
第三十七章 – 青春時代② 高校生活 Ep.24:人生最大の告白を
エリスの高校生活⑲ 人生最大の告白を
つかの間の筋トレ・イベントを終えたエリスとダニエルは、それからベッドへと移動して『おやつタイム』を迎えることとなり、そこで『部屋に来るときに持ってきたマフィンと牛乳』を頂きながら、安らぎのひと時を過ごしていた。ちなみにその『おやつ』の合計エネルギーは500kcal! PFCバランス(たんぱく質:脂質:炭水化物)はおおよそ10%:38%:52%! 典型的な低たんぱく・高脂質食品! 以前ダニエルが太っていたのがよく分かる……とは言えそのマフィンは、ホームメイドとは思えぬほど絶品だった。
「あっ、ダニエル! この前話してくれた『あれ』見せてくれない? ほらっ、あの『メイちゃんの絵』!」おやつを食べ終えたところで、ふと思いついたようにそう言うエリス。部屋の壁に掛けられた額縁(いろんな絵が格納されている)を見ながら食事していた彼は、そこで先週ダニエルが徹夜で描いたと話していた絵のことを思い出したのだ。「この、掛かってる額縁のどれかにある?」
「うん、春名メイちゃんは、この子だよ――」ダニエルが示した絵には、赤いドレス・タイプの制服を着て、黒髪の後ろに大きなピンク色のリボンを着けた、聖母のように可憐なキャラクターが描かれている。
「あっ、この子がそうなんだぁ~! うわぁ~、すっごく可愛いね!」エリスはそのキャラクターを見つめながら、『何だかメイちゃん、ミズホと似てるなぁ』と思っていた。※『乙女はお姉さまに恋してる』と『メイのないしょ make miracle』は、どちらも男の子が女子校に通うというプロットで、また制服が『シスター風』ということもあり、かなり似ている。
「メイちゃんは『魔女』の血筋を引く男の子で、訳あって母親に『女の子』として育てられてたから、物語序盤まではずっと、自分を女の子だと思ってたんだ」そう幸せそうに語るダニエル。彼も知っていたのだ……オタク趣味を気兼ねなく共有できる友達とは、非常に『有難い』ものであると――。
「そうなんだぁ……かなり特殊な境遇なんだね?」しかし感受性の高いエリス。今の話を聞いただけで、そのキャラクターへの共感と同情を強めてしまう。その絵の微笑みを見つめながら、『きっと裏ではたくさんの苦労があったんだろうな……』と想像してしまうのだ。「それで……メイちゃんは自分が男の子だって気づいて、それからどうなったの……?」
「えっ? あぁ、大丈夫! 特にどうにもならなかったよ(笑)」気軽に笑うダニエル。「彼自身が変わったわけではないからね……周りの人たちも、すぐに受け入れてたね」
「よかったぁ……」それを聞いてホッと胸を撫で下ろすエリス。その絵の彼が葛藤を抱えていたり、疎外感を感じていたりはしてないと知れて、安心したのだ。だから自然と興味は、その横の絵へと移っていくのだ。「それじゃ、この人は? この人もとっても綺麗……だけど……」その絵に描かれた栗色の髪をした人物は、札束のなかで鎖に繋がれたりしていて、とにかく大変な状況に置かれているようだった。
「あっその人はね、『お金がないっ』って作品の主人公、『綾瀬雪弥』さん」ダニエルが説明を続ける。「綾瀬さんは早くして両親を亡くして、しばらく一人暮らししてたんだけど、あるとき従兄が作った借金のカタとして人身売買の闇組織に売られちゃって……それから無理やり競りに出されて、全く知らない人に落札されそうになってたんだけど、すんでのところで狩納さんっていう彼のことを知る人物に落札されて、以後はその狩納さんと二人で暮らすようになるんだ」
あらすじの説明こそ詳しいものだったが、言葉足らずな感はいなめない――と言うのも、その絵は構図から何から、彼が自分で考えて描いた『二次創作画像』だったので、作中ではそんなシーンは全くない(いや、全くないとは言い切れないにしても、少なくともそれと同じシーンはない)のだと伝えるべきだったのだ――おかげで、そんなこと知る由もない隣のエリスは、その作品が『ハードボイルドなスリラー』なんじゃないかと誤解するはめになった。
「そっかぁ……メイちゃんに負けず劣らず、特異な生い立ちなんだね?」同情を隠し切れないエリス。そのキャラクターはブロンドで髪の長さも同じくらいだったので、少し自分を見ているような気がしてくる彼だった。「えっと、『彼』ってことは……綾瀬さんも男性? 男の娘なの?」
「うーん、まぁそうだね。そうカテゴライズするのが、一番しっくり来るかも」やや迷いながらも、そう答えるダニエル。
「狩納さんと二人で、幸せに暮らしてるの?」とエリス。
「うん! 始めこそお金に縛られた、一方的な関係だったんだけど、今は相思相愛になって借金からも解放されたから、綾瀬さんも幸せだと思うよ」とダニエル。
「よかったぁ」そこまで聞いてようやく、エリスはそれが恋愛作品だと理解した。てっきり綾瀬さんが地下の牢獄にでも閉じ込められて、たくさん乱暴されて、あげく大脱走を計るようなお話かと思ったのである(当たらずとも遠からずなので、実際の作品は彼には読ませられない)。安心した彼は、しばしニコニコとダニエルを見つめてから、やがて確信を突くような、こんなことを言うのだった。「ダニエルってホントに、『男の娘が好き』なんだね!」
「はっ?」ダニエルが赤面する。「べ、別にっ、特にっ、そういうわけじゃ――」必死に弁解し始める彼。「ぼ、僕はただ、可愛いキャラが好きなだけで――」確かに、彼の部屋の壁やスケッチブックのなかには他にもたくさんの絵があり、その半分くらいは女性キャラだった(『イカ娘』とか『シャナ』とか、『FAIRY TAIL』の『ウェンディ』とか、『IS』の『シャル』とか、『GA』の『ミント&ヴァニラ』とか、『そらおと』の『イカロス&ニンフ&アストレア』とか、『ツバサ・クロニクル』の『サクラ』とか、『プリキュア5』の『キュアドリーム』とか、『フレッシュプリキュア』の『キュアパイン』とか、『ドキプリ』の『キュアソード&レジーナ』とか、『プリティーリズム』の『リンネ』とか、『ぽぽたん』の『みい』とか、『らき☆すた』の『ゆたか』とか、『リトバス』の『クド』とか、『神のみ』の『エルシィ&ハクア』とか、『中二恋』の『六花』とか、『ネプテューヌ』の『ブラン』とか、『ハヤテのごとく』の『ヒナギク』とか……etc.)。
しかし『半分が男性』であることもまた事実で、それは確実にバイアスが働いている証拠だった(『イナイレ』の『アフロディ』とか、『オトスキ』の『ナオ&ユキ&トモ&リオ』とか、『コードギアス』の『ロロ』とか、『ハイスクールD×D』の『ギャスパー』とか、『ハッカドール』の『3号』とか、『はぴねす!』の『準』とか、『プリパラ』の『レオナ』とか、『メタルファイト ベイブレード』の『遊』とか、『ぴちぴちピッチ』の『ヒッポ(人間版)』とか、『俺ガイル』の『彩加』とか、『好きしょ』の『らん』とか、『あまはら君+』の『あまはら君』とか、『少年メイドクーロ君』の『クーロ』とか、『ZEXAL』の『Ⅲ』とか、『ARC-V』の『素良』とか、『セキレイ』の『椎菜』とか、『桜蘭高校ホスト部』の『光邦先輩』とか、『ニャル子さん』の『ハス太』とか、『しゅごキャラ』の『唯世王子』とか、『スレイヤーズ』の『フィブリゾ』とか、『HEROMAN』の『ジョーイ』とか、『魔界王子』の『シトリー』とか……etc.)。
※もちろん、ダニエルがそれらの作品に漏れなく精通しているというわけではない。彼は『deviantART』というアート・コミュニティ・ウェブサイトで二次創作画像を投稿するのが趣味で、また他のアーティストが作った作品も精力的に閲覧しているからこそ、さまざまなキャラクターを知るきっかけが多いのだ。そのサイトには『男の娘・ショタ』関連のコミュニティもたくさんあり、彼がその多くに参加していることを鑑みれば、やはり先のセリフが本心でないことは明らかだった。はたして彼は嘘をつき通せるのだろうか?
「そ、それで、好きなデザインだと思ったキャラクターが、たまたま男の娘だったりしただけでっ! と、特に他意はなくてっ!」性懲りもなく取り繕うダニエル。このときの彼の気持ちを例えるなら、まるで江戸時代に『絵踏み』を強いられているクリスチャンだった。身を守るために、己にも神にも嘘をついている状態である。
「そっか……何も知らないのに、勝手なこと言ってごめんね?」そう返すエリスは、心なしか残念そうだ。それを受けてダニエルは考えた。『この期に及んで、そんな見え透いた嘘をつくことに意味はあるのだろうか?』と……『自分は大好きなものを、公言できないほど恥じているのだろうか?』と……そしてそれらの自問に対する答えは、間違いなく『否』だった――ついに腹を括った彼は、ありったけの勇気を振り絞って、こう告白するのだった。
「僕の方こそごめん。今言ったの、全部ウソ。ホントは僕……『男の娘が大好き』だ」目を丸くするエリスを余所に、ダニエルの告白は続く。「たぶん、憧れの気持ちからだと思う……男でも綺麗で、可愛くて、優しくって、清楚で、可憐で……乱暴じゃなくって、ガサツじゃなくって、『選ぶ側じゃなくて、選ばれる側』になれて、かと言って女みたいに『それを当たり前』だとも思ってなくって……ワガママじゃなくって、男を見下したりしなくって、世界に希望をもたらせて、周りの人たちを幸せにできて……」ダニエルの目に涙が滲む。
「そんな男がいるって、信じさせてくれるから好きなんだ!」左手で目元を覆って、泣き顔を隠すダニエル。この勢いに任せて、これからさらなる告白をする決意を固めた彼だったので、そのときの自分の顔を見られないためにも、また聞いているエリスの顔を見ないためにも、そうしたのだ。「僕だって始めからそうだったわけじゃない……でも君が……君みたいな子が身近にいたから……」緊張から喉がカラカラになり、そこで一度唾を飲み込むダニエル。もう口から本音が漏れ出てくるのを止められそうもなかった。
「それに、本当は分かってるんだ……『みんな、ただの絵』だって、実在しないんだって……けど君が……君みたいな子が、こんなにも傍にいてしまうから……僕はいつまで経っても、信じる心を捨てられない!」全てを覚悟したダニエルは、そこで左手の目隠しを取り去って、俯きながら人生最大の告白をするのだった。「好きだ、エリス……僕が本当に好きなのは、君だ……君なんだ……」
言ってしまった……もう元の友達ではいられないかもしれない……かと言って、自分なんかがこんな告白をしても、どうこうなれるはずもないと言うのに……彼のことを好きな人は大勢いて、そのなかで自分が抜きん出た存在であるはずがない……なのに、なのに……言ってしまった……気持ちを抑えられなかった……嘘をつくのなんか、ずっとずっと、大嫌いだったから――。
ついに顔を上げた彼は、そこで告白相手が幸せそうに微笑みながら、こう返してくるのを目の当たりにするのだった。
「嬉しい……僕も君のこと、好き……」
全く意味が分からなかった。予想外の返事だった。しばし呆気にとられたダニエルだったが、すぐにこう結論付けて納得する。あっ、なるほどね。これから『でも……』って続くパターンだ……そしてあれこれと理由を説明されて、結局フラれるパターンだ――。しかし待てども待てども、その『でも……』が聞こえてこない。いよいよもっておかしいと思った彼は、恐るおそる、その言葉の真意を確認するのだった。
「えっ? そ、それってどういう……つまり、れ、恋愛的な意味で……?」相手がコックリと頷く。いやが応でも膨らむ期待感。「じゃ、じゃあ僕ら、これから恋人になって、お、お付き合いしたりとか……できるってこと?」この質問には、答えにくそうに目を伏せる相手だったが、先ほどのダニエル同様、いくつかの自問自答を経て結論を得たのだろう――やがて決心したように目線を戻した彼は、これに対しても確固とした頷きを返すのだ。
だがしかし、ここまで来ても疑心を拭い切れないダニエル。最終確認として、先ほどまではあれほど恐れていた『理由の説明』を求めてしまうのだ。「で、でもどうして? 君みたいな『才色兼備で、誰からも好かれていて、誰のことも好きになれるような人』が、どうして僕みたいな『自尊心が低くて、暗くて、これと言って取り柄もないようなやつ』のことなんかを、そこまで……好きに……」
「どうしてかな……」思わずベッドに腰掛けながら俯いて、シーツをクシャッと握り締めたエリスだったが、これに対する答えもすぐに見つけ出したようだ。「分からない、けど……恋って、そういうものなんじゃないかな……? 僕は『ただ、ダニエルが好き』なんだと思う……君が、君でいてくれるだけで……」
こんなことを言われて、涙が溢れ出さない人がいるだろうか? ダニエルは号泣しながら、「い、いつから……」と質問を繰り返すことしかできない。疑心を確信に変えたくて……自分が、彼に相応しい人間だと思いたくて……。
「それも、ごめん……分からないや」申し訳なさそうに眉を寄せて、小さく笑うエリス。「でも今にして思えば、あの日、あのときが始まりだったんだと思う。あの、『絵のモデルをしたとき』」彼はそこで、少し照れくさそうに右横髪を耳に掛けてから続ける。「自分のこと、好きでいてくれる人のことって……普段、あんまり分からなかったりするんだけど……あの日はなぜか、君の好意が伝わってきたような気がして……それがすごく温かくって、心地よくって……きっと、そう感じられたことこそが、僕の恋心の裏返しでもあったんだと思う」
ダニエル「たった……それだけのことで……?」
エリス「たった、それだけのこと……だから、最初は気づかないくらい小さな気持ちだったんだと思う……でもそれが少しずつ、大きくなっていったんだ」
ダニエル「うっ……っ……」
「ねぇ、ダニエル……僕と、キス……しない?」ベッドを軋ませ、相手の方へと体重を移動させたエリスが、許可を仰ぐようにして相手の顔を見上げる。すると相手が涙を拭いながら小さく頷きを返してくれたので、彼の方から相手をベッドへ押し倒していくのだった。
乱れたシーツの上で、熱く繰り広げられる粘膜接触。二人は合体させた口腔の中を互いの唾液でいっぱいにして、体温と相手への愛情を高めていく。最初、ミルクチョコレートみたいな味だった唾液も、啜ったり飲み込んだりしているうちに二人だけの味になっていき、やがては特製の媚薬カクテルみたいになって、二人の理性を麻痺させていった。
「ご、ごめんエリス……僕、もう……我慢できない――」ダニエルが相手をひっくり返して、上下関係が逆転する。身体中が燃え上がるように興奮していて、とても引き下がれそうもなかった。「エリス……しても……いい……?」曖昧な文章……それでも相手は、その意味を100%汲み取ってくれたようだ――赤らめた顔を背けながら、微かな頷きを返してくれる。
「エリスッ――」彼が相手のパンツを脱がせようとしたときだ。突然、何かを思い出したように慌てた相手が、彼の手を制してこう告げるのだ。
「ご、ごめんダニエル……先に伝えておかなきゃいけないことがあって……」恥じらいと罪悪感が混じった、複雑そうな顔をするエリス。「僕、体質的な問題なのか……最近は『おチンチンが勃たなく』て……だから今も、その……『小っちゃいまま』なんだけど……決して、君が悪いとかじゃないから!」
キョトンとするダニエル。彼からしてみれば、むしろ『無精巣症のエリスが、そもそも勃起することがある』ということの方が驚きだった。だから今の前置きを聞いたうえで、次に彼がする質問こそが重要なものであった。「えっと……それじゃあ、君は……今は『どこを触られても、気持ちよくなれない』の?」面目なさそうに頷くエリス。「そっか……分かった。それなら――」
「や~めたっ」突如、ダニエルがそう言って身を引いたので、拒絶されたと思ったエリスは強い衝撃を受けた。しかし、すぐにそれは勘違いだと分かる。「君が気持ちよくなれないなら、セックスする意味なんかないよ……僕、君には辛い思い……させたくないから……」
「そんな! それじゃ君の方が辛いじゃんか! 僕のことは気にしないで、君は君のしたいように――ゃむっ……チュッ……チュッ♡」気づけば口を塞がれて、侵入してきた舌に口腔内をクチャクチャと掻き回されていたエリス。口が蕩けて、身体も蕩けて、そのまま自分という存在全部が液体になって、マットレスに染み込んでいきそうだった。「ダニエッ――クチュ、クチュ――ど、どうし――チャクッ」
「僕が今したいのは、このキスだよ……エリス」思うままに相手の口内を味わったダニエルが、荒く呼吸しながら呟く。「き、気持ちよかったでしょ……?」そう語り掛けると、相手は左肘で顔を隠しながら、降参したようにコクッと頷く。
もはやエリスは、気持ちの面では『すっかり出来上がって』いた。先週『エッチなことはしない、二度と考えない』と誓ったばかりにもかかわらず、今は左脚の付け根に当たっているダニエルの勃起ペニスのことが、どうしても頭から離れなかった。欲しいと思わずにはいられなかった――ダニエルが相当我慢してくれていることが、そのペニスの疼きから伝わってくる。
か、神様……認めます、僕は弱い子です……あとで罰が下ると分かっていても、エッチなことをやめられない悪い子です……でもせめて、これだけは約束します……次に何が起こっても、決してあなたのせいにしたりはしません……だからどうか、この一回限りでいいんです……どうか、どうか……ダニエルとセックスさせてください! お願いします! 僕にそのための力を下さい!
そのとき、奇跡は起こった。彼の腹の奥底から、別の熱感が溢れ出してきたのだ。少し前まで、ごく自然に感じられていた熱感。まるで麻酔薬でも効いていたかのように、忘れてしまっていた熱感。それはジワジワと身体全体へと広がっていき、やがて彼の全身を包み込んだかに思われた――そのとき! とてつもない電撃が彼の股間を直撃するのだった。バチィィィィィィィィンッ!!
「ひゃんっ!」思わず甘いリアクションをしてしまうエリス。彼が自分の状態を悟るには、その感覚だけで充分だった――彼の性感が戻った! 今やその小っちゃなペニスは、彼の性的興奮をそのまま反映するようにフル勃起している!
「だ、大丈夫?」ダニエルが、相手の身に何が起こったのかと疑問に思っている。すると相手は、彼にとっての吉報を知らせてくるのだ。
「えっと……今のキスで、おチンチン元に戻ったのかも……僕のも、勃っちゃった……」
ご、ゴクリ――。ダニエルが息をのむ。「じゃじゃ、じゃあ今は君、気持ちよくなれるの?」
エリスが応える。「少し、確かめてみるね――」彼は服の上から自分の乳首を引っ掻いてみて、そこで何らかの快楽が得られるかを確認してみることにした。すると――。「あっ……んっ……気持ち、いい……」ちゃんと『いつも通りのレスポンス』が返ってきて、期待と悦びに彼の胸と乳首は、プックリと膨らむのだった。「大丈夫みたい……よかった、これで君と……できるね?」
「エリスッ――」堪らず相手に抱きつくダニエル。そのまま彼は、相手の胸に額を押し当てながら、震えた声で最終確認するのだ。「も、もう僕……止めらんないよ? 最後まで、し、しちゃうからね……?」すると相手は彼の頭を撫でながら、柔らかな声で「来て……」と応えるのだった。
「エリッ――」ダニエルが自分のパンツを下ろすため、ウェストのボタンを外そうとしたそのとき――。
バァァァァンッ! 外で勢いよく車のドアが閉まる音が聞こえ、彼の顔が凍り付く。えっ、嘘っ、何で……まだ五時くらいなのに――。その音と相手の様子の変化に気づいたエリスが、不安そうにこう尋ねる。「どうしたのダニエル? 今の音って……」
「ご、ごめんエリス……今日はもう帰った方がいいかも……」
「ど、どうし――」つい訳を知ろうとするエリスだったが、目の前でシーツを握りしてめて震えているダニエルのことを見て、それが野暮な質問だと悟る。「分かった……やっぱり僕、都合が悪いときに来ちゃったんだね?」
ダニエル「ホントにごめん……今度埋め合わせするから……」
エリス「うん。じゃ、僕……帰るね――」
彼がベッドから立ち上がって、服装を正そうとしたその瞬間――今度は一階の方から「バァンッ!」という音が聞こえ(恐らく戸口が乱暴に閉められた)、家内に一つの狂った声が響き渡る。
「愛しい家族よ~! 亭主様が帰ったぞ~!」
そして絶望が訪れた。
第三十八章 – 青春時代② 高校生活 Ep.25:家庭崩壊の第1楽章
エリスの高校生活⑳ 家庭崩壊の第1楽章
「だ、ダニエル……もしかして今の声って……君のお父さんの?」戦慄するエリス。それは一度耳にしただけで、嫌な感じがひしひしと伝わってくるような声だった。少なくとも、言葉通りの家族への愛など、微塵も感じさせないような声……当のダニエルは、「ごめん、何も聞かないで……今はとにかく、あの人に見つからないように、一刻も早く帰って……」と震えているだけだ。
「う、うん……」エリスが床に置いてあった鞄を取り上げて、「それじゃ、僕行くね……」と言って部屋のドアを開けようとする――そこで慌てた様子のダニエルが「ま、待って!」と鋭く囁いて、彼の手を制してからこう続ける。「念のため、僕が先導するよ……あと、足音が出ないように、スリッパはここで脱いでいって……」
そのころちょうど一階では、妻が帰宅した亭主を迎えており、客人の逃走経路を確保すべく、言葉巧みに彼をダイニングかリビングへと導びこうとしている。
妻「お、おかえりなさい、あなた。今日は随分早かったんですね?」
亭主「まぁな。たまたま仕事が早く片付いてな。まこういう日もあるさ」
※ダニエルの父は近所の金属加工会社で『倉庫作業員』として働いている。普段は9:00~18:00が勤務時間だが、今日に限っては17時前に早退していた。
妻「少し早いですが夕飯にしますか? ちょうど作り始めてたところなので、あと十分もすれば一品できますよ?」
亭主(作業着を脱ぎながら)「そんなことより酒をくれ。あと『つまみ』もだ。ナッツがあっただろ確か?」
妻「もうあなた。先週も随分飲んだじゃありませんか。お医者様にも控えるよう言われていることですし、今日くらい我慢したって――」
「――いいだろが別に飲んだってよぉ!」亭主が作業着を床に叩きつけて怒鳴る。「何が楽しくて毎日まいにち暑いなか肉体労働してきてると思ってんだ! あぁ!? いいから黙ってビール持ってこいや!」
妻(作業着を拾いながら)「わ、分かりましたから……あまり大きな声を出さないでください……ビールですねビール……今出しますから――」
妻がキッチンに消えたところで、ようやく亭主が廊下からいなくなる――バンッ!というお約束の音を立てながら、リビングへと入っていったのだ。それを合図として、二階からダニエルとエリスが静かに階段を下りてくる。ゆっくり一段ずつ、絶対に気配を悟られぬよう慎重に下っていく二人。
途中、冷えたビール瓶とつまみ(ナッツと例のマフィン)の載ったトレーを持った母親が、廊下を横切ってリビングへと入っていったのだが、その間際、彼女は階段にいる彼らへと目配せしていて、特にエリスに対しては目で、こんな別れの挨拶をしたようだった。『こんなことになって残念だわ。どうか気を付けて帰ってね』
それから階段を下る二人の耳に、リビングで交わされる夫婦の会話が聞こえてくる。
妻「ビール、ここに置いておきますわね」
亭主「待ってました! したらば早速――(何かに気づく)――おい……何だこりゃ?」
妻「び、ビールですけど……」
亭主「そりゃな……だがビールはビールでも、こいつは『ライト・ラガー』だろ!? クソったれのライト・ラガー!」
※ライト・ラガーとは、下面発酵で製造される『ラガー・ビール』のうち、特に使用するホップ(主要原料となる植物)を少なくすることで、煮沸段階で抽出される独特の苦味と香りを抑えられたビール。甘みをもたらす麦芽などの副原料が多くなることで、相対的にホップの香味が弱められ、よりマイルドで『喉ごし』に優れたビールとなる。
妻「す、『スピルナー』ですよ? ホップの風味はちゃんと出てると……」
※スピルナーとは、通常のライト・ラガーよりも多くのホップを用いて製造されるビール。麦汁の煮沸工程において、終了の15~5分前となる後半にホップを投下(レイト・ホッピング)することで、苦味の抽出を抑えながら香り成分を多く残したビールである。
亭主「で、アルコール度数は?」
妻「4%……ですけど……」
亭主「そんなもん、ほとんど水と炭酸じゃねぇか! いつもの持ってこいよ! 俺様の『インペリアル・スタウト』をよぉ!」
※スタウトとは、上面発酵で製造される『エール・ビール』のうち、焙煎された大麦を用いて作られた『真っ黒な色をしたビール(ダーク・エール)』の一つ。たっぷりの麦芽(糖分)と酵母(糖分を食べてアルコールを作る微生物)を使用し、長期発酵させて作るため、一般的なラガー・ビールよりもアルコール分が高い。一方で、ロースト麦芽のチョコレートやコーヒー、ナッツのような風味を活かすため、ホップの量は控えめになっていることが多い。
※インペリアル・スタウトとは、19世紀のイギリスでロシア皇帝への献上品として作られたスタウトであり、ホップを含めた種々の材料をさらに多く使用し、もう一段階上の豊かな甘みと苦みを実現しつつ、また寒冷地での凍結防止としてアルコール度数もより高められた『漆黒のビール』だ(ちなみに度数は8~12%)。全てのビールのなかで最も色が濃く、味わい深いものの一つである。
ここでやっと玄関まで辿り着いたダニエルとエリス。到着早々、エリスは自分が脱いだはずの靴が見当たらず、戸惑いながら辺りを見回すことになったが、すぐにダニエルが下駄箱から取り出してくれたので、彼は速やかにそれらを足に履かせて紐を結び始める。
そんななか、夫婦の会話は続いていく。
妻「あ、あれはたまたま品切れで……今日のところはそれで我慢してください」
亭主「嘘をつくな! 品切れも何も、まだ家にストックがあっただろう!?」
妻「先週ので最後でしたわ!」
亭主「その言葉が本当かどうか、確かめてやる――」ドタドタと大きな足音が、エリスたちの方へと近づいてくる。もう左足の方を結んでいる余裕はないと判断したエリス。急いで立ち上がり、ちょうどダニエルが開けてくれた戸口から離脱しようと試みる。しかし――。
妻「やめてっ! 本当よ! 本当にないんですよ!」
亭主(リビングを出ながら)「嘘だったら、後でとっちめてや――」
み、見つかった――。彼らの健闘も虚しく、ついに亭主の目にダニエルとエリスの姿が映ってしまった。だが驚いたのはお互い様のようで、亭主の方も口をポカーンと開けて立ち尽くしている。そこでやむなく振り返って、そんな亭主に向けて自己紹介を始めることにしたエリス。それが無断で敷居を跨いでいる部外者としての、最低限のマナーだと思ったのだ。
「あ、あの……初めまして。僕、ダニエルの同級生のエリスといいます……今日はちょっと、遊びに寄らせていただいてました……」まだ亭主は、彼の顔を見ながらポカーンとしている。ちなみにダニエルの父の外観は、中肉中背で黒髪茶眼、髪は――かなり進行した男性型脱毛症だろう――真ん中が薄くなっている。
「ご迷惑かなとは思ったのですが、ここには昔一度来たきりだったので、どうしてももう一度遊びにきたいと、今朝、僕の方から無理を言ってしまって……」事実確認として、今回のことがダニエルのアイディアではないと、はっきりと主張しておくエリス。こうすれば彼に矛先が向く可能性を、少しでも減らせると思ったのだ。
そこまで来てようやく、亭主が新しい反応を示す――朗らかに笑った彼は、エリスに対して先ほどとは別人のような態度でこう言うのだ。
「いっやぁ~、いきなり家に知らない人がいたから驚いたよ~。それも『絶世の美女』と来たもんだ! 何だっけ? 『エリスちゃん』だっけ? まさか君みたいな子がダニエルの同級生にいたなんてなぁ? それどころか、こんな『寂れた田舎町』にいたってことすら、にわかには信じられんよ――」そこで気取った笑い声を上げた亭主は、エリスに向かって握手を求めながらこう続ける。「どうぞこれからも、ウチのダニエルと仲良くしてやってくださいな」
「は、はいっ……」やむを得ず、その握手に応えるエリス。彼は亭主の豹変ぶりに困惑しつつも、とりあえず大事にはならなそうだと安堵しながら、相手の熱いくらいの右手をしかと握り返した後で、堂々と別れを告げるのだった。「それじゃあ僕、そろそろお暇しようと思います。さようなら、お邪魔しました――」
亭主(笑顔で左手を掲げながら)「はい、さいなら」
ガチャンッ。エリスが玄関戸を抜けて外に出ると、その後ですぐ、「カチャッ……」っとドアを施錠する音が背後から聞こえてくる。『あぁ、怖かった……』と思いながら左足の靴紐を結んで、いざ家路に就こうと自転車のところへと戻っていく彼――しかし停めたはずの場所に自転車が見当たらない! 今回は友達の家の敷地内ということもあり、彼は油断して自転車に鍵を掛けていなかったのだ。とすると、盗難された可能性もなきにしもあらずだった。
焦った彼は、しばらく周囲にキョロキョロと目を走らせた後、『もしかしたら……』と思ってダニエル家の裏手の方へと入っていく。ガレージ側から外壁に沿って歩いていき、やがて西日に照らされた裏庭に出る――すると何と、そこにエリスの自転車が無傷の状態で駐輪されているではないか! 取手のベルが日を受けて煌めいていて、どことなく主人との再会を泣いて喜んでいるようにも見える。
『エリスゥ~、怖かったよぉ~(涙)』by エリスの拉致された自転車
とは言え大方、ダニエルの母親が夫に客人の存在を悟られまいとして、自転車をこちら側へ移動させただけのことなのだろう。貧血で倒れかけていた彼女がそうまでせねばならないほど、この家の主人は厳しく家族を束縛していたのだ。『ダニエルとお母さん、大丈夫かな……』そう思いながら自転車を押していき、彼が裏庭を立ち去ろうとしたそのとき――。
ガシャーン! キッチンの方から激しい物音がして、思わずエリスがそちらの窓を覗き込む――するとそこには、夫に胸ぐらを掴まれて折檻されている妻の姿と、それを止めようと藻掻いているダニエルの姿があった。えっ……何これ――。
亭主「客が来てると、なぜ教えなかった!? おかげで俺が恥をかいたじゃねぇか!」
パシンッ! 夫の平手が妻の顔を殴打する。
妻「ごめんなさい……でもあの子が来たのは本当に久しぶりだったのよ……だからせめて帰るまでの短い時間くらい、二人をそっとしておいてほしかったのよ……」
亭主「俺の対応を見ただろ!? 俺は『外では善良な市民』で通してるんだ! お前は俺の顔に泥を塗るのか!?」
ダニエル(父親を引っ張りながら)「パパやめてっ! エリスは絶対に『他人を悪く思ったり、それを言いふらしたりなんてしない』よ!」
亭主「うるさい! 元はと言えばお前が――」
彼の怒りの対象が息子へと移ったところで、これ以上じっとしていられるエリスではなかった――芝生の上に自転車をほっぽり出した彼は、大急ぎで『キッチンと裏庭とを繋ぐ勝手口』の方へと駆けていく! は、早く……二人を助けないと――。勝手口に到達した彼が勢いよくハンドルを捻ると、幸いそこは施錠されていなかったようで、扉はすんなり道を開いてくれる。そして――。
「やめてっ!」キッチンに突入したエリスがそう叫ぶと、ちょうど亭主は息子の首を絞めながら、『二度と他人を家に入れるな』と脅迫している最中だった。招かれざる客の登場に一瞬不意を突かれた亭主だったが、すぐに相手が誰かを確認したところで、薄気味悪い笑みを浮かべる。
かくして、長く険しい月曜日が真に幕を開けた。彼ら四人の生死を懸けた闘いが、今始まる――。
エリスの高校生活㉑ 家庭崩壊の第2楽章
「おやおや。誰かと思えば……『絶世の美女エリスちゃん』じゃないか! どうしたんだい、こんなところで? 迷子にでもなったんかい?」血走った目でエリスの全身を舐めるように見る亭主。彼はもう完全に開き直ったようで、その言葉とは裏腹に態度では、もはや取り繕う気などさらさらなさそうだった。それを察したダニエルが、必死に乱入者へと訴えかける。「エリス……逃げて……」
「僕は迷子じゃありません! 自分の意思でここにいます! だから――」エリスが鞄を後ろに投げ捨てて、ファインティング・ポーズになる。「絶対に逃げない! 帰らない! あなたがダニエルとお母さんを解放して、今したことを二人に謝るまでは!」彼も覚悟を決めたようだ。もうこの事態を黙認したりはしないと……そのための私闘に『空手』を使うことも辞さない、と……。マルク先生、ついに『その時』が来ました……今こそ僕は大切な人を守るために、『旭信流道場』で培った力を使います――。
しかしそんな華奢なヒーローの姿に対し、返されるのは一つの嘲笑だった。
「うぅ~、怖いこわい!」亭主が怯えた演技をしてから、狂ったように笑い出す。そしてひと頻り笑い終えた後で彼は、獲物を前にしたオオカミのような目でこう続けるのだった。「けどなぁ、お嬢ちゃん……やっぱあんたは迷子だわ……それも言うなれば、旨そうに丸まる肥えた『迷える子羊』!」彼の怒号がエリスの勇気を威嚇する。「なぜって? そりゃ~あんたが――人様の家庭の事情をよく知りもしないで、ほんの些細な一部始終を目撃しただけのあんたが……身の程もわきまえずヒーロー気取りで、『こんな危険な森』に迷い込んできたからだぁ――」
息子を突き飛ばすと同時に、エリスに向かって猛進し始める亭主! それに対し同様に突進していき、真っ向から迎え撃つエリス! 二人が衝突する寸前、床を蹴って高くジャンプしたエリスは、渾身の力を籠めた<左跳び横蹴り>を相手の胸に叩き込むのだ。『くらえっ! これはお母さんの分!』
助走の勢いと彼の体重分の威力が加算された強烈な蹴り(しかも土足)が、相手の気管支に確かなダメージを与える。「ふっぐっ――」その反発を利用して空中で身体を反転させたエリスが、そのまま連撃の<右横蹴り>を同じ胸部へと放つ!『そしてこれが、ダニエルの分だっ!』
「ぐはっ……」こちらもクリーンヒットし、堪らず相手は後ろへ吹き飛ばされ、そのままキッチンを出た先の廊下の中間へと倒れ込む! 一時的な呼吸困難というオマケ付きで……。「きっ……さ、ま……」
※この技は<跳び横蹴り>のコンビネーション、言うなれば<空中二段スイッチ横蹴り>である(アクション映画でよく見るアレ)。普段の組手ではまず使うことがない大技だが、今回は場所(フィールド)が狭いキッチンということもあり、横方向への回避を無視した『前後方向への大技』として、彼はこれを選択したのだ。
シュタッと着地したエリスが、残心しながら次の相手の出方をうかがう。願わくばこれで決着してほしかったが、体格差もあるので、なかなかそうもいかなそうだ――苦しそうに胸を押さえた亭主が、咳混じりの掠れた笑い声を上げながら立ち上がる。「いやぁ~、たまげたぁ……見かけによらず、強いんだねぇ~? エリスちゃ~ん?」
「もう観念してください! こんなことして、いったい何になるんですか!?」エリスが懸命に訴えかける。「ダニエルも奥さんも、二人とも……あなたの大切な家族じゃないんですか!? どうしてあんな酷いことを!」
「家族は、俺の『所有物』だからだ……したらば所有者が自由に扱って、何が悪いぃ!?」亭主が呼吸を整えながら、絞り出した声でそう叫ぶ。その悪魔のような邪悪な声が、キッチンの隅で身を寄せ合う母子を、いっそう萎縮させるのだ。
「しょ、所有物……? 本気で言ってるんですか……?」そのあまりにも歪んだ価値観を前に、言葉を失ってしまうエリス。彼は今しかと理解した。ずっとダニエルが抱えていた恐怖と、苦しみと、絶望を――。
なぜダニエルはときどき、あんなにも辛そうな顔をしていたのか? なぜダニエルは先週、ずっと学校を休んでいたのか? なぜダニエルは今朝、左目に青痣を作っていたのか? なぜダニエルはいつも、遊びの誘いを断るのか? 自信なさげなのだろうか? 憂いを秘めた目をしているのか? それらの疑問とこれまでの経緯がようやく、エリスなかで繋がったのだ。これには温厚なエリスと言えども、目に怒りが宿るのを止められない。
「何だその物言いたげな顔は!? 違うってのか? だったら聞くが――」ダンッ! 亭主が<右横鉄槌>で自身の右隣の壁を叩く。それは何か言おうとしての行動だったらしいが、これが別の事態を招いてしまう――ちょうど、殴られたそこは『階段下の物置の扉』だったので、反動で跳ね返った扉が、期せずして開いてしまったのだ。
そして普段ならせいぜい、そこには掃除用具などが収められているだけだったのだが、このときばかりは違う物が隠されていた。「おやっ、こんなところに……ほらな、やっぱ謀ってやがった――」亭主が物置から拾い上げたそれは、先ほど彼が欲していた『インペリアル・スタウト』というスタイルのビール、それが入った酒瓶だった。
「ったく油断も隙もありゃしねぇ――」バンッ! 乱暴に足で扉を閉めた亭主は、そのままビール瓶の栓を「プシュッ!」と開けては瓶口を咥えて、渇望の液体をグビグビとその身に流し込んでいく。彼の喉が一度鳴るごとに、その心を苛立たせていた『アルコール分と水分への渇き』が、一緒くたに満たされていくのだ。
「っはぁ……生き返ったぁ~」そうして長いひと口目を堪能した彼は、それから幾ばくかの冷静さを取り戻したようにボーッとして、しばらく眼前のエリスを見つめていたのだが、やがて一発の大きなゲップをしたのを皮切りに、酒瓶を持ったままキッチンへと前進してくるのだ――エリスは相手の動きを注視しながらも、ひとまずダニエルたちを背にするように後退する。
「だったら聞くがな……この家は誰の物だ……? この壁や、床や、天井や家具は、いったい誰の物だ?」亭主がキッチンに入りながら、先ほどは言いそびれたそのセリフを、身振り手振りを使いながら静かに唱えていく。「誰がこいつらの生活費を出してやってる……? こいつらの『くだらん趣味』の金は……? なぁ分かるか? あいつ(ダニエルを指差して)はいったいぜんたい誰のおかげで、あんたと同じ『高額な私立校』に通えてるんだ? えぇ?」
徐々に激しくなる語気。エリスはこの誘導尋問のような質問には答えないまま、ただ『相手が次にどんなパワープレイを挑んできて、そのときに自分がどう動くべきなのか』ということだけに、思考を巡らせていた。そう、この人のペースに飲まれちゃダメだ……また必ずどこかで、僕を攻撃してくるはずだから――。
「俺だ……俺なんだ……」自分でした問い掛けに自ら答える亭主。なぜだか彼の両目には、今や涙が滲んでいた。そして悲しみから逃避するように再び酒瓶を口へ運んた彼は、しばらくゴクゴクと喉を潤してから、より感傷的な態度を強めてこう続ける。「全部ぜんぶ、俺が『したくもない仕事』をして、汗水垂らして稼いできた金で買ったんだ……だから全部、俺の物なんだ……それのどこが間違ってるってんだ……」亭主の目から涙が零れる。
「一家の大黒柱として、一人で家族を養っているのは、すごく立派だと思います」エリスが最大限の警戒をしながら、この隙に言葉で相手を説得しようと試みる。闘わずに済むこと、それこそが何よりも重要な『武道の心得』だからである。「ですが……だからと言ってそれは! 『家族を自分の持ち物のように扱っていい理由』にはなりません! 『家族に対して狼藉を働いていい理由』にもならないんです!」
つい説教がましくなってしまう口調。それもそのはず、実際エリスは今、旭信流の教えに反してでも先制攻撃してしまいたいほど、この男に怒っていた。だがその気持ちをグッと堪えてまで彼は、和解する道を模索しようとしていたのだ。結局、暴力だけでは何も解決できないと分かっていたからだ。
「さぁ謝ってください! そしてもう一度やり直すんです!」再度、説得に打って出るエリス。「反省して、家族への愛を取り戻して、家族からの愛も取り戻すんです! そうしてまた、温かい家庭を作っていくんです!」
「無理だ……もう遅いんだ……」亭主が三度ビール瓶に口を付け、最後の一滴まで飲み干して続ける。「家族は俺を愛してない……尊敬していない……ただのATMくらいにしか思ってないんだ……」左手の指を使って両目の涙を拭う彼。「そんなやつらを、どうやって愛せってんだ……2年前に至ってはあいつ(妻を睨みつけて)、俺が渡した生活費からコッソリ金を抜いて、ヘソクリまで貯めてやがったんだぞ……離婚費用に充てるために、何年も前から大金を盗んでたんだ!」
「あれはダニエルの大学資金の足しにしようと、少し貯金していただけよ! お金は返したし、何度も謝ったわ!」思わず妻が反論して立ち上がる。夫の勝手な被害妄想を前に、さすがの彼女もこれ以上は我慢の限界だったようだ。泣き崩れてしまいそうな恐怖と闘いながら、これまで抑え込んできた言葉を吐き出していく。「もうたくさんよ……ダニエルが生まれてから、あなたは家のことを全部私に押し付けて……息子のことは構おうともしない……ただ、ときどき頭ごなしに叱りつけるだけ……息子のことも、私のことも!」床に座って、耳を塞ぎながら蹲るダニエルの目にも、涙が零れ落ちる。
「そのうえ生活費まで出したくないって言うのなら、なぜ私を働かせてくれないの! 私が介護の仕事に戻ろうとしたときも、カフェでパートタイムの仕事を始めたときも、無理やり辞めさせたのはあなたじゃない!」飛び散る涙。漏れ出る不満。「けれど今、その訳がよぉく分かったわ! あなたは私たちを経済的に困窮させることで、否応なくあなたに依存するように仕向けて、そして何もかも支配しようとしてたのよ! あなたは身体的・精神的のみならず、経済的にも私たちを虐待してたんだわ!」
「よくもそんな……それが養ってもらっているやつの態度か!」夫が憤慨する。「お前こそ、あのカフェの男とデキてたんだろ!」
妻「あれはただの同僚よ! どこまで目が曇ってるのあなたぁ!」
亭主「ええい、黙れっ! まだ仕置きが足りないようだなぁ――」彼が右手のビール瓶を振りかざし、それを妻に向かって投げようとしたそのとき、前方のエリスが壁となって立ち塞がり、震えながらこう呟くのだ。
「ラスト……チャンスです……二人に……謝ってください……」今にも爆発しそうな怒りを堪えて、最終警告をするエリス。それに対し亭主が選んだ行動とは――。
「エッリスちゃ~ん……分っかんねぇかぁ……」同じように震える亭主が、一度俯いた後にまた顔を上げる。するとそこにあったのは、辛そうに歪んだ笑顔だった。「もう俺の心もこの家庭も、修復不可能なとこまで来てんだよっ――」エリスの頭部に向かって、容赦なく振り下ろされるビール瓶!「もうおっせーんだよぉぉぉぉ!」
徹底抗戦に出た亭主の暴挙により、あわや彼が撲殺されるかと思われた寸前――彼の<十字受け>がそれを阻む!「パリィーンッ!」瓶が割れて、亭主の手にはナイフと化した破片だけが残る。亭主は迷いなくそれを両手で前に突き出して、今度はエリスの腸を引き裂こうとする! 死ねぇぇぇぇぇ迷える子羊ぃぃぃぃぃぃ――。
しかし本気になったエリスが、こんな見え透いた攻撃でみすみす刺殺されるわけがない! 彼の<諸手下段払い>が亭主の両手から破片を弾き落とす!「バシンッ!」途端に開かれる相手の正中線! その瞬間エリスの脳裏に、以前マルク師匠から言われた『あの言葉』が蘇る。
『人間にはどうしたって鍛えられない急所があるっつったろ? 眼球、こめかみ、鼻、喉、首の側面、水月、そして金的……ようはそこに痛烈な一撃を加えれば勝てるのさ』
師匠……これまでたくさんのことを教えてくれて……僕を強くしてくれて……ありがとうございました――。彼の全身全霊を懸けた<右正拳顔面突き>が、亭主の鼻をへし折る!「ベキッ!」吹き出る鼻血、よろめく亭主。
きっと僕は……今日このときのために、空手を始めたんだと思います……稽古してきたんだと思います――。間髪入れず繰り出される<右前蹴上げ>! それは亭主の股間を直撃し、その全身に痺れるような激痛をもたらす!「ふぐぁっ!」
最後に左肘を折り畳んだエリスは、肘の先端の骨(尺骨の肘頭部分)を相手の腹部へと向け、そのまま思いっきり右掌底で押し込むようにして、相手の水月めがけて突き立てていく! その身に刻め! これが旭信流! 夜明けを信じる不屈の空手だ――。
「ドゥンッ!」必殺の<肘突き>が炸裂し、相手の身にさらなる激痛が襲い掛かる!「かっ……はっ……」とうとう亭主がダウンする。そして張り詰めた空気のなか、拳を握りしめたまま相手を見下ろすエリスが、怒りに震えた声でこう呟くのだ。
「奇遇ですね……僕ももう、謝ったって許せないところまで……来てました」
長い長い悪夢の月曜日は、まだ終わらない。
第三十九章 – 青春時代② 高校生活 Ep.26:家庭崩壊の最終楽章
エリスの高校生活㉒ 家庭崩壊の第3楽章
「カッ……ハッハッハッハッハァ……」
左手で鼻、右手で『みぞおち』を押さえながら床にひれ伏している成人男性が、掠れた咳のような笑い声を上げている。その鼻は、骨折しているのが明白なほど不自然にひしゃげており、鼻孔からは大量の血が垂れ流されているのだ。そんな男が苦痛に歪んだ顔で見上げているのは、前方で興奮気味に立ち尽くしている美少年の顔だった。
「おみそれしましたぞ、エッリスちゃ~ん……いやぁお強いお強い……護身術でも習ってるんかいねぇ……? 今のはまるで、粗暴な『非行少年』みたいだったぞ――」男が背後の壁によし掛かって、顔を上向けて鼻血の流出を抑えていく。「羨ましいねぇ……世紀の大美人でありながら、喧嘩まで強くってねぇ……きっと『この世の主人公』にでもなったような気持ちで、人生バラ色ハッピーエンドなんだろうねぇ……」その男の呟きには、どこか皮肉めいた響きが含まれている。
「手荒なことをして、すみません……けどああしないと、あなたを止められそうもなくて……」そう答えるエリスの左肘にも、裂傷と出血が見られる。先ほど酒瓶を受けた際に、破片で切ってしまったようだ(タイミングが悪いことに、今は夏なので彼は半袖の衣服を着ている)。「それと、言うのが遅れてしまいましたが……実のところ僕は男の子で、極真空手を習っています……」ここに来てようやく、自分の素性を明かすエリス。自己開示して相手の戦意を削ぐ狙いもあったが、何よりも隠し事はフェアじゃないと思ったのだ。
「ほぉ……常人ならざるオーラの正体は、それかい……」男がエリスの『全くモッコリしてない股間』に目を落して続ける(その際ショートパンツの裂け目には気づかなかった)。「なら『そこ』の中には、俺らと同じ『竿』と『タマ』が入ってんだな?」
「えっと……ごめんなさい、僕は『無精巣症』なので、生まれつき『タマタマ』は無いんです……」馬鹿正直に答えるエリス。しかし彼としては、これ以上の戦闘を避けるためにも、今はこうして対話を続けるべきだと判断したのだ。
「何と! 『タマナシ』かい!」まるで妖怪か何かの名前でも呼ぶかのように、そう言って笑う男。「なら、ほぼ『テストステロン・シャワー』は浴びてないってこったな? クックックッ……それじゃ『男』とは言えんだろぉ?」
「そうかもしれません……だけど今は、そんなことはどうでもいいです――」そこで首を横に捻ったエリスは、背後にいる人物に対して切迫した態度で、こう指示する。「ダニエルのお母さん! 至急、救急車を呼んでください! 恐らく旦那さん、鼻を骨折しています! このままじゃ出血多量で……」
「わ、分かったわ! すぐに手配するわね――」呼びかけに応じた女性が、キッチン・カウンターに置かれたスマホを取り上げて、急いで『144番通報』し始める(144番はスイスの救急電話番号)。その女性の隣では、未だ彼女の息子が身を竦ませて震えている。しかしそれを把握できないエリスは、その女性に対して「それが済んだら念のため、警察にも連絡をお願いします!」と付け加えた後、隣にいる息子に向かっても別の指示を出すのだった。
「ダニエル! 君は氷を持ってきて! 早くっ!」しかし相手は応えない。いや、『応えられない』と言った方がいいだろうか? 彼はずっと父親に――そしてエリスが認知していない未知の何かに――怯えていて、パニック発作を起こしているようだった。「ダニエルッ!」彼が再度呼びかけるも、やはり相手は動き出す気配がない(実際このときダニエルは、強い不安感とストレスにより自律神経を蝕ばまれており、激しい動悸と眩暈、吐き気、過呼吸に見舞われていた)。
「無駄むだぁ……」顔中を血まみれにした父親が、赤一色の口を開けてニヤりと笑う。「そいつ、俺がブチ切れるとたまに『そうなっちまう』のよ……全く、情けないったらありゃしねぇよなぁ……こっんな可憐な『お姫様』を闘わせておいて、自分は隅っこで縮こまってるだけなんだからよぉ?」
「それって、『パニック障害』ってことですか……? そんな……」ついにエリスが男から注意を逸らし、後ろにいるダニエルの様子をうかがってしまう。そしてそこで苦しそうに蹲る親友を見た彼は、心配そうな顔をして疑念を唱えるのだ。「でもどうして……学校では一度もそんなこと……」
「それだけ『俺』が怖いってことだろうな……特に、潜在意識の方で恐れてるみてぇだ……いわゆるトラウマってやつ……俺の怒鳴り声とか、デカイ物音とかに反応して……過去の嫌な記憶が蘇ってんじゃねぇかな……ま、今は『別の理由』で起きてんのかもしれねぇが――ぁっ……あぁクソ……俺もクラクラしてきやがったわ……」不敵に笑う男の方も、今や貧血で脳機能が低下してきていた。にもかかわらず男は、なぜか幸せそうな顔で話し続けるのだ。「なぁに心配いらねぇよ……どうせ時間が経ちゃぁ治まるからよぉ……」
「ダニエル! 大丈夫だから! 気をしっかり持って!」エリスが懸命に語り掛ける。「ずっと辛かったね? 苦しかったね? 誰にも頼れずに、お母さんと二人きりで……これまでよく耐えてきたね? 頑張ってきたね?」ダニエルの目から涙が零れ落ちる。身体は自由にならずとも、ちゃんと心はそこにあって、彼もそのなかで必死に闘っているのだ。「でも大丈夫だよ。もう誰も君を傷つけたりしない……君のお父さんは僕が止めてるから!」
エリスの目にも涙が光る。好きな人がこれほどの問題を抱えていたとは、露知らなかった彼なので、今はただこの状況への悲しみと、ずっと気づいてあげられなかった自分への怒りでいっぱいだった。「だからねダニエル? もし動けるようになったら、君はお母さんを連れて、すぐここから離れるんだ! いいね? 約束だよ?」
「おーおー……お優しいお姫様なこったぁ……」いつの間にか立ち上がっていた男が、ゆっくり冷蔵庫の方へと足を引きずりながらそう呟くと、その気配に不意を突かれたエリスが、瞬時にそちらにキッと睨みを利かせては、殺気を漂わせて戦闘モードに移行する。「おっと、そう警戒なさんなって……自分でアイスパック取りにいくだけだからよ……」
「妙なことはしないでくださいね? もう誰にも傷ついてほしく、ないです……」そう言いつつエリスの目には、相手を抹殺することも厭わないような狂気が宿っている。
「クハハッ……いい目だねぇ……さぞ俺のことが憎いと見える……もう顔にはっきり書いてあるぞ? 『殺したいほど憎い』ってな……」冷蔵庫に到着した男は、下の冷凍室を開けてはアイスパックを取り出して、それを自身の鼻に当てていく。「まぁ同感だわ……俺も自分ってやつが大っ嫌ぇだ……お姫様にはちと理解しにくいかもしれねぇが、この世には生まれながらにして光を浴びれるやつと、そうじゃないやつがいんのよ……俺は影……闇の方なんだわ……」
「そんなことないです!」エリスの目から同情心が発露する。「あなたは決して影なんかじゃない! むしろあなたが太陽なんです! だってあなたがいたから、僕はダニエルと出会えました。恋する気持ちを知ることができました。『自分らしくいよう』って……決意することができたんです……」彼が涙を拭って続ける。「だから何よりも理解できないのは、『なぜあなたが彼を愛してあげられないのか』ってことです!」
「だから言ってんだろ……そこが俺の『影たるゆえん』なのよ……」男が今度は、上段の冷蔵室から『妻用の鉄分補給ドリンク』を取り出しながら続ける。「結局のところ、俺の抱える不満も不幸も、絶望も……俺として生まれた、『俺という人間だけが感じることができる、絶対的な真実』なのよ……他者に理解できるはずがねぇんだ……」栓を開けてドリンクを飲み始める男。けっ……何が愛だ、恋だ、自分らしくだ……くだらねぇ空想の産物ばかり信じやがって……昔の自分見てるみてぇで、反吐が出るぜ――。
「あなた……もうお終いよ」ちょうど緊急通報を終えた妻が、スマホを耳から下ろしながら確固とした態度で告げる。「今、救急車と警察を呼んだわ……だから私たちの夫婦生活はお終い……離婚しましょ……」そのまま彼女はしゃがみ込んで、隣にいる息子の背中を摩りながら、こう続ける。「ダニエルは私が引き取るわ……あなたは養育費も出さなくていい……ただ、私たちの前から消えてちょうだい……私たちをいい加減、解放してしてちょうだい……」
「そっか……警察まで呼ばれちまったか……」夫がドリンクを飲み干してから、空き瓶をシンクに置きつつ彼らに背を向けて、黄昏たように呟く。「まぁありがたいわ……おかげでいろいろと『踏ん切り』がついたしな……」
「り……す……」そのときダニエルがゆっくりと立ち上がり、懸命に何かを訴えようとする。「げ……て……」これには思わず男から注意を逸らして、親友に駆け寄ろうとしてしまうエリス。「ダニエル、大丈夫!? もう動けるの!?」すると今度は彼から、はっきりと意味が伝わる大きさで、こう返されるのだった。
「えりす……にげて……その、ひと……」
「じゅうをもってる――」
パンッ!!
ピシャッ――。カランッカラァン……。
えっ――。エリスが何か生暖かい感触を感じて、ふと自分の下半身へと視線を落とすと、なぜか右膝の中央部に真っ赤な穴が空いていて、床には放射状の血痕が広がっているのだった。な、何こ――。
途端に襲ってくる死ぬほどの激痛――地面に崩れ落ちた彼の絶叫が響く。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
そして影は闇になり、やがて絶望へと変わる。
エリスの高校生活㉓ 家庭崩壊の最終楽章
「うあっ……うっ……っ……」地面に倒れたまま、苛烈な表情を浮かべるエリスの呻き声だけが、殺伐とした部屋の中に虚しく響いている。イダイ……いだい、よぉ――。否応なく流れる出る涙、銃創からの血液。彼は薄れゆく意識のなかで、必死に目を閉じまいとしていた。眠っちゃ、ダメだ……このままじゃ……みんなが――。
そして別の叫び声が響く。
「何してるのあなたぁぁぁぁぁぁ!!」妻が息子を立ち支えながら、前方の夫へと最大限の非難を浴びせる。「正気なの、あなたぁぁ!? エリスにいったい、何の恨みがあるって言うのぉぉ!? これであなた、『最低10年』は刑罰を科せられるのよぉぉ!?」隣の息子は発作症状を悪化させており、まるで爆発寸前の爆弾のように、過呼吸と痙攣を繰り返している。
「お前らは黙ってろぉぉ! 今、最高にいいところなんだぁぁ!」男が拳銃を家族の方へと向けては、ハイになっているような、狂った笑みを浮かべながら恫喝する(彼の背後には鍵付きの棚が空いていて、男はそこに拳銃を一丁仕舞っていたようだ)。そしてその圧倒的な武力の差に、丸腰の二人は成す術がない。
そう、これこそがダニエルが恐れていた事態だった。実は彼の父親は過度な『ガン・コレクター』であり、これまで多大な労力と資金を費やしては、多くの銃火器を収集していたのだ(第三章で少し触れたが、スイスではライセンスさえあれば一般人でも銃火器の購入が可能)。そして父親は常日頃から、愛着を持ってそれらをメンテナンスしており、その実射として週末に射撃場や狩猟へと出掛けるのを、何よりの楽しみとしているような人物だった。
そんな父親が乱心した末に、いずれ銃を人に向けるようになるであろうことは、もはや予測可能な必然の未来だった。いや、厳密に言えばすでに一度、そんな悲劇は起きていたのだ。ダニエルが14歳になろうかとしていた、あの冬の夜に……。
[番外編⑧ ダニエルのトラウマ ~存在が否定された夜~]
それは霙が降りしきる、典型的な2月の寒い夜のことだった。その日、どうしても欲しい物があったダニエルは、リビングの暖炉前でソファーに腰掛ける父親のところへ行き、こんなお願いをしたのだった。
「パパ、僕ね……『液晶タブレット』って物が欲しいんだ……買ってくれないかな?」
すると、ちょうど円卓の上で拳銃を分解して、各パーツの手入れをしていた父親が、息子には見向きもせずこう答える。「液……何だそりゃ?」ちなみに、彼が手入れしている銃は『CZ SHADOW 2』という、実射性能に優れた競技用のモデルであり、フレーム・スライドともに金属製となる、かなり高価な代物だ。
「パソコンと接続して使う、『絵を描くことに特化したタブレット』で、液晶画面でも手元を確認しながら使える便利な機械なんだ」ダニエルがそう説明すると、父は銃のバレル内を清掃しながら、「で値段は?」とぶっきらぼうに返してくる。
「に、200フラン(約35000円)なんだけど……」ダニエルがそう言うと、父親が「無理だ」と即答してくる。
「じゃ、じゃあせめて、液晶が付いてない『板タブ』って物でも……それだったら50フランくらいで――」と彼が譲歩するも、父はさらに早く「母親に言え」と吐き捨ててくる。こうやって『まともに取り合ってもらえない』のはいつものことなので、普段ならダニエルも極力、父に物を強請ったりはしないようにしていたのだが、今回ばかりはそうせざるを得ない事情があった。
「言ったよ! 言ったけど、ママ……『今はそんなお金ない』って悲しそうに笑うんだ……『パパにお金取られたから』って――」※母親はシャワー中。
バンッ! 突如机を叩いて、「あの金のことは言うなっ!」と憤慨する父。そう……ちょうどこのときと言うのは、例の『妻のヘソクリ騒動』が起きたばかりの頃で、母親としては特に家計が厳しく、父親もいつも以上に苛立っている時期であった。要するに彼は、最悪のタイミングで相談してしまったのだ。「『取られた』だと!? いつも俺から奪っているのはお前たちの方だろう!」
ダニエル「ご、ごめんなさい……だけど僕、どうしてもそれが欲しいんだ……お願い、50フランだけでいいから……」
父「断る! 絵くらい紙で描いてろ!」
ダニエル「それじゃできないことがあるから『欲しい』って言ってるだよ! パパの分からず屋っ!」
「何だと貴様ぁ――」とうとう堪忍袋の緒が切れ、カッとなって息子の胸ぐらを掴む父。「誰のおかげで暮らせてると思ってる!? あぁ!? 生意気な口利きやがって……私立に出してやってるだけありがたく思え!」息子の怯えた顔の上に、父の理不尽な言葉が唾液とともに撒き散らされていく。「ただお前は勉強だけやっていればいいんだ! そんでできるだけ上の大学に入って、就職して……俺に恩を返すことだけを考えてればいいんだ!」
「い、嫌だ……」ダニエルは目に涙を浮かべながらも、断固とした態度で反抗する。「僕の将来を勝手に決めないでよ! 僕は……僕は……『漫画イラストレーター』になりたいんだっ!」
父「ガキみたいに寝言ばっか言ってんじゃねぇ! ったく現実逃避ばかりしやがって……漫画だと!? お前の『くだらん絵』なんぞで飯が食えるわけないだろ! そんなもんに需要があると、本気で思ってんのか!」
ダニエル「僕の絵を褒めてくれる人だっているよ! それに、アニメや漫画は僕に夢を与えてくれたんだ! 希望を与えてくれたんだ! だから僕もそんなふうに、自分の作品を通して誰かに夢や希望を届けたいんだ! たとえお金持ちになれなくたって構わない! ただ僕は、そうやって生きたいんだ!」彼の情熱が、涙となって頬を伝う。
「夢だと!? 希望だと!? 妄想も大概にしやがれっ――」父が息子を突き飛ばし、息子は絨毯の上に倒れ込む。それから父は激昂したように息を荒げながら、卓上に散らばっている銃の部品を集めては、それらを元通り組み立て始めるのだ。「そんなもん現実にはねぇんだよ! ただ死ぬまでクソみたいな仕事とクソみたいな生活が続いていくだけだ!」息子がしゃくり上げながら号泣しているのを余所に、父の説教は止まらない。
「なぜ分かるかって? 俺もかつて『そう』だったからだ……そりゃ~俺だってガキのころは、お前みたく夢だ希望だのとほざきながら、叶いもしない未来の成功を思い描いていたもんだ――それもそうだろ? 誰が好き好んで『こんな人生』を選ぶか!」一つ、また一つとパーツを組み上げていく彼の手もまた、悲しみに打ちひしがれるよう震えている。「だが実際はどうだ? 今の俺の姿を見て、何か一つでも夢が叶っているように見えるのか!? あぁっ!?」もはやそこで完成しつつあるのは拳銃などではなく、彼が世界に対して抱く憎悪そのものであった。
「ゼロなんだよ……それなのに身体はどんどん老いていき、隙あらば病魔が心身を蝕んでいきやがる……こんな苦痛だらけの世界で、夢が何の役に立つってんだ――」とうとう彼の手のなかで、拳銃が元の体を取り戻す。それと同時に、すぐさまスライドをコッキングさせた父は、そのまま銃口を息子の額へと押し当てては、絞り出したような声でこう言い放つのだ。
「俺やお前のような『負け犬の血が流れてるクズ』はな、生まれた時点で地を這いつくばる運命なんだよ――」
そして引き金は引かれ、撃鉄の落ちる乾いた音が彼の鼓動を撃ち抜いた。たとえそこに本物の弾丸は込められておらずとも、チェンバーから発射された『悪意』という名の弾丸が、ダニエルの心に取り返しがつかないほど大きな傷を残したのである。以来ダニエルは、パニック障害を有病することになった。
そして現在。激しい発作に苦しむダニエルの目の前では、あの夜を凌ぐほどの悪夢が繰り広げられている――大好きな人が右脚を撃たれて、床で苦痛に喘いでいるのだ。ぼ、僕は何てクズなんだ……この期に及んでまだ身体が動かないなんて……早くしないと……このままじゃエリスが、死んじゃう――。
「エッリスちゃ~ん? すまないねぇ……大人げない武器使っちゃってぇ」右手に拳銃を携えた男が、床で息絶え絶えになっている少年の周りを闊歩している。「言い忘れていたが、俺は射撃が趣味なもんでね……銃の腕にはちっとばかし、自信があるわけよ」やがて相手の外周をグルッと回り込んだ彼は、その場でしゃがみ込んで相手の顔を覗き込むのだ。「で、どうよ……俺様の『SIG SAUER P320』から放たれた『9mmパラベラム・ブリット』のお味はよぉ?」
「だに……える……にげ……て……」少年の口が弱々しく囁く。もう彼には抵抗する術など残されていない。
「こっんたらときにも他人の心配かい! いやはや、まるで天使だな……この、リアル格闘天使めっ!」そう言うと男は、少年の死に目に会おうとするように、その額に掛かった髪を銃身でどけるのだ。「ったく、光から生まれた『光の化身』みたいな顔しやがって……だがテメェみたいな『類稀なる奇跡』の存在が、この腐った世界を無慈悲に、盲目的に、残酷に! 肯定させちまうんだよ……」
おもむろに立ち上がった男が、左手で口元の血を拭ってそれを振り払ってから、全身全霊を懸けた、魂の叫びを上げる。
「もううんざりなんだよっ! 命の価値は皆平等だとか、努力すれば夢は叶うだとか、人は生まれながらにして自由だとか、全てのことに意味があるだとか、生きるって素晴らしいだとかぁぁぁぁぁぁぁ! ゴミみたいな虚言に満ちた、綺麗事だらけの醜い世界にはよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
男が冷酷無比な表情で、拳銃を床にいる少年の頭部へと突きつける。
「命はなぁ、『こいつ(銃)』の前でだけ初めて平等になるんだぁぁ! 分かっか、エッリスちゃ~んっ! あんたにゃ恨みはねぇがなぁ……ここは一つ、天使代表として天界に帰ってくれやぁぁぁぁぁ!」そして引き金が引かれていき、時間の流れが遅くなる。「さ……ら……ば――」奇跡を、殺すっ――。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」間一髪のところでダニエルが父親にタックルし、弾が横に逸れて床のセラミック・タイルに突き刺さる。そのまま父を押し倒した彼は、父の右手を床に叩きつけて武装解除させた後、がむしゃらに父の身体をパンチしていく。「パパなんか嫌いだっ! 嫌いだっ! 大っ嫌いだぁぁぁぁぁ!」これには父親も――さすがに鼻を殴られるわけにはいかないと――ひたすらに顔面をガードしながら、腹部の攻撃にさらされ続けるしかない。
「自分が――ドスッ――パパの――ボスッ――息子だなんて――ドンッ――思うと――ドカッ――虫唾が走るよぉぉぉぉぉ」ズドンッ! 一発いっぱつセリフでリズムを刻みながら、積年の恨みを重い拳に託して放つダニエル。人を殴るのなんて初めてだった彼なので、当然それらは技術的には拙いパンチではあったのだが、彼の鍛えられた両腕から繰り出されるフックやアッパーは、大の大人を悶絶させるには充分な威力を備えていた。
「けどエリスはぁぁ、こんな僕を『素敵』って言ってくれたぁぁぁぁ! 『好き』って言ってくれたんだぁぁぁぁぁぁぁ!」彼の涙が汗とともに飛び散って、パンチとともに父のボディへ降り注ぐ。ホントはこんなことしたいわけじゃない……でも今やらないと一生後悔しそうだから……僕はパパを、倒す――。「だから僕は負け犬じゃないっ! クズじゃないっ! パパとは違うんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!」筋肉、パゥワァァァァァァァァァ!!
「えぇい、どけぇぇぇぇぇ!」父の右裏拳カウンターがダニエルの頬を強打する。堪らずKOされるダニエルを余所に、さっそく銃を拾って立ち上がろうとする父だったが、何やら胸の奥から違和感が迫り上がってきては、途中で咳き込んで左手のなかに鮮血を零すのだ。どうやら肋骨が一部折れていて、そのせいで肺表面が浅く傷つけられてしまったらしい――呼吸の度に訪れる胸痛……がしかし彼は、なぜか愉快そうに笑うのだった。「オー、やるじゃねぇか……ダニー・ボーイ?」
父は床で伸びている息子と、隣で瀕死になっている少年、そして奥でナイフを握りしめて震えている妻とを順番に目に留めてから、倦怠したように溜息を吐く。「ったく興が削がれちまったぜ……ま、お前らのそのファイティング・スピリットに免じて、今回のところは見逃しといてやんよ……それにどの道この銃にゃ、もう弾は『二発』しか入ってないしな……」そう言うと彼は、三人をキッチンに残したまま、おもむろに廊下の方へと足を引きずっていく。
あぁそうさ……俺が本当に殺したいのは、この世でただ一人だからな――。
浅く呼吸を繰り返しながら、満身創痍で廊下の先へとやってきた彼は、そのまま左手で横の手摺を掴んでは――どこを目指してか――のろのろと階段を上っていく。
この世は嘘ばかりだ……。詐欺師ばかりだ……。偽善者ばかりだ……。
『この手法で私は、年収○○を達成しました! 秘密を知りたい人は、今すぐ私のセミナーをチェック!』
嘘だ……。
『子供にはただ優しく、元気で、素直な子に育ってほしいです! それ以外は何も求めていません!』
嘘だっ……。
『私に投票すれば、必ずや! この国を豊かにしてみせます! 偉大にしてみせます! さぁ私に清き一票を!』
嘘だぁっ!
『ありのままでいよう! それが最良の選択です! 私たちは皆、神に創られた完璧な存在なのだから!』
嘘だぁぁっ!
『神はおっしゃっています! 布施をする者には幸運が訪れると! 善行は来世での祝福に繋がると!』
『さぁおいで……ここで服を脱ぎなさい……なぁに恥ずかしがることはない……これは神様のため、神様の意向なのだから……』
嘘だぁぁぁぁっ!!
『お金が全てではありません! だって美しさも、時間も、健康も愛も、どれもお金では買えないでしょう!?』
『世界はより良くなっている! 戦争も病気も不平等も不運も、いつかきっとなくなるでしょう! 人間の叡智と科学の前では、不可能などないのです!』
どいつもこいつも、嘘をつくなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!
ようやく最上段に上がった彼は、そのまま二階の廊下を咳しながら進んでいき、やがて辿り着いた最奥の部屋のドアを開けては、そのハンドルに紅の掌紋を残して向こう側へと消えていく。ドアが閉じられる間際、一瞬だけ『La chambre de Daniel(ダニエルの部屋)』と書かれた真鍮製のネームプレートが光る。
「どれどれぇぇっ?」息子の部屋を見回しながら、奥の学習デスクの方へと進んでいく父。そしてついに彼は、目的地となる『夕陽に照らされた壁の前』にて足を止めるのだ。「ほぅ……これがそうか……」そこに掛けられているのは、数々の絵――これまで一度もちゃんと見たことがなかった、息子の作品たち――だった……。父は一枚一枚をじっくり眺めていきながら、時折「くだらねぇ、妄想の産物だな……」とか「どれもこれも似たり寄ったりだしよぉ……」などと呟いていく。
ったく、こんなもんで金が稼げると思ってんのかねぇ……いやそもそも、人生懸けてやるほどのもんなのかぁ……? クソ……淡い期待もろとも、全部破り捨ててやりたいぜ……けどまぁ――。最後の一枚を鑑賞し終えた彼は、穏やかに微笑みながらこう呟くのだった。
「結構、上手いじゃねぇか……」
それと重なるように、南西の窓から複数の青い回転灯の光と、うるさいサイレンの音が近づいてくる。どうやらパトカーと救急車が到着したようだ。さてと、おいでなすったな……そんじゃ俺は、最後の『仕上げ』と参りますか――。静かに部屋を後にし、フラつきながら一階へと戻った彼は、そのまま玄関戸を開けて外に出ては、今しがた到着した客人たちを迎えにいくのだった。「事件ですかぁ!?」
「銃を捨てろっ!」白地に蛍光オレンジのストライプ塗装がされた『Škoda Octavia iV(スコダ・オクタヴィアのプラグイン・ハイブリッド車)』から降りた四人の警察官が、早々に彼に向かって拳銃を突きつけては、お決まりの命令文を声高に叫ぶ。「聞こえないのかっ!? 早くしろっ!」
「おっ……あんたらもP320かい? お揃いだねぇ?」構わず警察の方へと近づいていく彼に対し、警察の声色がさらに荒くなる。「そこで止まれっ! これ以上近づくと撃つぞっ! さぁ今すぐ武器を地面に置いて、両手を頭の上に!」
「嫌だね……」んなこと、するわけねぇだろぉ? こいつが俺の『最後の希望』なのによぉ――。そして敷地内の半ばで立ち止まった彼は、ゆっくりと銃口を自分の側頭部に付けては、深く息を吸いながら天を仰ぐのだった。その瞬間から、全ての音が遠のいていく。警察官が命令してくる声も、救急救命士が固唾を呑む音も、近隣住民がスマホでビデオ録画を始める音も、付近を飛び回る小鳥たちのさえずりも、背後から駆けつけてくる家族の声も……。
「パパァ!」「あなたやめてぇぇっ!」
途端に蘇ってくる過去の記憶、自分が生きてきた物語……。
父「何だお前? 小説家になりたいのか? ははっ、やめとけやめとけ。あんな稚拙な文章と、無茶苦茶な話しか書けないで……誰もお前の小説なんか読むわけないだろ? 潔く諦めて、私みたく手に職をつけた堅実なビジネスマンになったらどうだ? その方がよっぽど……何だと? 家具職人にはなりたくないだと? ふんっ、勝手にしろっ!」
父「え何、俳優にも? 映画監督にもなりたいって? なるほどなぁ……それで自分が脚本を務めた映画を撮って、主演まで務めたいと? ははっ……どこまで夢想家なんだか……。そう言えばお前、前に書いてたのは『劣化版007』みたいなやつだったよな? お前は本気で思っているのか? 『チビで不細工な自分が、いつかジェームズ・ボンドみたいになれる』と――」
出版社の男「作品拝見させていただきました。ですが率直な感想としては、『リアルすぎて娯楽性に乏しい』ですね……。もうちょっとポップで分かりやすい作品でないと、商業小説としては厳しいかと……はい……と言うわけで申し訳ありませんが、ウチでは取り扱いできかねますね……はい……今回はご縁がなかったと言うことで……。まぁ自主出版やオンライン販売という選択肢もありますので、どうぞ気を落さず、これからも精力的に活動を続けていってください。弊社としても微力ながら、あなた様のご健闘お祈りしております」
ファン「初めましてっ。私、あなたの小説のファンですっ。あの……もしよろしければ今度、ご一緒にお茶でもいかがでしょうか?」
恋人「ふふっ……私たちも付き合い始めて、もうすぐ一年ですね……? どう、あなた? そろそろ結婚を考えたりなんか……」
妻「あなた……記念すべき第一子の誕生よ! 男の子だけど、名前はどうしましょう……いい加減決めてあげないと、この子が可哀そうよね……? え? 『ダニエル』がいいですって……? もうあなたったら……本当に『ダニエル・クレイグ』が好きなのね?」
母「あんたぁ……父さんが死んじまったよぉ……遺産は相続できるけんど、生命保険も入ってながったから大した額には……それどっかあん人、知らん間に投資詐欺に遭ってたみてぇで、いくつか借金までこさえてたみてぇだ……あんた払えっかい? 全部で8万フラン――」
妻「小説、もう書かないんですか……? 何も自主出版できなくなったからって、そんなにきっぱり辞めなくたって……趣味で書いていればいいじゃないですかっ……私も応援しますから! それに何なら私も、ダニエルが小学校に上がたらまた、働きに出ますよ?」
ガンショップの店員「いらっしゃいませ、お客様。銃の購入は初めてですか? でしたらまず、ライセンスのご提示を……はい、確認させていただきました。本日はお目当てのモデルなどは……さようですか。でしたらこちらの『SIG SAUER P320』などいかがでしょうか? 性能・安全性・コスパともに定評のある機種で、現在、世界各国の多くの法執行機関で採用されております――聞くところによると我が国の警察でも、一部のカントン(州)で採用しているとか……はっ、さようでございますか! ありがとうございます! それではこちらでご契約を――」
妻「以前勤めていた施設で、介護職員が足りていないみたいなの……それで主任から『戻らないか』って誘われてるんですけど……え? 『無理して働かなくていいから、これからも家のことと子供の世話を頼む』、ですか? まぁ、あなたがそう言うんでしたら……」
医者「完全に飲みすぎですね。これからはアルコールは控えてください。さもなくば若くして、肝臓を患うことになりますよ?」
妻「痛いっ……痛いですわ、あなた! もう……謝るくらいなら最初っからこんなことしないでください……特に子供が見てる前でなんて、絶対に……ねぇあなた、これからお酒は減らしましょう?」
射撃場の常連客「おぉ、いい腕してんね~あんさん! よかったら今度、射撃大会に出てみないかい? 優勝すれば賞金も出るぞぉ?」
射撃大会のスタッフ「いやぁ惜しかったですね~! 初出場で4位は大健闘ですよ~! ですが私には今回の試合、勝敗を分けたのは銃の性能差だったように思えます……というわけでどうでしょう? こちらの『CZ SHADOW 2』などは――」
妻「やめてください、あなたぁ! あの人とは何でもないんですよぉ……黙ってカフェで働いていたことは謝ります、明日辞めてきますから……うっぅっ……だからどうか、彼には手を出さないであげてください……」
医者「先ほどの検査の結果、肝臓に腫瘍が見つかりました……誠に残念ですが、ガンです……。幸い今はまだステージ2なので、完治の望みは充分にあります……すぐに治療を開始しましょう……いいですか? これからは絶対禁酒ですよ!」
あばよ、クソったれの世界! 天国だろうが地獄だろうが何だろうが、もう俺はアフターライフなんざいらねぇからよぉ! とにかくもう二度と、どこにも、いつにも、誰にも! 生まれさせないでくれ……願わくば俺に、永遠の眠りをぉぉぉっ!
彼が引き金を引こうとしたそのとき――背後から血だらけの右足を浮かせた少年が、死に物狂いで片足で駆けてくるのだ。
させないっ! このまま、逝かせないぃっ! あなただって大切な、一つの命だっ――。
「エリスッ! ダメだぁぁぁっ!」
たとえこの脚が壊れてもぉぉぉぉっ、僕はあなたを救うぅぁぁぁぁっ――。
左足で大きく跳び上がった少年は、そのまま空中で男の持つ拳銃めがけて、正真正銘最後となる大技を繰り出すのだった。
<跳び、三日月蹴りぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!>
「バシィンッ!」男の手から弾き飛ばされると同時に、発射作動する拳銃。「バァンッ!」弾は男の頭を逸れ、銃はスライドがブロウバックしたことにより、空中で後ろ向きに回転し始める。そこに蹴りの慣性が合わさって、まるで三次元ルーレットのように複雑な回転運動をしながら落下していく拳銃。
「危ないっ! 全員伏せろっ!」警察官の一人が叫ぶ。なぜなら『SIG SAUER P320』はたびたび暴発事故を起こして、死傷者を出すことで有名だったからだ。特に初期型はトリガー重量と内部構造に欠陥があり、背面が地面に対し33°の角度で落下した場合に、約40%の確率で暴発するとのテスト結果が報告されていた(ちなみにP320 X5という競技用モデルでは、既存品より6%軽いフラット・トリガーが使われていたため、その場合は暴発確率10%未満となる)。
もちろん、同機は速やかにアップグレードがなされ、トリガーを軽量化したりディスコネクター(スライドが後退したときに、トリガーとシアーの連結を解く装置)を導入するなどして、現在ではトリガー機構の誤作動による暴発確率は、極めて低く抑えられている。
とは言え『ストライカー機構の誤作動による暴発』も報告されており、ストライカー(バネの力で薬莢の雷管を叩くための部品)をロックしている部品が摩耗劣化するなどして、『トリガーに触れることなく勝手に発射される』という危険性を依然として孕んでいた。
よってこのとき、その警官の『伏せろ!』という命令に従った者たちは、賢明だったと言える……なぜならその行動一つで、この『死のルーレット』への当選確率を大幅に減らすことができるからだ……さりとて確率は所詮確率……次の瞬間に何が起こるかなど、誰にも分かるはずがない……ただ銃が無情に地面へと叩きつけられ、ルーレットの針が止まるだけだ――。
「バァァァァァァァンッ!!」
そしてP320は火を吹いた。




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