“男の娘”小説「ELLIS-エリス- 世界最高の生き方」第四十章~第四十二章【空手編完結!そして蒼天編へ!】

ELLIS-エリス- 世界最高の生き方オリジナル芸術作品

第四十章 – 青春時代② 高校生活 Ep.27:力なき正義は、無能……(旭信流空手編 終)

エリスの高校休日⑭ 力なき正義は、無能……

 時は流れて、現在は2041年11月9日土曜日。この日、ローザンヌにあるスポーツ複合施設『ヴュー・ムーラン – スポーツ・ホール(Salle omnisports du Vieux-Moulin)』では、一撃アカデミー主催(IKO公認)による極真空手の大会『スイス・フレンズ・カップ(Swiss Friend’s Cup)』が開催されていた。
 本日本大会には、ベルギー、スペイン、フランス、スイスから実に74名の老若男女が参加していて、我らがマルク・ルナール率いる『旭信流きょくしんりゅう空手道場』組も多くの生徒がエントリーしていた。そして、その参加カテゴリーは以下のように、五つの年齢区分と二つの競技区分、さらに二つの性別区分に分けられている。

[年齢区分]
11歳以下:チルドレン(Children)
12~14歳:カデット(Cadets)※参加人数によってはチルドレンと統合
15~17歳:ジュニア(Juniors)
18歳以上:アダルト(Adults)
35歳以上:シニア(Seniors)
※カデットとジュニアは型部門では統合
※大会の規模にってはさらに細分化され、10-11歳をプリカデット、12-13歳をカデット、14-15歳をユース、16-17歳をユース・エリートと呼んだりする。

[競技区分]
かた
・組手

[性別区分]※組手競技のみ適用
・男性
・女性

 選手はそれぞれの区分のなかで、型競技と組手競技のどちらか、あるいはどちらともへの参加が可能となっており、旭信流道場の子供たちは漏れなく両方参加することとなっていた。にもかかわらず、どういうわけか? エントリー表のどこを探しても、肝心の『エリス』の名前は見つからなかった……。
 そう、『あの事件』の後遺症によりエリスは、とても空手を続けられる身体ではなくなってしまったのだ。だから彼はもう旭信流空手道場の一員ではないし、今日はプライベートで父親に送ってもらい、観客としてみんなを応援するために、この会場にやってきていたのだ。
 エリスが父サミュエルと会場に入った午前8時45分には、ちょうど大会の開会式が行われており、国や道場ごとに列に並ぶ参加者たちの前で、主催者である一撃アカデミーの『ジュゼッペ・ビアンカニエッロ先生』が演説している最中だった。
 入場してすぐ、縦一列に並ぶレオたちを見つけたエリス――と同時に、彼らもエリスのことに気づいたようだ……みんな何やら残念そうな、悲しそうな顔で彼のことを見返してくる……。エリスは一旦立ち止まり、そんな彼らに向かって『頑張ってね』と手を振ってから、そのまま二階にある客席の方へと進んでいくのだった。
 *
 そして午前9時、大会の開始とともに場内では、緊迫した『型部門の審査』が行われていく。型競技は一人ずつ演武する『ポイント制ラウンド方式』で進行し、選手たちが行った指定型(予選&準決勝)や自由型(決勝)の演武を、それぞれ持ち点10点の五人審判が採点することになっていた。
 その様子を客席から観戦していくエリスは、時折隣にいる父に各型の解説をしたり、仲間たちのことを一人ひとり紹介したりしながらも、全体としては静かに事の成り行きを見守っていた。型は繊細な芸術なので、外野があまり大声で声援を送ると迷惑になるからだ。
 結果、2時間程度で型競技は終了し、旭信流組の活躍は唯一、一般の部の生徒がシニア・クラスで準優勝したくらいだった。さすがに組手を重視する流派なこともあって、こと型部門において旭信流組は、他道場の選手たちが行う洗練された演武には一歩及ばなかったようだ。
 特にアダルト・クラスで優勝した、18歳のスペイン人女性『ルシーア(Lucia)』の演武は凄まじく、決勝で彼女が披露した流麗で力強い『観空かんくう』という型の演武には、誰もが『敵わないな』と思いながら、ただただ拍手を送るばかりだった。
 *
 12時40分。午前中いっぱいでチルドレン・クラスの組手試合までが終了し、現在ランチタイムを迎えた場内では、一同が昼食を摂ったりしてリラックスしながら、午後のプログラムに備えて英気を養っていた。
 この後いよいよ13時からは、旭信流組にとっての大本命『カデット&ジュニア・クラスの組手試合(こちらは1対1の勝ち抜きトーナメント方式で進行)』が始まろうとしている……。そんななか二階客席の一角では、早々に食事を終えた当流派の子供たちが集まって、中心にいる人物へと深刻そうな顔を向けているのだった。
 「あうぅ……型部門の結果は残念だったね……でもみんな、すっごく格好良かったよっ」人だかりの中心で座席に腰掛ける人物――もといエリス――が、周りにいるレオたちに向かって和やかにそう告げるも、誰一人として笑わない。全員が俯いて、ただ辛そうにエリスの下半身を見つめているのだ。
 「身体、もういいのかよ……」ジャンがボソッと呟くと、エリスは「うんっ、先日やっと退院できたんだ……ごめんね、みんなと空手できなくなっちゃって……本当はこの大会だって、みんなと一緒に出たかったのに……」と、苦笑いを浮かべる。
 すると今度はリナが、怒ったような調子でこう返してくるのだ。「どうして面会謝絶してたんですか……? 私たち何度も会いにいったのに……。それにスマホの着信にも、全然出てくれなくて……いったい私たちが、どれだけ心配したことか……」これには当のエリスも、笑顔を仕舞い込んでこう答えるしかなかった。
 「ごめん……自分の、あんな格好悪い姿……誰にも見られたくなくって……特にみんなには、絶対に……」思わず真顔で俯いてしまう彼だったが、すぐに視界に移った自分の襟足に気づいては、懲りもせず空元気を装っていく。「でも大丈夫っ。もう身体も心もバッチリ元気になったから、これからはまた前みたいに、いっぱいお話できるよ! それでね――」彼が自分の襟足を右手でサラッと靡かせて続ける。「ジャーンッ! 実は僕、今髪の毛伸ばしてるんだぁ~。えへへ~、結構伸びたでしょ~……って、そんなこと見れば分かるよね……それで、どうかな? 似合ってる、かな……?」
 そう、あれから実に4ヵ月あまりの時が過ぎていて、エリスの髪もすっかりセミロングくらいの長さになっていた。これで彼は、長年のトレード・マークだった『ショートボブ・ヘア』に別れを告げたわけだが、新しい髪形もなかなかキマっている――今や彼は、前髪とトップだけを母エリーズに切ってもらうことで、襟足のみを伸ばした『ウルフカット・ヘア』をしているのだ。客観的に見て、どことなくワイルドで、大人っぽい印象に変身している。
 「すごく、可愛いです……」エリオが苦虫を噛み潰したような顔でそう呟く。それはとてもじゃないが、相手のヘアスタイルを褒めるのに相応しい態度とは言えなかったが、このときばかりは誰も、そのことを咎めようとはしなかった――なぜなら彼ら全員が、エリオと同じ気持ちだったからだ……よって、目に涙を湛えたエリオがこれから続ける言葉も、同じく彼ら心を代弁したものだった。
 「エリスさんは……何があったって、どうなったって……ずっと可愛いですっ――」そうして走り去っていってしまう彼。続いてエミリーが一歩前に出て、ショックを受けた様子のエリスに対して、小さくも決意の宿った声でこう告げるのだ。
 「エリス、見てて……アタシ、君の分まで闘って……必ず、この大会で優勝するから――」そうやってエリオ同様、彼女がその場を立ち去っていくと、それと重なるように場内放送が流れて、午後の部の開始予告を知らせる。それを聞いたジャンとリナも離脱していくなか、最後まで残っていたレオもエミリーに倣って、こう決意表明するのだった。
 「俺も、勝つから」
 *
 そして時刻は15:25。数々の激闘の末、ジュニア・クラスではこれから、男女の部それぞれの決勝戦が行われようとしていた。当然そこまで勝ち上がっていたレオとエミリー。並々ならぬ覚悟を持って試合に臨む彼ら二人は、予選から他の選手たちを圧倒して勝ち星を積み上げてきては、こうして危なげなく決勝の舞台へと駒を進めたのである。
 先に行われるのは女子の部の決勝で、そこでエミリーと対戦するのは一撃アカデミー所属の17歳、『レア(Léa)』という名の段位初段の選手だった。レアは分析能力と判断能力に長けたオールラウンダーであり、変幻自在の立ち回りにより相手を翻弄したあげく、<足掛け>や<足払い>で転倒させるのを得意戦術としていた。
 一方、男子の部でレオと対戦するのは、『キリアン(Kylian)』というベルギー出身の長身の17歳で、その高さを活かした上段への蹴り――特に死角から襲い掛かる<掛け蹴り>や<踵落とし蹴り>――を、最大の武器としていた。キリアンも段位初段であるからして、何とジュニア・クラスは決勝進出者全員が有段者という、ハイレベルな顔ぶれとなっている(エミリーも8月のサマー・キャンプで無事、初段へと昇格していた)。
 ちなみにカデット・クラスの決勝は先ほど終了したばかりで、男子の部で優勝したのは一撃アカデミー所属の14歳『リアム(Liam)』、女子の部で優勝したのはフランスから来た14歳『ローラ(Lola)』だった。残念ながらジャンもエリオもリナも決勝にすら進めず、ジャンとリナは準決勝敗退、エリオは準々決勝敗退となっていた。
 しかしこれが彼らの実力だなんてことは決してなかった。言い訳がましくなってしまうが、エリスのことで強く動揺していた彼らは、とても本調子と言えるコンディションではなかったのだ。ただレオやエミリーのように、今回の事件や世界に対する憤りをバネにして、己の力と変えられるだけの精神力が、まだ彼らには足りなかったのである。
 だからこそ今、勝ち星を上げて旭信流道場の名誉を守りつつ、それを困難に直面するエリスへの『ささやかなエール』とすることができるかは、レオとエミリー二人の肩に掛かっているのである(そのエールがいかに些細なものあろうと、確かに価値のあることだから)。はたして彼らは優勝できるだろうか? 二人にとっての今年最後の大舞台が、今始まる――。

[女子ジュニア・クラス決勝 – エミリーvsレア]
 「始めっ!」
 主審の合図とともに、熾烈な肉弾戦が展開されていく。どうやら今回エミリーは、初っ端からラッシュをかけることで『極力レアに考える暇を与えない』寸法のようだ。エミリーもレアと同じくオールラウンダーではあるが、彼女はどちらかと言えば直感・パワー型でもあったので、闘いを長引かせるほど冷静沈着なレアの術中にはまる危険性は高かった。よってそれを避けるためにも彼女は、速攻で一本を取りにいく『先手必勝』戦法に出たのである。
 残っているありったけの力を振り絞って、攻撃を叩き込んでいくエミリー。彼女の持ち味は何と言っても、その突き技の威力と多彩さである。ここで少し技術的な説明をしよう――。
 一般的に『突き』として実戦使用されるのは、伏拳(甲を上にした正拳)による『強直突き(ストレート)』や『弱直突き(ジャブ)』、『鉤突き(フック)』、あるいは縦拳(立てた正拳)による弱直突きや鉤突き、もしくは仰拳(甲を下にした正拳)による『下突き(アッパーカット)』のいずれかになるのだが、彼女はさらに、次のようなテクニックを駆使することができる。

①縦拳強直突き
 縦拳による強直突き(しっかりと腰と肩の捻りを加えた高威力の直突き)。空手の正拳突きはボクシングの『コークスクリュー・ブロー』ように、拳を放つときに『捻転ねんてん運動』を加えることで相手のダメージを増大させている技なので、縦拳突きは伏拳突きに比べて手首の回転角度が小さい――あるいは全く回転しない――分、威力も弱いと考えられているが、次のテクニックと併用することでその真価を発揮することができる。

人差ひとさし一本拳
 以前第三十章で、マルク先生が口を滑らせたときに言っていた『中指一本拳』という技術の、人差し指版。つまり『人差し指のみを高く尖らせるように折り畳んで、上から親指で強く押さえ付けて固定した状態の拳』を意味する。実際にこれで攻撃するには相当な握力が必要であり、よほどのこだわりを持って努力した者にしか使えない、高等テクニックである。
 エミリーはジャッキ・チェンの映画『酔拳』が大好きなので、当武術の代表的な手型である『杯手はいしゅ酒器しゅきの一つであるお銚子ちょうしの形を真似た手)』や、その変形型である『鳳眼拳ほうがんけん(中国拳法における人差一本拳)』に近いという理由で、この拳形を会得するに至ったのである。
 一本拳の利点は、局所的なダメージの増大と、それによりピンポイントで急所を突けるようになることである。通常は相手のこめかみや、人中、喉、水月を狙って繰り出すが、ルールありの組手試合においては水月か、あるいは『膻中だんちゅう』という乳頭同士を結んだ線上の中央にあるツボや、『乳根にゅうこん』という第5肋骨と第6肋骨の間(水月の高さ)の乳頭の位置にあるツボを狙うことになる。
 試合では相手は半身を切って立っているので、正中線上にある水月や膻中を突くのは難しい。よって主に乳根を突いていくわけだが、そのとき先ほどの『縦拳直突き』が有効となるのだ。人差一本拳を縦拳で突いた場合、その第二関節がちょうど肋骨の隙間に刺さるように出ることが分かるだろう。
 ※IKOの公式戦では、10~17歳の女子はIKO標準のブレスト・パッド(パッド入りのスポブラ)を着用するルールになっている分、人差一本拳は男子ほど効果的な技ではないが、それでも強力なテクニックであることに変わりない。むしろ普段防具に守られているからこそ、それを貫通してくる技が来たときの衝撃は計り知れない。

③手首のスナップ
 一般的に正拳突きは、手首を痛めないよう肘と手首を固定して打つのだが、エミリーの場合は一本拳の威力を最大化するために、インパクトの瞬間にやや指関節を急所に押し込むように、手首を捻る動作を加えることもある。要するに彼女は、突き技も裏拳打ちの一種のように捉えているのである。

 さて、いささか説明が長くなって申し訳ないが、以上が彼女が特技として会得している、拡張されたテクニックである。はたしてこの試合、あれらの技を臨機応変に繰り出せるエミリーに対し、レアはどのような戦略で挑むのだろうか? 早速続きを見ていこう――。
 「シュパンッ! シュパンッ! シュパンッ――」正面で向き合う両者の激しい打ち合いが続く。今回エミリーは短期決戦を目論んでいるので、容赦なく一本拳を突き立てて急所を狙っていくつもりのようだ。もし一発でも攻撃が通れば、激しい痛みにより相手の戦意は削がれ、ともすれば『一本勝ち』を掴むチャンスだからだ。
 しかし当然それを警戒しているレアは、常に引手を水月の辺りに置くことで急所をガードしつつ、たまに変則的な――初動の見えにくい――突きを返して応戦してくる(引手を突手の死角に配置して技の出を隠す高等テクニック)。エミリーはそのガードを崩すために、時に下突きや鉤突き――あるいはそれらのフェイント――を織り交ぜながら攻めていくが、観察眼に優れたレアにそれらを難なく捌かれてしまう。
 ※ちなみにレアの外観は茶髪ポニーテール。鋭い眼光を持った茶眼。身長はエミリーよりやや高い172cm。体型はスリム。趣味は読書で視力が低いので、空手中はコンタクト・レンズを装着しており、普段はワインレッド縁のウェリントン・グラスを着けてるメガネっ娘(今さらそんな情報ぶち込むなっ! 情報過多すぎて読みにくいわ! 何やこの酷い章は!)。
 ここでエミリーが異変に気づく――と言うのも、敵であるレアから全く攻めの姿勢が感じられないのだ。いくら自分がラッシュをかけているからと言って、決勝まで上ってきたほどの猛者がこうも防戦一方なのは、どう考えても不自然だ。ときどき返してくるカウンターも、それほどの力は籠っておらず、まるで判定負けしないために最低限の反撃を装っているようだった。
 それにそもそもとして、接近戦にめっぽう強い自分をこうも易々と『突きの間合い』に入れたことからして、どうも釈然としない。彼女は何を狙っているのか……。そこでエミリーの脳裏に閃きが走る。はは~ん、この子……わざと真っ向勝負を受けて、アタシの体力を消耗させるつもりだ……そんで弱ったところを、<足掛け下段突き>で仕留めるってなところ……? なるほどいい作戦だね、レア……けどアタシにバレちゃったからには、そうはイカの何とやらってね――。
 今の攻めが効果的でないと判断するやいなや、エミリーはバック・ステップして距離を取てから、すぐさま相手の右外腿に<左下段回し蹴り>を入れていく。それも足の甲で打つ普通の回し蹴りではなく、内踝うちくるぶしの骨を刺すように当てる、破壊力抜群の『強化型回し蹴り』だ。
 ※再三の注釈ですまないが、基本的にエミリーは左足前の『オーソドックス』で構えており、レアは右脚前の『サウスポー』で構えている。よって二人は今、『喧嘩四けんかよつ』というかたちで向き合っている状態なのだが、この場合彼女らは、互いに『外ポジション(相手の背中側)』に位置取ることが有利とされる。なぜならそこが互いに、『自分の利き側を活かして相手の利き側を殺していける』立ち位置だからだ。つまり今しがたエミリーが左回し蹴りを放ったのは、相手の外ポジションへの動きを牽制する狙いもあったのだ――。
 しかしどういうわけか? レアは特にガードしたり外ポジを狙ったりすることもなく、迷いなく左足を前に踏み出して内ポジに入ってきては、そのまま踏み足と同じ側の正拳で<左追い鉤突き>を放ってくる――咄嗟に<十字受け>でガードを余儀なくされるエミリー。彼女は大きな思い違いをしていたのかもしれない。そう……レアも『初段のオールラウンダー』だということだ……つまり彼女としても、相手が接近短期決戦を挑んでくるのなら、それならそうで全く望むところなのだ――。
 レアの反撃が始まる。<送り足>からの<左刻み突き><踏み足>からの<右追い突き>→その場での<左中段回し蹴り>という的確なコンビ―ネーションを仕掛け、一気にエミリーを追い詰めていく。これにはさすがのエミリーも、ひたすら防御に徹して堪え忍ぶしかない。くっ、この子……さっきはまだ様子見してただけだったのか――。
 レアの執拗な攻撃が続く。<ワンツー(右弱直突き→左強直突き)><左下段回し蹴り>の基本コンビネーションからの、<ワンツー><左前蹴り><右横蹴り><左後ろ蹴り>の五連コンボ! この猛攻により、いくつかの攻撃をまともに食らってしまったエミリーは、この流れを切るべく無理やりレアの懐に切り込んでは、捨て身の逆襲に出るのだった――。
 そして彼女の必殺技<人差無限突き>が炸裂する。
 おらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらぁぁぁぁぁ!!
 負けじと全ての連撃を受け止めるレア。
 無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁぁぁぁぁ!!
 二人の気迫が、会場全体を熱気の渦に巻き込んでいく。歓声と声援と拍手が飛び交うなか、決着のときは案外とすぐに訪れるのだった――。
 おらぁぁっ!
 エミリーの渾身の<右一本拳強直突き>が、レアの左乳根を打ち抜く。鋭い痛みに襲われるレアだったが、めげずにサイド・ステップで外ポジを奪った後、すぐさまカウンターの<左膝蹴り>を返していく。エミリーは一発、二発と水月めがけて飛んでくる膝を、<挟み突き>(左右から挟むように打つ諸手突き)で辛くも迎撃しながら、三発目が来るのを見計らったタイミングで、最後の大技に勝敗の全てを託すのだった。
 ※IKOのルールでは諸手突きは禁止されていないが、挟み突きを関節に放つのはかなり危険なので、恐らくグレーゾーンか、審判によっては反則とする場合もあるだろう。今回に限っては主審が、『咄嗟の十字受けが間に合わなかっただけで、決して故意ではない』と見做して、スルーしてくれたのだ。
 <右、上段後ろ回し蹴りぃぃぃぃぃっ!!>
 エミリーの右足が天に上る! 彼女がこの技を選んだ最大の理由は、これが外ポジションを殺すことができる唯一の大技だったからだ。相手の背中側に立つ外ポジションは、基本的に相手の利き側の技を大幅に弱体化させることができるが、背中側から攻撃する後ろ回し蹴りだけは例外で、逆にその威力が最大となる地点に立っていることになるのだ。よってこの試合、土壇場で相手のポジションを逆手に取ったエミリーが、逆転勝利を収めるかに思われた……しかし――。
 ぶおんっ! エミリーの蹴りが空を裂く――なぜだがそこには、レアの頭部はなかったのだ。えっ、どこ行っ――。考える間もなく、次の瞬間に飛んでくる顔面への<左内回し蹴り>――いや内回しなどでない! その正体は、レアがチェックメイトとして放った捨て身技<左胴回し回転蹴り(横回転ver.)>だった。
 「パシンッ!」無情にもクリーンヒットする蹴り。倒れるエミリー。吹かれる笛……。審判のコールが高らかに響く。「一本!」レアから差し出された手を取って立ち上がり、頭が真っ白になりながら開始線へと戻っていくエミリー。そこで審判による判定を聞いて礼をした彼女は、フラフラと競技エリアを後にするのだった。
 ガクッ。壁際まで来たところで崩れ落ちるエミリー。後悔と無力感と敗北感が、悔し涙となってドッと溢れてきた。か、完敗だ……あの子、三回目の膝蹴りはフェイントで、始めからアタシに『後ろ回し』を蹴らせようと、わざと外ポジションに着いたんだ……そうとは知らず、まんまとアタシは……ご、ごめんよエリス……アタシ……まだまだ弱かったよっ!
 そんな彼女の様子を遠くから見つめるエリス……彼の目に涙はなくとも、その心は確かに彼女とともにあった。お疲れ様、エミリー……君が僕のために必死で勝とうとしてくれた気持ち、ちゃんと伝わったよ……本当にありがとう……君のおかげで僕は、空手っていう素晴らしい世界を知ることができたんだ……だから顔を上げて……君はいつだって、僕にとってのチャンピオンだから――。
 そして場内アナウンスが流れ、次の男子決勝の始まりを知らせる。こうして旭信流最後の希望は、期待の星レオの双肩に託されたのである――。

[男子ジュニア・クラス決勝 – レオvsキリアン]
 「始めっ!」
 開始早々キリアンが、<右踵落とし蹴り>でレオを瞬殺しようとする(上段への蹴りは、こうして開始線から接近する最初のコンタクトで決まりやすい)! しかしそれを読んでいたレオ! 構わず真っ向から突っ込んでいき、<十字受け>のタックルをもってキリアンの右足を突き飛ばす――対してバク転で転倒を免れるキリアン! 二人が改めて向かい合ったところで、壮絶な技の応酬が始まる。
 まるで約束組手かのように繰り広げられる、完璧なリズムと多様な技のヴァリエーションを持った組手。二人は互いに技を見せ合うかのように、数ターンごとに攻守を切り替えながら、マットの上を縦横無尽に駆け回っては、彼らにしか分からない無言の会話を繰り返していく。
 やがて何かしらの合意に至ったように、距離を取って足技へと移行する二人。キリアンが得意の<右上段掛け蹴り>を出そうものなら、レオも同じ技を出して『同調』する。逆にレオが<空中二段蹴り>を出そうものなら、キリアンもそれに続く。
 ※この同調という現象――片方が片方の技を即座に真似して返す現象――は、ムキになっている選手が大技を受けたときなどによく起こり、先手側はこれを利用して次の相手の行動を誘導したりできるのだが、今回彼らはあえて同調し合っているようだ。その真意はいかに――。
 今度はキリアンが、<連続五本蹴り>(上段への右回し蹴り→左後ろ回し蹴り→右前蹴り→左回し蹴り→右後ろ回し蹴り)という大層派手で隙の多い技を仕掛ける! そしてこれに対しても何の疑いもなく同調するレオ――だが彼が四番目の<左回し蹴り>を蹴ろうとした寸前! キリアンが図ったように<左バック・スウィープ・キック>でその軸足を払いにいく!
 「シュンッ!」キリアンの左足が素早く床を掃くも、そこにレオの脚はない! かと思えば彼の頭上から、いつの間にか埃とともに舞い上がっていたレオの、激烈な<跳び後ろ回り踵落とし蹴り>が落下してくるのだ。
 雷霆裂空脚らいていれっくうきゃくっ!!>
 「ズドォォォンッ!!」
 右膝を地に突いたまま、<十字受け>を盾として落雷に打たれるキリアン。「くっ!」堪らず倒木のように屈曲し、マット上に突っ伏す彼。すかさず飛んでくるライトコンタクトの突き。そして審判のコールがかかる。「やめっ! 技あり、赤っ!」※空手では両選手を赤と白で区別する。今回についてはレオが赤側。
 まずポイントを取ったのはレオの方だ! 彼はキリアンの『同調狩り』を逆に利用して、オリジナルの必殺技『雷霆裂空脚』をここぞとばかりに決めてみせたのだ! さぁ優勝に王手を掛けたぞ! 泣いても笑ってもこれが最後だ! 次のラウンドで全てが決まるぜ、チェケラッ!(執筆が捗らなすぎて、頭がおかしくなっている)

 「始めっっ!!」
 そんでスゲー闘いがおっぱじまるぅぅぅぅぅぅ!! おらぁぁぁぁぁぁ進みやがれェェェェェェ! こちとら全ての活動を投げ打って書いてんだぁぁぁぁぁぁぁ! もう語彙とかリアリティとか伏線とか韻律とかどうでもいいぃぃぃぃぃぃぃ! もう何日も何日も何日もぉぉぉぉぉぉ! 時間を無駄にして書いてんだぁぁぁぁぁぁぁクソゴミがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
 ほい! キリアンがやり返したぞ! 何か隕星衝突脚いんせいしょうとつきゃく的な、レオの雷に対抗した感じの『前宙踵落とし蹴り』使って『技あり』を取り返したぞ! そんで試合は延長突入じゃぁぁぁ!
 両者互角の闘いはクライマックスへとヒートアップゥゥゥ! 互いに殺意の塊みたいな大技を、エコノミー・ライン(最短攻撃ルート)で連打ぁぁぁぁ! そんで正真正銘ラストのぉぉぉぉぉ、小細工なしの、力と力の激突じゃぁぁぁぁぁぁ!
 笑うキリアンに。泣くレオォォォォォ! レオはこの試合すら虚しいと思いながらも、エリスのためにできるのは勝つことだけだと、必死で必死で、必死でぇぇぇぇぇぇぇ! 悲しみを押し殺しながら闘ってんだぁぁぁぁぁぁ! 勝てっ! レオッ! レオォォォォォォッ!
 満を持してキリアンの必殺技が発動する! つま先を下に向けた、テコンドー版の<右後ろ蹴り>じゃぁぁぁぁぁぁ! ハムストリングスに大殿筋のパワーが合わさった、全格闘技中最強の威力を誇る大技なんじゃぁぁぁぁぁ! だけどそんなもん、かわされれば意味ねぇんじゃぁぁぁぁぁぁ! レオが跳び箱を越えるようにキリアンの後ろ蹴りを跳び越えるぁぁぁぁぁ!
 振り向くキリアン、宙を舞うレオ! このクソったれの世界に、レオの心が響き渡るぁぁぁぁぁぁ!
 『エリスの<失われた右脚>よ! 今この瞬間だけ、俺の右脚に宿れぇぇぇぇぇぇえぇぇぇ!!!!』
 <天空、三日月蹴りぃぃぃぃぃぃぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!>
 打撃音は静寂となり、やがて喝采へと変わる。

 「行こう、お父さん……」エリスが涙を拭ってから、両脇の松葉杖を突いて立ち上がる。彼の着る長ズボンの右裾は、膝元で結ばれて途絶えている。「もういいのかい?」と尋ねてくる父に「うん……」と答え、彼は会場を後にするのだった。
 一階からそのことに気づいたマルクは、しばらく生徒たちとともに大歓声のなか佇んで、やがて凱旋してくるレオを全力で褒め称えた後、急いでその後を追って走っていく。廊下に出た先で、すぐに見つかる三本足の元教え子の姿。そしてマルクは、その『出口へと真っすぐ進んでいく哀れな背中』に向かって、上擦った声で名前を叫ぶのだった。
 「エリスッ!」
 聞き知った声に呼び止められたエリスは、隣にいる父に対して『先に車に戻ってて』とお願いした後、振り返って声の主と対峙する。そこにいたのは元恩師――彼に空手を教えてくれた、かけがえのない大切な先生――だった。エリスはそんな彼に向って「お久しぶりです……」と小さく挨拶してから、彼が抱きしめてくるのを成す術なく受け入れるのだった。
 「すまない、エリス……俺がお前に、なまじ空手なんか教えちまったから……こんなことに……」耳元で繰り返される師の嗚咽を聞きながら、エリスはただひたすらに呆然とするばかりだった。「辛かったよな……痛かったよな……すまない……もし俺が付いててやれたなら……」そうしてひとしきり背中を摩られた後、やっと彼の口から出てきたのは、こんな言葉だった。
 「先生……僕は何も……守ることができませんでした……」
 エリスの全身が小刻みに震え始めたのを感じて、マルクはより一層キツく抱きしめながら、こう言うのである。
 「いいや違う! お前は守ったんだ……一つの命を、確かに守ったんだ……お前は立派に闘った……俺はお前を誇りに思うぞ……」
 どうしたって心が開かない……どんな励ましの言葉も、今のエリスには虚構でしかなかった……。
 「先生……僕もう行かないと……」彼がそっと呟くと、マルクは何度か鼻を啜りながら、お終いに彼の後頭部を優しく撫でてから、「あぁ」と言って彼を解放する。エリスが「さようなら、お元気で」と言って歩き去っていくと、その背後からマルクが、別れ際のラスト・メッセージを叫ぶのだ。
 「エリス! 俺たちの関係は変わらねぇ! いつまでも師と弟子、生徒と先生だ!」もはやエリスが歩を止めることはなかった。松葉杖が地を突く音だけが、虚しく返される。「だからお前は永遠に、『旭信流空手道場の仲間』だ! たとえ何があったって、未来永劫……それだけは変わらねぇ!」
 ありがとう先生……でも今度のことは、あなたの責任ではありませんから……どうか気に病まないでください……ただ僕が弱かったんです、無能だったんです……そう……。
 僕が『力なき正義』だったから――。
 自動ドアを通って外へと消えていく愛弟子……師匠ができることはただ一つ、床に崩れ落ちて咽び泣くことだけだった。チクショウ……どうして、こんなぁ――。
 11月初旬の肌寒さは、彼らの凍てついた心からすればまだ、温かい方だった。

エリスの高校休日⑮ その優しさは、毒……

 同日。時刻は16:10。エリスは父親を連れて、ローザンヌにある囚人収監施設『トゥイリエール刑務所(Prison de la Tuilière)』を訪れていた。そこにダニエルの父『ヴィクトール・シャステル(Victor Chastel)』が、『禁固12年』の判決を受けて服役しているのだ――よって彼は今回、ここにヴィクトールとの面会にやってきたのである。

 ※トゥイリエール刑務所は本来女性専用の施設だが、ちょうど付近の刑務所が過密状態だったり、改修工事を行ってたりする時期ということで、ヴィクトールを含めた新規の男性受刑者数名は、特別管理下でこちらに収監されていた。
 ※また通常裁判の場合、事件発生から起訴されるまでに3、4ヵ月、判決までに6~8ヵ月かかる場合が多いが、今回は『経緯が単純』で『証拠も明白』、かつ被告人であるヴィクトールが――どういうわけか――正直に自分の罪を認めたということもあり、銃鑑定および精神鑑定(多額の費用がかかる)が省略されて、証人の事情聴取のみに基づいた『略式裁判』により、『早期判決』が下される運びとなった(彼は弁護人すら立てず、初めから控訴もしない意向を示していた)。
 ※ちなみに罪状は、エリスへの『傷害罪』および『殺人未遂』、家族への長期間に渡る『家庭内暴力特例による暴行・傷害罪』および『脅迫・強要罪』となる。当初は刑期15年程度が妥当と判断されたが、被告は起訴内容を全面的に認めており、また被害者側のエリスと妻が『被告への情状酌量と減刑を求める』という異例の事態になったがため、禁固12年での判決となった。

 「本当に行くのかい?」息子の下車を手伝いながら、父サミュエルがそう尋ねると、息子は「うん……もしあれなら、お父さんはここで待ってて」と言って、脇目も振らず施設の入り口へと向かっていく。仕方なくそれを追う父……。彼としてはこんなところ、一刻も早く離れたかった……。
 *
 そして受付手続きとボディー・チェックを済ませて、面会部屋へと進んでいく二人。本施設における土曜日の面会時間は、受刑者(刑期執行中の人)の場合で15:30~16:30の最大1時間であり、彼らに残された時間はあと15分程度しかなかった。時間を無駄にせぬよう、一心不乱に杖を突いていくエリス……そしてようやく、その無機質な狭い廊下の終点に辿り着く――。
 「ガチャリ」看守が開けてくれたドアを通り抜けると、辿り着いたそこはやはり、同じように無機質で物悲しい部屋だった。整然と並べられた八つのテーブル(パーティション分けされている)はほとんどが空で、唯一、右奥のテーブルの座席にだけポツンと、やつれた中年男性が座っているのだ(彼はまるで、幼稚園で親の帰りを待ち続ける子供のように、寂し気な目をして窓の外を眺めている)。
 「おやっ、ホントに来てくれたんかい、エッリスちゃ~ん?」ヴィクトールが客人に気づいてニタッと笑う。エリスがそちらの方へと杖を突いていくと、後ろから父親がドタドタと追い抜いていっては、そこにいる哀れな罪人の胸ぐらを掴むのだ。
 「貴様だなぁぁぁぁぁ! 私のエリスから脚を奪ったのはぁぁぁぁ!」グレーの囚人服を引っ張りあげながら激昂するサミュエル。途端に駆けつけてきた看守二人に取り押さえられながらも、彼は目の前の男に対し無我夢中で、燃え上がるような憎しみをあらわにするのだった。「殺してやるぅぅぅぁぁ! 殺してやるぞ貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!」※サミュエルは先月の裁判のときに一度彼を目撃しているが、これまで一度も鬱憤を晴らす機会がなかったので、今それが爆発したようだ。
 「お父さん、やめて……」エリスが小声でそう諭すと、父は「し、しかし……」と荒く呼吸しながら、何とか憤怒を鎮めていく。対して彼が「お願い、もう時間がないの……」と言うと、父は「分かった……ならお前の方から直接、憎しみをぶつけてやりなさい……」と、実に教育上良くない提案をする。
 当然エリスはそんなことをしにきたわけではないので、少し悲し気な様子で「お父さん……そんなことしたって仕方ないって、分かってるでしょ……? いいから黙ってそこにいて」と父を咎めてから、ヴィクトールのいるテーブルに着席するのだった。
 「いやぁ~、怖いお父さんだねぇ~?」愉快そうにニヤけながら客人と向き合う罪人。今の彼らのやりとりが、よほど面白かったと見える(それにやはり、まともな会話相手がわざわざ訪ねてきてくれたのが、嬉しいのだろう)。「お家でいじめられたりしてないかい? エッリスちゃ~ん?」
 「何だと、貴様ぁぁぁぁぁっ!?」サミュエルがまた爆発する。これには看守さんたちも大忙しだ。はぁ……だから一時的とは言え、凶悪犯を収容するのには反対だったんだ……家族面会は元より、一般面会だって許すべきじゃなかったのではないか……? 全く『上』は何を考えてるんだ……これじゃ給料に見合わんよ――。「どの面下げて――」
 「お父さん……?」エリスが冷徹な態度で父を制する。「いい加減にしないと、出てってもらうよ……?」初めて感じる息子の『おっかないオーラ』……サミュエルは父としての威厳を一切合切かなぐり捨てて、つい「は、はい……」と口を噤んでしまう。『さぁ、これでようやく静かに話せるぞ』とエリスは、溜息を吐いてから改め直して、眼前の囚人との対話に臨むのだった。「お元気ですか?」
 ヴィクトール(不満そうに)「元気ではないね。たった今、君の父君ちちぎみに殺されかけたもんで」
 エリス「そのことは、ごめんなさい。でもお父さんは、僕のことを大切に思ってるからこそ、そうしてくれたんです。あなたも親なら、それくらいのこと分かるでしょう?」
 ヴィクトール「俺が親失格だと、言いたいんかい?」
 エリス「はい……少なくとも、合格ではないです」
 ヴィクトール「手ぇっ厳しぃねぇ~? エッリスちゃ~ん?」
 エリス「その呼び方、やめてください……」
 ヴィクトール「なぜに? 恥ずかしいんかいな?」※実際には彼は、『エリィ~ス(Elliiiis)』と発音している。
 エリス「僕と、対等に話してほしいからです。『シャステルさん』……言ってる意味、分かりますか?」
 「対等に、ねぇ……」机の下で脚を組んだヴィクトールが、手錠をジャラつかせて両手をヘッドレストとしながら続ける(今回は被害者面会なので、特例として手錠あり)。「それで『エリス』? 君は何を求めてここに来たんだい?」
 エリス「あなたにお願いがあって……」
 「お願い~?」突如ヴィクトールが前傾姿勢になり、両肘で机を突きながらネットリとした声で驚きを表す。「今や、君ら家族とおのが家族への損害賠償で破産していて、銃のライセンスまで剥奪されていて、妻とも離婚していて(合意離婚)、これから11年と6ヵ月も牢屋に入る予定の俺にお願いぃ~? いいねぇ、言ってごらんよ?」
 狂ったようなニヤけ顔を浮かべるヴィクトール……なぜだか彼は、そんな絶望的な状況を楽しんでいるようなのだ――だがまさか彼も、相手から『そんな要望』が来ようとは、夢にも思っていなかった――。
 エリス「人生を、諦めないでください……」
 ヴィク「はっ?」
 これには言われた本人だけでなく、その場にいたサミュエルと看守二人、あと監視映像をモニタしていたスタッフまでもが、度肝を抜かれて口をあんぐり開けることとなった。じ、人生を諦めないで……? ど、どういう意味なのそれ――。
 「僕が、こんなこと言うのも変かもしれませんが……どうか、いつまでも希望を持ち続けてください……幸せになれるって、信じていてください……そうして最後の最後まで、『あなたらしく』生きていてください……お願いします……」複雑な感情を押し殺すように震えるエリスが、ゆっくりとそう告げる。その真意を図りかねるヴィクトールは、とりあえずは『それがいかに無理な相談か』ということを主張するのだった。
 「あぉぅぅぅエリスゥ……俺だってそうしたいところなんだがな? 刑期満了時には俺、還暦間近なんよぉ――そんで言ってなかったが、俺は『肝臓がん』罹患中なんだわ……やし、たぶん俺の意思とは関係なく、そこまで長生きできんと思うわ……すまんねぇ?」
 「だとしても……本当に命尽きるそのときまで、元気で生きていてください……あなたも大切な命だってこと、忘れないでいてください……」エリスが食い下がる。「もし寂しくなったら、僕に電話かけてきてくれてもいいです……だから、どうか……」ここまで来てようやく、ヴィクトールは彼の真意に気づいた。
 恐らく彼のなかには、本当に『相手を大切に思っている』という気持ちと、それを上回るほどの憎しみの感情との両方があって、胸中それらが互いに反発し合っているのだろう……。しかも彼は、そんな相手を『多大な犠牲を払ってまで救ってしまった』がために、『後悔』という名の強烈な自己矛盾に苛まれることとなり、今こうして相手をおもんばかって片方の感情を圧殺することで、何とかしてそんな過去を肯定・正当化しようとしているのだろう……。全てを悟ったヴィクトールが答える――。
 「ま、努力してみるわ……」またしてもリクライニング姿勢になった彼が、颯爽と話題を変えていく。「そんなことより、君の方はどうよ? 右脚の具合は? もう義足はできたんかいな?」
 エリス「はい……やっと『仮義足』ができたところで、今はリハビリを続けながら、断端だんたん(切断した端の部分)が安定するのを待っているところです……たぶん来年の今頃には、『本義足』が作れると思います……」
 ヴィク「そうかいそうかい……さぞかし、辛い入院生活だったろうね……?」
 エリス「まぁ、そうですね……多少は……」
 実際はと言うと、彼は入院中ショックで鬱状態となり(理由は脚の他にもあったので)、特に術後すぐのころは家族にも当たり散らしてしまうほどに、酷く荒んでいた。それほどまでに事件の爪痕は深く、彼の心身を抉り取ったのである。現在は幾分か落ち着きを取り戻していて、家族への非礼を悔い改めている彼ではあるが、まだ心も身体も完治とはほど遠い状態にあった。そんな相手の胸中を推し量ったように、ヴィクトールが見舞いの言葉をかけるのだ――。
 「なら素直になって、俺のことを罵倒すればええんでね? ホントは思ってるんだろう? 俺なんか『救う価値もなかった』って?」
 これを受けてつい、何か言いかけるように鋭く息を吸ってしまうエリスだったが、辛うじて『理性という名の安全装置』が作動したことで、彼は暴走を免れ、また『優しさの沼』へと沈んでいくのだった。
 エリス「そんな……ことないです……きっとあなただってこれまで、たくさん辛い思いをしてきていて……だからこそあんなこと、しちゃったんだろうし……今回、あなたの辛い気持ちが少しだけ……僕に移っただけのことです……だから……だから……」
 そこで時間切れとなる。無線連絡を受けて時計を見た看守が、「時間です」と言っては『エリスたちの帰る側の扉』を開いたのだ。そしてもう一人の看守が、速やかに囚人を連行し始める。仕方なく退室しようとするエリスの背後から、囚人が別れの挨拶をするのだった。
 「脚のことは本当にすまなかった……もっと早く君と出会えていたら、俺らの運命も違っていたのかもしんねぇな……ま、ともかく。会えてよかったわ……今度君に電話すっから、そのときこそ遠慮せず、俺を罵倒しな? 『その優しさは身体に毒』だぜ? じゃあな――」扉の奥へと消えていく囚人……エリスはしばらくその扉を見つめてから、また元来た道に杖を突いていくのだった。

エリスの高校休日⑯ 神様、どうして……

 同日、17:15。エリスは本日二人目の面会相手を会うために、地元の医療機関『ニヨン総合病院(第二十七章で、彼が自傷行為を行った際に搬送された施設)』へとやってきていた。必要な手続きを終えて、該当する『集中治療室』の前まで来た親子。父に廊下で待っているようお願いした子は、満を持してその部屋へと入っていくのだった――。
 「ようやく、君に会えたね……」入室したエリスの目の前にあったのは、ベッドの上で大量の管に繋がれ眠っている、親友で想い人――ダニエル――の姿だった。できるだけ静かに杖を突いていき、ダニエルの顔がよく見えるところまで移動したエリスは、そこにいる不憫な少年に向かって、精一杯の謝罪を投げかけるのである。「ごめんね……僕が『選択を誤った』せいで、君をこんなにまで傷つけちゃって……」
 しかし虚しいかな……返事の代わりに心拍計の音が、一定間隔で患者の生存を知らせてくるだけだ。エリスはぐったりと椅子に腰掛けてから、片一方の松部杖にもたれて頭を抱え込んでは、この日抑え込んでいた全ての感情を、涙に変えて解き放つのだった。
 ごめんっ! ごめんよダニエルゥゥァァ! 僕が間違ってたんだっ! 君を救えるって……君のお父さんもお母さんも、みんな救えるって思ってたんだ……でもダメだったぁぁぁぁぁぁ! 僕が弱かったから……無能だったからぁぁぁぁぁぁぁ!
 それにそもそもとして、こうなったのは全部僕のせいかもしれない……君は知らないと思うけど、僕は『エッチなことをしちゃうと悪いことが起こる』んだ……なのに、なのにあの日……僕が『君とセックスしたい』なんて願っちゃったからぁぁぁぁぁ! 神様が怒って罰を与えたんだぁぁぁぁぁうわぁぁぁぁぁぁぁっ!
 酷い……酷いです神様……確かに僕は、『あなたのせいにはしない』と言いました……けど、こんな仕打ちって……あんまりです……どうして……どうしてぇぇぇぇぇぇ! どうして、あのピストルを暴発させたんですかぁぁぁぁぁぁ! どうして、その弾丸をダニエルに当てたんですかぁぁぁぁぁぁ! そのうえどうして、何よりも大切な『頭』に当てたりしたんですかぁぁぁぁぁぁ! どうしてぇぇぇぇ! どうしてぇぇぇぇぇぇっ!
 僕の右脚のことはもういいです、許しますっ! けど、このままダニエルが目覚めなかったり、もし死んじゃったりしたなら、僕はあなたを一生恨みますっ! 憎みますっ! だからどうか、どうかぁぁぁぁぁ! ダニエルを返してください、お願いしまぁぁぁぁぁぁぁすっ! お願い……します……。
 感情のピークが過ぎ去ったところで、ふと涙を拭って顔を上げたエリスは、そのまま掠れた小さな声で、オリジナル曲『Every life! Let it shine!』のサビを口ずさみ始めるのだった。「エェヴリィ……ラァァイフッ……レェェリットゥッ、シャァィン……」願わくばその歌声が、ダニエルの脳に良い影響を与えてくれますように……。そして一刻も早く、彼が目覚めて、また元気な姿を見せてくれますように……。

 旭信流空手編 バッド・エンドにて 完

第四十一章 – 青春時代② 高校生活 Ep.28:ファントム・ペイン(蒼天(ル・シエル・ブルー)編 始)

エリスの高校休日⑰ ディプレッション・テレメディスン

 あの空手大会の日から丸1ヶ月が過ぎて、本日は2041/12/08(日)。先月、実に4ヵ月余りの入院を経て、ようやく元の社会生活に戻ったエリスだったが、やはり学校の勉強はかなり遅れてしまったし、また会う人会う人から同情と労わりの目を向けられるものだから、とても前のように人生を謳歌しているとは言えなかった。
 入院中作成した『仮義足』には大分慣れてきたが、まだ階段や坂道はキツくてすぐに疲れてしまうし、重要な移動手段である自転車にも乗れない状態だった。そんなこんなで最近は、週末に友達が代わるがわる家にやってきては、塞ぎがちなエリスを無理やり外に引っ張っていって、歩行や自転車の練習に付き合ってくれる、というような日々が続いていた。
 現在時刻は15:00。いつもなら、とっくに誰かが訪ねてきている時間なのだが、今日は誰も来ないのだろうか? まぁどの道エリスは、今日だけは誰が来ても断るつもりだった。もう衆目のなかで恥を晒すのはウンザリだったし、少し休みたい気分だったからだ。そんななか、ベッドで寝そべった彼が眺めているスマホからは、聞き知った声が聞こえてくるのだ。
 「ニコラから話は聞いたよ……いろいろ大変だったみたいだね、エリス」そのスマホ画面に映っていたのは、以前エリスがサマー・スクールで出会った友達、南アフリカで医者を目指している『テムバ』だった。先ほどまで半日ベッドの上で過ごしながら、呆然と音楽を聴いていたエリスだったが、突然テムバからビデオ電話が掛かってきたので、出てみることにしたのだ。どうやら彼の耳にも、ニコラ経由でエリスの状況は伝わっていたようだ。
 「うん……何だか目まぐるしくって……これまで連絡もしなくってごめんね、テムバ?」そうエリスが、生気のない目で申し訳なさそうに言うと、テムバは首を横に振って優し気にこう返してくる。
 「いや、いいんだ。今現在、困難に立たされているのは君の方なんだから、しばらくは他人のことは構わず、自分の心身を癒すことに専念してほしい……。ただ、まぁ……もし余裕ができたなら、『カイト』には連絡してやってほしい――そう、あいつからも話聞いたよ……『君とあいつの間であったこと』について……。あいつ、わざわざ俺にそんなこと知らせて、オマケに謝ってまできたくらいだから、相当に『君としたこと』について後悔してるみたいなんだ……そのせいで君に嫌われたんじゃないか、って……」
 と言うのも以前――あの4月21日、日曜日――に、ひょんなことから『ビデオ・セックス』をしてしまったカイトとエリスだったが、エリスはあれ以来、ほとんどカイトには連絡していなかったのだ(空手を習い始めて、順風満帆な人生を取り戻していたときにすら、何だかんだ気まずくて連絡しなかった)。その空気を感じ取ってか、カイトの方からもエリスには連絡しづらくなってしまったようで、いよいよこんな年末まで疎遠となってしまったのである。
 今こうして、テムバを介してカイトの心境を知ることとなったエリスは、その日本にいる友人への罪悪感を覚えると同時に、まだ彼に元気よく連絡できそうもない自分に対しての、不甲斐なさ・情けなさでいっぱいになってしまうのだった。性行為と今度の事件とは直接は連関していないと、頭では分かっているつもりでも、全ての元凶があの日にあったと思わずにはいられないのである……とは言え彼も、今だにそんなジンクスに縛られている自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。
 「そう、だね……できるだけ早く気持ちに整理をつけて……近いうちに必ず、カイトに連絡してみせるよ……」そう答えるエリスだったが、十中八九じっちゅうはっく『空約束だろう』という声のトーンなのである。ただ、それには別の原因もあったようだ。「それと、ごめんねテムバ……カイトと僕とのこと、ショックだったでしょ……? きっと失望したよね……。それに実を言うと僕、他にも『君の言いつけに背いたこと』が何度かあって、結構いろんな人と『いろんなこと』しちゃってて……もう君に会わせる顔がないや……」
 かつてテムバから言われた『他人に易々と身体を許さない』『もっと自分を大切にする』という言葉を、とてもじゃないが遂行できているとは言い難い状況にいるエリス。あれから彼は、バンド仲間のキアラと三回もキスしてしまったし、カイトとは例のビデオ・セックスをしてしまったし、父親のサミュエルとはお風呂場で『ほぼセックス』までしてしまったし、親友のダニエルとはいよいよ『ホモ・セックス』寸前まで行ってしまい、あげく彼の家庭事情にまで首を突っ込んでは、右脚を喪失してしまったからだ。
 そんな彼の壮絶な1年間を、これまでは何一つ知らなかったテムバだったからこそ、カイトからあの日曜のことを知らされたときや、ニコラから今回の事件のことを知らされたときには、それはもう心臓が飛び出るような思いをしたものだ……。確かに怒りや落胆といった感情はあったが、それは『彼という天使から翼をむしり取った世界』への感情であり、決して彼自身への感情ではなかった。
 今ここで、全ての責任を抱え込もうとしている彼に対して、それをちゃんと伝えてあげないとな、とテムバは思った――。
 「いいや、失望なんかしないさ。きっと君のことだから、いつだってたくさん悩んで考えて、それでも最終的に相手を優先するって結論に至っただけだろうから――まぁ、そのなかに『君の本命』がいないと仮定してだけど……」そこで一度咳払いしたテムバは、やや緊張したように画面から目を背けながら、こう続けるのだった。「それに正直言うと、君とカイトのこと……その、想像して……こ、興奮した」
 「えっ?」エリスの目に初めてハイライトが灯る。思ってもみなかった返答だったので、驚きを通り越してつい、当惑してしまったのだ。「それって、『エッチな気持ちになった』ってこと……?」
 テムバ「まぁカイトへの嫉妬もあったんだけどね――でもある意味自業自得と言うか、あいつはあいつで自滅してくれたみたいだったから、もういいかなって……。それに何より、やっぱ俺も君のこと好きだからさ……あんな話聞かされちゃうと、さすがに、ね……」
 エリス「もう……テムバってば、本当に『優しい』んだから……本心では僕に失望しているのに、気を遣ってわざと、そんなことを言ってくれてるんだよね……? 誤魔化してくれてるんだよね……?」
 テムバ「えっ? いや違う違うっ! マジで興奮したから! 実際、それで何度か抜い――と、とにかく! そのことで怒ったりしてないから、安心して!」
 エリス「そ、そう……? なら、よかった……」
 ここで一時の沈黙が訪れる。これまでのやりとりでテムバには、エリスが相当に『自尊心を欠落させている』であろうことが分かった。それだけではまだ『うつ病(ディプレッション)』だとは断定できないが、少なくともその一歩手前くらいにいるのは間違いなさそうだ。前までの彼だったら、あんなふうに『他者の心を邪推』したりしなかっただろうし、性的な話題に対してここまで無反応でもなかったはずだ。いやむしろ、今は彼の方が『性的な話題を避けている』ようにも思える……とするとテムバは、いらぬ自己開示をしてしまったようだ。
 クソっ、まずった……これじゃ俺、完全に『キモイ奴』じゃん……あぁぁ気まずい……気まずいなぁ――。つい自分まで落ち込みそうになるのを懸命に堪えて、また別の話題を提供していくテムバだった。「そ、それはそうと! 義足の方はどう? もうリハビリはかなり進んだ感じ?」
 エリス「うーん、そうだね。もう普通に歩いたりできるくらいには……でもホントのこと言うとね、あんまり義足で過ごすの、好きじゃないかな……思い通り動いてくれないし、何だか疲れちゃって……」
 テムバ「焦らなくたっていいさ。君は君のペースで回復していけば……。けど、ってことは今は『義足着けてない』んだね?」エリスが頷く。「あの、それじゃ――もし嫌じゃなかったらでいいんだけど――断端だんたんの具合を見せてくれないかな? 俺も少し、医学的な知見を深めたくって」
 エリス「えっ……うーん、どうだろう……何だか恥ずかしいな……」
 テムバ「不憫な頼みでごめん。無理にとは言わないよ。君にはいつも、こんなプレッシャーばかり掛けてしまって、こっちこそ申し訳ないよ……遠慮せず、嫌だったらそう言ってね?」
 エリス「嫌ってわけじゃないんだけど……今ちょっと腫れちゃってて……けど、そうだねっ――テムバに診てもらったら、もしかしたら原因とか分かるかもっ……それじゃあ、えっと……見せる、ね……?」
 そう言うとエリスは、スマホを枕の上に置いてヘッドボードに立て掛けてから、ベッドの上にちょこんと座って、脚をスマホの方へと伸ばしていく。その様子をカメラ越しに眺めながら、テムバは『変な興奮』が湧き上がってくるのを、ひしひしと感じていた。え、エッロ……いや、餅つけ餅つけ(ペッタンッ!)……カイトの二の舞になるな(ペッタンッ!)……これは診察だ、遠隔医療テレメディスンだ……決して疚しい行為では――ってエリスの右脚! 断端袋(切断部位を保護するソックス)がまるでニーハイみたいに被さってて、可愛すぎるだろ――。
 するっ――。パジャマのスラックスの裾を上げたエリスが、続いて右脚の断端袋を下ろしていくと、徐々にその状態が明らかとなっていく。「うんしょっ」そしてついに、その全貌が明かされた――先端に向かってスラッと細くなった真っ白な素脚が、カメラの方へと突き出されている。ご、ゴクリ……まるで肌色の乳鉢のような美しい脚……その艶めかしの前では、先端恐怖症の人すら先っぽに吸い付きたくなること、請け合いだ……。「ど、どうかな……?」
 テムバ「い、いやぁ驚いた……こんなに綺麗な断端、初めてみたよ……普通切断した部分の皮膚って、毛細血管とか汗腺が乱れてしまって、炎症や色素沈着を起こしやすいんだけど、まさかこんな……しっかりケアしてるんだね?」
 エリス「そう、なのかな……? お医者さんに処方してもらったお薬を、一日数回塗ってるだけだけど……。でもよかったぁ……君がそう言ってくれると、すごく安心する……」
 テムバ「腫れてるって言ってたところは、どこ?」
 エリス「それはここ。ほらっ、膝の骨の外側のところが、擦れて腫れちゃってるの」
 テムバ「ホントだ。ちょっと赤くなっちゃってるね? まだ断端が完全には安定していないから、義足のソケットの中に微妙なスペースができちゃってるのかも……ソケットとライナー(断端とソケットの間に装着するクッション材)はどんなの使ってる?」
 エリス「キャッチピン式(ライナーの先端に付いたピンをソケットに挿し込んで固定する方式)のシリコン・ライナーと、TSBソケット(全体で体重を分散支持するソケット)の組み合わせだよ。『着脱しやすくて日常使いに適してる』からって、お医者さんがオススメしてくれたの」
 テムバ「なるほど、もう早くからそんな仮義足使ってるんだね――たぶん君の断端が比較的安定してたから、早めに『本義足に近い装着感でリハビリできるように』との医師の配慮だね……とは言え君は、それを長時間装着するのは億劫に感じてるんだよね? それってやっぱり、『先端に陰圧が集中するキャッチピン式だと、痛くなりやすい+疲れやすい』からだと思うんだ。だからもし、本義足を作る前に予算が許すのであれば、今度は『吸着式(断端とソケット、もしくは穴あきライナー+シリコン・スリーブの組み合わせでソケットの間に陰圧を作り、全体を密着させる方式)』のソケットを試してみるといいかもしれない。そしたらもっと自由に、『自分の思い通りに動かせる』ようになると思うよ」
 エリス「吸着式か~、そんなのもあるんだね~。うん、今度検診に行ったときに、家族やお医者さんに相談してみるね? それで、腫れてるところは他にどんなケアをしたらいいかな? 今は、義足を脱いでるときにクリーム塗って、断端袋履いてるんだけど」
 テムバ「クリームにはどんな成分が入ってる?」
 エリス「ヘパリン類似物質(血流促進、保湿成分)、ビタミンE(抗炎症、血流促進成分)、アラントイン(皮膚修復促進、抗炎症成分)とか、かな……?」
 テムバ「基本的にはそれでいいと思うけど、もしどうしてもライナーとの摩擦が気になるようなら、ライナー履く前に患部に少しだけ『ワセリン』を塗ってみるのもアリかも。やや懸垂能力が下がるけど、皮膚へのダメージはかなり軽減されるよ。ただしその場合、いつも以上にライナーは綺麗に洗わないといけないけど……」
 エリス「そっかワセリンか~。薬局ですぐ買えるもんね、今度試してみよっと」
 テムバ「あと、生活を楽にするために考えられるのは、『足部のカテゴリー』を適した物に変えることなんだけど、それは仮義足の段階でできることじゃないから、もし本義足を作る段階になったら、いろいろ試してみて、その後で臆せず自分の意見を伝えるんだよ?」
 エリス「カテゴリーって?」
 テムバ「足部の構造や硬さのことだよ。義足を作る際には、その人の活動レベル(Kレベル)に応じて適した足部が選ばれるんだけど、たぶん君は活発な若者だから、Kレベル4(高活動~超高活動)と判定されて、カテゴリーとしては硬めの『多軸足部(二方向の軸を持つ機械関節により、底背屈・内外反の動作が可能な足部)』か『エネルギー蓄積型足部(機械関節軸なしで、全体がカーボン素材の板バネとなる足部)』、あるいは『ダイナミック・レスポンス足部(エネルギー蓄積型の進化版。板バネを多層にしたり、前足と踵部を独立設計にした足部)』辺りを勧められると思う」
 エリス「今僕が使ってる義足は何なのかな? うんしょっと(ベッド脇から義足を拾い上げる彼)……コレなんだけど」
 テムバ「それは『SACHサッチ足部(機械関節軸なしで、踵がスポンジの足部)』だね。仮義足によく使われる足部で、安定性が高い分自由度が低いという特徴があるんだ。あと踵のスポンジがすぐに劣化してきちゃうのも難点だね。もしかしたら君が『自由に動けない』って感じてるのは、SACH足だからかもしれない。君は体重が軽くて柔軟性があるから、本来それほどの安定性は必要ないのかもね? だから『少し柔らかめのエネルギー蓄積型』とか『ダイナミック・レスポンス』が適してるかも……まぁ、『イイやつ』はすごく高価だから、必ず完璧な物を作れるとは限らないけど、とりあえず参考程度に覚えておくといいよ」
 エリス「ありがとう。すっごく参考になったよ。ふふっ、そうしてると何だかテムバ、もう充分お医者さんみたい」
 テムバ「いやいや、そんなこと……。君は今『さすがは医者の卵! 何でも知ってるんだなぁ~』とか思ってるかもしれないけど、ネタばらしすると俺、つい最近までその辺りの分野をザッと勉強してただけなんだ……その、君の事情をニコラに教えてもらったときから、少しでも力になれることがないかと思って……」
 エリス「嬉しいな……こんなに遠くにいる僕のために、そこまでしてくれるなんて……」
 テムバ「もちろんするさ! 君は俺の『好きな人』だし、それ以前に『大切な友達』なんだから……だからこそ、こんなことしかできない自分が歯痒いよ……あぁ~俺にもっと財力があったなら、君に『パワード義足』プレゼントしてあげられるのに~! 知ってるかい? パワード義足! ソケットにセンサーや電動モーターが入ってて、それを使えば坂道や階段もらっく楽なんだよ! まぁ値段は天文学的だけど! くわ~世の中不公平だよなぁ~」
 エリス「ううん、君の『その思いやりの気持ち』だけで、僕にとっては充分『天文学的な価値がある』よ。さっきまで暗い気持ちだったんだけど、君と話してたら元気が出てきたんだ……本当に、ありがとうね」
 テムバ「エリス……」
 二人がカメラ越しに見つめ合い、ややロマンティックな雰囲気が立ち込めてきたそのとき! 
 いきなりエリスの部屋のドアが前触れもなく開くのだった。ガチャッ――。
 「エリィ~! チャリ乗ろうぜ~!」
 突然の来訪客は、エリスの幼馴染『ニコラ』だった。どうやら彼が本日の『インストラクター』のようだ。それにしても、いくら気心知れた仲とは言え、事前連絡もノックもなしに他人の部屋に上がり込むなど、実に不届き千万なやつである……。
 ※実際ニコラは、家に上がる際インターフォンは押したのだが、エリスの部屋は家の一番奥にあるため、今みたいにインナーイヤー型のヘッドフォンをしている(元々音楽を聴いていたので)状況では聞こえないのだ。それにニコラはもうサミュエル(エリスの父)との接触に抵抗は持っていないため、あえて事前連絡をしないことで、あわよくばこうやってエリスの隙を突いて、また前みたいに『恥ずかしいシーンに出くわせやしないか』と、淡い期待を抱いている。そして今回に限っては、それが功を奏したようだ――エリスが恥ずかしそうに顔を赤らめながら、口をパクパクしている。
 「はん? 何してんだエリー? また誰かと『サイバーセックス』してんのか?」状況を確認するなり、物凄いテンションで無遠慮に捲し立てるニコラ。「それとも『エロエロ・ライヴ配信』でもしてんのか? まぁどっちにしろ、ほどほどにしておけよ? また『痛い目』みるぞ? さっ、いつまでも家に引きこもってないで、外に出て自転車の練習しようぜ? まだこの近所で補助輪が取れてないの、お前と幼稚園児の『クララ(Clara)』って子だけだぜ? そのクララとは違って、お前には『俺というハイジ』が付いてんだからさっ! 『一歩を踏み出す勇気』持ってみようぜ? なっ?」
 訳の分からない戯言たわごとをマシンガンのように撃ち出してくる幼馴染に対して、さすがのエリスも怒り心頭のようだ――見たこともないほど真っ赤になった彼が絶叫する。
 「もうビックリしたなぁー! 今度ノックしないで入ってきたら、絶交だからねニコォー!」
 どうやらニコラが引き出したかったのは、彼のこの闘争心だったようだ(怒りという感情は、一時的には抑鬱を振り払ってくれる)。

エリスの高校休日⑱ ファントム・ペイン

 ニコラの来訪により、やむなくテムバとの通話を終え、外へと駆り出されることとなったエリス。渋々とニコラに連れられるがままバスに乗って、15分ほど揺られた末到着した先は、レマン湖畔にある観光地『ブール=ド=リーヴ公園(Parc du Bourg-de-Rive)』だった。美しい自然を有する、ニヨン住人にとってのお馴染みの公園ではあったが、エリスにとってはそんなことは関係なく、ただ到着早々スパルタ訓練が始まったに過ぎなかった。
 「ほらっエリー。ペースが遅くなってんぞ! もうへばったのか? 情けないな~」公園の入り口から、庭園の間を縫うように続いている遊歩道を進み始めて間もなく、度重なる階段や坂道の連続に苦戦しているエリスを見たニコラが、人情の欠片もないような態度でそう言った。またしてもニコラは、彼の闘争心に火をつけようという魂胆なのだろうが、肝心の親友は大層不満そうだ。
 エリス「ま、待ってよ――ハァハァ――僕いちおう、『下腿切断した身体障害者』なんだから――ハァハァ――そんなに早く歩けないってば……」
 ニコラ「甘えるな! 俺なんかエリーの自転車押しながら、松葉杖二本抱えてんだぞ!」
 ※エリスの自転車は折り畳み式なので、バス内に持ち込みが可能。加えてニコラは、万が一義足にトラブルが生じた場合に備えて、松葉杖も持っていくことにした。
 「そ、そうだけど……」いつになく冷たい態度の親友に鼓舞されながら、何とか一歩一歩先に進んでいくエリス。頂上にある『Bancs Publics』という広場までは、もうすぐだった。
 ニコラ「よしっ、もうちょっとでゴールだぞ! 頑張れ! クララ!」
 エリス「くっ……クララじゃないもん……いい加減やめてよ、ハイジで例えるの~」
 ニコラ「もう一歩! もう一歩!」
 エリス「ぼ、僕の車椅子……崖から突き落とさないでよ、ペーター……」
 ニコラ「ワン・モア・ステップ! ワン・モア・ステップ! いいぞ! その一歩は小さくとも、君の人生にとっては間違いなく飛躍的な一歩だっ!!」
 エリス「あぁもう……ニコラ・アームストロング船長が出てきちゃった……あの船長の背後に瞬間移動したい……一人の人間にとっての、飛躍的な一歩を踏み出したいよぉ……」
 ニコラ「あと三歩! 二歩! ラスト! ゴォォォォォォルッ! やりましたー! アポロ11号が人類史上初となる月面着陸を成功させましたー! この様子は全世界同時生放送されておりまーす! 世界中の人々が、アポロ11号の雄姿に感銘を受けておりまーす! ありがとうアポロォ! ありがとー!!」
 エリス「も……もういいから、そういうの……しばらく、休ませて……(ハァハァ)」
 ニコラ「何をおっしゃってるんですか!? 人類の飛躍はまだまだこれからですよっ! ほいっ(自転車のサドルを叩く彼)! 次はスプートニク1号を打ち上げるんですよっ!? 分かってますか? ”突然”打ち上げるんですよ! 誰も予期してないときに、突然!」
 エリス(驚愕しながら)「えっ……(何言ってんのコイツ……)」
 ニコラ「そんなショック受けた顔しないで! あなたが世界にショックを与える側なんですからね!? アメリカを『てんやわんや』させる側なんですからね!?」
 *
 こうして第二の試練『自転車練習』が始まった。数人の観光客がベンチに座りながら、レマン湖の絶景を堪能している傍らで、砂利の上で自転車に跨って、親友に補助されながらペダルを漕いでいく義足の美少年。彼は今、自分が何をしているのかすら分からないまま、黙々とペダルを漕ぎ続けるのだった。
 「おっ! イイ感じだね! そろそろ手、放すぞい?」後ろで腰を支えているニコラがそう事前通告すると、エリスが「うん、いいよ」と返してきたので、意を決して彼は「そりゃっ、飛んでけっ!」と、親友の背中を押し出すのだった。
 「くっ……ふっ……」転倒しないよう、必死にペダルを漕ぎ続けるエリス。自転車のギアは一番軽くしてあるが、脚は鉛のように重く、吹き出る汗が顎先を伝っていくのが分かった。
 「飛んだ……スプートニクが飛んだっ!」背後で騒いでいるニコラには構わず、公園の外周に沿って旋回していくエリス。こんなスケールの小さいことを、世界初の人工衛星で例えるのはどうかとも思ったが、やはり5ヵ月ぶりに転倒なしで自転車に乗れて、風を切って進んでいける感覚は爽快だった。気持ちいい……やっぱり自転車っていいな――。そのまま公園を一周し、ニコラの元へと帰還したエリス。これで彼は何となくだが、義足でのペダリングの感覚を掴めた気がした。
 「おいおい! どうしたことかね、これは? ホントに”突然”飛びやがったな、この野郎~!」いきなりの打ち上げ成功に対し、当人以上に浮かれ気味のニコラ。帰還した彼の頭をクシャクシャに撫で始める。「短い軌道寿命ではあったが、確かにお前は飛んだぞ! すごいぞ! 大陸間弾道ミサイルかと思ったぞ!」そのあまりの熱烈歓迎ぶりに、もう少しでエリスの丸い頭は、摩擦熱で燃え尽きてしまうところだった。
 「へへっ、ありがとうニコ。飛んでる最中、『君の応援電波を確かにキャッチした』よ! 僕の『4本のアンテナ』でねっ!」エリスが嬉しそうに髪形を整えながら、お終いに後ろで跳ねた『4本の毛束』をピョコッと示しながら、その『スプートニク・ジョーク』に加担した。
 と、その瞬間。エリスの右脚に鋭い痛みが走る。ピキッ――。思わず顔をしかめて、自転車から降りてはベンチへと義足を引きずっていくエリス。は、始まった……幻肢痛ファントム・ペインだ……でもどうしたんだろう、いきなり――。
 「え、エリー? 大丈夫か?」後ろでニコラが自転車を押しながら、心配そうに声を掛けてくる。エリスは松葉杖が置かれたベンチまで戻ったところで、そこに腰掛けながら事情を説明するのだった。「ううん、ちょっと幻肢痛があって……すぐに治まるとは思うんだけど、何かいつもより痛くって……どうしてかな?」
 ニコラ「そっか……ごめん、俺が調子に乗って無理させすぎたせいかも……今日はもうやめにしようか。何なら義足も脱いで、断端を圧から解放してやった方がいいかもな」
 「そう、だね……じゃあお言葉に甘えて、外しちゃおうかな――」義足のラッチを押してライナーピンを抜き取り、それからライナー自体も脱いで、蒸れた断端を冷たい空気に晒していくエリス。続いて義足とライナーを『持ってきていた専用ケース』に仕舞ってから、ズボンの右裾を結んでいく彼だったが、その最中にも幻肢痛はますます酷くなってくる。堪らず杖を突いて立ち上がった彼は、気を紛らすための散歩へと出掛けていくのだった。「ごめんニコ。ちょっと一人で、その辺歩いてきてもいい? すぐ戻ってくるから」
 ニコラ「おう、行ってこい。荷物は俺が見ておくわ」
 エリス「ありがとう――」
 そうして公園の横に伸びている、プラタナス並木の遊歩道を歩き始めた彼。普段とは違う種類の強い幻肢痛に襲われながら、砂利道を三本の脚で忙しなく進んでいくも、その痛みは一向に引く気配がない。イッテテ……何なんだろこの痛み……まるで氷の刃で、向こう脛を切られているような感覚――。
 それからも何本もの、落葉したプラタナスの間を一心不乱に進んでいく彼だったが、ふと『白くて冷たい物』が舞い降りてきたのに気づいて、立ち止まって空を仰ぐのだった――すると夕焼けのなか、どこからともなく舞い降りてきている無数の光が見えた。その正体は雪。比較的温暖な平地であるニヨンでは、12月初旬の降雪は珍しいことだったが、偶然にもこの日、初雪が降ったのである。
 よく見ると、北東の空から暗雲が近づいてきている。雪はあそこから風に吹かれて、ひと足先にここへやってきたのだ。とするとエリスの幻肢痛は、『低気圧接近による気圧の変化』によりもたらされたのかもしれない。だがしかし、そんなことには考えの及ばないエリスは、一段と暗い表情で俯いては、痛みの原因を曲解してしまうのだった。
 そっか……これは僕に思い出させるための痛みなんだ……自分の罪を……そのせいで苦しんでいる人たちのことを……。そう……今この瞬間にもダニエルは、独りぼっちの病室で昏睡していて……その入院費を捻出するために、彼のお母さんは必死で働いているんだ……なのに僕と来たら、友達と公園なんかに来て、楽しそうに笑ったりして……最低だ……最低だ……。
 辺り一面に咲き乱れる、つかの間の風花かざばな……ふとそれを一輪、左手の平で受け止めたエリスは、その手のなかで消えていく白い花を見つめながら、限りなく遠くにいる友への思いを馳せるのだった。
 ダニエル……早く目覚めて……君がいないと僕、もう笑えないや――。
 12月08日、午後4時11分。その日しんしんと降り始めた初雪が、彼の心を絶望の白へと染めていった。

第四十二章 – 青春時代② 高校生活 Ep.29:雲の向こうに”ル・シエル・ブルー”

エリスの高校休日⑲ 病気じゃないもん!MAXX ILLNESS

 2041/12/14(土)、午前10時07分。この日エリスは、父サミュエルに無理やり連れられて、隣町『プランジャン(Prangins)』にある心理療法施設を訪れることになっていた。何でも、先週以降ずっと暗い顔をしている息子を心配したサミュエルが、相談もなく勝手に予約を入れてしまったようなのだ。今現在、車の助手席(右側)に座りながら、窓の外を流れゆく生垣を呆然と眺めているエリスは、これから受けねばならない『カウンセリング』とやらを、どう乗り切ろうかと考えていた。

 ちなみに、昨日の親子の会話はこんな感じだ。
 サミュ「エリス……みんな心配しているよ? どうしてそんな、感情を閉じ込めるようになってしまったんだい? 右脚のことや、ダニエル君のことで辛いのは分かるけど、もう少し自分に優しくしてあげてもいいんじゃないかい? どれも君の責任じゃないんだからね?」
 エリス「誰の責任かなんて、関係ないんだ……ただ、今”この瞬間”にも辛い経験をしている人たちがいるのに、それを無視して『のうのうと暮らす』だなんてこと、僕にはできない……そんな資格、僕にはないんだ……」
 サミュ「いいや違う。誰にだって幸せになる権利はある。君はそれを、誰よりもよく知っていたはずだよね、エリス……?」
 エリス「……」
 サミュ「それに考えてもごらん? もしダニエル君が今の君を見たら、どう思うだろうか? そんなふうに殻に閉じこもってる君を見て、彼が喜ぶと思うかい?」
 エリス「よろ、こばない……けど……」
 サミュ「だったら――」
 エリス「でもダニエルは見てないよ!」
 サミュ「っ……はぁぁ(溜息)……どういうことだい……?」
 エリス「今ダニエルは、僕のことを見てない……それどころか彼、今は『何一つ見ることができない』んだ……それなのに僕が笑ってるのはおかしいし、笑わなくなった僕を見て、彼が悲しんだりするはずもないよ!」
 サミュ「じゃあどうするんだい!? このままずっと――彼が目覚めてくれるまで――笑わないつもりかい!?」
 エリス「そうだよ!」
 サミュ「それで”私たち”が悲しんでもかい!?」
 エリス(何か反論しようとした後)「……」
 サミュ「いいかい、エリス……? 今の君のように、『幸せを感じられなくなった人』っていうのは、実は世の中に大勢いるんだよ……。みんな同じ心の病気を抱えているんだ……『うつ病』っていう病気をね……」
 エリス「僕は、そんなんじゃないよ……病気なんかじゃない……」
 サミュ「そうかもしれない。でも一度、キチンと専門家の人に診てもらうべきだと思うよ? 少なくとも、誰よりも身近にいる私たち家族が、そう思ってるんだ……言ってること、分かるね?」
 エリス「僕を……病院に連れていくの……?」
 サミュ「病院とは少し違うんだけど……そうだね、明日君を”専門家”のところに連れていこうと思ってる。急で悪いけど、いいね? 朝10時出発だよ?」
 エリス「か、勝手なことしないでよっ! 病院だなんて……そんなお金があるんだったら、ダニエルのお母さんにあげてよっ! もったいないっ!」

 ※今さらながら注釈。スイスは世界有数の高物価国なので、住宅・外食・日用品・交通費のみならず、医療費、教育費、保育費なども全て高額。
 ※ちなみに『世界の都市別”高物価”ランキング』は、執筆時点で確認した情報(2024年の最新データ)によると、一位が『香港(異常な住宅価格が牽引)』、二位が『シンガポール(住宅費もさることながら、自動車を持つために高額ライセンスを必要とする”COE制度”の存在が家計を圧迫)』、三位が『チューリッヒ(スイス)』、四位が『ジュネーヴ(スイス)』、五位が『バーゼル(スイス)』、六位が『ベルン(スイス)』……etc. といった具合だ。

 サミュ「聞き分けなさい! 彼のお母さんが彼のために必死で働いているように、私たち家族も日々、君を幸せにするために働いているんだ。だから、分かるかい? 私たちにとって君の健康は、お金よりもよっぽど大切なものなんだ。お父さんたち、ただエリスに元気でいてほしいだけなんだよ」
 エリス「それは、すごく感謝してるよ……だからこそ信じてほしい! 僕はちゃんと幸せだし、病気でもないんだ! ただ今は自分の意思で、元気でいないようにしてるだけ……」
 サミュ「はぁ(溜息Part2)……それならそれでいい。でもとにかく明日、予約した施設へは連れていくからね? それで専門家の人が病気じゃないと診断してくれたら、そのときは何も言わない――君の”意思”を尊重するよ……それでいいね?」
 エリス「はぁ(溜息返し)……はい……」

 そして現在。家から出発して10分ほどが経過したところで、彼らの乗る車はプランジャンの『ローザンヌ道路』を北東に真っすぐ進んでいる。行けどもゆけども畑、畑、畑。さすがのエリスも『そろそろ着かないかな』と思い始めていた矢先、目的地は突然と、左手側の草原のなかに姿を現した。
 林と草と道路に囲まれたなか、ポツンと佇む白い建物……車が狭い駐車スペースへと進入していく間際、エリスの目に施設の名前が飛び込んでくる。
 『心の診療所”ル・シエル・ブルー”(Cabinet de l’Âme “Le Ciel Bleu”)』
 ※”Le Ciel Blue”とは”The Blue Sky(青空)”という意味。
 にもかかわらず、本日はあいにくの雨天。灰色の雲に覆われた空からは、朝から小雨が降り頻っている。透明の傘を差して下車したエリスが、改めて建物の外観を目に留めるも、そこからは神秘的かつ聖域的なオーラなど微塵も感じず、ただ『しがない心理カウンセラーが、個人開業しているクリニック』くらいの印象しか受けなかった。無言の父に導かれるまま、施設の入り口へとトボトボと歩いていく彼(※雨だが、義足を着けている)。
 「チリンッチリーン♪」先行していた父が手動のドアを開くと、カフェの入り口に付いているような『アナログ式のドアベル』が涼し気な音色を響かせる。もっとも、寒さが厳しくなりつつある12月の今となっては、その音色は客たちの心を凍えさせるだけだったのだが、少なくとも施設内はしっかりと暖房が効いていたので、ドアを潜るなりエリスたちはホッとひと息吐くことができた。
 暖色の照明に照らされた狭い待合室には、受付にもどこにも誰もおらず、唯一、どこからともなく流れているヒーリング音楽だけが、彼らを温かく迎えてくれる。早速エリスが椅子に腰掛けて、持ってきたタオルで濡れた義足を拭い始めるなか、サミュエルが受付に置かれた呼び鈴を「チリーン♪」鳴らすと(またか、うぅ~寒い!)、事務所の方から「はい、少々お待ちを~!」と言う明るい女性の声が返ってくる。
 言われた通り少々待っていると、ようやっと声の主が姿を現し、カウンター前に立っているサミュエルに対して和やかに、「お待たせしました。お客様、本日は初診ですか? ご予約はされていますか?」と対応してくれる。ちなみに彼女の外観は、ネーム・バッジが付いた白衣を着ていて、髪はブロンドを後ろで結わえて『シニヨン(ポニーテールを団子状にまとめた髪形)』にしている。
 サミュエルが「はい。予約した『シンクレア』です」と答えると、お相手は「あぁシンクレア様ですね! お話は『ヴォ―トラン医師』から伺っております。するとご相談者の『エリスくん』というは、あちらの……?」と言って、話し相手の後ろでロビーの椅子に座っている美少年を目に留める――と同時に、固まってしまう彼女(理由はお察し)。

 ※ヴォ―トラン医師――本名『マティアス・ヴォ―トラン(Matthias Vautrin)』――とは、ニヨン総合病院(GHOL)の整形外科部門共同主任の一人であり、エリスの右脚切断手術を執刀してくれた先生。プロステティック外科(人工関節・義肢・再建)の専門家であり、現在エリスのリハビリ治療も担当してくれている。
 ※ちなみにエリスの義足は、ニヨンにある『Orthoconcept』という医療用品店で購入しているのだが、そこでもヴォ―トラン医師はOrthoconcept所属の義肢装具士と連携して、逐一彼をサポートしてくれている。
 ※それらの医療費は目下、”医療保険”とヴィクトール(事件の犯人)からの”賠償金”で賄えているのだが、その辺りの説明はややこしいので、『あとがき』にて一遍に説明したいと思う。なお、今回のカウンセリングもヴォ―トラン医師を通して来ているので、保険適用の範囲内になる。

 「はい、彼がそうです――」サミュエルが息子を手招きして呼び寄せる。「エリス、こっちに来て、彼女に挨拶しなさい」これを受けて、かったるそうに立ち上がったエリスは(印象が悪すぎる!でも彼は義足なんです、許してあげてくださいっ!)、人間不信になった保護犬のような目で女性をチラチラ見ながら、受付の前まで来て口先だけの挨拶するのだった。「こんにちは……」
 これには大層気を悪くしたかに思われた女性だったが、なぜか彼女は俄然やる気になったようで、元気いっぱいこう返事するのだった。「こんにちはエリス! 今日はよろしくね!」彼女の心境はこうだった。えっ! 何この可愛い生き物っ! まるで酷く虐待された後、保護された中型犬じゃないっ!(もうさっき言いましたそれ) いやっ、むしろキツネ? オオカミ?(髪形的に) とにかく可愛すぎる~っ♡
 『いやはや寛容な女性だ』と感心するサミュエルは、続いて湧き起こってくる疑問を率直に唱えるのだった。「それで、えぇっと……今日は、”先生”の方は……?」すると女性が、ニコやかな表情(内心キュンキュンしている)を父親の方に向けてから、こう種明かししてくれる。
 「あっ、申し遅れました――私、当施設でカウンセラーを務めております、心理療法士の『セリーヌ・オークレール(Céline Auclair)』と申します。本日はこの私が、エリスくんのカウンセリングを担当させていただきます」慌てて白衣で右手を拭った彼女が、それをそのまま前に差し出すと、前方の男性は難なく握手に応えてくれる。今や彼女の心は、サミュエルの美貌にもウットリしてしまっていた。
 よ、よく見るとお父さんの方も、イッケメ~ン……もしや彼が私にとっての、”運命の相手”だったりしてぇ~――。すかさず相手の左手に目を走らせては、その薬指に嵌められた”指輪”に気づく彼女。ゲゲッ! 既婚者! (てんてんてん)……まぁそうよね……こんな可愛い娘さん――じゃなくて、息子さんがいるんだもの……はぁ……結婚したいなぁ――。
 「あっそうでしたか! これは失礼しました。てっきり”受付係の方”かと……」サミュエルが握手している右手を振りながら答える。「でしたら先生、今日はどうぞ、息子をよろしくお願いします」
 「はいっ! お任せください!」イケメン成分を少しでも多く吸収したいかのように、しかと右手を握り返すセリーヌ。「それに勘違いするのも無理ないです。いつもは”受付の子”がいるんですけど、今日に限っては風邪でお休みしてまして……ですがご安心を! ”私は絶好調”ですので、誠心誠意”事に当たらせて”いただきます!」いかがわしいセリフにしか聞こえない……。
 「なら、”さっさとしませんか?” 僕、病気じゃないですし、その……早く帰りたいです……」俯いたエリスが、なおも失礼な態度を取り続ける。しかし何だろう、うん……これもいかがわしいセリフにしか聞こえない(耳が腐ってやがる)!
 「そうね、早速”セッション”を始めましょう――」セッ……何ですって? あぁ、聞き違いか……ご、ゴホンッ(気を取り直して)。ようやく長い握手を終え、名残惜しくもサミュエルの手を放した――と言うか、サミュエルのことを手放した――セリーヌは、それから保険証の提示を求めて事務手続きを行った後、エリスを奥の診療室へと導いていくのだった。
 雨天決行カウンセリング! はたしてこの先にいったい、どんな”心察しんさつ“が待っているのだろうか!?

 ☆エピソードあとがき
 本エピソードのタイトル『病気じゃないもん!MAXX ILLNESS』とは、『ねこぬべ』さんという方が作曲された楽曲のタイトルでもあります(『病気じゃないもん』と検索したときに偶然見つけて、そのまま勝手に使わせていただきました)。その前の候補は『雨天決行!カウンセリング!』か、単に『病気じゃないもん!』でした(しょーもない!けど当初の予定では次のエピソードと共同だったはずだったところを、文量が長くなったため仕方なく分割することにした経緯があり、そのとき前半部分の包括として、そのくらいの発想しか出なかったんです……)。
 ですが今回、先のようなタイトルと巡り会うことができて、自分のなかの美学みたいなものを、ある程度保つことができました(何せピッタリなタイトルです!今のエリスは間違いなく『MAXX ILLNESS』の状態ですからね……あと単純に、ネタを仕込ませられたのが嬉しい)。しかし今回に関してはオマージュではなく、そのままの流用になってしまうので(タイトル自体には著作権がないにしろ)、念のため触れておくべきかと思い、本来避けるべきこのようなタイミングでの”あとがき”を挿入させていただく運びとなりました。ぜひ、元ネタの楽曲の方も聴いてみてくださいね。それでは続き、行ってみよー。

エリスの高校休日⑳ 雲の向こうに”ル・シエル・ブルー”

 セリーヌの後を追って入った部屋は、”相談室”と呼ぶにはあまりにもドリーミーな内装をしていた。床には全面に淡い空色をしたカーペットが敷かれ、その上にはガラス天板の円卓と二つのソファ(ソファはアイボリー色で、机を挟んで向かい合って置かれている)、ハニーデュー色した壁には二つの絵画(抽象画)と一つの窓、一つの掛け時計があり、やや高めの白い天井にはオシャレな丸いペンダント・ライトがぶら下がっている。広さは14㎡(約8.5畳)といったところか。
 しかもよく見ると、窓の上に掛けられている時計は『サンバースト・クロック(Sunburst Clock)マルチカラーver.』ではないかっ! ※サンバースト・クロックとは、アメリカの家具デザイナー『ジョージ・ネルソン(George Nelson)』がデザインした、通称”ネルソン・クロック”と呼ばれる掛け時計シリーズの一つで、太陽光線をイメージした12本の円錐が特徴的な、シンプルかつモダンなデザインの時計である。
 い、いやぁ~イイ趣味してるね、セリーヌ……私も昔、オフィス家具の通販サイトで”ハーマンミラー社のワーキング・チェア”を探しているときに、偶然同シリーズの時計を見つけて憧れたものだ……結局高くて買えなかったが、それらの外観は今でも私の心に痛烈な印象を残している……ちなみにそのとき買った『ミラ2チェア』は、今でも私のお尻と腰を支えてくれている。素晴らしい機能と耐久性なので、腰痛持ちの方はぜひ!(何の話じゃ)
 入室するなり対面の窓と掛け時計をチラッと見たエリスは、そのまま示された左側のソファへと沈み込み、前に掛けられた『謎の抽象画(水性絵具で描かれたカラフルなグラデーション)』をもチラ見してから、絶望的な表情で俯くのだった(その状態で視界に入ってくる円卓の上には、透明なオーガナイザーがあり、その中にはスティック・シュガーとマドラー、ロリポップ・キャンディーが数本刺さっている)。
 「ようこそエリス、私の『心の』へ」向かいのソファに腰掛けたセリーヌが、まるで”胡散臭い占い師”かのようにそう言うと(失礼な!そこまでもったいつけた言い方してないわ!)、エリスが興味なさげにボソッとこう呟く。「あの、”これ”の時間って、どれくらいですか……?」もう彼は帰りたくて仕方ないようだ……。するとセリーヌが、おおらかな態度でこう答えていく。
 「私は1セッション、最大1時間で営業しているわ。でもねエリス? 実際に”いつ終わるか”というのは、私たちが”どう対話するか”で決まってくると思うの。だからもしよければ、今だけは時間は気にせず、リラックスして、心を開いてくれると嬉しいわ」そこで何かを思い出したように立ち上がったセリーヌが、こう続ける。「あっと、飲み物を持ってくるのを忘れたわ。コーヒーと紅茶とリンゴジュースとコーラとジンジャーエールがあるけど、エリスはどれがい~い?」
 いや友達かっ! しかもそのラインナップ……旅客機の機内サービスかっ! よく見るとソファもファースト・クラス感あるし……そういうことだろセリーヌ!? この”CA”の手厚いおもてなしに対し、不機嫌な”VIP”はこう答えるのだった。「それじゃあ……お水で」味気ないチョイスと対応っ! 冬に水じゃちょっと喉を潤したあげく、ほとんど吸収されないまま尿になって、すぐにトイレに行く羽目になるぞ――ってなるほど、それが狙いかエリ――。
 *
 客用と自分用のドリンクを持ってきたセリーヌが席に着いたところで、ようやくセッションがスタートする(ちな、セリーヌの飲み物は”はちみつジンジャー・ティー”。いや、そんなんさっきのメニューにはなか――)。「それじゃあ今から、セッションを始めるわね? 早速なんだけど、エリス……何か私に話したいことはなぁい?」
 エリー「特に、ないです」
 セリー「なら私から質問していくわね? エリス、あなたは――」
 エリー「その質問に対する答えを分析して、僕が病気かどうか診断するんですか?」
 セリー「いいえ、そんなことしないわ。混同しているかもしれないけど、私は”カウンセラー”であって”精神科医”ではないの。つまり私のお仕事は、”あなたが病気かどうかを診断して、それに合った薬を出したりすること”ではなくって、ただ”あなたの悩みを聞いて、自己理解のお手伝いをすること”なのよ。ね? だからそう固くならないで? 気楽に話しましょ?」
 エリー(鼻からゆっくり息を吐いた後)「分かりました……」
 えっ? じゃあ”あの白衣”なんなの!? 単なる趣味か、セ――。
 セリー「それで、エリス? あなたの好きなことは? 何をしているときに喜びを感じる?」
 エリー「えっと……音楽を聴いたり……歌を歌ったりしてるとき、とか……」
 セリー「へぇ~素敵ねぇ? どんな音楽を聴いているの?」
 ㋓「シンフォニック・メタルとか……メロディック・スピード・メタルとか……」
 ㋝「えぇ~すごいの聴いてるねぇ? メタルかぁ……ってことは、速い音楽が好きなのね?」
 ㋓「まぁ……そうです……速くて綺麗なのが……」
 ㋝「いいわね! もしよければ、何か歌ってくれない?」
 ㋓「それは、ちょっと……今は無理です……気分じゃなくて……」
 ㋝「そーぉ? じゃあ”今度、気分になったときに聴かせて”ね?」
 ㋓「はぁ……(こ、今度……?)」
 ㋝「歌は、普段どんなときに歌ってるの?」
 ㋓「自分の部屋で、音楽を聴きながらとか、一人でシャワーを浴びてるときとか……あと、前までは友達とやってるバンドでも、歌ってました……」
 ㋝「バンド? すごいわねぇ? それもやっぱり、メタル・バンドなの?」
 ㋓「はい……大好きな友達と結成した、大好きな居場所でした……」
 ㋝「今はもう解散しちゃったの?」
 ㋓「そうじゃないけど……僕が、”こんな”になっちゃって……気軽には活動できなくなっちゃったから……」
 ㋝「最近は一緒に演奏できてないのね?」
 ㋓「はい……」
 ㋝「バンドでは、あなたはヴォーカルだったの?」
 ㋓「ヴォーカルと、ベースでした……」
 ㋝「えぇ二つも! じゃあバンドの要だったのね?」
 ㋓「そういうわけじゃ……みんなすごくて……みんな主役でした……」
 ㋝「そぉ……(感嘆)。さぞかし素敵なバンドだったんでしょうねぇ……。それで、ベースは今でも弾いてるの?」
 ㋓(何かに気づいたような素振りをしてから)「近頃は……めっきり……」
 ㋝「それも、もしかして”同じ理由”から?」
 ㋓「そうかも……ここずっと忙しくて、くる――かったから……フロスティのこと、触ってあげられてなかった……話してあげられてもなかった……(それどころか僕、フロスティのことを見てもなかったし、そのことに気づいてすらいなかった……)」
 ㋝「”フロスティ”っていうのは、あなたのベースの名前ね? あなたはフロスティをほったらかしにしたことに、罪悪感を感じている?」
 ㋓「すごく……感じてます……僕、お父さんにフロスティを買ってもらったときに、こう約束したんです。『きっと大切にするし、たくさん練習する』って……なのに……」
 ㋝「でも、あなたはその言葉の通り、たくさん練習して、たくさんフロスティと”お話し”したのよね? それなら、自分を責める必要ないと思わない?」
 ㋓「で、でも……」
 ㋝「私もね? よく『明日は”この前勉強のために買った本”を読むぞ!』とか、『明日から婚活とダイエット頑張る!』とか決意するんだけどね? 大抵は結局、次の日になったら”もういいや”って放り出しちゃうの。でもそのことで、自分を責めたりはしないようにしてるわ。だって”人ってそういうもの”だと思っているから」
 ㋓「友達にも以前言われました……僕は『完璧主義者』だって……だからもっと自分を嫌いになって、それに慣れていこうとしたんですけど……嫌いになればなるほど、ただ苦しくて……」そこで何かを閃いた彼。「そっか僕、まだ”治ってなかった”んだ……先生(Docteur)……やっぱり僕、”病気”なのかもしれません……」
 ㋝「エリス? 今は病気かどうかなんて、関係ないわ。それに言ったでしょ? 私は”ドクター”じゃないって……だから普通に『オークレールさん(Madame Auclair)』か、『セリーヌ』って呼んで?」
 ㋓「オークレールさん! 僕は自分のことを『完璧超人』だって思ってる、思い上がった『精神異常者』です! ずっと『自分なら何でもできる』って思っていました……本当は無力で無能なのに! 恥ずかしい……恥ずかしいです……」
 ㋝「ねぇエリス? あなたの身に”何が起こったのか”は、ヴォ―トラン医師からも聞いてるし、”事件”のことはネットのニュース記事でも読んだわ。だからこそ私、あなたのことをこう思うわ、『何て強くて勇敢な子だろう』って……ね? だからそんなに、自分を卑下しなくてもいいのよ?」
 ㋓「あなたは何も分かってないです……僕は強くなんかなかった……ただ”そう思い込んでいた無謀な奴”だったんです……そのせいで右脚を失って、友達も傷つけてしまった……」
 ㋝「”ダニエル”のことね? きっとこれまでにもたくさん――耳に胼胝たこができるほど――聞かされたと思うけど、もう一度ハッキリと言うわね? 『彼のことは単なる事故。あなたのせいではない』わ」
 ㋓「はい、耳タコです……みんな言ってきます、『全部忘れて、また前を向いて人生を楽しめ』って……そんなこと、できるはずもないのに……」
 ㋝「忘れる必要なんかないわ。ただ”受け入れる”の。起こってしまったことは変えられない……だからこそ”大切なのは今、そして未来の幸せ”なんだって……そう思わない?」
 ㋓「詭弁です……もし今回のことを、単なる”不運なアクシデント”で片付けてしまったら……それはそれで、『この世界は運が全てで、運が悪ければ努力なんか全て水泡に帰す』って言っているようなものです……そんなの嫌だ……また”こんなこと”が起こるかもしれないと思ったら、僕は怖くて生きていけない……」
 俯いて震える彼のことを見ながら、なぜか朗らかに微笑した彼女は、唐突にこんなことを告げるのだった。
 「『雲外蒼天うんがいそうてんAu-delàオ・ドゥラ des nuagesニュアージュ, le cielシエル bleuブルー.)』って言葉を知ってる?」
 ㋓「うんがい、そう……てん?」
 ㋝「雲の外には青空が広がっている――つまり『困難の先にまた幸せが訪れる』『希望は決して消えない』って意味の言葉よ」
 ㋓「何が……言いたいんですか?」
 ㋝「”良いこと”とか”悪いこと”って、その日の”天気”みたいなものだと思うの。たまにずっと曇り空が続いたり、雨の日が続いたり、時には雷が落ちたり、あられみぞれひょうが降ったりもするけど、それで青空が永遠に失われてしまった――もう二度と晴れ間が来ない――なんてこと、ないじゃない? またいつか――そう遠くない未来に――晴れるときが来るはずよ。それも普通の晴天より特別な、”快晴”が来るときだってある。ねぇ考えてみて、”あなたにとっての快晴”って、どんなこと?」
 そう言われたエリスは、それすらも”詭弁”だと思いつつも、とりあえずは素直に心のなかで、『未来に訪れるかもしれない最高の瞬間』を思い描いてみることにした。最初はぼんやりしていたが、やがては明瞭なヴィジョンとなって浮かんでくる、来たるべき理想の未来……。
 まず、ダニエルは何事もなく目を覚まして、お母さんと幸せに暮らし始めるんだ……それから彼のお父さんは病気を克服して、模範囚になって刑期を短縮されて……それに僕は自分にピッタリな義足を作ることができて、また空手や運動を楽しめるようになって……そしたら”ヴァルキュリア”のみんなとも活動を再開して、また最高のライヴを学校で披露するんだ……他にも楽しくて幸せなことを、大好きな人たちといっぱいして……最後には最高の卒業式を迎えて、高校生活に別れを告げるんだ……そしてその後は、もしかしたらどこかの大学に入学したりして、また次の幸せを見つけにいくのかもしれない……そう……僕の人生はまだ、始まったばかりなんだ――。
 目を瞑って微笑した彼の目元から、ひと筋の涙がツーっと流れ落ちる。それを見たセリーヌが、「どう? 信じて待ってみる価値、あると思わない?」と語りかけると、少年は俯いて涙を拭いながら、こう答えるのだった。
 「や、やだな~”セリーヌ”……そんな”快晴”、来るはずないじゃないですか……来るはずないから辛いんだ……信じて待つのが、どんなに辛いか……」
 否定されてもなお、穏やかな微笑みを絶やさないセリーヌ。なぜなら、彼女には分かっていたからだ。今――静かに涙を拭い続けるこの少年の心にて――雲の切れ間から薄明光線が漏れ始めたことを。
 「”信じている”から、辛いのよね? だからそれは、”強い人にしか感じられない辛さ”だわ……それでもどうか、信じていて……その辛さを越えた先に、『蒼天ル・シエル・ブルー』が訪れることを……」
 そして光芒は連なりて、やがて天使の階段、鍵盤、あるいはカラーパレットへと変わる。

あとがき:スイスの医療保険制度とヴィクトールからの賠償金

 まず、スイスには『LAMal(KVG)』なる法律が存在しており、それによれば国民は必ず、『規定された社会保障レベルを満たせるだけの健康保険に加入する』よう義務付けられている。よって当然エリスも、この法律に則って保険に加入しているわけだが、スイスの医療保険制度は少し特殊なので、ストーリーとは直接関係はないのだが、ぜひここで触れておこうと思う。
 さて本題なのだが、具体的にスイスの医療保険は、以下のような『二つの要素を組み合わせた形態』をしている。

・フランチャイズ(franchise)
 最低300 CHFから最大2,500 CHFまでで保険加入者が自由に定められる、『保険適用されるまでの年間医療費の閾値(免責額)』のこと。毎年フランチャイズ未満の医療費は全て自己負担になるが、これを高めに設定すると月々の保険料が安くなる。

・自己負担率(quote-part)
 フランチャイズを超え保険適用となった場合に、以降の医療費に対して自己負担しなければいけない金額の割合。スイスの保険では原則10%に定められている。ただしフランチャイズ以降の自己負担額には年間上限があり、成人で700 CHF、未成年で350 CHFとなっている(つまり、どんなに莫大な医療費が掛ったとしても、成人では『フランチャイズ+700 CHF』までしか、年間で負担する必要はない)。

 典型的なスイスの中流階級家庭が加入している保険のプランでは、フランチャイズを1,000~2,500 CHFの高めに設定して保険料を抑えているケースが多いが、それでも平均的な成人の保険料は月400~600 CHF(年間約5,000~7,000 CHF)にも上るので、いかにスイスが高物価国であるかがお分かりいただけるだろう。
 エリスの場合、今年は”いろいろあった”ので、すでにサミュエルの負担額はフランチャイズ+350 CHFをとっくに超えており、以降今年いっぱいの医療費は全額無料となっている。ゆえに彼が年末のこんな時期に、いきなり”ル・シエル・ブルー”の予約を取ったのには、そういう事情も関係していたわけだ(もちろん、扶養されているエリスとしては、そんなこと知るよしもない)。

 続いて『ヴィクトールの賠償金』の話に移ろう。もしかすると鋭い読者様のなかには、こんな疑問を持っている方もおられるかもしれない。『まだ彼らは刑事裁判しか行っていないのに、どうしてもう賠償金が支払われているの?』これは実に的を得た疑問なのだが、これに対する説明を本編中でするのは、あまりにも冗長になると判断したので、この場をお借りして片付けてしまいたいと思う。
 さてその理由なのだが、実は、被告人の実刑判決を”国家に請求”する『刑事裁判』においても、被告人への”附帯請求ふたいせいきゅう(主たる請求に付随して行う請求)”として、民事的な賠償請求を併合することが可能なのだ。処理がやや複雑にはなるのだが、またイチから民事訴訟を起こして長期間争う手間を考えれば、一度に複数の問題を解決できる附帯請求は有力な選択肢となるわけだ。
 今回のケースの場合、被告ヴィクトールには複数の容疑が掛けられていた。エリスならびに家族への『傷害罪』などである(同一人物に対する、確定裁判を経ていない二つ以上の罪は、一つの裁判で同時に審理することできる。これを『併合罪』という)。つまりはその際に、サミュエルとヴィクトールの妻が附帯請求を行ったことで、それが結果として認められて、法廷からヴィクトールへの賠償命令が出されたのである。
 そして気になるその賠償額であるが、エリス側へは手術費・入院費・初期治療費・リハビリ費(理学療法など)・補装具費(義足など)・将来の医療費・維持費(通院および義足の買い替え、部品の交換など)・精神的苦痛・身体的被害・逸失利益(将来の職業制限など)を諸々含めて、『800,000 CHF』が認定額となった。
 一方家族へは、二人分の精神的苦痛への慰謝料として200,000 CHF、その他軽傷治療・カウンセリング費用として50,000 CHF、合計『250,000 CHF』が認定額となった(家族は――少なくともヴィクトールの虐待によっては――エリスほどの身体的被害は受けていないので、この程度が妥当)。
 現在その内すでに、ヴィクトールの貯蓄(流動資産)50,000 CHFから35,000がエリス側へ、15,000が家族側へ支払われており(7:3で按分あんぶんされた)、差し押さえられた資産(車一台、拳銃6丁、ライフル銃1丁など)も順次売却され、今後エリス側への賠償に充てられる予定だ(妻は代わりに、所有物件(持ち家一軒)を受け取ることになった)。
 もちろん、それでもエリス側への賠償金には遠く及ばないのだが、現在ヴィクトールの年金口座には300,000 CHF入っているので、将来的にそれを引き出して賠償に充てることは可能である(とは言え、年金口座は容易には差し押さえられないので、あくまで可能性の話)。まぁそれでもやはり足りないので、ヴィクトールは自己破産を余儀なくされたわけだが……。

 ともかくとして、エリスたちが置かれている現状はそんな感じであります(あ、もう考えるの嫌になってる)。現実はあまりに面倒事が多いので、通常創作ではそういった部分には目を瞑って、『そういうものは、そういうもの』として説明は省くもの(あるいはそもそも説明不能なもの)ですが、当小説はリアリティを売りにしているので、念のためここで裏側の情報を開示させていただきました。願わくば、これが読者様の読解の助けになればいいな、と思っております。
 それでは以上をもって、あとがきの終尾とさせていただきます。今後とも、超絶リアリティ・スーパー・ヘヴィノベル『ELLIS-エリス- 世界最高の生き方』を、よろしくお願いいたします。

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