
初めに
実は先日、ブログを始めて以来の悩みだった「インデックス登録」に関して進展があり、ついに当ブログの各記事も、検索エンジンの結果に掲載されることとなった。それについてはまた別の機会に書こうと思うが、いよいよ検索からのユニーク(純粋)な読者が、ちらほら来てくれるようになったわけだ。
しかし今月はいろいろと忙しく、ほとんど記事を書けていない。「これではいかん! せっかく来てくれた読者にアピールできない!」と思い、急遽今、”筆を取って”いる次第である(実際にはキーボードを叩いているが、格好いい表現なので使わせて)。
最近俺はPC関連に熱が入っているので、そういう記事が多かったが、興味のない人にはとことん興味のないネタだとも思うので(いちおうアイキャッチ画像は毎回頑張って作っているが)、今回はどうしようかと考えたところ、久しぶりに「我流哲学」でもどうかと、このタイトルで話を進めていこうと思う。我流哲学ならいちいち事実確認などをせずとも、自分の考えを率直に書けるので、執筆時間短縮にもなるだろうという算段である(それでも数時間はかかるだろうが)。
それでは本題に入ろうか。
検索は虚無
ここ最近特に酷いが、何かのワードを打ち込んで検索してみても、アイキャッチ画像で例として挙げたような無味乾燥なタイトルばかり目につく。実際、そういったサイトは軽薄な内容しか持たず、似たようなサイトはどれも、どこからかコピペしてきたような味気ない情報がまとめられているだけだ。
俺たちが検索するのは、何かしらの疑問を持っていて、その「答え」を知りたいからだ。しかしあなたが検索したとき、その「答え」は見つかるだろうか? そりゃ、「微分・積分の方法」とか具体的なテスト問題とか、「〇〇を使った料理のレシピ」とか「猫の飼い方」とか、そういった程度の「答え」ならすぐに見つかるだろう。なぜなら、それらの答えを知っている人は多いからだ。
しかし俺たちが本当に切羽詰まっていて、絶対的な答えが知りたくて知りたくて堪らないような問題に関しては、そうはいかない。それらは絶対的な「答え」が導かれていない分野、人一人ひとりの心理状態についてや、人生論、哲学などの問題である。あなたは心が疲れたとき、ふと画像のような検索をしてしまうことはないだろうか? 「答え」など見つからないと心の底では分かっていながら、何か革新的な「救い」があるのではないかと、無意識に指を動かしてしまうのだ。
そんなとき表示されるのが、「〇〇な人の〇個の特徴」とか「〇〇なのは〇〇してないから」とかいう無意味なタイトルの記事である。しかし人とは不思議なもので、そこに「答え」がないと知りながらも、ついつい結果上位に提示されるサイトを開いてしまい、そしてすでに「知っていた情報」を仕入れて、後悔と虚無感に襲われるのである。そういう人間が多いからこそ、それらのサイトは上位に表示されるのである。
逆になぜ、管理人はそんなサイトを創るのだろうか? 答えは知ってるね? そう、もっともらしいタイトルで人を釣って、訪れた人々に広告を見せて収入を得るためだ。つまるところ、サイト運営は金儲けのためのツールでしかないのだ。だから管理人は、訪れた人が「答え」に辿り着けずとも、一向に構わないのだ。利用者がサイトの酷評レビューをして、他の人が寄り付かなくなる、なんてことは基本的にないし、バカなネットサーファーはまた同じ行動を繰り返し、再びスカスカの記事を読んで広告を見て、自分に金を持ってきてくれるからだ。
仕組みとしては病院と似ている。医者は仕事だから患者が来れば診るが、決して本当の意味で、患者の健康を気遣ってはいない(もちろん稀に、「ヒポクラテスの誓い」を信じ崇めるような純粋でまじめな医者もいるが)。なぜなら彼らのビジネスは、不健康な人がいなければ成り立たないからだ。いわば病院にとって患者は、悪い言い方をすれば「金づる」である。俺はそういう、苦しんでいる人を利用して財を成すようなシステムは許せない。正義感からだとかではなく、俺の美学が受け付けないのである。
なぜ「答え」は見つからない?
ここまでの話を整理して、俺なりに導いたその疑問に対する回答は、まず第一に「インターネットが商業化しすぎて、広告収入目的の量産型サイトが爆増し、検索エンジンもそれを上位に表示する「SEO=Senseless Empty Output(無益虚構の出力)」というシステムを採用しているから」で、第二に「検索者は明確な答えの存在しない疑問ほど、強迫的に何度も何度も検索する(検索しても解決しないから)傾向が見られるから」である。1
検索するという行為はある種の依存行動であり、本来は答えを見つけることが目的であるはずが、そのとき感じているストレス感情をいち早く解消するために、目的が「自分は対処行動を執っている」という安心感を得ることにすり替わってしまうのだ。また何かしらの既視感のある情報を読むことによっても、快楽物質の「ドーパミン」は脳内に分泌されるため、その記事の質いかんにかかわらず、まず目についた「可能性」に縋ってしまうのである。
だから俺たちは、これほどテクノロジーが進化して、その気になれば世界中の誰とでも話せ、質問し、「答え」を知れるはずの環境にあってしても、人生に迷い続け、疑問は消えないままで、ずっとずっとモヤモヤした不安と不満のなかで生きているのである。そこから抜け出すために必要な知識はただ一つである。それは「真の答えは自分のなかだけにある」という真理を、自ずから理解することだ。
ググらない勇気
ggrks(ググれカス)という悲しい言葉があるが、ここで俺はあえて提唱する。あなたが本当に探求したいと考えている分野であるなら「ggrnks(ググらぬクセ)」をつけることだ。問題が難しくても、いや難しいからこそ、限界ギリギリまで自分で考えるのである。そうして導かれた「答え」にこそ本当の意味があるのだ。
これまでに存在した賢者と呼ばれる人たちは、皆そうしていたはずだ。本を書いたり論文を書いたり、研究したり日記をつけたりするのは全て、この宇宙が生みだした貴重な知性の一つである「自分」と対話するためだ。俺たちは普段、他人の意見に惑わされ過ぎている。他人の考えの方が重要で価値が高いと思い込んでいる。でもそうじゃないんだ。あなたのなかにも、唯一無二の感性と知識が宿っているのである。
だからどうかggrnksを持って、あなた自身の答えを見つけて、迷っている人がいれば「ASKME(私に聞いて!)」と言って、喜んで教えてくれる人には「TILU(Teach, I’ll Learn from U:教えて。あなたから学びたい)」と言って、自分で答えを探そうとしている人には「YWMK(You Will Make it:あなたならできるよ)」と言って、聞く力すらない人がいれば「FWS(Find With Support:一緒に探そうよ)」と言うのである。そうした支え合いこそがコミュニケーションの理想なのだ。
お終いに
今回は半ば、お茶を濁すような記事になるかなと危惧していたが、書き始めるとなかなか白熱してしまい、結果自分でも驚くほどの奇天烈な文章と、満足感の高い結論に至った。俺にとっての”自分との対話の場”となりつつあるこのブログ。もし訪れてくれた人が何かしらの答えや、そのきっかけを得ることができたなら、それが本望である。それでは最後まで読んでくれてありがとう。縁があれば、また次の記事で会おう。
- 念のために書いておくと、SEOの本当の意味は「Search Engine Optimization(検索エンジン最適化)」である。 ↩︎
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