
第二十二章 – 青春時代② 高校生活 Ep.10:気まずさの行方
エリスの高校休日④ MajiでKissする0.5秒前
次の土曜日、ヴァルキュリア全員に対しキアラから集合が掛かり、いよいよオリジナル曲第一号『Every Life! Let It Shine!』のアレンジを考える段階に差し掛かった。それ自体は嬉しかったのだが、エリスとしては複雑な心境で、初めてキアラの家に行くのが億劫だと感じていた――と言うのも、あの月曜日の放課後以降、エリスもキアラも妙に互いを意識してしまい、とうとうこの土曜日まで一度も学校では顔を合わせなかったし、私的な連絡も一切取らなかったのだ。
はぁ、気が重いな……。どんな顔して会って、何話せばいいんだろう……。そんなことを考えながら、ギコギコと自転車を漕いでいると(アンプ類はキアラの家に置きっぱなしなので、荷物はフロスティと昼食用のお金だけ)、無情にもキアラの家が迫ってくる。しかし救いの女神もいた――ちょうど先に着いて、自転車の横で伸びをしていたエミリーが、エリスに気づいて挨拶する。「おっはー!」
これにはエリスも笑顔になる。「おっはー!(※もちろん彼らが交わしている挨拶は、かつての日本の流行語ではありません)」そして彼もエミリーの隣に自転車を停めると、改めて挨拶して楽し気な会話がスタートする。「おはようエミリー! 早いね? 一番乗り?」
「うんたぶん!」エミリーが手をブラブラして、ドラム演奏前のストレッチをする。「アタシはみんなと違って、機材持ち込む必要ないから、準備も移動も早いんだろうね?」そこで後頭部を掻いて苦笑いする彼女。「テヘへ、ちょっと申し訳ないかも?」ちなみに今日のエミリーは、エリスと同じくストレートのショートボブヘアをしている。彼女はオシャレなので、キアラみたくしょっちゅう髪形を変えているのだ。
「さっ、エリス疲れたでしょ? フロスティ貸してっ! 持ってあげる――」ちょっとした罪滅ぼしのつもりなのか、半ば強引にベースを奪い取ろうとする彼女。当の彼は「えっ、いいのに?」と遠慮しつつも、彼女が「いいから、いいから~」と粘るので、最後には「それじゃ、お願いっ」と、その優しさに甘えることを選んだ。おかげで両肩が軽くなって、すごく爽快だった。ありがとう、エミリー――。
そこに一台の黒いセダンが到着し、中からソフィーと彼女の父親が下車する。「お父様、キーボード運んでくださいまし。ワタクシはスタンドを持ちますの」と言う彼女に対し、父親は「は~いっ! パパ、プリンセスのためなら何でも運んじゃう~」と陽気にトランクを開け始める。その様子を見たエミリーが、呆然とつぶやくのだ。「い、一番移動負担が軽いのは、このプリンセス様だにょ」
そんな彼女を余所に、荷物を背負いながら会話を続ける父娘。「帰りはまた連絡しますわ。おおよそ18時前後だと思いますの」→「カシコマリッ! なら夕食は君のお気に入りの、あのフレンチの店にでもしよ~ね~? トリュフとフォアグラが待ってるよ~!」→「それはお父様の好物でしょう? ワタクシはブレス・シャポン(ブレス地方産の高級去勢鶏)と、モリーユ茸(独特な食感と香りを持つ高級キノコ)のクリーム煮にしますわ――」
「んもーっ、ベル―カ・ソルトかっ! ポニー買ってもらうんかっ!」ここで堪らずツッコミを入れるエミリー。庶民には縁遠い会話に我慢できなかったのだ。それに気づいたソフィーが、「ベル―カ? 誰ですのそれ?」と返すので、思わず「リスたちに焼却炉へ落とされたナッツ令嬢だよ!」と、あまりにも言葉足らずな説明をしてしまう。これではソフィーが少しだけ眉根を寄せて、「それは気の毒ね」と的外れな反応を返すのも無理からぬことだ。
「やぁエリスくん、エミリーちゃん。二人とも今日も可愛いね! いつもソフィーと仲良くしてくれて、ありがとう!」彼女の父親が二人に挨拶する。これを受けエミリーが「おじさんも相変わらず『ナッツ社長』してるね? あんまり娘甘やかすと、一緒に焼却炉落ちちゃうよ?」と冗談っぽく返す。当の社長は「あ痛ー! こりゃ一本取られたね~」と上機嫌だったが、ここに救いの補足を入れたのがエリスだった。
「でもソフィーは、ベル―カみたいにワガママじゃないよね? それってお父さんがちゃんと育ててくれたからだと思うな」これには感激を隠せない社長(実際には彼は社長ではありません)。「え、エリスきゅん……」そして息を荒げながら彼へと近づいていく社長。「きょ、今日は私も、シャポンとモリーユ茸でも食べてみよっかなぁ~」えっ? それってどういう……ってそういうことかい! 完全にセクハラだな社長!
「お、お父様? 頼むから娘に通報なんかさせないでくださいね?」ソフィーが静かに憤りをあらわにする。とは言え、彼女もあまり他人のことは言えない――セクハラ気質は父親譲りだったようだ。と、とりあえず、今日は別のお料理を食べることにしますわ……ヘンな想像してしまいそうですし――。
そこに、また一台の車が入ってくる。社長の車がドイツの水素エンジン車だったのに対し、今度のはフランスのコンパクトEVだった。乗っていたのはソユルと彼女の母親で、車が停止するなり二人とも下車し、片や眼鏡をカチャリと押し上げ、片や群衆に軽く会釈する。
「今日はたまたま、母に送ってもらうことになりました」ギターケースを担いで群衆に加わったソユルが、自分の状況を説明すると同時に、この井戸端会議みたいな様相を呈する謎集団への説明を求める。「皆さんはここで何を? そちらの方は?」
「ソフィーのパパさんだよ(ナッツ社長だよ!)」エリスとエミリーが同時に応える。「僕らもたまたま来るタイミングが重なったから、ここで少しお話してたんだ(もうちょっとでエリスが食べられるところだった!)」エミリーは是が非でも話をややこしくしたいようだ。
「そうなんですね」さすがはソユル、スルー能力が高い。「初めましてソフィーのパパさん。私、最近モーザー校に転入してきたファン・ソユルです。韓国系なのでファンが苗字、ソユルが名前です」
「初めましてソユルちゃん。噂はソフィーから聞いてるよ。すごくギターが上手だって?」この状況下では当然とは言え、もはや意外に思えるほど社長の対応は『まとも』だった。しかし彼の『素顔』を知らないソユルとしては、むしろソフィーが家族に自分のことを話していたことに驚いていた。「するとそちらのお綺麗な女性は、君のお母さんかな?」
「皆さん初めまして、ソユルの母です」いかにも仕事ができるキャリアウーマンといった風貌の女性が、慎ましやかに挨拶する。「えっと、あなたがエリスさん、あなたがソフィーさん、あなたがエミリーさんね? 皆さんのことはよくソユルから聞いていますよ。転校してから彼女、すごく幸せそうなんです。きっと皆さんのおかげね、どうもありがとう」
「も、もう。そういうのいいからぁ」これはまた珍しいことに、ソユルが赤面している。彼女も自宅では『普通に饒舌な女の子』なのだろう。
「それで、キアラさんはいるのかしら? せっかくだから挨拶できればいいんだけど」ソユルママが家の外観をザッと眺める。ベージュ色の外壁に、オレンジのテラコッタ瓦屋根を持つ、庭とガレージ付きの二階建て一軒家だ。「立派なお家ねぇ」キアラとは二度会っていた彼女だったが、まだちゃんとしたお礼は言えていなかったので、今日は手土産を持って自らも出向くことにしたのである。
するとちょうど白い玄関戸がガチャリと開いて、中からキアラがヒョコっと顔を出しては、外にいる謎集団の面子にギョッとした様子で扉を閉めた。すぐまた扉が開いて、キアラが頭を掻きながら出てくる。そして大人たちに会釈しながら歩いてきて、彼女も群衆に加わった(もう二人でも四人でも、六人でも群衆である)。「何だい、何だい? アタイ抜きでパーティかい? あんまりそんなところで『たむろ』されると、ご近所さんに迷惑だよ」いろんな意味で彼女は気まずそうだ。
「あらごめんなさい。あまりにも絶好の機会だったから、つい皆さんに挨拶したいと思って長居しすぎちゃったわ」ソユルママはそう言ったが、まだ来て3分ほどしか経っていない。「でもキアラさんにも会えてよかった。いつもソユルと仲良くしてくれてありがとう。これ、行きつけのベイカーで買ったクッキーなんだけど、今日よかったら皆さんで召し上がって――」彼女は手に持っていた袋をキアラへと差し出す。
「お、お気遣いどうも」それを受け取ったキアラは、苦笑した表情とは裏腹に、内々で少し胸躍っていた。実は彼女、甘いお菓子が大好きなのだ。意外と乙女なキアラちゃん……。
「さて、来た目的は達せたので、私はそろそろ失礼しますね」そう言って車まで戻っていくソユルママ。「皆さん、バンド活動楽しんでねぇ~」手を振る彼女に対し、みんなも「さようなら~」と手を振り返した。やがて静かに黄色いルノーが走り去っていく。それを見たソフィーパパも、お暇時を悟ったように手を叩き合わせる。
「それじゃあ私も帰るとするよ。あっ、キーボードだけ運んでおくね――」すぐさま軽快な足取りで、玄関までを往復してきた彼は、「みんなまたね」と群衆に別れを告げ、そのまま愛車で去っていくかと思われた。しかし去り際、彼はしゃがみ込んで、愛娘へと何やら要求する仕草をする。「さっ、私のプリンセス。お別れのキスをちょーだいっ!」
ドキンッ! 恐らく彼の言うキスとは頬っぺたにする挨拶のキスなのだろうが、『キス』と聞いたエリスとキアラは、あの日の放課後の出来事を思い出さずにはいられなかった。互いの間に斥力が働くがごとく、二人は微妙な距離を保ったまま、顔も背けたままだ。
「どさくさに紛れて何ですの!? 普段そんなことしてませんわ!」二人の事情など知る由もないソフィーは、この場で一番恥ずかしい思いをしているのは自分だと、信じて疑わなかった。ちなみに彼女の言い分は真実であるのだが、かつて――10歳ごろまで――は言われるままキスしていたのも、また事実だった。
「またまたぁ~。そんな嘘ばっかり~」ソフィパ(この際略したる)は是が非でもキスが欲しいようだ。「あっ、みんなの前だから照れてるのかい? もう、おませさんだな~ソフィーは~」ようやく彼の素顔を知ったソユルは、『本当に人は見かけによらないな』と思いながらも、興味深々でソフィーの反応をうかがっている。
「お父様!? つ、通報しますわよ……?」容赦なくスマホを構える彼女。当然照れ隠しではあるのだが、傍から見れば充分信憑性に足る脅しだった。
「ひどいっ! 愛娘からキスの一つもして貰えないなんて!」いじけてしまうソフィパ。「ふんだっ! だったらエリスきゅんにしてもらうもんね! さぁおいでエリスきゅんっ!」もう彼は通報されたがっているように見える。これは言うなれば『社会的身投げ』である。しかし当のエリスは何やらボーッとしていたようで、今のセリフが聞こえていなかったようである。「あれっ? おーいっ、エリスきゅん?」
「あっ、えっと、はい、何ですか?」やっと応答する彼。まだ心ここにあらずといった様子だ。
「だからね? お別れのキースッ!」懲りずに身投げを繰り返すソフィパ。ソフィーはスマホの電話アプリを開き、『1、1、7』とダイヤルして(117はスイス警察の番号)、『通話ボタン』に指を掛けて最終警告しようとした。そのとき――。
「あっ、はい。キスですねキス――」呆然と彼がソフィパの方へと歩み寄っていく。へっ? 噓でしょ? ま、まさか……。全員が呆気に取られて何もできないなか、彼はソフィパの前まで来て、その頬に口を近づけていく。実はエリス、いつまでもキスごときでウジウジ悩んでいる自分が嫌で、この際誰とでもやってみて、慣れてしまおうと考えたのある(何という暴挙)。
唇と頬が触れ合う寸前、我に返ったエリスはとっさに顔を背けて、そのままソフィパにムギュッと抱きついてしまう。そして震えながら、「ご、ごめんなさい……やっぱりできませんでした……」と囁くのだった。
当のソフィパはエリスの頭を撫でながら、「いいんだよ。こちらこそ、オジサンのワガママに付き合わせてしまってごめんね? キスは特別なものだから、特別な人とすればいいんだよ」と慰める。彼としては、エリスが『えっ、キス? そ、それは恥ずかしいです』などと恥じらう姿が見れれば、それで満足だったのだが、この子の優しさが想定を超えていたせいで、こんな不本意な結果となってしまったのだ。ごめんエリスくん、大分無理させてしまったね――。彼は己の大人げなさと浅薄さを痛感していた。
「さっ、もう充分だよ。ありがとう」と言ってエリスを引き離した彼は、そのまま無言で車へと戻っていって、ドアを開けて運転席に乗り込もうとする。そのときソフィーが苦笑しながら悲報を伝える。
「お父様……ワタクシ、通報してしまいましたから……ごめんあそばせ?」西洋式テヘペロが炸裂。これには『賢者モード』中のパパもビックラ仰天する。
「何だって!? た、大変だ! すぐ逃げないとっ!(疚しさのある証拠)」パパはすぐさま車へと乗り込み、エンジンを始動させて走り去っていった。「逮捕されてなければ、また18時にね~」という捨て台詞を残して……。
「そ、ソフィー? ホントに警察の人を呼んじゃったの?」エリスが慌てて尋ねる。「お、お父さん、お別れのキスがしたかっただけなのに……」もし他人の子供にそれを求めたのなら、事件だと見做される世の中なんですよ、エリス。
「いいえ、『まだ』呼んではいませんわ」含みを持たせた言い方で、眉根を寄せるソフィー。彼女の持つスマホから、微かな音声が聞こえている。「もしもし? 大丈夫ですか? もしもし?」ようやくソフィーがスマホを耳に当てて、「もしもし。すみません、間違いでしたわ。ごめんあそばせ」と言って電話を切る。しっかり『通報』はしていた彼女だった。
「さすがソフィー! 脅しでも実父を投獄しようとするなんて! ヤンデレェ~」エミリーが笑って冷やかす。いや、おだてて本当に通報させようとしているのか? 彼女が言うとどっちにも聞こえる。
「当然ですわ。『ワタクシ』のエリスにちょっかい出したんですもの、少し懲らしめてあげないと……」冷酷な表情でスマホを仕舞うソフィー。彼女はまだエリスを自分の所有物と思っているようだ。そしてそれを聞いたキアラは、ますます居たたまれない気持ちになった。
そこでソユルが至極真っ当なことを言う。「あの、そろそろお家に入りませんか? 私ちょっと冷えてきました」それもそのはず今は11月初旬、午前9時半はもう肌寒い時期だった。
エリスの高校休日⑤ 気まずさの行方
キアラ家に入って、いつも通り楽器の準備を行った一同は、休憩がてらソユルママがくれたクッキーを食べながら、ソフィーが持ってきた紅茶を飲んでホッコリしていた。ただ、互いの存在に神経を擦り減らすエリスとキアラは(可哀そうに、まだ彼らは一度も目を合わせてなければ、口も効いていない)、クッキーも紅茶もほとんど味を感じることができずにいた。
「匂いますわね」紅茶をズズズと啜ったソフィーが切り出す。対してエミリーが「えっ? アタシ汗臭い? ごめん、秋だと油断してデオドラント忘れちゃった」と的外れな反応を見せるので、続けて彼女は論点をはっきりさせる。「そうではありませんわ! ワタクシが言っているのは、キアラとエリスの互いへの態度のことですわ! 二人ともヘンですわよ? 喧嘩でもしたんですの?」鋭い彼女にとっては、彼ら二人のギスギスした様子は、もはやあからさまだった。
「べ、別に何にもないよ――ホッ、ゴホッ!」バッド・ライヤー・エリス。嘘つく途中で、食べていたクッキーが気管に入って咽せ返る。「ゲホッ、ケホッケホッ……んっくっ……僕たち、いつも通り仲良しだよ?」いや嘘おっしゃい! 涙目で白々しいセリフを吐く彼に対し、ソフィーが心のなかでツッコんだ。
「でも言われてみると、二人とも今日はよそよそしいよね?」エミリーも『匂い』に気づいたようだ。ものすごい速度で核心に迫る。「まるで冷戦中の新婚夫婦みたい!」今度はキアラが紅茶に咽て、咳き込み始める。エリスも顔を真っ赤にしてティーカップの影に隠れてしまった。そんな彼らを見たエミリーは固まってしまう。「ありゃ? アタシまずっちゃった?」
「さぁおっしゃい……二人とも何があったんですの?」ソフィーが氷のように冷たい表情で催促する。彼女がヤンデレの『ヤン』を発動している間は、誰も彼女に逆らうことはできなかった。
「じ、実は僕たち――」エリスが秘密をぶっちゃけようとした瞬間、キアラが先行して別の秘密をぶっちゃける。
「アタイが悪いんだ! この前アタイ、お嬢に弱音吐いて、八つ当たりして、バンドやめるみたいなこと言っちまって……」小を殺して大を生かすことにした彼女。もっとも『小』とは言えない犠牲だったが……。「そんときは説得されて思い直したんだけど、たぶんお嬢、そのことをまだ根に持ってるんだと思う……」
「要するに、喧嘩したんですわね?」ソフィーが再度確認する。しかしまだ理由が腑に落ちていなかった。喧嘩? それでどうしてエリスは赤面するんですの――。
「あぁそういうこったい――」ティーカップを床に置いてから、キアラが椅子から立ち上がる。「なぁ悪いんだけど、ちょいとお嬢と二人きりで話してきてもいいかい? アタイらちゃんと仲直りするからさ」
「えぇ、まぁそういうことでしたら、どうぞ行ってきてくださいな」ソフィーがティーカップを回収しながら応える。
「そういうわけで、お嬢、ちょっと一緒に来てくんね?」キアラがエリスに軽く手招きすると、彼も「う、うん……」と立ち上がる。二人が退室して、足音が遠退くと、今度はソフィーたち三人も立ち上がって、コソコソと後に付いていく。
ソフィー『ワタクシは騙されませんわ! 絶対何か別の事情があるはずですの!』
エミリー『ちゃんと仲直りできるかな?』
ソユル『何か面白そうだから、追ってみよう』
三者三様の動機で忍ぶ忍者たち。
*
バンド練習部屋から少し離れた場所にあるキアラの自室。キアラの導きでそこに入ったエリスは、続いてベッドに腰かけるよう示されたので、それに従った。一方キアラは、机の方から椅子を引っ張ってきて、彼の目の前に置いてそこに座る。今ようやく二人の目が合っていたが、緊張感は拭えなかった。
「ま、参ったね……何て言えばいいのか……」心中で台本を練るように頭を掻くキアラ。そして彼女は意を決したように深呼吸して、話し始める。「お嬢、この前は『変なこと』してごめんよ。アタイ、半分無意識で、身体が勝手に動いちまったっていうか……ともかく、ごめん!」申し訳なさそうに顔を伏せる彼女。
「う、うん……分かったよ」エリスが辛そうに笑う。彼自身、彼女とのわだかまりはすぐにでも解消して、また元の友達に戻りたいと思っていた。でも何か、感じたことのない違和感みたいなものがそれを邪魔して、心が付いていっていないような感覚だった。「無意識だったなら、仕方ないよ。さっ、僕はもう大丈夫だから、みんなのところに戻ろ――」素っ気なく立ち上がろうとするエリス。
「ち、違うんだお嬢、聞いてくれ――」キアラが彼の両肩を掴んで、それを阻止する。「そ、それが……半分は本気なんだ。だから自分でも戸惑ってる」辛そうなのは彼女も同じだった。辛くて苦しくて仕方がない……だから秘めた思いを彼にぶつけるしかなかったのだ。「後になって気づいたんだ。どうやらアタイ、お嬢に恋しちゃってるみたいなんだ――チクショウ……今だってあんたのこと、押し倒してしまいたいって衝動に駆られてる……」涙が溢れてくる。自分が醜いケダモノのように思えてくる。「すまねぇお嬢……こんなアタイ……幻滅したよな……」
「幻滅なんかしないよ」エリスが優しく微笑む。彼自身、自分が何を求めていて、これからどうすべきなのか答えが出てなかったが、彼女が恋心を告白してくれて、あのキスが単なるスキンシップじゃなかったと分かった以上、その気持ちには真摯に応えなければいけないと思った。「僕も君のこと好きだよ。だからそう言ってくれてすごく嬉しい」
「だったらあ――」
「――でもごめん。君の気持ちには、応えられない」きっぱりと主張する彼。フラれた彼女よりも言った本人の方が苦しそうだ。「さっき、ソフィーのお父さんにキスしようとしたとき思い出したんだけど、今年の夏、サマースクールで出会った『ある人』とこう約束したんだ。『誰かに易々と身体を差し出したりしない』って」テムバと交わした約束。それはしっかりとエリスの心身に流れていた。優しすぎる彼にとって、あの約束は紛れもなく『ストッパー』の役割を担っていた。しかし同時に、それは『呪い』でもあった。
つまり彼は常に、『易々と』とはどの範囲を示すのかを、自分自身で判断しなければいけない呪いに掛かっているに等しいということである。これでは仮にもし、エリス自身にも相手への強い好意があったとしても、『易々と』が成立する以上は肉体的接触全般が憚られるわけである。
また真実を言えば、彼の『本質』は何も変わっていなかった。いつだって周りの人を幸せにできるなら、ぜひそうしたいと思っていた。だがそのための大きな武器を一つ取り上げられているからこそ辛かったのだ。恋愛にまつわることは、誰彼構わず分け与えることができない。誰かを立てれば、誰かが立たなくなるのだ。
よって先ほどの違和感の正体は、すなわち『認知的不協和』である。彼女の求めていることが何となく分かっていたからこそ、その期待に応えられないことも、もう元の友達に戻れないことも、大切な相手を傷つけなければならないことも分かっていた。だから怖かったのだ、苦しかったのだ。
「だから……僕、君とキスしたり、セックスしたりはで……できないんだ。本当に、ごめん――」エリスの目にも大粒の涙が零れる。彼を襲うプレッシャーが甚大になりすぎたのだろう、突然彼は呼吸が苦しくなり、気分も悪くなり始めた。「僕は――ハァ、ハァ――恋って気持ちがよく分からない――ハァッ――みんなのことが好きで、大切だから――ッハァッ――」みんなの幸せを願う彼にとって、そうできないという認知的不協和はあまりにも不快で、ついに限界が来てしまった。彼の不満が爆発する。
「誰かを特別にしちゃうと、誰かを蔑ろにしちゃうんだ! そんなの嫌だぁ! だったら僕は恋なんかしない! 恋なんか苦しいだけだ!」歯止めが利かなくなる感情。抑えきれない怒りと悲しみ。「僕はみんなとこれまで通りでいたい! 変わっちゃうのは嫌だ! もし恋することが心の成長で、大人になることだって言うんなら、僕は子供のままでいい!」
「お嬢――」キアラがエリスを抱きしめる。そして耳元で好きな人の泣き声を聞きながら、懸命にその背中を摩った。「アタイが悪かったっ……ごめんっ……ごめんよお嬢ぉ……」無限の包容力などない。無限の寛大さなどない。そう分かっているはずなのに、つい人々は彼に多くを求めすぎてしまう。そして今、ここで限界を迎えてしまった彼の姿が、むしろ自分がいかに大切に思われているかの表れでもあって、彼女は悲しくも温かい気持ちに包まれていた。「交際なんかしなくていい! キスもセックスもしなくていいんだ! 大丈夫、アタイら今まで通り、親友のままでいられるさ! だからもういいんだよ、お嬢……」
「ほ、ほんとう……?」しゃくり上げながらも、少しずつ落ち着きを取り戻していくエリス。二人の体格はそう違わないのに、腕のなかにいる彼が酷く小さく、脆く思えるキアラだった。「でもそれじゃあ、君が苦しいんじゃ――」
「苦しめたっていいさ! こんな身の程知らずで貪欲な奴なんか」少しでも自己犠牲の精神を引き継ぐ彼女。もはや自分のせいで彼が泣いていることの方が、耐え難い苦しみだった。「知ってるかいお嬢? アタイもみんなも、その何十倍もあんたに癒してもらってるんだよ? だからあんたは、もっと自分を大切にすればいいのさ。あんたが夏に言われたっていう『さっきの言葉』だって、ホントはそういう意味だったんじゃないのかい?」
そ、そうだった……確かに、テムバもそういってくれたんだ。僕に『自分を大切にしてほしい』って……それが一番の願いだって……なのに僕、忘れちゃってた――ううん、きちんと理解できてなかったんだ……。思い出させてくれて、ありがとうキアラ。そしてテムバも、ありがとう……もう君の言葉の意味、忘れたりしないよ――。
「分かった……ならもう一度言うね――」キアラのことを突き放した彼は、涙を流したまま穏やかな笑顔を浮かべて、こう断言する。「僕は君に恋してないんだ。だから恋人にはなれない。それでもまだ親友でいてくれる?」
対して涙を拭ったキアラは、同じように穏やかな泣き笑いを浮かべて、「あいよっ」と返事するのだった。これでひとまず、二人のわだかまりに決着は着いた。彼らの言葉がどこまで真実なのか、またどこまで真実のままであり続けられるのか、それは誰も分からない。きっとこれから彼らが歩む物語だけが、その答えを知っているのだろう……。願わくば、生きとし生けるもの皆に幸あらんことを。
廊下に立ち尽くし、無言で聞き耳を立てている三人組。ふと一人が立ち去り、冷徹な表情でこう囁く。「今日のところはどうにか、血を見ずに済みましたわね……」当然、声の主はソフィー。他二人も肝を冷やした様子で、彼女に付いてそこを離脱する。こ、こわー! エミリーとソユルは、頼むからバンド内で流血沙汰の戦争は起きないでくれ~っと願っていた。彼女らの危惧などどこ吹く風、ソフィーはまたしても闇の感情を芽生えさせようとしていた。
キアラ……意外ね、あなたが恋敵になるなんて。悪いことは言わないわ、大人しく身を引いておきなさい……でないとワタクシ、容赦なくあなたを抹殺しますわよ――。
第二十三章 – 青春時代② 高校生活 Ep.11:さよなら、僕の恋
エリスの高校休日⑥ 誕生!ソフィー猫!
ガチャリと扉が開き、キアラとエリスがバンド練習部屋に戻ってきた。「すまないね、待たせちまって」静かに謝罪して持ち場に戻るキアラに対し、無言のまま悲し気な顔で床に座るエリス。二人は明らかに泣き腫らした目をしていたし、この悲壮感漂う空気のなか、エミリーたち三人もどう彼らに接すればいいのか分からずにいた。
せめて彼らがもう少し『取り繕う』素振りでもしてくれれば、こちらとしても『んもー、遅いよー。二人とも仲直りできたのー?』からの、『全くですわ。あいにくですがもう、お紅茶もお菓子もなくなってしまいましたわよ?』からの、『お腹も満たされたことなので、さっそくエリスさん作の歌、聴かせてください! アレンジ考えるの楽しみです!』となって、すんなり本題に入ることができるのだが、あの二人の様子からは、まだ心の整理がついていないことが明瞭にうかがえるのだ。
数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのはエリスだった。「ごめんね、うるさくしちゃって……」無理して気丈に振舞っているのが丸分かりなほど、か弱い微笑を浮かべる彼。「えっと……僕の声、聞こえちゃってた……よね?」
「えぇ聞こえてましたわ」答えたのはソフィーだった。端から全面戦争がお望みの彼女としては、彼らの態度はむしろ好都合とも言えた。見てなさい、ワタクシがこんな中途半端な空気、一瞬で破壊してあげますわ――。「エリス、あなた『恋は苦しいだけだから、もうしない』んですって?」ビクッと怯えた表情を浮かべる彼。「当然ですわよね? ワタクシの『プロポーズ』まで断ったのだから……誰彼構わず『浮気』されたんじゃ堪ったものじゃありませんわ」
「は、はい……」理不尽な物言いをされているにもかかわらず、何も言い返さない彼。「安心してソフィー。僕は誰とも恋愛したりしないから」
「よろしい」ひとまず、抜き取った剣を鞘に納める彼女。「それで? 結局のところ経緯はどうなんですの? ワタクシ、憶測で物を言いたくありませんから、はっきり教えてくださいまし」
「アタイが先日、お嬢にキスしちまったのさ」やむを得ず、これまでの経緯を説明するキアラ。「そんでさっき、アタイが告白してフラれた。ただそれだけのことさ」彼女としては、ソフィーがエリスを好いているのは知っていたが、まさかこの自由恋愛の世において、ここまで部外者に過剰反応されるとは想定していなかった。それにしてもお嬢、彼女のプロポーズを断ったって? チクショウ……それじゃアタイとどうこうなれるはずもなかったわけだ――。「なぁもういいかい? アタイのこともお嬢のことも、今はそっとしておいてくんない?」
「なるほどね。事情は分かりましたわ」ここでソフィーは、最後の審判を下そうとする。つまり目の前にいるこの女を、脅威として切り捨てるべきかどうかの審判である。「それでキアラ。あなたは『あっけなく』フラれたわけだけど、納得して彼のことを『諦める』んですのね?」さぁ答えなさいな。ワタクシには本心は隠せませんわよ――。
「それ以外どんな選択肢があるってんだい?」キアラのなかで燻っていた感情が、ソフィーの煽りを受けて、メラメラという業火へと変わろうとしていた。「だいたいあんただって、フラれた側の人間じゃないかい? 何を偉そうにお嬢の恋愛事情に口出ししてのさ……未練タラタラなのはあんたの方じゃんよ」いつの時代もヤンデレが絡む三角関係など、泥沼一直線と相場が決まっているのだ。もう知んないよソフィー。あんたがそのつもりなら、一発交えてやんよ。その凍てついた闇、アタイの炎で焼き尽くしてやる――。
「い、言いましたわね?」はい死刑! 死刑決定ですわ、この女ぁ――。「ワタクシは何も『フラれた』わけではありませんわ! ただ彼に『まだ15歳という若さだから、結婚は考えられない』と言われただけですわ!」
キアラ「同じことじゃんよ!」
ソフィー「全く違いますわっ!」
「はいストーップ、ストーップ」女同士の喧嘩が白熱し始めたのもつかの間、このままではルール無用・情け無用(No Mercy)の戦争へと発展しかねないとして、中立だったエミリーが仲裁人を買って出た。「こりゃ『待て(Ma-te)』だよ待て」と、彼女としては空手の審判気分だったが……。「話を聞く限りだと……うんっ! 悪いのはズバリ、ソフィーだな!」朗らかに笑う審判が、的確なジャッジを下す。
「な、何ですって!?」不服を申し立てるソフィー選手。しかしこの剛腕の審判に歯向かえば、己の立場が危うくなるだけだった。「どこがいけないって言うんですの!?」
「だって『ヤンでる』から」はいっ『ヤン』入りましたヤンッ! って……それって反則への警告か何かですか?「普通恋してる人って、好きな相手のことを思って行動して、自分も少しずつ相手に好かれようと努力するはずなのに、ソフィーは全然違う――まるで最初から自分が主導権を握っているような、自分が『ご主人様』かのような態度してるけど、実際はただエリスの優しさに甘えて、彼を束縛して傷つけてるだけだもん」
「なっ……なっ……」ぐうの音も出ないとはこのことだ(『なの音』は出てるけどなのね)。
「嘘だと思うなら聞いてみな?」審判が畳みかける。「エリスが本当はソフィーのこと、どう思ってるかって」さぁて、お膳立てはこれくらいかな? あとはビシッと言ってやんなよエリス……彼女がいかに『ナッツ令嬢』かってことを――。
「え、エリス……ワタクシのこと、好き……ですわよね?」プルプルと震えながら真相を知ろうとするソフィー。前回彼と衝突したときに、プロポーズが失敗してもなお彼女が引き下がることができたのは、ひとえに彼との関係が進展して嬉しかったからではあるが、それで勝手に『恋人に限りなく近い関係』だと思い込んで、自分を騙して安心させていたことも事実だった――そう、彼女だって婚約が玉砕した時点で、恋人としての告白も拒否されたことは分かっていたのだ。
それでも彼の『もう少しだけ、僕と一緒に学校生活を楽しまない?』という言葉が、彼女に一抹の期待を植え付けてしまったのである――つまり彼女は、心地よい『可能性のなか』に留まることで、これまで内なる闇が暴れ出すのを抑え込んでいたのだ。それが今回、キアラとの色恋沙汰を目の当たりにすることで、彼女のなかにあった『嫉妬』という闇が再び目覚めてしまったのである。ねぇエリス……ワタクシは間違っているんですの? あなたを手放したくないって思うこの気持ち……迷惑なんですの? 答えて――。
「ぼ、僕は……」答えにくそうに口を開くエリス。彼としては、ただ自分が我慢するだけで事が平穏に済むなら、それで一向に構わない思っていたが、エミリーが何のためにこの機会をくれたのかも分かっていたので、今こそ真実を伝えないとと思った。「君のことは大好きだよ、ソフィー。君の素敵なところ、たくさん知ってるから」いつも通りの優しい言葉が返ってきてもなお、彼女は肩を撫でおろすことなどできなかった。この後で『でも……』と続くことが、彼の表情から予期できたからである。
「でもね――」案の定の接続詞が返ってきたが、それから先がなかなか聞こえてこない。彼が葛藤しているのが分かった――胸を押さえて、苦しそうに呼吸を繰り返すエリス。そして三度目の深呼吸の後、彼は勇気を振り絞ってこう続けた。「友達に酷いこと言ったり、僕に命令したりしてくる君は……嫌いだよ」このとき彼は、生まれて初めて自分以外の誰かに対して『嫌い』なんて言葉を使った。言った本人が一番辛そうだが、言われた側の衝撃も相当だった。
『嫌いだよ』ソフィーのなかで、今しがた言われたその言葉が木霊する。き、嫌い……わ、ワタクシ……エリスに――この世界一優しい男の子に――嫌われて、これからどうやって生きていけって言うんですの……。絶望したように呆然と、窓辺まで歩いていくソフィー。己の不甲斐なさを痛感しながら、窓の外に広がる景色を眺めると、自然と涙がツーっと流れてきた。「どうやらワタクシ、一度生まれ変わらないといけないみたいですわね……」
ま、まさか……早まるなソフィー! エミリーが危機を察知して、傷ついた彼女が『愚行』に走るのではと、身体を強張らせた瞬間だった。彼女はエミリーの危惧をさらに上回るほどの、常軌を逸した行動をとった――。
「ゴロニャーンですわー!(Mrrr miaaou, mon chéri~!)」突如ソフィーは、甘ったるい声を上げてエリスの膝上へとダイブして、そのまま身体を丸めてニャンニャンし始めた。そ、ソフィーが壊れたぁぁぁぁぁぁぁ! その場にいた誰もが彼女の暴挙の意味が分からず、呆気に取られていた。「ゴロゴロ、ニャーンですわー!(Ronron miaaou, mon doux~!)」性懲りもなく甘え続けるソフィー猫。
実は彼女、いじけて窓に近づいているとき、こんなことを考えていた。『愛されたい。ワタクシはただ愛されたいんですの……』そんな折、窓辺の景色が目に飛び込んでくる――とりわけ、一階のガレージの屋根瓦の上で昼寝する、キアラ家のデブ猫の姿が目に留まった。『あぁ……いいですわね、猫は……自由気ままに生きているだけなのに、みんなから愛されて……いっそ、ワタクシも猫に生まれたかったですわ……』
そんな、たわいない仮定法過去完了的願望。だが妄想だけで終わらないのが、彼女の逞しいところだった。『そうですわ! だったら猫になればいいんですの! そう、ワタクシは猫っ! ネコですのー!』そんなわけで彼女は、猫に生まれ変わることにしましたとさ(暴論)。
「にゃんにゃんニャン♡ ネコですわよ~? これからはあなたがご主人様ですわよ~? さぁさぁ愛してくださいまし~♪」エリスの膝に顔や髪をスリスリと擦り付けるソフィー(な、生脚っ! 気持ち良すぎですわぁ!)。自分が今トチ狂った行為に及んでいる自覚は重々あった彼女だったので、怖くて彼の顔までは見られなかった。このうえもし拒絶でもされたらワタクシ……えぇい、知ったもんですか! 猫っ! ネコですわよ根古! 根子ぉぉぉぅん! 誰だって音子が好きですわよねぇぇぇ!? 彼女はますますニャンニャンした。
これには、ずっと傍観を決め込もうとしていたソユルでさえも、思わず吹き出してしまう。「プフフッ――」だ、ダメだ……あのプライドの塊みたいなソフィーが、猫になりきって甘えてるなんて、面白すぎる――。「ソフィーさん……イカれすぎ……」猫になれば甘えたい放題、セクハラし放題なのは確かだ。しかし実際にやろうだなんて、その考え方がぶっ飛んでいる。
そして彼女の爆笑に釣られて、エミリーも馬鹿笑いし始めてしまった。「き、キアラ家にデブ猫が一匹増えた~! 巨大すぎて頭しか膝に乗っからない! キャハハッ」
「し、失礼ですわね! まるでワタクシが太ってるみたいな言い草――」ついつい人間に戻ってしまう元ソフィー猫。猫は九つの命を持っていると言うが、何ともまぁ短い一生だった。「あっ――ニャーンッ!」すぐさま彼女が気づいて、二度目の猫生を謳歌し始めた矢先、ご主人様の温かな手が頭を撫でる。
「もう、ソフィーったらぁ……」ご主人様に名前を呼ばれ、恐る恐る顔色をうかがう二代目ソフィー猫は、彼が涙を浮かべながら穏やかに笑っているのを間近で見て、胸がキューンっと締め付けられた。せ、成功ですの? ニャンニャン作戦成功ですの? そう楽観する彼女だったが、そうは問屋が卸さなかった。「猫になってる君は可愛いけどね? まずはキアラに謝ってもらってもいい?」猫でもイタズラすれば叱られるのだ。「それに、今度ニコにも……前に酷いこと、言ったよね?」
「は、はいですわ……」耳を折りたたむように肩を竦めるソフィー猫。彼女はゆっくり二本足で立ち上がり、二度目の猫生とも別れを告げる。もう何もかもワタクシの負けですの……恋愛なんて所詮、好きになってしまった方、愛に飢えている方が負けなんですもの……。けれど、もし本当に生まれ変わるチャンスがあるのなら、ワタクシだって変わりたい――。
「ごめんなさい、キアラ。先ほどは突っかかったりしてしまって……ワタクシ、二人の事情に口を挟める資格ありませんでしたのに……」彼女としてはこれが、誠心誠意の謝罪だった。しかしこれだけで終わっておけばよかったものを、全面降伏して安心したのか、彼女の腹が情けない声を上げるのだ。「グゥ~」さっきクッキーを食べたとは言え、もう時刻はお昼時だったので、彼女の貪欲な身体は正直に『ニャーン』と鳴いたのである。
「えっと……」恥を何層にも上塗りしている彼女に対し、キアラは掛けるべき言葉が見つからない。やっと出てきた労いの言葉がこれだった。「とりあえず、キャットフードでも持ってこようか?」
「け、結構ですわぁー!」
恥辱に顔を染めた彼女の絶叫で、この『恋のからさわぎ』は収束した。文字通り『空騒ぎ』で、特に何の教訓もなければ、進展もない……唯一の変化は、愛し方も愛され方も知らなかった一人の少女が、猫という新たな生き方を見出したことくらいだ。みんなも彼女のようになりたくなければ、潔く真っ当な恋愛をして、決して相手を束縛したり、恋敵に突っかかったりしたダメだよ? 以上!
エリスの高校休日⑦ 完成!これが僕らのデビュー曲!
どんな魔法が作用したのかは定かでないが、あれからヴァルキュリア一同は昼食を摂って、和やかな雰囲気を取り戻していた。『どうやって気持ちを切り替えた……』と思うかもしれないが、それは私にも分からない……(ダメじゃんっ!)。ま、まぁ空腹は人を苛立たせるので、お腹さえ膨れれば戦意も気まずさも和らぐのだろう……(ちなみにエリスはソフィーから貰ったお詫びのサンドイッチを食べた)。
そしていよいよ、午後からは本題の『アレンジ制作作業』を始めるとなったところで、それに先駆けてさっそくエリスは、自作曲『Every Life! Let It Shine!』を紹介すべく、エミリーらに楽譜を渡して、イメージが分かりやすいよう実際にアカペラで歌って聴かせた(いろいろあったので、彼女らには曲の存在以外まだ知らせていなかった)。
最後まで歌い終わり、「ど、どうかな?」と感想を求める彼。内心『ダメ出しされるかな?』と心配していた彼だったが、どうやらそれは杞憂だったようだ――いの一番に褒めてくれたのはソユルだった。「すごく素敵な歌だと思います。歌詞からもメロディーからも、エリスさんの優しさが伝わってきました」
すると続けてエミリーも、「うん! サビとか超エリスっぽい! アタシ、ラスサビのところ感動しちゃった!」と言ってくれる。もう彼は天にも昇る気分だった。「ありがとう、二人とも……」彼の頑張りが確かに報われた瞬間だった。
「わ、ワタクシも好きですわっ! 特にBメロのところの歌詞!」ソフィーも負けじと褒めていく。本来こんなふうに媚びる性分ではない彼女だったが、ネコ化したことで飼い主からの寵愛が欲しくて堪らない様子だ。「『I am reflecting on the meaning of love』とか『I am relearning what it means to love』とか、もしかして『ワタクシのこと』を想って書いてくれたんですの?」今や彼女は、『ナッツ令嬢』から『ガム噛み格闘少女』に変容を遂げていた。自信家だね? ま、自信は成功のカギだ。
「そうだね、半分は君たちのことを想って書いたよ」正直に答えるエリス。「実はもう半分はね、サマースクールで出会った友達のことなんだ。みんな、僕を成長させてくれた大切な人たちだから……」ふと遠く異国にいるテムバやカイトたちに思いを馳せる彼。もし曲が形になったら、彼らにも聴いてもらいたいな、と思った。
「ふ、ふーん、ですの」明らかに不服そうなソフィーは、またしても暴れ出しそうな嫉妬心に全力で猫を被せていた。いったい誰ですのその馬の骨たちは! ワタクシのエリスをたぶらかして、絶対に許せ――にゃい! 彼女が本物の自信を手に入れられる日が来ることを願う……。
「あっ、でもここっ! ここの部分――」エリスがラスサビの『You know how strong you are』という歌詞を指さす。「ここはソフィーのことを想いながら書いたよ? さっきも言ったけど僕、君の素敵なところいっぱい知ってるからね? だから君も自分の良いところ、忘れないでね?」本当は特に彼女を想って書いたわけではなかったのだが、エリスも彼女に足りないのは自信だと思ったのだろう、気遣いのお返しをしたのである。
「エリス……ありがとうですの……」少しだけ、幼いころの純粋な自分に立ち戻ることができたソフィーだった。
*
それから満を持して、曲のアレンジに取り掛かり始めた彼ら。とは言え大枠はキアラが考えてくれていたので、あとは各々が『こうしたい!』という意見を出し合って、それを取り入れては全員で合わせて演奏してみて、気に食わなければまた修正して~を繰り返す、ブラッシュアップ作業をするだけだった。
作業開始から間もなく、以下のような要素が固まった。
・キー(調)はD#メジャー(エリスが創ったまま。平行調はCマイナー)
・基本BPMは100、Bメロのみ130にテンポチェンジ
・盛り上がりどころでは16分3連符を基調にして疾走
・メリハリを付けるためにブレイク(演奏休止)を多用
・歌唱パートではベースとバッキングギターでコードを、キーボードで対旋律やアルペジオを演奏(それほど凝ったことはしない)
・煌びやかにするために、ドラムはシンバル多めで
エリスは自分が創った歌に、バック音楽が加わっていくのがすごく新鮮で、ずっとワクワクしながら幸せな時間を過ごしていた。仲間の力が合わさって、徐々に完成度を高めていく楽曲を味わいながら、彼は心の底から、このメンバーでバンドを組めたことに感謝していた。
特にソフィーの力量には改めて驚かされる――彼女はキーボードの左手部分にピアノの高音部を、右手部分にストリングスやブラス、ウッドウィンドの音をアサインして、同時にアルペジオと対旋律を演奏してしまうのだ。前回のカヴァー曲のときと言い、ヴァルキュリアが『シンフォニック』足り得るのは彼女のおかげである。
そうして大体のアレンジが決まったところで、一番の悩みどころである『間奏』に取り掛かり始める彼ら。キアラの提案で導入部はGマイナーへと一時的に転調し、またすぐにCマイナーに戻ることが決まり、最初のギターソロもキアラが担当することになった。32分3連符を連続させる速弾きを主軸にしつつ、時折ロングトーンでヴィブラートを掛けたり、スイープ奏法を使ったりした。彼女のパフォーマンスもまた圧巻である。
そして間奏パート2としてF#メジャーへのさらなる転調を行い、ソユルがソロを引き継ぐことになった。音階的に繋がった一つのメロディーを、あえて二人で分担してシームレスに交代することによって、バトンを次に繋ぐような効果を狙う。マイナーからメジャーへの転調は、ありきたりでありつつも、その爽快感は格別である。
間奏パート2の後半では、二人のギターがハモるようにして、クライマックスへ向けての高揚を演出していく。最後はEメジャー→Gメジャーへと転調して、またラスサビのD#メジャーへと戻ってくるという構成に決まった。こうして全てのアレンジが出揃ったところで、予定解散時刻18時間近だったので、彼らは最後に全体を通しで演奏してみることにした。エミリーがスティック・カウントを6拍打つ――。
*
全ての演奏を終えた彼らは、自ずと笑顔になっていた。これまでとはまた別の達成感があった。完成だ……これが僕らの――。
「っしゃー完成だ! これがヴァルキュリア初のオリジナル曲、アタイらのデビュー曲だぜー!」キアラがギターピックを天井に放り投げ、喜びのガッツポーズをする。他のメンバーも各々の方法で喜びを表現してから――グリッサンドとかタッピングとか、とにかくめちゃくちゃに演奏してから――、拳を突き上げて「やったー!(やりましたね!)(やりましたわー!)」と叫んだ。
エリスの高校休日⑧ さよなら、僕の恋
それから帰り支度を済ませたエリスたちは、楽しく談笑しながら家の前まで出ていって(11月初旬は日の入りが17時ほどなので、すでに外は暗い)、そこでもしばらく談笑していたのだが、やがてソユルの母親が迎えにきたところで彼女と別れ、追ってソフィーの父親が来たところで彼女とも別れることになった(当然だが、ソフィパは逮捕を免れたようだ)。これで完全に解散だ言ったところで、エミリーも自転車に跨って「じゃ! またね二人とも!」と別れを告げる。
「うん! また来週!」手を振って彼女を見送ったエリス。彼がこの期に及んでまだ帰路に就いていないのは、最後にどうしても二人きりで、もう一度キアラと話したかったからだ。彼女も薄々それに気づいているようで、二人とも内心ドキドキしながらも、何気ない態度を装っていた。
「あー、お嬢? まだ帰んないのかい?」緊張したように頬を掻くキアラ。
「う、うん……ちょっとだけ、最後に君と話したくって……」風で靡く髪の毛を押さえながら、目を伏せるエリス。「僕の歌に素敵なアレンジを付けてくれて、ありがとう」
「何言ってんのさ、お礼を言うのはアタイの方だよ。あんたのおかげで、ここまで来れたんだ」
「それでも、ありがとう」
「そ、そうかい?」参ったな……お嬢の様子おかしいぞ? もしや、まだアタイをフッたことで責任感じてたりすんのかい? 頼むから気に病まないでおくれやお嬢――。「そう言えば、アタイも曲書き始めたよ! 見てろよお嬢? きっとアタイらしい、バリバリのメタルチューンに――ふあむっ」
家明かりと街頭に照らされた若い二人の男女が、晩秋の夜空の下で接吻を交わしている。女の子の方は、それが夢か現か分からないような表情で、好きな男の子が自分の唇をハムハムと甘噛みしてくる感触に、成すすべなく屈服していた。やがてそれが現だと悟った女の子は、彼のことを突っぱねては、声を押し殺して絶叫するのだ。「ななななななな何してんのさお嬢ぉぉぉぉぉぉ!」
「キス……だよ。お別れのキス」街灯を背にして陰に隠れる男の子の顔からは、表情を読むことはできない。だがその声に走っている震えが、彼の切ない気持ちをありありと伝えてくるのだ。
「バッカ! そんなんやめてくれや。また変な期待しちまうじゃんよ……」どういうつもりなんだいお嬢? あんた自分を大切にするんじゃなかったのかい? 恋しないんじゃなかったのかい? アタイに恋してないんじゃなかったのかい――。
「ごめん……でも最後に、どうしても伝えたかったんだ。『君からされたキス、嫌じゃなかったよ』って。それに『君のこと、本当は特別に思ってるよ』って……」
「お、お嬢……それって……」
「僕、噓つきの悪い子なんだ……恋する気持ちだって、本当は少しだけ知ってる……。それに『みんなのことが好き』って言ってるけど、その『好き』の大きさは一人一人違ってて、本当は『特別に好きな子』だっているんだ……」エリスにとって、『それが恋心』だと自覚したうえでの告白は、これが初めてだった。心臓がバクバクと暴れすぎて、胸が張り裂けそうだった。「でもやっぱり、恋は苦しいよ。『特別な子』が一人だけってわけじゃないから――ソフィーだってそう、僕の特別……だから彼女の気持ちを無下にして、君と『お付き合い』はできないんだ」
「分かってんよ、そんなこと……だったらなおのこと、何でキスなんかしたのさ!」
「だって嫌だったんだもん! こんな中途半端な気持ちのままお別れなんて!」エリスがキアラに抱きついて、二人の胸がピタッと重なる。互いに相手の鼓動を直に感じて、身体の熱が高まっていく。「ねぇキアラ……今日だけ……今だけはね……君が僕の『一番』だよ? 最後に、お互い『不意打ちじゃないキス』しよう?」
「お嬢っ! お嬢っ! お嬢ぉぉぉ!」二人の胸が潰れるくらい、強く彼を抱きしめるキアラ。チキショウ! こんなのってないぜ……両想いなのに結ばれないのかよ……いっそアンタが『優しくなければ』よかったのに……。けど……アタイが好きになっちまったのは、このお嬢なんだ――。
「『エリス』って呼んで?」彼が彼女の耳元で囁く。「今だけは僕、『お嬢』じゃないから」
「エリス……エリスゥ……」
「なぁに?」
「アンタは酷いやつだ! 最低なやつだ!」
「知ってる……ごめんね」
「それでも――」彼女が彼の身体を突き放し、目の前で抱き留める。夜目が利いてきたのか、今は互いの表情がはっきりと見える。「アンタのことが大好きなんだエリス! キスしてもいいかい?」
「僕も君が大好きだよ、キアラ」涙でクシャクシャになった笑顔。まさか想い人のそんな顔を二度も見る日が来るなんて……彼女は切なくも幸せな気持ちに包まれていた。「だから来て。キスしよ――チュッ」
艶めかしい口づけの音が、静かな夜の帳のなかに消えていく。二人の男女は何度も何度も、互いの唇を甘噛みして、吸って、唾液を交換する。ついには舌と舌が絡み合って、脳がトロけて、もうこれ以上は呼吸ができない、となったところで、長い長いキスが終わりを迎えた。荒く呼吸を繰り返す二人。
「そ、それじゃあね……」顔を背けたまま、自転車に跨るエリスは、そのまま「バイバイッ――」っとペダルを漕いで、走り去っていってしまう。残された女の子は、しばし呆然と立ち尽くしていたが、ハッと何かに気づき、自分のパンツの中に手を入れ、下着の状態を確認する――すると果然、パンティーはグチョグチョに濡れていた。彼女は恥じらいを覚えつつ、我が家の玄関へと歩いていき、扉を開ける寸前、振り返って遠くの夜空を眺めるのだった。
お嬢、今日はあんがとね。もしかしたらあんたもさ……今”下の方”が大惨事になってくれてたり、すんのかな?
火照った身体を冷ますため、寒空の下、必死に自転車を立ち漕ぎするエリス。目からは涙の雫が、彗星の尾のように散らばっていく。暗い畑道まで来たところで、ついに力尽きて、自転車を停めて両足を地面に付く彼は、ひとしきり声を上げて泣いた後、元来た道を振り返って、また自転車を漕ぎ始めた。さよなら、僕の恋――。
第二十四章 – 青春時代② 高校生活 Ep.12:激情の春祭りライヴ!(ヴァルキュリア・セレナード編 終)
エリスの高校生活⑪ 激情の春祭りライヴ!
時はビュンッと飛んで2041年4月20日(土)。その日ニヨン・モーザー学校では『春祭り(Fête de Printemps)』という、学校の宣伝を兼ねたオープンな学園祭が開かれていた。従来の春祭りは5月中旬の平日開催で、9年生(11~12歳)~ギムナジウム2年生(17~18歳)までの生徒が『視覚芸術』系の授業や課題で制作したプロジェクトを発表する『内部イベント(閉ざされたイベント)』だったのだが、2035年から一般住民の受け入れも認めた大規模なものへとシフトし、また地球温暖化の影響も鑑みて開催時期は4月に前倒しになったのだ。
開催時間は正午~午後6時までの6時間で、その間は生徒たちが主体となって展示の案内や模擬店の運営などを行って、ゲストたちをもてなしたりするのだ。さながら日本人が想像する『学園祭』である。このようなことが許可された理由はただただ、スイスが日本に負けず劣らず治安の良い国であることと、学校の運営側が地域社会への貢献とPRをさらに重視するようになったからだ。しかしながら、比較的『銃社会』であるスイスでこのような催しを開いたのは、やはり勇気ある決断だったと言えよう。
その日も例年と変わらず賑やかにイベントが進行するなか、校舎外に特設されたステージではたびたび生徒・教師たちによるパフォーマンスが行われては、その盛り上がりを高めていた。ダンスやロックバンドの演奏はもちろん、ある生徒たちはフェンシングの実演を行ったり、ある先生たちはウクレレやオカリナ(ダブルオカリナという音域が広い物)、カホン(ペルー発祥の木製箱型の打楽器)、エレクトリック・アップライト・ベースによるバンド演奏で、観客の耳に心地よいハーモニーを届けたりしていた。
現在、時刻は午後5時10分。少し日が傾いてきたかなという具合で(この時期の日の入り時刻は午後7時頃)、お祭りも終盤に差し掛かっていたときだった。特設ステージに大掛かりな機材が運ばれ始めて、また観客たちが集まってきていた。彼らの目当てはもちろん、我らがエリスたちのバンド『ヴァルキュリア・セレナード』のライヴ演奏だった。なんとヴァルキュリアは今回『大トリ』を務めることとなったのだ。
異様なほど興奮した面持ちでステージ前に集まる生徒たちを見ながら、保護者や地域住民たちは『これはいったいどうしたことか? まぁ最後の見世物なら見ていこうか』くらいの気持ちで、屋台で『おつまみ』を買っては彼らの後ろについた。ちょうど20分になったところで、ヴァルキュリアのメンバーたちがステージに上がって、歓声が上がる。「うおぉー! 待ってたぜヴァルキュリアァー!」「五人とも頑張ってねー!」
当然のことながら、彼らのことを初めてみたゲストたちはこう思う。『な、なんじゃこいつらー!!』理由はやはり彼らの服装なのだが、今回も各々が自由な格好でチグハグな集団を形成しているのかと思いきや、やや違った様相を呈している――何と、五人とも同じような『フード付きのマント』に身を包んでいるのだ。
着丈はおおよそ腰の辺りまでで、色はエリスが黄色(シックスみた――じゃなくて、ちょっとした悪夢に迷い込む少女みたい)、ソフィーが薄い水色(何となくエル――というかワイ――とにかく氷の国のお姫様みたい)、エミリーが茶色(オビ=ワ――主人公の師となるジェダイの騎士みたい)、ソユルが淡い緑色(巨人と戦う兵士たち、特にハン――巨人研究家のメガネ娘みたい)、そしてキアラが血のような赤色(ルビ――グリムを狩る薔薇のように可憐な少女みたい)になっている。全員がフードを被って顔を隠したまま、楽器の音出しやマイクテストを行っていく。
そこにさらに、黒いフード付きローブを纏った6、7人かの集団がゾロゾロと上がってくる。な、何なんだこの厳粛でものものしいステージは……今からここで『黒魔術の儀式』でも行われるのか? そう観客が思ったのもつかの間、とうとう儀式の準備整ったようで、『黄色い子』がライターに火を点け――じゃなくて親指を立てたのを合図として、司会者の男性(前回と同じ)が儀式さの欠片もないような調子でこうアナウンスする。
「オーラァイ! みんな盛り上がってるかーい?」観客がワーッと騒ぎ立てる。いや男児向けバトルホビー系アニメの大会司会者かあんたはっ! どうしてこうなったモーザー学校……。「いよいよ本日最後のパフォーマンス! 昨年鮮烈なデビューを飾った、我が校きっての本格派メタル・バンドによる演奏です! それでは拍手で迎えましょう、『ヴァルキュリア・セレナード』!」生徒たちが再度歓声を送るなか、演者たちはそれぞれのフードを脱いで、真剣な表情で演奏の構えに入ったり、笑顔で観客に手を振ったりした。内一人の黄色い子が挨拶する。
「皆さん、今日は来てくれてありがとうございます。毎年すごく盛り上がるこの春祭りが、楽しくて僕は大好きです。このお祭りは皆さんの努力や団結の結晶だと思います。だから今年度の春祭りで、その締めくくりを任せてもらえて、僕たちヴァルキュリア一同、大変嬉しく思っています」
ど、どういうバンドなのコレ……? 初見の人たちがヴァルキュリアの掴みどころのなさに困惑の表情を浮かべる。何やら小動物みたいな可愛すぎる子が堅苦しい前説を唱えてるが、その間他のメンバーは微動だにしていない――いや、あっちのドラムの子だけはニコニコしてスティックを回してるが……それにしてもあの赤いギターの子は何だ? あの子だけフード被ったままじゃないか!
「今回は『合唱同好会』の皆さんが、クワイアを引き受けてくれることになりました。本日演奏する曲では、全編に渡ってバックコーラスを担当してくれます――」エリスが後ろで横一列に広がる7人の黒装束の一団を手で示す。それはモーザー学校の生徒6人と先生1人とで構成された合唱団だった。内一番右手側にいる中年の朗らかな印象の女先生が、ニコやかに群衆へと手を振る。「それでは演奏を始めたいと思います。皆さん、盛り上がっていきましょう!」向き直ってメロイック・サインを掲げた彼の掛け声に、観客が「イエーイ!(フー!)」と大声で応える。途端に表情を引き締め、演奏モードに入る彼。
ヴァルキュリアにとって直近最大の目標であった春祭り――この半年の集大成とも言える一大舞台――が、ついに始まるのだ。エミリーがシンバルで4カウントを打つ――。
一曲目:The Grimson Reaper
ドラムのフィルインから始まった最初の曲は、あの後でキアラが作曲した『The Grimson Reaper(深紅の死神)』という楽曲だった。キーは『Fメジャー』および『Dマイナー』で、BPM150の疾走曲である。出だしから荘厳なラテン語のクワイアで幕を開ける。
Mors rubra venit adque(紅き死が来る、そして)
jūdicium sanguinis dabitur(血の審判が下される)
キアラのギターソロが加わり、熱いイントロが走り出す。伴ってヘドバンし始めるバッキング・ギターのソユルに釣られて、生徒たちの身体も自然とリズムを刻み出す――最前列にいる熱狂的な数人はソユル同様に頭を振り回している。
Animās flammīs pūrgābit falx(その大鎌は魂を炎で清める)
Post mortem lux peccāta redimit(死の後に光が罪を贖う)
Domine, tenebrās mendāciaque nunc aufer(主よ今こそ、闇と嘘を消し去ってください)
Ah~Ah~~Ah~Ah~Ah~~Ah~~Ah~~Ah~~
その勢いのまま、エリスが歌う第一ヴァースへと突入する。
They say death wears black(死は黒を纏うと言うが)
But she came in crimson(彼女は深紅の衣で現れた)
Carrying a bloody scythe(血に濡れた大鎌を携えて)
Thus I call her the “Grimson Reaper”(だから私は”グリムゾン・リーパー”と呼ぶ)
随所で加わるクワイアの歌声。この歌はストーリー仕立てになっており、このヴァースは『ある語り手』の視点から発された言葉となっている。
A scarlet wind she rides(彼女が駆けるは緋色の風)
A shadow tells of fire(影が告げるは炎なり)
The darkness burning red(赤く燃える闇がある)
No one can extinguish her flame(誰も彼女の炎を消せはしない)
そして視点は変わり、次のプリコーラスからは『深紅の死神』自身の言葉となる。ここまでのパフォーマンスを見ていたゲストの大人たちは、『これが高校生バンドの音楽か』と度肝抜かれている。
Behold! The earth is a field for cultivating fools(見よ!地球は愚者を栽培せし畑ではないか)
Only weeds can grow in the rotten soil tilled by clowns(道化の耕す腐った土壌では雑草しか育たぬわ)
Human history is a trail of mistakes(人類史とは間違いの軌跡)
You see that crowd?(あの群衆が見えるか?)
Damn… they are less than dust(全く、奴らは塵にも劣るな)
Shall I reap them?(刈ってやろうか?)
始まるコーラス。『語り手』が『死神』に魂狩りを命じる場面だ。
Swing your scythe! The Grimson Reaper!(大鎌を振るえ!深紅の死神よ!)
Slash the souls that had no rapture(狂喜しなかった魂を切り裂け)
Cowards are devoured by raptors(臆病者たちは猛禽類に貪られる)
Now, who did not fight?(さて、誰が戦わなかった?)
Scream it loud with raging thunder!(大声で叫べ!激昂する雷鳴とともに!)
Shred their sins as one desires(望むがままに彼らの罪を切り刻め)
She will not allow surrender(彼女は降伏を許さない)
“Hark! Thou art unworthy!”(「聞け!汝は値せぬ!」)
最後の『死神による死の宣告』をもって、第一章が終わる。この辛辣な歌詞にはキアラの鬱屈した感情が全て込められていた。彼女は以前エリスから励ましてもらった通り、『誰にも遠慮しない、自分らしさを全開にした、自分だけの歌』を創ったのである。初めは自分で歌うつもりで書いていた彼女だったが、やはり歌唱が苦手だったこともあり途中で方針を変え、あえてこれをエリスに歌わせるために、三人称で『死神』を語るための『語り手』を導入することにしたのだ。
こうすることで心優しいエリスに対し、彼が普段絶対に口にしないようなセリフを高らかに叫ばせることを強要でき、また『死神である自分』が彼の『召喚獣』だか『使い魔』だかみたく、容赦なく命令されているという、何とも興奮する――あいや、気持ちが奮い立つようなシチュエーションを演出できるのである。あんがとね、お嬢……アタイのダークな歌を嫌な顔一つせず歌ってくれて……え、お客への配慮かい? いいさ、どうせ誰も歌詞なんて聴いちゃいない――。
第二ヴァース。今度は始めから『死神』のセリフとなる。
Pots calling kettles black(己を棚上げせし者ばかり)
Don’t forget to look in the mirror(鏡を見るのを怠るなかれ)
Better to die than live in hell(生き地獄なら死を選べ)
Ye shall not be the ‘Lotus-Eaters’(汝らよ、’快楽主義者’となるな)
Greed brings you ruin, deep(強欲は深い破滅をもたらす)
Your creeds are easily shaken(汝らの信条は簡単に揺らぐ)
Those who crave love too much(愛を切望してばかりの奴らは)
will dig their own graves(己の墓を掘ることになる)
最初の一段落は己への戒めとして、次の段落は恋敵ソフィーへの当てつけとして書いた部分だった。この歌はタイトルが『Crimson(深紅の)』と『Grim Reaper(死神)』を合体させた造語になっていることからも分かる通り、歌詞のなかにはさまざまな言葉遊びが隠されている。特に『C』と『G』以外を共通する単語をキーワードとして繋いでいく『ソフィーへの当てつけパート』は、よく観察すると面白い。
一見して無理やり文章に落とし込んだだけの、単なる曖昧な文に見えるが、これがソフィーに宛てられたものだと考えると、彼女の真意が伝わってきて、驚くほどすんなり得心できるのだ。『愛を切望してばかりの奴ら』とは、きっと『ネコ化して無遠慮に男の娘の膝に擦り寄って甘える』ような人たちのことだろう。
続いて第二プリコーラス。ここから『死神』のアドバイスは、よりヒロイックで建設的なものとなっていく。仰々しくも格好いい言葉を並べ立てたこうした展開は、キアラの愛する『クサいメタル』の血を彷彿とさせる。ちなみに彼女がBPMを150にした理由も、タロットカードの13番目の大アルカナ『Death(死神)』に、0番の『The Fool(愚者)』をくっつけて130とし、そこに20番目の『Judgement(審判)』を足した数字が150だったからだ。何とも『鼻につく』だろう?
Unfold your heroic tales no one else can tell(誰にも語れぬ英雄譚を展開せよ)
Ye are the protagonists, engrave it in your hearts(自分たちが主人公であると心に刻め)
‘Chiara’cter is the greatest treasure(高潔さこそが最大の宝)
You hear that herald of your legendary victories?(あの汝らの勝利を告げる先触れが聞こえるかい?)
『’Chiara’cter』の部分は、彼女が開き直ったことを示す最たる部分である。昔から彼女は、自分の名前『キアラ』が英単語『キャラクター』に似ていると揶揄われることが多かった。今回それを逆手にとって、自分の『武器』に昇華させたのである。その通り、『’キアラ’クター』こそが最大の宝なのである――。
そのまま楽曲は流れるように、転調すらしないまま間奏を迎える。彼女は一音一音、感情を込めながら丁寧にギターソロを弾いていく。お嬢、みんな(いちおうソフィーも)……本当にあんがとね……いろいろあったけど、今日こうして当初の目標を達成できそうだよ……これからヴァルキュリアがどうなるのかは分かんないけど……今ここでアンタたちと演奏できてることは、アタイにとって紛れもない勝利だし、この思い出は最高の宝物になるよ――。
気づけば、もう二度目のコーラスも終わり、アウトロになっていた。彼女は合唱隊がユニゾンしてくるのを心地よく感じながら、最後のソロを奏でていく。そして弦楽器組がタッピングするクライマックスを経て、エリスがピアノ伴奏のなかゆったりと歌い上げる最終コーラスを迎える。それは『死神』から『愚者』へ向けた最後の助言と、救済の可能性を歌った部分だった。
Sing it proud with blazing fire(誇り高く歌え、燃え盛る炎とともに)
Show your bravery and some wisdom(汝の勇気といくらかの知恵を示すのだ)
I will show you mercy, of course(さすれば情けを与えよう、言うまでもなく)
Lo… Thy art is holy…(見よ……汝の芸術は神聖なり……)
あぁ……終わっちまったよ、アタイの曲……暗い感情も含ませた歌詞とメロディーだし、アレンジも単調だから、たぶん不評かもしんないね……まぁいいや、好きなことを好きなように表現すんのが芸術だし、笑われようが貶されようが、どっちでも――。
キアラが紅いフードを脱いで顔を上げると、目の前には温かい拍手喝采が満ちていた。戸惑いながら仲間たちを見ると、彼らからも穏やかな笑顔が返ってくる。思わず目頭が熱くなる彼女は、何とか涙を堪えながらニカッと歯を見せて笑い、観客の声援に軽く会釈して応えた。ったく……嬉しすぎっしょ……アタイみたいな日陰者に、まさかこんな日が来るなんて……帰ったら泣いちまうねこりゃ――。
「皆さん、聴いてくれてありがとうございます。それに温かい声援も、みんなみんな僕たちの勇気と力になっています」エリスがMCで観客の声に直接返事しつつ、次の曲への間を繋いでいく。「今聴いていただいたのは、こちらのキアラが作曲した『The Grimson Reaper』という楽曲になります。そして次に演奏するのは、キアラと僕――エリス――が合作したバラード調の歌『The Greatest Way Of Life In The World(世界最高の生き方)』です。では、聴いてください――」
二曲目:The Greatest Way Of Life In The World
ソフィーが幻想的なピアノ伴奏を奏で始める。その音は彼女の指一本一本から放たれる魔法かのごとく、会場を深い深い安らぎの底へといざなっていく。全員の熱が静まり、リラックスモードが漂うなか、エリスがAメジャーの主旋律をパワフルに歌い始め、ほどよい緊張感を与えていく。
Is there a right answer in life?(命に正解ってある?)
Sadly somewhere, someone weeps in silence today(悲しいことに今日も、どこかで誰かが泣いているんだ)
Some hearts are always in midnight,(ある心はいつも真夜中にいて)
drenched in heavy rain and blown by a gale(大雨に濡れて、強風に吹かれてる)
すぐに訪れるプリコーラス。かと思えば、唐突にBbマイナーへの転調が行われ、より感傷的な展開を強めていく。
We all admire heroes and worship them all(みんなヒーローに憧れていて、神のように崇拝するけど)
But longing alone won’t make us ‘one’, you know, right?(憧れてるだけじゃ「そう」はなれないんだってこと、知ってるよね?)
Each of us must defeat the darkness inside—(一人一人が内なる悪に打ち勝たないと)
Or this chain of suffering will never break(この苦しみの連鎖は断ち切れない)
一旦の小休止で溜を作った後、サビで爆発するのかと思いきや、続くサビはGbメジャーへと転調し、弱弱しく震えた声で歌い上げるエリス。
“The greatest way of life in the world”(「世界最高の生き方」を)
I want to find it out(僕は見つけ出したい)
Even if my faith and courage are not strong, they are certainly luminous here
(たとえ僕の信念と勇気が強くなくとも、確かにここで光り輝いているから)
息継ぎの暇さえなくサビの後半部分が始まり、声のテンションが徐々に高まっていく。
“A world where no one hurts and no one’s hurt”(「誰も傷つけず、傷つけられない世界」は)
It must be somewhere nearby(遠くないどこかにあるはずなんだ)
クライマックスでオクターブ上を攻める展開。エリスは力の限りを振り絞って、音と感情を吐き出していく。
Face to face, let’s talk with our hearts(直接会って心で話そう)
And then we can love each other one day(そしたらきっといつか、僕らは互いを愛せるんだ)
三オクターブに跨る壮麗なサビが終幕すると、他の楽器たちが参戦してきて、一気に盛り上がりとテンポを高めていく。始まる第二幕は、またしてもAメジャーから。この歌は全ての展開で転調を行い、聴き手に常に緊張感と驚きを与えることで、問題提起的な歌詞の説得力と、切迫した訴えかけを演出しているのだ。
Is there any good in waging war?(戦争して何か良いことがある?)
Tragically, someone has been murderd today(悲劇的なことに、今日も誰かが殺されてるんだ)
Some souls are always on the battlefield,(ある魂はいつも戦場にいて)
Shot by guns, cut by blades, blown up by bombs(銃に撃たれて、刃に切られ、爆弾で吹き飛ばされている)
写実的で生々しい場面を、比喩でありつつも直接描写することにしたのは、キアラの意向が強く反映されてのものだ。残念ながら、2041年の世にあっても、世界では戦争が絶えず繰り返されているし、第三次世界大戦が時折頭を過るような緊迫感に包まれたりしている。もちろん、この曲で歌っているのは本物の戦争というよりもむしろ、我々一人一人のなかで繰り広げられる戦争や、社会の歪みのなかで犠牲になる弱い立場の者たちのことである。
We all adore the brilliant and call them divine(僕らはみんな天才になりたがって、神のように褒め称えるけど)
But praising luck alone just isn’t right, you know, right?(運だけが肯定されるのは間違っているよね?)
Each of us must learn the worth of effort—(一人一人が努力の大切さに気付かないと)
Or this curse of misfortune will never fade(この不運の呪いは解けはしない)
プリコーラスからの間奏に入ったところで、思わずベースを弾く手を止めて、涙を拭ってしまうエリス。この曲のテーマは『平和』と『全ての人が幸福な世界』であるが、同時にエリスにとっては痛烈なブーメランでもあった。今の彼は、自分が恵まれた側の人間であることを重々承知している。だからこそ、この歌はある種の自己否定でもあり、綺麗事を並べた偽善的な響きを有していることも分かっていて、彼はそれが辛かったのだ。
僕は……みんなに幸せでいてほしい……みんな幸せだって、信じてたはずなのに……いつからか……信じられなくなっちゃってた――。この世界で生きるということは、いつか必ず純粋さを失うということだ。毎日ニュース番組を見れば、悲惨な出来事が大々的に報じられている。スマホやPCで検索しようと、ブラウザのトップページやポータルサイトを開けば、胸が苦しくなるような情報が嫌でも目に飛び込んでくる。優しい人ほど他者の身になって物事を考えられるから、それらの情報に悪影響を受けやすいのだ。
一度目を拭ってすぐに演奏を再開するも、またすぐに新しい涙が溢れてきて、視界がボヤけて何も見えなくなる。彼は強く目を瞑って、涙を頬へと流れ落としながら、心眼を使ってベース演奏を継続する。視界を塞いだことが反って心を落ち着かせてくれ、彼は無心状態に近づきながら次に目を開けるべきタイミングを見計らった。
そしてその時は来た。間奏明け、ラスサビ前のブリッジへ――。
Our compasses are so fragile(僕らのコンパスは壊れやすくて)
We quickly lose track of our direction(すぐに行き先を見失ってしまう)
Our purposes are so selfish(僕らの目的は利己的すぎて)
We easily clash and get hurt(すぐに衝突して傷を負う)
We must forgive each other and escape this endless hatred!(僕らは互いを許して、この終わらない憎しみから抜け出さなくちゃいけない!)
大団円。ラスサビに全てを懸ける――。
“The greatest way of life in the world”(「世界最高の生き方」を)
I want to find it out(僕は見つけ出したい)
Even if my faith and courage are not strong, they are certainly luminous here
(たとえ僕の信念と勇気が強くなくとも、確かにここで光り輝いているから)
“A world where no one hurts and no one’s hurt”(「誰も傷つけず、傷つけられない世界」は)
It must be somewhere nearby(遠くないどこかにあるはずなんだ)
Face to face, let’s talk with our hearts(直接会って心で話そう)
And then we can love each other!(そしたら僕らは互いを愛せるんだ!)
最後は声が掠れて上手く出なかったが、彼が込めた思いは会場全体に響き渡っていた。アウトロを弾きながら右肩を上げて、マントの袖で涙を拭う彼は、決然と目を開いてこう決意する。僕は……弱い! いつもいつもいつもいつも泣いてばかりだ! 泣いてたって何も変えられない、解決できない、誰も助けられないっ! この世界で生きていくために、もっともっと心を強くするんだ! 僕は、変わる――。
アウトロが終了したところで、胸元で結ばれた紐を引っ張って、マントを脱ぎ棄てる彼。他の演者たちもそれに倣う。彼らの衣装の全容が明らかとなると同時に、間髪入れず最後の三曲目に突入したことで、会場はこれまでで最高の盛り上がりを見せる――。
三曲目:Every Life! Let It Shine!
満を持して始まったのは、エリスの処女作『Every Life! Let It Shine!』だった。なぜかみんなそれを待ち望んでいたかのように、合いの手を入れて盛り上がっている。と言うのも、ヴァルキュリアは今回のライヴに先駆けて、この曲のみを限定公開でネットにアップして、モーザー学校の生徒にシェアしていたのだ。この歌だけは全員で合唱できたらいいな、とエリスが考えて決めたことだった。生徒たちの声やクワイアも合わさった特別ヴァージョン! これぞライヴの醍醐味だ!
「みんな、今日は来てくれて本当にありがとう! 僕、今すっごく幸せです!」イントロの合間にメッセージを伝えるエリス。そんな彼が着ている服は、いつものお気に入りのセーラー服コーデだった。他のメンバーも特別な衣装ではなく、夏に先駆けて各々が自由で、開放的で、着心地が良くて、自分らしいと思える私服を着ているだけだ。「これが最後の曲になります! よかったら一緒に歌ってください!」
その日、モーザー学校の周りには、優しくも力強い大合唱が響いた。このとてつもなく広い世界にとって、それは小さな小さな出来事に過ぎないのかもしれない。それでも間違いなく、ここにたくさんの幸せの灯が灯ったのだ。それって素敵で、意味のある、素晴らしいことだよね?
あぁ、嬉しい、嬉しい……すごく幸せ、最高……この時がずっと続けばいいのにな――。気づけばもう終盤の間奏。日が徐々に傾き始め、影が長くなってきたとき、エリスは呆然と目の前の光を見つめながら、この栄光の時に身を任せ、湧き上がる幸福感に浸っていた。何だかすごく疲れていて、一瞬クラッと頭が揺れ、意識が飛びそうになる。思えばこの数ヶ月、バンド活動に労力を裂きすぎていて、心身ともに疲れ切っていた彼。あれっ……今何してるんだっけ……何だかすごく眠い……眠いよ、フロスティ……。
『エリスのバカチンッ! 今が最高の時なんだぞ! 起きろーっ!』彼が脱水症状と疲労で倒れようとした刹那、耳元で響いた誰かの声が彼を目覚めさせる。えっ、フロスティ? 本当にフロスティなの!? 『そうそう! 君の相棒、エレキベースのフロスティだよ! ったく、せっかく口数少なくして静かに見守っていたのに、エリスってば危なっかしくて、僕ちゃん見てらんなかったよ!』嬉しい! 君と本当に話せるなんて! あっ、でも……きっとこれは僕の幻聴だよね……ってことはすごく危ない状態なのかな……。
『幻聴でも妄想でもいいじゃん! とにかく起きて! 起きて歌ってよエリス! もし途中で倒れて舞台から落ちて、僕ちゃんのこと怪我でもさせたら、承知しないよ?』そ、そうだね……うんっ、そうだ! 僕はまだ歌える! まだ夜は訪れない――。間奏が明け、ラスト・クライマックスへ――。
[Chorus2]
The sun rose into the sky!(太陽が天空に昇った!)
Are you ready, best friends? Let’s get to the horizon!(みんな準備はいい?地平線まで飛んでいこう!)
We can breakthrough the dark(僕らは闇を乗り越えられる)
As long as our hearts beat, we never give in!(鼓動がやまぬ限り決して屈しない!)
Hope lies before your eyes(希望は目の前にある)
Even if you forget, someday you’ll remember(たとえ忘れても、いつか思い出せる)
You know how strong you are(君は自分がいかに強いか知っている)
Step by step, follow the path you believe in!(一歩一歩、信じた道を進め!)
遠くまで飛んでいけ、僕の声! 僕の気持ち!
[Chorus1]
Every life! Let it shine!(全ての命 輝かせ!)
For the earth, the place where magic happens(魔法の生まれる場所、地球のために)
Your soul is the only one(君の魂は世界に一つだけ)
It’s a precious, meaningful, and miraculous thing!(大切で意味のある奇跡的なもの!)
Even lost, let imagination sing!(迷ったなら、想像力を歌わせて!)
To the dreams, then our wishes will soon come true(夢に向かって、そしたら僕らの願いはすぐに叶うさ)
Here we are, beyond all stars and time(全ての星と時を越え、僕らはここにいる)
What a glorious, magnificent, and marvelous presence!(何て壮麗で壮大な驚くべき存在!)
What a glorious, magnificent, and marvelous…GREAT PRESENCE!!(何て壮麗で壮大な驚くべき……偉大な存在!)
全ての曲が終了し、辺りは大歓声に包まれた。演者は顔中を汗まみれにして、荒く呼吸を繰り返しながら、観客に手を振ったりして舞台を降りていく。ヴァルキュリアの節目のライヴは、こうして大成功のうちに幕を下ろした。
エリスの高校生活⑫ ヴァルキュリアは永遠だ!
それから祭りの閉会式があって、予定通り午後6時に全てのプログラムを終了した41年度春祭り。生徒や教員たちは興奮の余韻に浸りながら、業者の手も借りつつステージの解体や後片付けを行って、大体6時半には解散した。その後ヴァルキュリアのメンバーにはキアラから招集が掛かり、エリスたちは帰宅前に少しの間だけ、夕陽に照らされた校舎周りの木の下(先ほどステージがあった場所のすぐ近く)に集まることになった。
全員揃ってからも、しばらく誰一人として口を開かなかった。生垣に座ってボーッとしたり、木によしかかってスマホを弄ったり。みんな疲労困憊で、元気に話す気力もなさそうだった。思わずエリスが「あ、あのっ!」と口を開いたのと同時に、キアラが「あのさ!」と本題を切り出そうとする。
「えっ? あっ、お嬢、何だい?」とキアラ。
「わっ、ごめん邪魔しちゃって、キアラ何?」とエリス。
二人は数秒照れたり居心地悪そうな仕草をした後、やがて招集した本人であるキアラが、先行して話し始める。
「今日はお疲れさん。アタイ、超満足だよ。ここまで来れたのはアンタたちがいてくれたおかげだ。ホント、ありがとね」いつになくしおらしい彼女の態度に、エリスたちは掛けるべき言葉が見つからず、ただ頷いて応えるしかなかった。えっ? 何この雰囲気? もしかしてバンド解散!? エミリーがそう思ったとき、スマホを腰のポーチに仕舞ったソフィーが単刀直入に尋ねる。
「ワタクシも楽しかったですわ。それで、要件ってそれだけですの? ワタクシお父様を車で待たせていますから、そろそろ行かないといけませんわ」
「あぁすまないね。どうしても今、これだけは直接伝えておきたかったんだわ。伝えられてよかったよ……」とキアラ。
「何ですの? 気持ち悪いですわ……もしか……バンド解散ですの?」ソフィーもそんな空気を感じとって、ズケズケと聞いていく。
キアラ「解散!? いやいや、アタイとしては解散する気はないよ。そうする理由もないしね。このバンドはアタイにとって宝モンみたいなものだし、まぁ……アンタたちがこのまま続けてもいいって、思ってくれるならだけど……」
エリス「僕はもちろんいいよ。バンドを組んでから、素敵な経験や大切な思い出が増えたし、僕自身も成長できたと思うから」
ソユル「私もです。このバンドは私にとっても、かけがえのない居場所です」
エミリー「アタシもいいよー! ドラム楽しーし!」
「アンタたち……」キアラが嬉しそうに仲間たちを見ていって、最後に未回答のソフィーへと眼差しを寄越す。
「わ、ワタクシは……」ソフィーが照れ隠しに髪の毛を手櫛しながら、目を逸らして答える。「まぁいいですわよ? ワタクシがいないとこのバンド、曲の美しさが数段落ちますもの。そんなところで歌うなんて、エリスが可哀そうですわ」今、彼女は真の意味で『ツンデレ』へと昇格した。もう、そうそう『ヤン』だり『ネコ化』したりはしないだろう。彼女の変化をキアラも分かっていた――。
「あんがとね、ソフィー!」ギューッとツンデレ娘を抱きしめるキアラ。いろいろわだかまりがあった二人だが、これが本当の和解と言ったところだ。
「うえひゃっ! ななな何ですの、いきなり?」うろたえつつも、無理に突き飛ばしたりはしないソフィー。心なしか、ネコ髭とネコ耳がピョコンと生えたようにも見えるが、何だか嬉しそうだ。
「それで、これからが本題なんだけどさ」ハグを終えたキアラが続ける。「ここ半年はみんなにたくさん頑張ってもらって、長い時間を割いてもらったからさ。これからは活動の頻度を落とそうと思う。ま、たまーに集まって新曲創るくらいの緩い感じで。どうだい?」全員が納得したように頷き返す。「よっしゃ! じゃあ解散ってことでっ! あっと、最後にもう一つ――」彼女がメロイック・サインを天に掲げ、こう叫ぶ。
「ヴァルキュリアは永遠だ!」
「おー!(ですわー!)」
こうしてエリスたちの春祭りは本当に終わりを迎えた。一層絆を強めたバンド『ヴァルキュリア・セレナード』は、これからも五人にとって、安心して帰ることができる居場所の一つであり続ける。永遠に……。
ヴァルキュリア・セレナード編 完





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