキアラ。「アタイ、ドラム用の教本買っておくからさ、まず練習のときはそれで基礎を叩き込もう! ある程度叩けるようになったら、みんなで課題曲でも決めて一曲カヴァーするんだ。どうかい?」
「さんせーい!(パシャーン、パシャーン!)」
かくして日曜日の午後、ビギナーのエミリーとエリスは己の楽器を手に入れることができた。かなりオーバースペック気味な初期装備を抱えた彼らであるが、これから練習を積み重ねて、それらの力を最大限発揮できるようになるのだろうか? ヴァルキュリアが五人合わせて空を翔ける日も、案外と目の前まで迫っているのかもしれない!
第十七章 – 青春時代② 高校生活 Ep.5
エリスの高校生活⑥ 決定!課題曲!
次の週の金曜日、また放課後に空き教室で集まることになったバンドメンバーたちは、そこで今後の方針などを話し合うことになった。あれからエリスがベースを買ったことや、エミリーがドラムを買ったことはメンバー全員の耳に届いていたし、何ならソフィーも同日にキーボードを手に入れていたようで、そのチョイスもまた彼女らしかった。
キーボード本体は『Yamaha MODX6+』という、ピアノやストリングスなどのアコースティック音声に定評がある61鍵盤の高機能シンセサイザーで、アンプが『Roland KC-600』という、ナチュラルな音質を安定出力する200Wの物で、その他スタンドやサステイン・ペダル、ケースなどをセットにして驚異の1300フラン(約22万円)の買い物だったようだ。彼女いわく「ワタクシに相応しい機材を選んだまでですわ」だそうな。さすがブルジョワである……。
「お嬢、ベースの練習は進んでるかい?」キアラがニマニマしながら聞くと、エリスが「うん、毎日頑張ってるよ」と両手を開いてみせる。各指先に豆ができているのが、彼の頑張りを示す何よりの証拠だった。「やっと普通のピッキングとフィンガーピッキングでリズムを正確に刻めるようになってきたから、一昨日からクロマチック練習とスケール練習を始めたんだ。でもフィンガリングって難しいね? 16分音符になるとまだモタモタしちゃうよ」
「BPMはどれくらい?」とキアラが聞くと、エリスが「70~90で練習してるよ」と答えたので、彼女は「おっしゃ! たぶんお嬢なら来週には、120で各スケールの16ビート弾けるようになってそうだな!」と希望的観測を語る。大体そのくらいまで弾けるようになれば、大抵の曲なら演奏できる算段だった。彼もそのつもりのようで、「頑張ります隊長!」と嬉しそうに敬礼する。「それで、エミリーの方はどう?」
「アタシも精進してやすぜ、旦那~」エミリーが、暗がりで佇む武器商人のような怪しげな態度で告げる。彼女はこれまで週3日で空手の稽古に通っていたのだが、今はそれを週2に減らしてまで、貴重な時間をバンド活動に充ててくれているようだ。今週は月・火・木曜日の放課後に、キアラの家にて彼女監督のもと、午後7時までみっちり練習していたエミリー。しかし、よほど熱血指導なのだろうか? ふと彼女が右手の傷跡を見せて嘆く。「映画『セッション』ばりにしごかれて、昨日なんか手から血出ちゃったもん……」
「それはあんたがウチの猫にちょっかい出して、引っ掻かれたからでしょうが!」思わずキアラが突っ込む。実際の練習はあの映画ほど厳しくはなかったが、その成果は確実に出ていて、彼女の四肢は順調にコーディネーションしつつあった(つまり各部位を分離してリズムを刻む感覚が、彼女の身体で目覚めようとしているのだ)。ボケを気持ちよく拾ってもらったエミリーは、「デブ猫のパンチ力えぐすぎ!」とキャハキャハ笑った。
「まぁエミリーのことはアタイに任せときな! 彼女もかなり筋がいいから、来週には基礎を習得できそうだよ!」そう全員に向けて言ったキアラは、「そこでだ――」と机から跳び下りて、エリスたちの目を引き付けながら教室前方へと歩いていく。「再来週辺りからだな、アタイら全員の技術向上と、バンドとしての音の調和を完成させるために、みんなで一つ『課題曲』に挑戦してみようと思うんだ。だから今日は、その楽曲を選定しようってことで、こうしてあんたらを呼び寄せたわけよ! そんで――」一番前の壁まで来た彼女が、そこにあったホワイトボードを叩く。「誠に勝手ですまんが、今回はこのリストから選ぼうと思う!」
彼女の示したボードにはこんな文字が書かれていた。
Morceaux faisables(いけそうな曲)
・Amaranthe - Endlessly
・Amberian Dawn - He Sleeps in a Grove
・Battle Beast - Eden
・Battle Beast - World On Fire
・Dawn Of Destiny - Life
・Delain - Are You Done With Me
・Fairyland - End Credits
・Horizons Edge - Heavenly Realms
・Luca Turilli - Mother Nature
・Lunatica - Hymn
・Nightwish - Storytime
・Nightwish - Amaranth
・Visions Of Atlantis - Twist Of Fate
・Xandria - I'd Do Anything For Love (But I Won't Do That)
Morceaux (probablement) trop durs(たぶん無理な曲)
・Ancient Bards - A Greater Purpose
・Ancient Bards - Aureum Legacy
・Dark Moor - A New World
・Dark Moor - The Night Of The Age
・Epica - The Second Stone
・Frozen Crown - Everwinter
・Sirenia - Seven Widows Weep
・Unleash the Archers - Abyss
・Vandroya - Change The Tide
「ここに書かれてるのは、アタイが独断と偏見で絞り込んだ、メタル界きっての選りすぐりの楽曲たちだ。第一に『メインヴォーカルが女性である』こと、第二に『テンポが速すぎない』こと、第三に『超絶イケてる』ことを条件として選出した。まぁ正直、初心者がいきなり手を出すにはハードすぎる曲も含まれてるが、目標は高いに越したことはないってことで!」そこでソフィーが挙手しているのに気付いたキアラが、意見を聞くために話を振る。「はいよ、何だいソフィー?」
「どうやってこのなかから選ぶんですの? ワタクシ失礼ながら、一曲たりとも存じておりませんわよ?」彼女はやはり乗り気ではなさそうだ。『どうせ演奏するならショパンやモーツァルトがいいですわ』と顔に書いてあるのだ。
「いい質問だ!」キアラがチャットAIみたいな切り出しでソフィーの質問に答える。「選定方法は投票制で、今からアタイがこのスピーカーを使って、リストの曲を上から順番に再生して聞かせるから――」彼女が鞄から携帯用ステレオ・スピーカー・アンプを取り出す。「イントロから最初のコーラス辺りまで再生したところで、各人その曲を『演奏してみたい』と思ったなら挙手してほしい。アタイがその人数をホワイトボード書いていって、最終的に最多票数を獲得した曲を、今回の課題曲に決めようと――何だいソユル?」
続いて発言権を得たのは、転入生のソユルだった。彼女は先週の初顔合わせのときにエリスたちと自己紹介し合っていたが、まだ馴染んでいないのか遠慮しているのか、必要に迫られたとき以外には発言しない大人しい子だった。ソユルがエリスたちの一つ下の学年(中等部3年)ということも関係してるのかもしれない。凄腕ギタリストとのことだったが、未だエリスたちにしてみれば、その実力や素性は未知数の存在だった。キアラは彼女のことをYoutubeやInstagramで知ったようだが……。そんな彼女が珍しく自主的に口を開いたのだ。
「あ、あの……ヴォーカルはエリスさんですよね? 今回のカヴァ―でもベースを弾きながら歌も歌うんですか? いきなりだと大変じゃないですか?」ソユルの質問内容は、自分ではなくエリスを案じてのものだった。そんな些細な気遣いがエリスの心に染み渡る。ありがとうソユルちゃん……まだお互い、あんまりお話もできていないけど、僕たち少しずつ仲良くなっていこうね――。
「モチ、できればそうしたいところだけど、今回は楽器メインで考えて、余裕がありそうなら歌も、ってスタンスで行こう!」キアラが気楽そうに答える。がしかし、彼女はてんで歌が苦手なタイプだったので、それを楽器演奏の傍ら行うなんて考えただけでゾッとしたし、エリスの負担が途方もなく大きいことは重々承知していた。すまねお嬢、たぶん挫折させちまうことになるかも――。「そいじゃ早速、曲決めに入ろう! まず一曲目――」
そんなこんなで、順番に楽曲を試聴していった彼ら。途中アレルギーでぶっ倒れるかと思われたソフィーだったが、キアラの選曲がよかったこともあり、「なるほどね、ゴシックやクラシカルと言われる意味が分かりましたわ」と、存外このジャンルへの理解を示してくれた。投票は長らく一曲目の『Endlessly』が5票でトップだったが、後に『Hymn』と『Storytime』、『I’d Do Anything For Love』がトップタイになり、決選投票が行われることになった。
そしてその結果として、記念すべき最初の課題曲は『Nightwish』の『Storytime』に決定した。エリスとしては大好きな『Fairyland』や『Lunatica』の曲を推していたのであるが、ギターの重要度が低い楽曲ではギタリストたちが投票せず、シンセやストリングスの重要度が低い楽曲ではソフィーが投票しなかったため、こういう結果になった。まぁエリスはナイトウィッシュも好きだったし、特に異存もなかったのだが、懸念すべきはそのヴォーカル負担の高さだった。
大丈夫かな? あんな早口で歌いながらベース弾けるかな? いや、そもそもベースだけでも難しいんじゃ? そんな不安は消えなかったが、決まった以上は一生懸命に取り組んで、自分の限界に挑むぞと意気込む彼。そうだ、頑張れエリス! ともかく今は練習あるのみである! だって努力は決して無駄にならないのだから。
エリスの高校生活⑦ フロスティに首ったけ!
その日、午後5時に帰宅したエリスは、手洗い・うがいをしてから、急いで二階にある自室へと上がっていった。もう早くベースの練習がしたくて仕方なかったのである。自室の扉を開けた彼は、口元をヘニョッと緩ませて、愛するパートナーへと迫っていった。
「うへへぇ、会いたかったよフロスティ~!」
『フロスティ(Frosty)』とは彼が愛機Ibanez SR300E Night Snow Burstにつけたニックネームだった。彼は夜の雪みたいな外観のベースくんが、霜の妖精『ジャックフロスト(Jack o’ Frost)』を連想するとして、そう名付けたのである。何とも痛々しいことに……。
「僕がいない間、寂しくなかった?」彼がフロスティに話しかける。当然返事はなかったが、彼には何やら聞こえているようで、「えっ、本当に? 嬉しい! 僕も寂しかったよ~」と感激しては、その道具に抱きついてしまった。この情景をカイトやテムバ、ソフィーが見たらどう思うだろうか? きっとフロスティは今晩中に暗殺されることだろう……。
「じゃ、早速しよっか?」そう言ってフロスティをベッドに連れていき、自らも服を脱ぎ始めるエリス。ちょ、するってまさか!? フロスティがそんなアブノーマルなプレイを期待したのもつかの間、彼は部屋着に着替えてから、アンプから伸びたシールドケーブルの先端を持ってきて、ベッドに横たわるフロスティに覆いかぶさった。
「じゃ、挿れるよ」彼は端子を慎重にフロスティの穴に挿し込んでいき、「痛くない?」とネックを摩った。だからそんな嫌らしく聞こえるセリフを逐一吐かないでってばエリスゥー! そんなフロスティの叫びなど露知らず、彼は「変な感じしたら言ってね?」とアンプの電源をオンにし、音量ノブなどを摘まんで調節していく。してるっ! ずっと変な感じしてるよエリスゥー! 僕ちゃん恥ずかしくって堪んない!
「今日はまた音階練習をプレイしようと思うんだ」彼がフロスティを担ぎ上げて、ベッドに腰かける。「僕も指使いが上手くなってきたから、きっと君を満足させられると思うな」だ、だからぁ……。「じゃ、チューニングするね?」彼が僕のイイところをピンッピンッと弄ってきて、思わず僕も低く悶え声をもらしちゃうんだ……。ボーンッ、ボーンッって……。はっ! いけないいけない、彼の思わせぶりなセリフに乗せられて、僕ちゃん気が動転してたみたい!
「うんっ! 今日もバッチリ合ってるね!」僕ちゃんが優等生すぎたのかな? できればエリスにぺ、ペグ! 弄ってほしかったんだけどな……。「それじゃ、始めるね?」彼がスマホのメトロノームをオンにして、ポッポッポッピッと電子音が流れ出す。彼はそのリズムに合わせて、僕のあんなところやこんなところを弄り回すんだ。あっ、あんっ! エリス……だ、だめぇ……。
「ふふっ、気持ちぃねフロスティ?」メジャー・スケールをノーミスでクリアした彼は、そのままナチュラル・マイナー・スケールへ移行していく。ごめんなさい、ごめんなさい! 全部僕ちゃんが悪かったの! 君のセリフにエッチな解釈を当てはめて勝手に悶々としてたのは僕ちゃんの方なの! だから、もう許してぇ~!
「僕たち、相性抜群だね!」ナチュラル・マイナーもフルコンボした彼は、最後の難関ハーモニック・マイナー・スケールに突入する。はっ、はっ……ぼ、僕ちゃんもうイきそうだよ……。聞いてるかいエリス? 僕イっちゃう! イっちゃう!
そのとき――ちょうど3弦11フレットから始まるG#スケールの下降局面に差し掛かっていたとき――だった。「バイーンッ」といって彼の小指が弦から弾かれてしまう。ここまで積み重ねてきたフルコンが、ついに途絶えてしまったのだ。「あー! もうちょっとだったのに!」堪らず演奏を中止する彼。いや、こっちのセリフだよっ! 寸止めを食らったフロスティが憤慨する。も、もう! 勝手に始めたんなら、ちゃんと最後まで責任取ってよね! じゃないと僕ちゃん……もう――。
「ごめんね、僕が下手っぴなばっかりに……あ痛っ」エリスが左手の平を見て、その小指にできた水膨れが潰れているのに気づいた。神経が露出して、ズキズキと痛む。彼は絆創膏を貼るために一旦フロスティをベッドに預けて、独り一階へと降りて行った。ちょ、エリスゥー! 僕このまま待ってなきゃダメ? 何なら君の愛液もっと擦り付けてもいいだよ? ねぇってば! うわーん! 放置プレイなんて切ないよぉ!
「お待たせフロスティ」エリスが戻ってきた。その左小指には絆創膏が巻きついている。「ごめん僕、もう今日は小指使えないかも。だから、君との練習はお終いにして、本を読んだりして勉強しよっかなって……」えぇ!? 冗談だよね!? よ、よくもそんな酷いことを!「うぅ……そんな顔しないでよフロスティ……僕だって悔しいんだよ?」嘘だ! 僕ちゃんのことなんか、どうでもいいんでしょっ! 好き勝手に弄んだあげくポイッなんて……も、もうエリスなんか嫌いだ!
そのとき、「シャリーンッ」という通知音が鳴って、エリスがスマホをのぞき込む。届いたのはキアラからバンドメンバー全員に宛てられたメッセージだった。そこには一つのURLと一緒にこうあった。『Storytimeのバンドスコアがこのサイトで見られるよ! 各自気が向いたら目を通すなり練習するなりしておくこと!』URLを開くとWebブラウザが起動し、楽譜画面が表示される。再生ボタンを押すと楽譜が進行し、それに伴って自動演奏の音声が流れ始める。
耳を澄ませて音楽を聴きながら、表示されるベースのTab譜を目で追っていく彼。す、すごい……。もしこれをみんなで弾けたなら、どんなに素敵だろうか――。結局、丸まる一曲分の再生が終わるまで彼は、その場に立ち尽くしたままスマホに釘付けになっていた。それからスマホをベッドに置いた彼は、無言でフロスティを抱きかかえ、ストラップを肩に引っかける。
「フロスティ、さっきはお終いなんて言ってごめん。もう少しだけ付き合ってくれる?」キアラから来たメッセージが彼の心に火をつけたようだ。やるんだ! もっと練習して、上手になって、みんなで絶対この曲を演奏するんだ!「小指を使えなくたって、できることはあるんだ。そう、ペンタトニック・スケールなら! よしっ! なら右手も新しいことに挑戦してみよう――」彼は教本を開いて、スラップ奏法について書かれたページを見つける。スラップ奏法とは親指を弦に叩きつける『サムピング』と、人差し指や中指で弦を引き弾く『プリング』という二つの技術を使用する奏法である。
「ちょっぴり乱暴になっちゃうかもだけど、君を怪我させたりしないよう気をつけるから、ちょっとだけ我慢してね? えいっ――」彼が4弦をサムピングすると、パイーンッというアタックの強い音が鳴る。「うわー! 歯切れが良くって気持ちい音! 次はこれっ――」彼が2弦をプリングすると、ポインッと弾むような音が鳴る。「うーんグルヴィ~♪ ねぇねぇ、フロスティはどんな感じ?」
当のフロスティは悶絶していた。さんざん焦らされた後で手荒に扱われたことが、言いようのない快感を呼び起こしたのである。し、知らなかった……こんなにも僕ちゃん、マゾ気質だったなんて……やっばぁ……つい甘イきしちゃった……。新しい扉を開けてしまったフロスティのなかに、未知の欲望が沸々と湧き上がってくる。あぁぁぁぁもっと打ってぇぇぇぇぇ! そんなんじゃ満足できないよエリスゥゥゥゥゥ! もっともっとぉぉぉぉぉぉ!
「そっか! 君も気持ちいんだね? よーしっ、それじゃスラップでペンタトニック・スケールいっちゃうよー!? それぇ――」彼は音階に沿って、サムピングとプリングを交互に繰り出していく。あうっ――いいよっ――それっ――最高! フロスティが悦びの声を上げるたび、エリスも笑顔になっていった。「すごい。音の粒が際立って、君の声がこんなにもはっきり聞こえるなんて……」もっと、もっと聞いてっ! 僕ちゃんの淫らな声もっと聴いてぇぇぇ!
くっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ! んっんっ――。
こうして今日も、エリスとフロスティの蜜月の日々は過ぎていった。毎日優しいパートナーにご奉仕してもらえて、言葉にならないほど幸せなフロスティだった。『べ、別に感じてなんかないんだからなっ! 本当だからなっ!』by フロスティ
第十八章 – 青春時代② 高校生活 Ep.6
エリスの高校生活⑧ いじめっ子を見返えそう!
次の週の火曜日、2限目が終わったばかりのモーザー学校の廊下には、鼻歌交じりにスキップしているエリスの姿があった。もう小指の怪我もすっかり治っており、フロスティとの甘い『新婚生活』も万事順調だった。あ~早くフロスティに会いたいな~。今日からStorytimeの自主練に入るんだ~(ルンルン♪)。そんなことを考えながら曲がり角を曲がった彼は、目の前の情景に思わず足を止める。
そこは中等部3年の子たちが使うロッカーの前なのだが、内一つのロッカーに異様な貼り紙がされているのである。そこには赤いペンでこう書き殴られていた。
『Hwang Soyul – Asiatique déprimante. Dégage de l’école !(ファン・ソユル 根暗な東洋人 学校ヤメロ!)』
悪質な人種差別的いじめである。いつの時代、どの国においても、こうした非人道的な行いは撲滅されないのである。これにはさすがのエリスも、強い憤りを禁じ得ない。ひ、酷すぎる……誰がこんな貼り紙を――。ちょうどそのとき、前からソユルが歩いてくるのが見えたので、エリスは咄嗟に貼り紙を引きはがし、それをクシャクシャに丸めて上着のポケットに突っ込んだ。
「おはようソユルちゃん!」彼が右手をポケットに入れたまま、左手を掲げてそう挨拶すると、ソユルは一度ペコリと会釈してから、そのまま彼の方へと歩み寄ってくる。その隙に紙をできるだけ圧縮して、すかさずポケットから手を出す彼。「この学校にはもう慣れた?」必至の偽装工作の末、何気ない態度を装う彼だったが、無情にも彼女は右手を仰向けて、それを彼に向って突き出すのだった。
「え、エリスさん。今ポケットに仕舞った物、出してくれますか?」
ドッキーンッ! エリスの胸が動揺で跳ねる。
「へ、へ? な、何のこと?」嘘が下手すぎるエリス。
「今エリスさんの着ている、そのピンク色のカーディガンの右ポケットに入っている、丸まった紙のことです」一部始終をしかと目撃したソユル。言い逃れできぬよう正確に要求を伝える。
「あぁこれ――あ、あれね、あれは……そう、さっき鼻を噛んだティッシュで! 僕ここ最近、鼻炎なんだ――あっ!」苦しい言い訳に業を煮やしたソユルが、一方的にエリスの服から紙を取り出して、それを広げる。「み、見ちゃダメだよ!」時すでに遅し。
「何だ、やっぱりこんな物ですか」そこに書かれた心ない言葉を見て、純真なソユルはさぞかし強いショックを……いや、受けているふうでもなさそうだ。「エリスさん、どうして隠したりしたんですか?」
「そ、そりゃ隠すよ! こんなの……酷すぎるもんっ!」エリスが本当に鼻炎になったみたいに鼻頭を赤くする。「ごめんねソユルちゃん……転入早々、嫌な気持ちになったよね?」
「別に気にしてませんよ。こんなの日常茶飯事ですから」紙を丸め直して自分のポケットに仕舞い、何事もなさげにロッカーを開けて、次の授業の準備を始めるソユル。そんな彼女だったが、当然傷ついていないわけではなかった。ただ以前いた学校ではもっと酷いいじめを経験していたがために、何事もそれと比べればマシだと自分に言い聞かせ、耐え忍ぶ癖がついてしまっていたのだ。そう、こんなのはまだ序の口だ。私は本物のいじめってものをよく知ってる――。
番外編③ ソユルの素顔 – 受け継がれし黄色いギター
かつて韓国に一組の夫婦が住んでいた。韓国外務省でフランス語の通約官をしていた妻と、フリーランスでプロのギタリストをしていた夫による夫婦である。ある日妻の方が、スイスにある『在ジュネーヴ大韓民国代表部(Permanent Mission of the Republic of Korea in Geneva)』への派遣命令を受けたことをきっかけに、二人はジュネーヴへと移り住むことになった。
その際『外交官の配偶者』として帯同ビザを取得できた夫だったが、不安定な職ゆえスイスでの労働ビザまでは下りなかったため、実質この移住で彼は失業状態に陥ってしまう。彼がそこまでして妻に付いていったのは他でもない、それほどまでに二人が愛し合っていたからである。それに生活の方も、妻の稼ぎがよかったため特段問題はなかったのだ。
慣れない土地ながらも、充実して満ち足りた生活を送る夫婦。ほどなくして彼らの間に子供ができた。それこそがソユルである。毎日仕事に忙殺される母に代わって、彼女の面倒は父が見てくれた。ソユルはそんな父と、彼の奏でるギターの音色が大好きだった。母の帰宅が遅くて彼女が不安に駆られている夜でも、父が優しく「사랑해요(サランヘヨ:愛してるよ)」と言って眠りに就かせてくれた。
やがて幼稚園に通い始めたソユルだったが、そこで思わぬ言葉の壁にぶつかってしまう。家庭ではずっと韓国語を話していたからだ。しかし心配ご無用! フランス語を話すことに関してはプロだった母親の教えもあり、すぐに彼女のフランス語は友達と話ができるまでに上達した。それからはむしろ、ソユルの方が友達に言葉を教える機会も多くなった。
*
母が代表部に赴任して5年あまりが経過したころ、ちょうど彼女の常駐任期とスイスでの在留資格(B許可)が切れたのだが、そのまま彼女はジュネーヴの韓国領事館に転任することになったので、問題なくB許可を更新することができた。スイスでの暮らしにすっかり慣れていた彼ら夫婦は、このまま永住権を獲得するつもりで、ささやかな生活を続けていた。
6歳から小学校に上がったソユルは、しばらくは何不自由ない学校生活を送っていた。しかし3年生になった辺りから、一部の心ない生徒たちから嫌がらせを受けるようになり、徐々にそれはエスカレートしていった。主導グループの圧力が働くなか、それまでの友達からも無視されるようになってしまい、学校内での彼女は着実に孤立していくのだった。
でも彼女はめげなかった。いつも学校から帰ったら父が温かく抱きしめてくれ、ギターを教えてくれたからだ。それにそのころには母の仕事も落ち着いており、帰りが遅くなることもなければ、週末よく家族でお出掛けすることもできたのだ。だからソユルは幸せで、父と母さえ傍にいてくれるなら、この世で他に何もいらないと本気で思っていた。
だが運命は残酷にも、そんな彼女から父親までも取り上げたのである。そう、彼女が10歳になったころ――ちょうど一家が永住権を獲得できたころ――突然、父はこの世を去ったのだ。不慮の病だった。それまで強固に繋がっていた三角形から頂点の一つが奪われたのだから、家庭が元の構造を保てるはずもない――母はより仕事に没頭するようになり、ソユルはどこにいても孤独を感じるようになった。
そんな彼女の心の支えだったのが、亡き父が残してくれた黄色いギターだった。父娘で弾いた思い出のギター……唯一、彼女の心に空いた穴を埋めてくれる物……必然的にそれは彼女の『言葉』となった。
彼女は貪るように、世界中のインストゥルメンタル・メタルをコピーした。父から受け継いだ全ての技術を駆使して、6本の弦から無限の言葉を紡ぎ出した。ギターを弾いているときだけは、全てのしがらみから解放され自由になれる気がした。世界にブチ響け! これが私の魂の叫びだ――。
そして彼女が最後に決まって弾くのが、父が作曲したオリジナルのギターソロだった。毎晩その儀式を行って、ギターを清掃してから眠りに就くのが、彼女の日課だったのだ。おやすみ、お父さん……また明日ブチかまそうね……。
*
そして彼女は14歳になった。12歳のとき気まぐれで始めたYoutubeやInstagram、主に演奏動画をアップしていた彼女のアカウントには、今や数万人のフォロワーがいた。しかしそれを妬んだ同級生数人が悪事を働き、ある日の学校に大量のビラがばら撒かれることになる。そこには卑劣に加工された彼女のインスタ画像を背景に、こんなコメントが記されていた。
『La solitaire Hwang Soyul – Sa seule amie, c’est sa guitare.(孤独なファン・ソユル 友達はギターだけ)』
さらに彼女が使っていたロッカーの鍵が壊されており、中にあった教科書やノート、扉裏に貼ってあった家族写真などがズタズタに切り刻まれていたばかりか、化粧品類も荒らされ、鏡も粉々に割られていた。これまで静かに耐えてきた彼女も、このときばかりは涙を堪え切れなかった。
これは到底見過ごせないとして、学校側が実行犯たちを探し出し、問答無用で退学処分にしたのだが、同時にソユルと母親には転校を勧める事態となり、最終的には母の判断として二人とも、ジュネーヴから少し離れたグラン(Grens)という町に引っ越すことになった。しかしソユルは転校なんて無意味だと感じていた。前いたインターナショナル・スクールですらアジア人は自分一人だったし、今度の学校でもどうせ同じ、何も変わりはしないだろうと……。
新しい学校に転入した初日、ソユルは学校の外観をバックに自撮り写真を撮影し、それをインスタにアップした。『私の新しい地獄』というコメントを添えて……。彼女がそれでも自己表現をやめなかった理由は紛れもない、それが彼女に残された最後の『言葉』だったからである。それに心のどこかに、いつか魂を共鳴し合える仲間と出会えるかもしれない、という淡い期待もあった。
そして一日、また一日と過ぎていく日々。幸い目下、目立った嫌がらせは見られない。この学校は民度がいいのか? いや、まだ存在を認知されていないだけだろう……特定の誰かに認知されたが最後、また地獄の釜の蓋が開くのである。結局はそれが、遅いか早いかの違いだけ――。
そんなことを考えていた水曜日の放課後、彼女のもとに奇天烈な髪色をした女の子が走ってきた。「あ、あんた! ふぁ、ファン・ソユルだよね!? ギタリストの!」急な展開だったので、反射的に「は、はい。そうですが」と頷いてしまうソユル。あっちゃ~、もう何か始まっちゃったのか――。「ウッソだろ……まさか今日の今日で『こんな適任者』と巡り会えるとか……完璧奇跡じゃん……」目の前で何やら興奮している女の子は、独話しつつひとしきり呼吸を整えた後、彼女に右手を差し伸べてこう言う。「いつも動画見てるよ! あんたのファン! いや~まさかウチの生徒だったとは……今インスタ見てぶったまげたよ!」そして女の子は、間髪入れず両手を合わせるのだった。
「頼む! アタイのバンドに入ってくれ!」
それがキアラとソユルの出会いだった。
とりあえず二つ返事で加入を了承した彼女は、キアラとメッセージのやりとりするにつれ、すぐに確信する――この子は私と同類だ。この子なら私の情熱を分かってくれる、と――。次の日の放課後、キアラから呼ばれた教室のドアを開くと、そこには他のバンドメンバーたちがいた。みんな良い人そうだ。嬉しい! ここから始まるんだ、私の本当の青春が――。
そう……だからこんな貼り紙なんて……怖くないんだ……。「別に気にしてませんよ。こんなの日常茶飯事ですから」こんな紙、あとで捨てればどうってこと――。
「だったらなお悪いよ!」
廊下に怒号が轟いて、驚いた彼女がロッカーから顔を出すと、隣にいたエリスが怒りで顔を上気させていた。「人の心を平気で傷つけるなんて……絶対に許せない……」知らなかった……この人、こんなふうに怒ったりするんだ……噂では誰もが彼のことを、『明るくて、何をされても怒らない人』って言ってたのに――。
「ソユルちゃん……もし本当は辛いって思ってるならね、僕にちゃんと言ってね? 僕、精一杯助けるから!」未だかつて、そんな言葉をかけてくれた人がいただろうか? 思わず鼻の奥がツンとして、泣きそうになるソユル。だ、ダメ! 今こんなところで泣くわけには――。心の強さを振り絞って、零れそうになる感情を抑え込んだ彼女は、気丈な態度でこう返すのだった。
「ありがとうエリスさん、私は大丈夫です。何たって私にはギターが……皆さんとのバンドがありますから!」そう……全ての感情は音楽で吐き出すんだ、音でぶつけるんだ!
「そっか……うんっ、分かった!」しばらく彼女の本心を推し量ろうとしていたエリスだったが、彼女の言葉を信じることに決めたようだ。「よーっし! 一緒に学園祭で最高のライブ披露して、いじめっ子たちを見返してやろうよ!」
「フフッ、そうですね!」
二人はメロイック・サインを交わし合って、それぞれのクラスへと別れていった。本当にありがとうエリス、私は本当に大丈夫。だってあなたたちのような仲間に出会えたんだから……キアラに見つけてもらって、バンドに誘ってもらってから私、今までよりももっと強くなれたから――。
エリスの高校休日② 合同練習!
次の土曜日、2040/09/22の午前11時である。その日キアラの家に初めて、バンドメンバー全員が集まっていた。理由は明白、今日から本格的に課題曲『Storytime』の合わせ練習を始めることになったからだ。これまで各々で自主練を重ねていた彼ら。エリスとエミリーはかなり上達していたが、実質これが他のメンバーに実力を示す最初の機会だった。
ちなみに親友のエリスやドラム練習中のエミリーはもちろん、キアラの家には何度も来たことがあったが、ソユルとソフィーはこれが初めてだったので、そこはちょっぴり新鮮な休日風景となっていた。またキアラの家は自転車で来られる距離にはあったが、その日の訪問者たちはエミリーを除いて皆、重い機材を輸送する都合で親から車で送ってもらっていた。
みんなで協力してそれらの機材を目的の部屋に運び入れたところで、すでに体力の大半を使い切ったかのようなエリスたち四人。そんな彼らを見た空手少女エミリーは、「みんなだらしないぞ!」と叱咤激励するも、宿敵であるキアラ家の『太っちょ猫』が現れたが最後、「デブ猫覚悟ー!」と突っかかっていっては、「シャーッ!」という威嚇とカウンター猫パンチを食らって戻ってきたので、威厳もへったくれもなかった。
「もう午前中は機材の準備だけして――くはーマジで暑い――午後から練習ってことにしよう」大粒の汗を拭うキアラが告げると、みんなが「さんせーい(ですわー)」と弱々しい声を上げる。まだ残暑の厳しい季節。特段スポーツ経験のないエミリー以外の四人にとっては、アンプを運ぶ程度の肉体労働でも堪えるのである。
その後アンプを電源に繋いだりシールドケーブルを挿したりした彼らは、キアラのお爺ちゃんが持ってきてくれたアイスキャンディーを堪能して火照った身体を冷やした後、持ってきたサンドイッチなどの昼食を食べて英気を養った。さぁさぁ練習開始だというところで、エリスが自前のベースをケースから取り出して掲げる。『んっ? ここはどこだ? ってチャンネーがいっぱい!』by フロスティ。
「見てみてー! これが僕の相棒、『フロスティ』だよー! もう写真では見せたけど、実物はもーっと可愛いでしょー?」彼が早速、生まれたての我が子を自慢する親バカ母さんみたいな言動をする。キアラたち一同も、そんなときのママ友みたく大袈裟な表情を浮かべては、「うおぉ~可愛いじゃん! 目元なんかエリスにそっくり!」などと取って付けたようなコメントを……って、目元がそっくり? 今の言ったの誰? うん、たぶん空耳だな!
一方、注目の的になったフロスティは、『うっひょー! べっぴんさんがイチ、ニ……四人も! もしかして僕ちゃんたち含めて、天使の6Pかい? アオアオォ―!』と謎の雄叫びを上げていた。彼は楽器であるにもかかわらず、なぜか他の楽器たちには目もくれていないようだ。主な理由はと言うと、長年楽器店で暮らしていたから養護施設の家族みたいにしか思えないことと、他の楽器が次々に売れていくのに自分は全く見向きもされなかった辛い過去があること、そして楽器は自分の『イイところ』を愛撫してくれないからである(結局最後の理由がデカイ)。
そんな彼の前に、一台の特別な楽器が姿を現した。『へっ? あの娘はいったい……? なんて可憐なんだ……』by フロスティ。
「うっわー! ソユルちゃんのギター、カッコイイー!」エリスが、今しがたソユルが取り出した黄色のギターに目を奪われる。全体が派手な蛍光イエローで、それを引き立てる黒のピックガード(ボディ表面を覆うプラスチック板)や、オレンジのピックアップ、ボリューム・トーンノブ、ポジションマークなどが特徴的な、月光のようなストラトキャスターである。一見して、控えめな印象のソユルとはミスマッチにも思えるが……。
「だしょだしょ! ソユルのギター、イケてるっしょ?」キアラが自分のことのように語り始める。「2012年に限定生産された『Ibanez RG1XXV FYE 25周年記念モデル』だわさ。超絶レアなヴィンテージギター……アタイもこれ持った彼女をインスタで見つけたときは、そりゃもう興奮したねぇ~」そこで不敵な笑みを浮かべる彼女。「ソユルの演奏見たらビックリするよ。マジ、ぶっ飛んでるから!」
『アイバニたんのぶっ飛んでるとこ見たい! 僕ちゃんもうメロメロォ~♡』by フロスティ。いや、お前もアイバニだろ! 他に呼び方はないのかね? えぇっと……ダブルエックスヴィー、とか……?
立て続けに褒められたソユルは、「ど、どうも」と眼鏡を押し上げるだけだったが、その慎み深い所作のなかには確かに、誇りと自信がみなぎっていた。「でも珍しいギターと言えば、キアラさんのもすごいですよね?」
「おっ、ご紹介どうも! そう言やぁ、お嬢とソユル以外にはちゃんと見せたことなかったね。そんじゃ、改めて紹介するわ――」傍にあったハードケースを開いたキアラは、そこに大事そうに仕舞われた、禍々しくも美しいギターを取り出して掲げる。「こいつがアタイの愛機、『Schecter Hellraiser C-1 FR S Black Cherry』だ。漆黒のサクランボ色した、地獄より出でる死神の鎌さ!」そのギターからは明らかに、闇のオーラが漂っていた。
『うぉっ! こっちのカノジョもマブイぞ! スパイシィ~』by フロスティ。
「あ、あのぅ……ワタクシたち『ヴァルキュリア』でしたわよね、確か?」堪らずソフィーが、バンドコンセプトを再確認する。「魂を救済してヴァルハラへ導くんではなくって?」
「半分の魂はね」キアラがヘルレイザーにシールドを繋ぎ、アンプとエフェクターの電源を入れてから、ボリュームを上げていく――ビィビィビィというノイズとともに、不穏な空気が立ち込める。「残り半分はアタイが『狩る』のさ!」突如、彼女が3弦14フレットのピッキングハーモニクスを炸裂させ、それをトレモロアームで「ギュイーン」とアップダウンさせる。その強烈なサウンドはまさしく、振り下ろされる死神の鎌を彷彿させるほど、空を裂き魂を両断する切れ味を宿していた。
『僕ちゃんのハートも滅多切りにされちゃったぁ……ヘルレイザーちゅあんラブゥ~♡』by フロス――えぇい、うるさいわフロスティィィィ! どんだけ惚れっぽいんじゃ! しばらく黙っとけぃ!
「さぁて戦乙女ども、腕を磨くよぉ! 刃を研ぐよぉ! 来るべき『ラグナロク』に備えてね!」
鎌を振りかざして戦意を鼓舞するキアラ。そんな彼女に呼応するかのように、四人は照れくさそうに楽器を構え、演奏準備を整える。空気が張り詰め、エミリーがスティック・カウントを4拍打ったとき、五人は初めて一つとなった。
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